学問の自由は、他の憲法上の権利とはかなり違った所がある。
思想・良心の自由であれば、自分で自由に考えを巡らせばよい。
表現の自由であれば、思った事、見た事聞いた事を自由に表現すればよい。
学問の自由はそうはいかない。
学問である為には、分野ごとに伝統的に受け継がれてきたルールを守って研究を進める必要がある。
研究の成果は、同じ分野の研究者による検証が可能になる様根拠を明らかにしなければならない。
歴史研究であれば、誰が書いたどんな文書を研究対象としたか、関連文書とどの様に照らし合わせたかの経過を記録し、その結果を明らかにする。
実験であれば、どの様な条件の下でどんな器具や試料を使ったか、結果が如何であったかを正確に記録して公表する。
誰もが自由に思い付いたやり方で考えを纏め、それを公表すれば学問になるわけではない。
学問の自由は学問を学問たらしめるこうした分野ごとの厳密なルールを誰が決めるかに関するものであり、学問が自由であるとは、こうしたルールを研究者集団が決めると言う事である。
政府でもなく、経済界でもなく、社会全体でもない。
学問上の真理が何かは議会の多数決で決まる訳ではなく、社会全体のコンセンサスで決まる訳でもない。
研究者集団が各分野で守られてきたルールに即して研究の結果を検証し、適切な研究結果だと判断した物が、暫定的ではあるが、学問上の真理とされる。
優れた研究者と言える人が誰かも、分野ごとに研究者集団が決める。
大学教授の人事がその典型である。
そうした意味では、学問の自由と言うより学問の自律と呼ぶ方が相応しい。
学問が自律的に遂行される事は、社会全体にとって極めて重要である。
政治の世界や経済の世界にとって都合の良いからと言う目先の利害で、何が適切な研究結果かの判断が歪められれば、結局、社会全体が多大な不利益を被る。
大学や研究所に職を得て、資金を獲得して研究を遂行する。
外部からの圧力に晒されるリスクは格段に大きい。
学問の自由を保障する緊要度もそれに応じて高まっている。
早稲田大教授 長谷部 恭男
愛媛新聞 現論から
学問が自由であるとは、こうしたルールを研究者集団が決めると言う事らしい。
政府でもなく、経済界でもなく、社会全体でもないらしい。
政権でも、菅氏でもない。
政権も、菅氏も間違っている。
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