2018年06月03日
日本だからこそだ、半島では絶滅してただろ〜よ
日本の中の【韓国民族史】、なんて日本には無い、自己中心の
民族資質だわな。
400年前彼らは祖国朝鮮を捨てたのさ、其れは今でも多くが
祖国を捨ててるで無いかい。
1600年代最初の通信使が連れて帰ったのは、有識者・・
陶工の多くは日本に残り一芸に邁進し、日本は其れを保護した。
半島では絶滅しただろう〜〜よ。
【コラム】もし陶工が朝鮮に残っていたら
町の入り口に「日本磁器発祥の地」と書かれた表示板が見えた。
佐賀県、有田市。4月9日、本紙主催の
「日本の中の韓民族史探訪」に参加した小・中・高校の
教師243人と共に現地を訪れた。
「こんにちは。私は14代李参平(イ・サムピョン)です」。
改良韓服(日常生活で着やすいようにデザインされた
韓服〈韓国の伝統衣装〉)を着た初老の男性は、はっきりした
韓国語であいさつした後、一族の来歴について細かく
話してくれた。
始祖は忠清南道公州出身の陶工・李参平(?−1655)。
壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)が終わるころ、海を
渡った。
有田を含む肥前国(現在の佐賀県)の領主だった鍋島直茂が
朝鮮侵略から撤収する際、李参平を連れていった。
李参平は有田東部の泉山で良質の白土を発見し、日本で初めて
白磁を作った。
李参平は死後、日本の神になった。
李参平の死からわずか3年後の1658年、有田の人々は
「陶山神社」を建て、李参平を神として祭った。
1917年には町の中の丘に
「陶祖・李参平碑」を建てた。
毎年4月末には陶磁器の祭典が開かれる。
115回目となる今年は4月29日から開かれている。
人口2万人程度の小さな町に、200万人の観光客が押し寄せる。
5月4日には陶祖祭を執り行う。
第14代李参平は「子孫として、韓日友好に力を尽くす」と
語った。
李参平が壬辰倭乱当時20歳だったと仮定すると、彼は83歳まで生きた。
日本へ渡ったのは20代半ばごろだった。
巨匠というにはまだ若かった。朝鮮に残っていても、
人並み外れた努力で明らかに大家となったことだろう。しかし、その名が歴史に残った可能性はほとんどない。
寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物と
いうのは思い当たらない。
李参平が作った華麗な彩色磁器は、欧州に売られていった。
陶山神社の記録によると、1650年に145個が初めて輸出された。9年後にはオランダが5万6700個を輸入した。
明清交代期の混乱を避け、中国の景徳鎮に代わって日本からの
輸入に切り替えたのだ。バン・ゴッホなど印象派の画家たちは、陶磁器の包み紙の浮世絵を見て影響を受けた。
李参平が海を渡らなかったら、こういった世界史的交流は
起こらなかっただろう。
陶磁器の輸出で蓄積した富を基に近代化を成し遂げた日本が、
結局は侵略に向かったという批判もある。
それは李参平の過ちではない。
産業を「末業」と見なして権力闘争に没頭し、朝鮮の
「李参平」を育てられなかった韓国側のせいというべきだ。
朝鮮の陶工・李参平を陶祖とたたえる日本に、むしろ
感謝せねばならないだろう。
政治闘争に気を取られて今も顧みられない、未来の
「李参平」がいるかもしれない。
陶祖が故郷に戻らなかった理由があるのだろう。
李漢洙(イ・ハンス)文化第1部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
民族資質だわな。
400年前彼らは祖国朝鮮を捨てたのさ、其れは今でも多くが
祖国を捨ててるで無いかい。
1600年代最初の通信使が連れて帰ったのは、有識者・・
陶工の多くは日本に残り一芸に邁進し、日本は其れを保護した。
半島では絶滅しただろう〜〜よ。
【コラム】もし陶工が朝鮮に残っていたら
町の入り口に「日本磁器発祥の地」と書かれた表示板が見えた。
佐賀県、有田市。4月9日、本紙主催の
「日本の中の韓民族史探訪」に参加した小・中・高校の
教師243人と共に現地を訪れた。
「こんにちは。私は14代李参平(イ・サムピョン)です」。
改良韓服(日常生活で着やすいようにデザインされた
韓服〈韓国の伝統衣装〉)を着た初老の男性は、はっきりした
韓国語であいさつした後、一族の来歴について細かく
話してくれた。
始祖は忠清南道公州出身の陶工・李参平(?−1655)。
壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)が終わるころ、海を
渡った。
有田を含む肥前国(現在の佐賀県)の領主だった鍋島直茂が
朝鮮侵略から撤収する際、李参平を連れていった。
李参平は有田東部の泉山で良質の白土を発見し、日本で初めて
白磁を作った。
李参平は死後、日本の神になった。
李参平の死からわずか3年後の1658年、有田の人々は
「陶山神社」を建て、李参平を神として祭った。
1917年には町の中の丘に
「陶祖・李参平碑」を建てた。
毎年4月末には陶磁器の祭典が開かれる。
115回目となる今年は4月29日から開かれている。
人口2万人程度の小さな町に、200万人の観光客が押し寄せる。
5月4日には陶祖祭を執り行う。
第14代李参平は「子孫として、韓日友好に力を尽くす」と
語った。
李参平が壬辰倭乱当時20歳だったと仮定すると、彼は83歳まで生きた。
日本へ渡ったのは20代半ばごろだった。
巨匠というにはまだ若かった。朝鮮に残っていても、
人並み外れた努力で明らかに大家となったことだろう。しかし、その名が歴史に残った可能性はほとんどない。
寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物と
いうのは思い当たらない。
李参平が作った華麗な彩色磁器は、欧州に売られていった。
陶山神社の記録によると、1650年に145個が初めて輸出された。9年後にはオランダが5万6700個を輸入した。
明清交代期の混乱を避け、中国の景徳鎮に代わって日本からの
輸入に切り替えたのだ。バン・ゴッホなど印象派の画家たちは、陶磁器の包み紙の浮世絵を見て影響を受けた。
李参平が海を渡らなかったら、こういった世界史的交流は
起こらなかっただろう。
陶磁器の輸出で蓄積した富を基に近代化を成し遂げた日本が、
結局は侵略に向かったという批判もある。
それは李参平の過ちではない。
産業を「末業」と見なして権力闘争に没頭し、朝鮮の
「李参平」を育てられなかった韓国側のせいというべきだ。
朝鮮の陶工・李参平を陶祖とたたえる日本に、むしろ
感謝せねばならないだろう。
政治闘争に気を取られて今も顧みられない、未来の
「李参平」がいるかもしれない。
陶祖が故郷に戻らなかった理由があるのだろう。
李漢洙(イ・ハンス)文化第1部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
タグ:韓国
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