2019年11月11日
艱難辛苦・苦難の生涯、昭和大帝
私は昭和22年(1947)生まれの72歳、昭和に生まれ昭和天皇が一番気になる
人生だった。
やはり、昭和天皇は、艱難辛苦の苦難の生涯だったとおもう、
日米開戦の善悪は関係ない、これは運命だったとおもう、多くの先人達と未来ある
若者と幼い少年・少女が命を落としたが、終戦勅語で日本は救われたのだ。
昭和天皇の全国巡幸で確か九州の炭鉱と思うが昭和天皇の帰り際、炭鉱夫が
「天皇陛下万歳」とさけんだ、それに答えるように昭和天皇の右手が高く上がった
万歳三唱と昭和天皇の右手が三回上がり、その時の昭和天皇満面の笑みの映像が
あるが、この記録映像が今でも脳裏焼き付いてる。
終戦勅語で「堪え難きを耐え・忍び難きを忍び・」大成を開かんといった昭和天皇の
希望がそこにあったのでは、と思った。
偉大だ、偉大な天皇、昭和大帝と呼びたい・・・
号泣した東条英機 宿命の真珠湾へ、日本軍機が飛び立った
2019.11.10
画=筑紫直弘
第174回 開戦前夜(2)
歴代内閣の和平努力にもかかわらず、日米開戦は避けられなかった。
東条英機内閣が発足する1年前、1940年秋の米大統領選で
「自国の青少年を外国の戦争には送らない」と公約し、3選したルーズベルトは、
いつの時点で戦争を決意したのか−。
諸説あるが、1941年夏の独ソ開戦が大きな影響を及ぼしたことは
間違いないだろう。
それより前、日独伊ソの4国が連携を強めることはアメリカにとって脅威だった。
しかし、独ソ開戦でその脅威は解消した。
日本に譲歩する必要はなくなったのだ。
7月の閣議でルーズベルトは、石油の禁輸は「戦争を意味する」と自ら述べながら、
8月に日本が南部仏印に進駐すると、米海軍作戦部長の反対を押し切って石油の
全面禁輸に踏み切った。
当時、アメリカは日本政府の暗号電報を解読していた。
「マジック」の名で知られる、極秘の傍受情報だ(※1)。
8月上旬の米英首脳会談で、ルーズベルトがチャーチルに
「三カ月間ぐらい彼ら(日本)をあやしておける」と話したことはすでに書いたが、
アメリカは日本の手の内を読みながら、自国の戦争準備が整うまで日本を「あやして」おけたのである。
× × ×
一方、日本側の事情はどうか。
日米開戦の原因の一つは、いうまでもなく日中戦争である。
昭和6年の満州事変にはじまる日本の軍事行動をみるとき、少なくとも蒋介石政権の
中国に対しては、自衛の範囲を大きく超えたものだったことを認めなければなるまい。
本連載で再三言及したように、大元帥である昭和天皇が決してのぞまなかった戦火を
強引に広げたのは軍部の革新派であり、それをあおったのは大手新聞メディアである。国家社会主義的な理想に燃える彼らは、現実的な視点から和平に努めた保守派重臣や
昭和天皇の側近たちを圧迫し、日本の国策を歪めた。
日中戦争で蒋介石政権は疲弊し、その後の国共内戦に敗れて台湾に移った。
日本の戦後歴代内閣の「おわび」の言葉は、台湾にこそ向けられるべきだろう。
ただし、ことアメリカに対しては、自衛のために立ち上がったとはっきり言える。
当時の米国務省顧問、ハーバート・ファイスが指摘したように、アメリカの真の
狙いは中国ではなく、太平洋にあった(※2)。
無限の資源と可能性を秘めたこの大海原を支配するため、アメリカにとって日本は、
遅かれ早かれ叩き潰さなければならない存在だったのだ。
× × ×
日米交渉を断ち切る「ハルノート」が手交された昭和16年11月26日、択捉島の
単冠(ひとかっぷ)湾に集結した、連合艦隊機動部隊が錨(いかり)を上げた。
空母赤城に座乗する第一航空艦隊司令長官、南雲忠一が率いるのは空母6隻を
はじめ戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など計33隻、目指すはハワイ、
真珠湾である(※3)。
真珠湾には米太平洋艦隊の主力が在泊している。
これを開戦劈頭(へきとう)の奇襲攻撃でやっつけてしまえと考えたのは、
日米開戦に反対だった連合艦隊司令長官、山本五十六その人だ。
失敗すれば虎の子の空母の大半を失う。海軍上層部の多くは危険すぎると反対したが、山本は自説を押し通した。
正攻法の艦隊決戦では、万に一つも勝てないと考えたからだ。
もっとも、出撃の時点で開戦とは決まっていない。日米交渉が妥結すれば、作戦を
中止し直ちに帰還するよう、山本は厳命していた。
