2019年10月10日
おめでとうございます、日本人27人目の受賞
今年のノーベル賞は三日目にして日本人27人目が発表され二年連続かと感慨に・・
今年は文学賞が二年分の二人発表とかで日本人も候補にこっちのほうに期待があって
待っていたが早くも万歳だ。
かの隣国が春は桜、秋はノーベル賞と狂乱・狂奔もこの頃はねをあげたようだし・・
リチウムイオン電池は「信念の結晶」 ノーベル化学賞の吉野彰氏
2019.10.9 22:04ライフ学術・アート ノーベル賞に吉野氏
電池の模型を手に笑顔の旭化成の吉野彰名誉フェロー=9日午後、
東京都千代田区(古厩正樹撮影)
ノーベル化学賞に輝いた旭化成名誉フェローの吉野彰さん(71)が開発した
リチウムイオン電池は、さまざまな新技術の結晶だ。
開発過程では多くの困難に直面したが、「社会に必要とされるものを作る」という
強い信念で実用化につなげた。
川崎市にある同社研究所の係長だった吉野さんは昭和56年、ポリアセチレンという
高分子を使って何か新しい研究ができないか模索していた。
電池の負極材料に使うことを思い付いたが、電池として実用化するには、小型化に
適した別の材料が必要だった。
特殊な炭素繊維が社内で研究されていることを知り、これを使えば小型化できることを突き止めた。しかし、
この繊維はまだ試作段階だったため、量産は不可能。市販されている炭素材料を
100種類以上も試したが、どれも使い物にならず、肩を落とす日々が続いた。
そんなある日、都内の石油精製企業を訪問すると、製品展示コーナーに銀色に
きらめくコークスがあるのを見つけた。石炭を蒸し焼きにして作る炭素燃料だ。
「間違いなく、よい性能が出る」と直感した。
提供してほしいと申し出たところ、企業の担当者は
「使用目的を明らかにしないと提供できない」。
リチウムイオン電池を開発していることは企業秘密で、話せるはずがない。
「1キログラムでも」と食い下がったが、「通常の取引量は船1杯分」と担当者。
「せめてトラック1杯分を」と頼み込んだが、無駄に終わった。
「このままでは開発が止まってしまう」。青ざめていた吉野さんの元に
200リットルのコークスが届いたのは半月後だった。
これをリチウムイオン電池の初期の負極材料に使った。
「担当者には今も感謝している」と吉野さんは話す。
部下が突然、刑事の訪問を受けて慌てるハプニングもあった。
電極に使う樹脂の候補として入手した試料の成分が、銀行強盗が使った
催涙スプレーの成分と一致。
国内ではほとんど出回っていない物質だった。
社外秘の説明に窮した部下に対し、刑事はますます疑いを強めた。結局、
吉野さんが事情を説明して何とか納得してもらったという。
リチウムイオン電池の電極は、材料の混ざった液体を金属箔(はく)に塗って作る。
開発段階では、この工程に使う装置を粘着テープメーカーから借り上げて試験を
進めた。金属箔は当初、無数のしわが入り使い物にならなかったが、部下が原因を
調べて解決してくれた。
10年後、この部下は「もう時効だから」と吉野さんに打ち明けた。
しわの原因を特定するため、100度を超える高温の熱風と、有毒な有機溶剤が
蒸発している装置内に入り込んだのだという。
「命に関わる危険な行為で、事前に聞いていたら許可しなかった。ただ、
彼の働きで開発が進んだのも事実」と、複雑な思いを今も抱いている。
開発過程で吉野さんの印象に最も強く残るのが、昭和61年の夏に行った野外での
安全性試験だ。重りで電池を潰すと、従来の金属リチウム電池は発火。一方、
リチウムイオン電池の試作品はへこんだだけで燃えなかった。これにより、致命的な
問題はないとの判断が下り開発が本格化。
「この試験こそ、リチウムイオン電池が誕生した瞬間だった」と振り返る。
吉野さんは「研究開発には普遍的に大切なポイントが2つあり、そのバランスが大切」と話す。
一つは、社会で何が必要とされるかをきちんと考えること。
もう一つは、その実現のために新技術を生み出すことだ。
「当たり前のようだが、現実は一方に偏りがち。リチウムイオン電池は、
