2017年12月12日
あまりにも短い自由な人生では、
人それぞれにいろんな人生があるけど、この人も世界戦略の激流に
流されたひとりだろう、1965年は米国の対ベトナム戦線が終盤を
迎える時期でもあったし、ベトナムに行けば生きては還れないと
思うのは誰しもおなじこと、この日と一度だけ米国に帰れた、
それだけ自由国家に感謝してるはず、米国に生まれ、日本の地で
没するは本懐でなかったと思うが娘さんたち子孫が永代にわたり
供養してくれるはず・・・・
ご冥福を祈り哀悼を評する。
拉致被害者の曽我ひとみさん夫、ジェンキンスさん死去
元米軍人 77歳
(1/2ページ)
死去したジェンキンスさん
新潟県佐渡市で昭和53年に北朝鮮に拉致され、平成14年に
帰国した曽我ひとみさん(58)の夫、
チャールズ・ジェンキンスさんが11日、同市で死去した。
77歳だった。
同日、体調が急変し、搬送先の病院で死亡が確認された。
ジェンキンスさんは米軍人として韓国に駐留していた
1965(昭和40)年、軍事境界線で任務中に北朝鮮側へ脱走。
北朝鮮では80(同55)年に曽我さんと結婚し2人の娘が誕生。
士官学校で英語を教え、ラジオの翻訳なども担当した。
平成14年9月の日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認め曽我さんは
翌10月、日本へ帰国。ジェンキンスさんと2人の娘も
16年7月、北朝鮮を出国しインドネシアで曽我さんと再会した。
ジェンキンスさんは日本へ入国すると在日米軍に出頭し、
軍法会議で禁錮30日と除隊を言い渡された。
日本では曽我さんの故郷の佐渡市に家族で居住。
22年、永住許可を得た。
一方でレバノンやタイ、ルーマニアの女性が北朝鮮に拉致され、
脱走した元米兵と結婚していた事実などを詳細に証言。
北朝鮮が各国で拉致を行ったことが明らかになり、問題への
国際的関心を広げる契機となった。
(2/2ページ)
17年には北朝鮮での体験をまとめた著書「告白」を出版。
日本での自由な暮らしへの感謝を記していた。
普段は地元の観光施設に勤務し法被姿で販売を担当。
観光客との記念撮影にも気さくに応じた。
膠着する拉致問題に心を痛めていたといい、店の売り上げの一部は
拉致被害者の救出運動のために寄付されていた
。
流されたひとりだろう、1965年は米国の対ベトナム戦線が終盤を
迎える時期でもあったし、ベトナムに行けば生きては還れないと
思うのは誰しもおなじこと、この日と一度だけ米国に帰れた、
それだけ自由国家に感謝してるはず、米国に生まれ、日本の地で
没するは本懐でなかったと思うが娘さんたち子孫が永代にわたり
供養してくれるはず・・・・
ご冥福を祈り哀悼を評する。
拉致被害者の曽我ひとみさん夫、ジェンキンスさん死去
元米軍人 77歳
(1/2ページ)
死去したジェンキンスさん
新潟県佐渡市で昭和53年に北朝鮮に拉致され、平成14年に
帰国した曽我ひとみさん(58)の夫、
チャールズ・ジェンキンスさんが11日、同市で死去した。
77歳だった。
同日、体調が急変し、搬送先の病院で死亡が確認された。
ジェンキンスさんは米軍人として韓国に駐留していた
1965(昭和40)年、軍事境界線で任務中に北朝鮮側へ脱走。
北朝鮮では80(同55)年に曽我さんと結婚し2人の娘が誕生。
士官学校で英語を教え、ラジオの翻訳なども担当した。
平成14年9月の日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認め曽我さんは
翌10月、日本へ帰国。ジェンキンスさんと2人の娘も
16年7月、北朝鮮を出国しインドネシアで曽我さんと再会した。
ジェンキンスさんは日本へ入国すると在日米軍に出頭し、
軍法会議で禁錮30日と除隊を言い渡された。
日本では曽我さんの故郷の佐渡市に家族で居住。
22年、永住許可を得た。
一方でレバノンやタイ、ルーマニアの女性が北朝鮮に拉致され、
脱走した元米兵と結婚していた事実などを詳細に証言。
北朝鮮が各国で拉致を行ったことが明らかになり、問題への
国際的関心を広げる契機となった。
(2/2ページ)
17年には北朝鮮での体験をまとめた著書「告白」を出版。
日本での自由な暮らしへの感謝を記していた。
普段は地元の観光施設に勤務し法被姿で販売を担当。
観光客との記念撮影にも気さくに応じた。
膠着する拉致問題に心を痛めていたといい、店の売り上げの一部は
拉致被害者の救出運動のために寄付されていた
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タグ:日本
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