× × ×
一方、戦争回避の思いを捨てきれない昭和天皇は11月29日、宮中に首相経験者を
集めて懇談形式の重臣会議を開き、意見を聴いた。
「大変難しい時代になったね」
そういって発言を促す昭和天皇に、重臣の多くは
「ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に…」(米内光政)などと避戦を
示唆したが、ハルノートを突きつけられた以上、政府と統帥部は一致して
「開戦あるのみ」だ。
30日には高松宮宣仁親王が参内し、
《敗戦の恐れある戦争の取り止めにつき提案》を受ける
(昭和天皇実録29巻124頁)。
だが、立憲君主として、政府と統帥部の決定を覆すことはできなかった。
12月1日、戦前最後の御前会議で、開戦が決定する。
会議の終盤、首相の東条英機が厳かに言った。
「今や皇国は隆替の関頭に立っており、開戦と決定すれば、一同共に政戦一致施策を
周密にし、挙国一体必勝を確信し、全力を傾倒して速やかに戦争目的を完遂し、
誓って聖慮を安んじ奉らん」
昭和天皇は、一言も発しなかった。
× × ×
その日以降、東条は秘書官らと、昭和天皇を気遣う会話を繰り返したという。
7日未明には、首相官邸の執務室から東条の泣き声が漏れるのを、隣室にいた妻の
かつ子が聞いている。
押し殺した声はやがて号泣となり、心配したかつ子がのぞくと、東条は一人、
正座して肩を震わせていた。
昭和天皇の期待に応えられなかった、慚愧(ざんき)の涙だろうか−。
翌日未明、日本時間8日午前1時、ハワイ沖に達した機動部隊の空母から、
183機の攻撃機、爆撃機、戦闘機が、真珠湾に向けて飛び立った−−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは
「太平洋の死闘」編を連載します)
◇
(※1) マジックには誤訳や曲訳もあり、日本側の戦争回避の姿勢が
米政府首脳に的確に伝わらなかったとする説もある
(※2) ファイスによれば、ハルの4原則で米国務省は
「日本に何でも好きなものを太平洋から引き出させるだろうと判断」していた
(※3) ほかに潜水艦を中心とする30余隻の先遣部隊がハワイに向かった
人生だった。
やはり、昭和天皇は、艱難辛苦の苦難の生涯だったとおもう、
日米開戦の善悪は関係ない、これは運命だったとおもう、多くの先人達と未来ある
若者と幼い少年・少女が命を落としたが、終戦勅語で日本は救われたのだ。
昭和天皇の全国巡幸で確か九州の炭鉱と思うが昭和天皇の帰り際、炭鉱夫が
「天皇陛下万歳」とさけんだ、それに答えるように昭和天皇の右手が高く上がった
万歳三唱と昭和天皇の右手が三回上がり、その時の昭和天皇満面の笑みの映像が
あるが、この記録映像が今でも脳裏焼き付いてる。
終戦勅語で「堪え難きを耐え・忍び難きを忍び・」大成を開かんといった昭和天皇の
希望がそこにあったのでは、と思った。
偉大だ、偉大な天皇、昭和大帝と呼びたい・・・
号泣した東条英機 宿命の真珠湾へ、日本軍機が飛び立った
2019.11.10
画=筑紫直弘
第174回 開戦前夜(2)
歴代内閣の和平努力にもかかわらず、日米開戦は避けられなかった。
東条英機内閣が発足する1年前、1940年秋の米大統領選で
「自国の青少年を外国の戦争には送らない」と公約し、3選したルーズベルトは、
いつの時点で戦争を決意したのか−。
諸説あるが、1941年夏の独ソ開戦が大きな影響を及ぼしたことは
間違いないだろう。
それより前、日独伊ソの4国が連携を強めることはアメリカにとって脅威だった。
しかし、独ソ開戦でその脅威は解消した。
日本に譲歩する必要はなくなったのだ。
7月の閣議でルーズベルトは、石油の禁輸は「戦争を意味する」と自ら述べながら、
8月に日本が南部仏印に進駐すると、米海軍作戦部長の反対を押し切って石油の
全面禁輸に踏み切った。
当時、アメリカは日本政府の暗号電報を解読していた。
「マジック」の名で知られる、極秘の傍受情報だ(※1)。
8月上旬の米英首脳会談で、ルーズベルトがチャーチルに
「三カ月間ぐらい彼ら(日本)をあやしておける」と話したことはすでに書いたが、
アメリカは日本の手の内を読みながら、自国の戦争準備が整うまで日本を「あやして」おけたのである。
× × ×
一方、日本側の事情はどうか。
日米開戦の原因の一つは、いうまでもなく日中戦争である。
