戦国時代、あらゆる武将が競って京都に上ろうとしていたイメージが語られますが、これは真っ赤な嘘。
領国の安定と拡大を目指す大名たちにとって、瀕死の幕府を助けるのはリスクしかない。
武田信玄などは、義昭の依頼を体よく断っています。
当時の天下は室町将軍の力が及ぶ範囲、五機内近辺の事です。
信長は「天下静謐」の言葉も使っていますが、何れも将軍家の治める地域を平和にする意味になります。
義昭を傀儡にして利用していたとする説もあります。
これについて私は、信長は将軍や幕府に高い理想を抱いていて、義昭がそれに反すると諫めていた様に受け止めています。
<結局追い出した>
信長は許そうとし京都に戻る様交渉を繰り返しました。
然し義昭は京都を離れ、73年に幕府が滅亡した事になってしまったのです。
76年には安土城の築城に取り掛かります。
戦国大名の地位を譲り、天下人としての意識を持ち始めた表れと考えられます。
82年に武田氏を滅ぼす辺りから「天皇から天下静謐を任された自分がやらざるを得ない」と、自らの統一の覚悟を決めた様に思います。
家臣たちも次第に、信長の呼び方を「殿様」から「上様」に改めていきます。
信長が「天下人」に変わっていく様子が、伺えます。
愛媛新聞 歴史を旅するから
信長は敵味方を問わず、多くの人を裏切ったと思われがちですが、実際には信じた武将や家臣に裏切られた方が多かったらしい。
歴史は何が真実か分かり難い。
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