先ず大前提としたいのが、両選手は国際オリンピック委員会( IOC )の条件を全てクリアし、正当に五輪に参加していたと言う事だ。
背景には、近年顕在化するトランスジェンダー差別と、それを政治利用する権力者や著名人の発信に加え、「強い女性」をバッシングするミソジニー(女性嫌悪)がある。
女性の性別を疑い、詮索する事は、或る種の「魔女狩り」と言える。
特に米国では、強くて発言力があり権力性を帯びる女性がターゲットになってきた。
詰まり「小さくて弱く、男性に従う」と言う古典的なジェンダー規範に反する人たちだ。
女子ボクシングへの無理解も要因の一つだろう。
又テストステロンについての知識不足もある。
同じルールで戦う事は前提として、身体的な特徴に顕著な差があると有意義な試合にならないボクシングなどでは、体重別の階級制が導入されてきた。
ここで注意したいのは、階級制は身体の同質性ではなく、類似性を担保するに過ぎないと言う事だ。
そして、殆どの競技は階級制すら導入していない。
それどころかバスケットボールやバレーボールの身長差や、男性間に存在する身体的な有利さは「素質」や「才能」として扱われてきた。
一方で、女性間では、テストステロン値の差が殊更に取り上げられ、「才能」ではなく、不公平だと非難されるのだ。
抑々「女性」とは多様な存在だ。
ホルモン値などで単純に決まるものではなく、社会の中で総合的に女性として生きているに過ぎない。
スポーツが男女と言う社会生活の根幹をなすカテゴリーを用いて競技者をグループ分けするのであれば、実際に社会で生活している性別が最も尊重されるべきであり、夫々の性別の中にある多様性も当然認められるべきだろう。
社会の中で女性として生きる人が、スポーツの時だけその資格を剥奪される状況などあってはいけないし、そんな力をスポーツは持つべきではない。
関西大・井谷聡子准教授 1982年兵庫県生まれ。
専門は、スポーツとジェンダー・セクシュアリティー研究。 カナダ・トロント大博士課程修了。
著書に「<体育会系女子>のポリティクス」。
愛媛新聞 暮らしから
女性とは多様な存在らしい。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image