それを基にした信長像を聞いた。
<何故本能寺で?>
信長は敵味方を問わず、多くの人を裏切ったと思われがちですが、実際には信じた武将や家臣に裏切られ苦境に立たされる方が多かった。
妹を嫁がせた浅井長政、大名に取り立てた松永久秀、荒木村重らがそうです。
明智光秀は四国制覇を目指す長宗我部元親との交渉窓口でした。
信長は当初、四国切り取り次第と領土拡大を認めていたのに、同じ四国の三好氏が信長に下ると、領地を安堵せざるを得なくなります。
これに従わない元親への討伐軍が編成されました。
光秀は「任されていたのに裏切られた」との思いや、自分の将来への不安が重なって、犯行に及んだと言う説も、近年注目されています。
信長として見れば、昔は敵を滅ぼしその領地を家臣に分け与えて貢献に報いてきた。
それが難しくなってきて苦労している。
「光秀だったら我慢してくれる」と言う気持ちがあったのではないか。
家臣らの不満や心情を理解し切れなかった結果の様に思います。
<革命家だった?>
信長は生真面目、古いタイプの理想主義の人物だったと感じています。
大名家の出ではなく、尾張の有力な国衆の一人に過ぎない。
朝廷や幕府に対して、強い憧れを抱いていたのでしょう。
出している手紙を見ていても、紙の種類、折り方、名前を書く位置など当時のマナーを忠実に守っています。
悔られる事を恐れ、体裁をとても気にしている。
高級品の「鴈皮紙」が手に入らないと、コウゾを加工して雁皮に似せて使っています。
天下人となった豊臣秀吉が、紙とその用い方のルールの大転換を図ったのとは大違いです。
人気者故に、様々な憶測や願望で何重にも虚像が作られた人物。
それが信長なのではないでしょうか。
滋賀県立安土城考古博物館 高木叙子学芸課主幹
愛媛新聞 歴史を旅するから
信長は生真面目な理想主義者だったらしい。
俺は行動的な天才だったと思っている。
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