このバランスが取れて成功した」と話す。
今年は文学賞が二年分の二人発表とかで日本人も候補にこっちのほうに期待があって
待っていたが早くも万歳だ。
かの隣国が春は桜、秋はノーベル賞と狂乱・狂奔もこの頃はねをあげたようだし・・
リチウムイオン電池は「信念の結晶」 ノーベル化学賞の吉野彰氏
2019.10.9 22:04ライフ学術・アート ノーベル賞に吉野氏
電池の模型を手に笑顔の旭化成の吉野彰名誉フェロー=9日午後、
東京都千代田区(古厩正樹撮影)
ノーベル化学賞に輝いた旭化成名誉フェローの吉野彰さん(71)が開発した
リチウムイオン電池は、さまざまな新技術の結晶だ。
開発過程では多くの困難に直面したが、「社会に必要とされるものを作る」という
強い信念で実用化につなげた。
川崎市にある同社研究所の係長だった吉野さんは昭和56年、ポリアセチレンという
高分子を使って何か新しい研究ができないか模索していた。
電池の負極材料に使うことを思い付いたが、電池として実用化するには、小型化に
適した別の材料が必要だった。
特殊な炭素繊維が社内で研究されていることを知り、これを使えば小型化できることを突き止めた。しかし、
この繊維はまだ試作段階だったため、量産は不可能。市販されている炭素材料を
100種類以上も試したが、どれも使い物にならず、肩を落とす日々が続いた。
そんなある日、都内の石油精製企業を訪問すると、製品展示コーナーに銀色に
きらめくコークスがあるのを見つけた。石炭を蒸し焼きにして作る炭素燃料だ。
「間違いなく、よい性能が出る」と直感した。
提供してほしいと申し出たところ、企業の担当者は
「使用目的を明らかにしないと提供できない」。
リチウムイオン電池を開発していることは企業秘密で、話せるはずがない。
「1キログラムでも」と食い下がったが、「通常の取引量は船1杯分」と担当者。
「せめてトラック1杯分を」と頼み込んだが、無駄に終わった。
「このままでは開発が止まってしまう」。青ざめていた吉野さんの元に
200リットルのコークスが届いたのは半月後だった。
これをリチウムイオン電池の初期の負極材料に使った。
「担当者には今も感謝している」と吉野さんは話す。
部下が突然、刑事の訪問を受けて慌てるハプニングもあった。
電極に使う樹脂の候補として入手した試料の成分が、銀行強盗が使った
催涙スプレーの成分と一致。
国内ではほとんど出回っていない物質だった。
社外秘の説明に窮した部下に対し、刑事はますます疑いを強めた。結局、
吉野さんが事情を説明して何とか納得してもらったという。
リチウムイオン電池の電極は、材料の混ざった液体を金属箔(はく)に塗って作る。
開発段階では、この工程に使う装置を粘着テープメーカーから借り上げて試験を
進めた。金属箔は当初、無数のしわが入り使い物にならなかったが、部下が原因を
調べて解決してくれた。
10年後、この部下は「もう時効だから」と吉野さんに打ち明けた。
しわの原因を特定するため、100度を超える高温の熱風と、有毒な有機溶剤が
蒸発している装置内に入り込んだのだという。
「命に関わる危険な行為で、事前に聞いていたら許可しなかった。ただ、
彼の働きで開発が進んだのも事実」と、複雑な思いを今も抱いている。
開発過程で吉野さんの印象に最も強く残るのが、昭和61年の夏に行った野外での
安全性試験だ。重りで電池を潰すと、従来の金属リチウム電池は発火。一方、
リチウムイオン電池の試作品はへこんだだけで燃えなかった。これにより、致命的な
問題はないとの判断が下り開発が本格化。
「この試験こそ、リチウムイオン電池が誕生した瞬間だった」と振り返る。
吉野さんは「研究開発には普遍的に大切なポイントが2つあり、そのバランスが大切」と話す。
一つは、社会で何が必要とされるかをきちんと考えること。
もう一つは、その実現のために新技術を生み出すことだ。
「当たり前のようだが、現実は一方に偏りがち。リチウムイオン電池は、
このバランスが取れて成功した」と話す。
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