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2019年02月05日

三本指の敬礼

私は、昭和22年に生まれ父親は帝国海軍の軍人だった、父の弟、
つまり、叔父は十代で南太平洋で戦死、私も死ぬまでに一度でも
参拝したいとおもってるが、九州の片田舎、もうすでに今年で72歳
それにこの記事の『ボーイスカウト戦士』の話しってる。
確か、少年兵だったと思うが三本指の敬礼に三本指の敬礼で返したと。
もう何年前になるか、確か、二十代五十年前だと記憶してる。
『そうか、ボーイスカウトって三本指で敬礼するのか』ってだけ記憶
してただけ、それが頭の隅にずっとのこってた。


【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】靖国めぐる「魂の交流」
2019.2.4 10:00プレミアム

終戦の日の靖国神社=2018年8月15日、東京・九段北
(酒巻俊介撮影)

平成29年2月、安倍晋三首相はトランプ米大統領との首脳会談に
先立ち、ワシントン郊外のアーリントン国立墓地の「無名戦士の墓」、大東亜戦争で戦没したすべての米軍将兵を象徴する墓地で献花した。

4軍の儀仗(ぎじょう)兵が迎え、軍楽隊が日本国歌「君が代」を、
次に米国歌「星条旗」を演奏した。しばし頭(こうべ)をたれ、
「とこしえの哀悼」をささげる首相を米国は最高の栄誉で迎えた。
映像は、日米両国の真摯(しんし)な和解の精神を厳粛に
表現している。

同年8月、河野太郎外相と小野寺五典防衛相(当時)も同墓地で
祈りをささげた。

アーリントンで米軍戦没者に献花するのは旧民主党の政治家も同様だ。菅直人氏は首相になる前の22年4月に副総理兼財務相として
献花した。
副総理または財務相の献花は「極めて異例」で、
「ポスト鳩山への布石」との見方を「共同通信」が伝えた。

23年1月には前原誠司外相(同)が献花。
24年4月、野田佳彦首相(同)は無名戦士の墓に加えて、
イラク、アフガニスタンでの戦死者の墓、
「第60区画」でも献花した。

緊密な日米関係を反映して、今上陛下のアーリントン墓地ご訪問は
複数回にわたる。皇太子時代に2度、天皇陛下としては6年6月に
献花なさった。

この間、日本の戦死者の霊を祀(まつ)る靖国神社には、
日本の要人は足を運んでいない。
寂寥(せきりょう)感は拭い切れない。
だが天皇御親拝がないのは陛下のお気持ちとはおよそ無関係だ。
厳密にいえば、天皇の日々の行動の中に私的な行動はないと
考えるべきだとの指摘(高森明勅『靖國問題』、青林堂)どおりで
あろうから。

靖国神社をめぐる政治的現実は厳しいが、それでも明るい側面もある。靖国に眠る英霊の家族と、かつての敵の米国軍人およびその家族との
間に、「魂の交流」とでも言うべき関係が築かれている。

戦後70年目の27年、安倍首相は米国上下両院合同会議で演説し、
当時94歳のローレンス・スノーデン海兵隊中将と、元総務相の
新藤義孝氏を紹介した。

スノーデン氏は23歳で海兵隊大尉として中隊を率いて硫黄島で戦い、生き延びた。新藤氏は硫黄島守備隊司令として熾烈(しれつ)な
戦いの果てに戦死した栗林忠道大将の孫である。新藤氏が語る。

「スノーデンさんご一家との交流は20年をこえます。戦闘終結から
40年後の昭和60年に第1回日米合同硫黄島慰霊祭が行われ、私は
初めて、母と一緒に硫黄島を訪れました」

慰霊祭2回目はその10年後に、3回目はそれから5年後に
開催され、以降、年ごとになった。
硫黄島訪問の「厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を
たたえることだ」とスノーデン氏は語っている。

スノーデン氏は安倍首相演説の2年後に亡くなり、葬儀は当時の
マティス米国防長官らも出席して海兵隊の基地で営まれた。
新藤氏が安倍首相の哀悼の辞を読み上げたが、海兵隊員の葬儀に
日本の政治家が参列したのは初めてだろう。

戦死者に哀悼の誠をささげるのに国境はない。
靖国でも多くの外国人が参拝する。
記録が残っているのは本殿に昇殿して正式な神道形式で参拝する
人々だけだが中国などが糾弾するいわゆるA級戦犯合祀(ごうし)が
報道された昭和54年以降も外国人の昇殿参拝は変わらない。

目立つのは大東亜戦争で日本の敵だった連合国諸国の
軍人、学者、外交官、とりわけ米国軍人の参拝の多さだ。
軍人こそ、ひとつしかない自分の命を祖国と愛する家族にささげ、
死闘の限りを尽くす人々であること、それはどの国の軍人も同じだと、誰よりもよく知っているからであろう。

友人の門田隆将氏から「無名のスカウト戦士」の話を聞いた。
横浜市の「こどもの国」のレリーフに刻まれた逸話で、
ボーイスカウトの日米交流の中で伝えられている。

大東亜戦争の最中、重傷に倒れた米兵を日本兵が発見、米兵は
「殺される」との絶望の中で意識を失うが、やがて意識を取り戻した。日本兵は殺さなかったのだ。
そばには英語の伝言があった。倒れた米兵がボーイスカウトの伝統で
ある3本の指の敬礼をしたこと、自分もスカウトだったこと、
スカウトは傷つき無抵抗の者を殺害できないと書かれていたという。

米兵は母国に戻り体験を米国のボーイスカウト連盟に伝え、それを
27年、米国のスカウト本部役員が日本側に伝えた。
日本兵の名前は特定できず戦死したと思われるが、だとすれば今、
彼は英霊となって靖国神社に合祀されているだろう。

マッカーサーは日本占領で靖国神社廃止を考えた。
反対したのが米国カトリック宣教師団代表、メリノール会の
バーン師と、バチカン代表イエズス会のビッター師らだ。

「靖国神社は戦争の正不正とは関係がない。
いかなる国民も祖国のために身命(しんめい)を賭(と)した
人びとに対して尊敬を表し、感謝をささげることは大切な義務であり、また権利でもある」(志村辰弥『教会秘話』、聖母文庫)。
このこともあり靖国神社は存続した。

いま生きている人々はこうした歴史を知っておこう。
英霊にまつわる物語も、靖国神社の存在意義も忘れてはならない。
歴史を知ることは単に歴史にまつわる知識の集積ではない。歴史に
「魂が、参与すること」(富岡幸一郎『靖國問題』、青林堂)だ。

 皇后陛下は平成8年、8月に詠まれた。

 「海陸(うみくが)のいづへを知らず 姿なきあまたの
  み霊(たま) 国護(まも)るらむ」

広く英霊の上にはせた御心、靖国に眠る多くの英霊たちへの
深い思いであろう。
タグ:日本人
posted by 豊後国主 at 02:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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