そう言うディレンマが常に立ちはだかるのです。
社会への登録か、それとも抹消かと言う二者択一は然し、更にもう一捻り、捩れています。
抑々人々が至近距離で生きる都市生活は、互いが不審者ではない事を読み取れなければ成り立ちません。
社会への登録とはその意味で、人々がその外見、その振る舞い、更にその思考や感情まで同じ型に揃える事、詰まり各人の存在の規格化に他なりません。
現在なら差し詰め「カメラ機能とメモ機能を備えた原始的なスマホ」の中に身を潜めている人間に当たると言います。
ネット空間で人は互いに匿名のままで発信し又記録するからです。
人が身元不明な存在になるのに、最早「失踪」も「蒸発」も必要ないのです。
但し、これはかなり由々しい事態です。
誰でもなくなる事は同時に誰にでもなれる事だと言うのは、安部公房の言葉で言えば、「不在証明は手に入れても、代わりに存在証明を手離してしまった」と言う事になるからです。
覗き見る者は何時も覗き見られる可能性に曝されている。
見姦はこの様に人々の間で無限に循環します。
そしてそこに、デモクラシーが匿名の暴力装置に裏返ってしまう怖さ、誰も情報の真偽を判じえないままに崩れていく怖さがあります。
こうした事態に果たして人は何処まで耐えうるのか。
これが安部公房の最後に行き着いた問いなのでした。
鷲田 清一 哲学者
愛媛新聞 稜線の思考から
作家・安部公房の長編小説「箱男」は、フェイク情報の氾濫やデモクラシーの機能不全と言った現代社会の混迷を半世紀前に既に見透かしていたらしい。
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