昭和6年の満州事変にはじまる日本の軍事行動をみるとき、少なくとも蒋介石政権の
中国に対しては、自衛の範囲を大きく超えたものだったことを認めなければなるまい。
本連載で再三言及したように、大元帥である昭和天皇が決してのぞまなかった戦火を
強引に広げたのは軍部の革新派であり、それをあおったのは大手新聞メディアである。国家社会主義的な理想に燃える彼らは、現実的な視点から和平に努めた保守派重臣や
昭和天皇の側近たちを圧迫し、日本の国策を歪めた。
日中戦争で蒋介石政権は疲弊し、その後の国共内戦に敗れて台湾に移った。
日本の戦後歴代内閣の「おわび」の言葉は、台湾にこそ向けられるべきだろう。
ただし、ことアメリカに対しては、自衛のために立ち上がったとはっきり言える。
当時の米国務省顧問、ハーバート・ファイスが指摘したように、アメリカの真の
狙いは中国ではなく、太平洋にあった(※2)。
無限の資源と可能性を秘めたこの大海原を支配するため、アメリカにとって日本は、
遅かれ早かれ叩き潰さなければならない存在だったのだ。
× × ×
日米交渉を断ち切る「ハルノート」が手交された昭和16年11月26日、択捉島の
単冠(ひとかっぷ)湾に集結した、連合艦隊機動部隊が錨(いかり)を上げた。
空母赤城に座乗する第一航空艦隊司令長官、南雲忠一が率いるのは空母6隻を
はじめ戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など計33隻、目指すはハワイ、
真珠湾である(※3)。
真珠湾には米太平洋艦隊の主力が在泊している。
これを開戦劈頭(へきとう)の奇襲攻撃でやっつけてしまえと考えたのは、
日米開戦に反対だった連合艦隊司令長官、山本五十六その人だ。
失敗すれば虎の子の空母の大半を失う。海軍上層部の多くは危険すぎると反対したが、山本は自説を押し通した。
正攻法の艦隊決戦では、万に一つも勝てないと考えたからだ。
もっとも、出撃の時点で開戦とは決まっていない。日米交渉が妥結すれば、作戦を
中止し直ちに帰還するよう、山本は厳命していた。
× × ×
一方、戦争回避の思いを捨てきれない昭和天皇は11月29日、宮中に首相経験者を
集めて懇談形式の重臣会議を開き、意見を聴いた。
「大変難しい時代になったね」
そういって発言を促す昭和天皇に、重臣の多くは
「ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に…」(米内光政)などと避戦を
示唆したが、ハルノートを突きつけられた以上、政府と統帥部は一致して
「開戦あるのみ」だ。
30日には高松宮宣仁親王が参内し、
《敗戦の恐れある戦争の取り止めにつき提案》を受ける
(昭和天皇実録29巻124頁)。
だが、立憲君主として、政府と統帥部の決定を覆すことはできなかった。
12月1日、戦前最後の御前会議で、開戦が決定する。
会議の終盤、首相の東条英機が厳かに言った。
「今や皇国は隆替の関頭に立っており、開戦と決定すれば、一同共に政戦一致施策を
周密にし、挙国一体必勝を確信し、全力を傾倒して速やかに戦争目的を完遂し、
誓って聖慮を安んじ奉らん」
昭和天皇は、一言も発しなかった。
× × ×
その日以降、東条は秘書官らと、昭和天皇を気遣う会話を繰り返したという。
7日未明には、首相官邸の執務室から東条の泣き声が漏れるのを、隣室にいた妻の
かつ子が聞いている。
押し殺した声はやがて号泣となり、心配したかつ子がのぞくと、東条は一人、
正座して肩を震わせていた。
昭和天皇の期待に応えられなかった、慚愧(ざんき)の涙だろうか−。
翌日未明、日本時間8日午前1時、ハワイ沖に達した機動部隊の空母から、
183機の攻撃機、爆撃機、戦闘機が、真珠湾に向けて飛び立った−−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは
「太平洋の死闘」編を連載します)
◇
(※1) マジックには誤訳や曲訳もあり、日本側の戦争回避の姿勢が
米政府首脳に的確に伝わらなかったとする説もある
(※2) ファイスによれば、ハルの4原則で米国務省は
「日本に何でも好きなものを太平洋から引き出させるだろうと判断」していた
(※3) ほかに潜水艦を中心とする30余隻の先遣部隊がハワイに向かった
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