2015年03月15日
日本に切り捨てられた、韓国
1910年、日本は朝鮮半島を統治したが、世界情勢は英国、ロシアの
二大国時代でもあった。ロシアは不凍港をもとめ、南下政策をとり太平洋に
進出する機会をすすめていたんだな・・・ 朝鮮半島を取り込み、日本を
手中におさめれば、今の世界史は大きく変わっていただろうよ・・・
それに、いち早く気がついたのが、清国、朝鮮半島でもなく日本だった。
日本は日本を護るために朝鮮半島を統治したのだ。そのかわり
多くの日本人の血税をつぎ込みインフラ、社会基盤の整備をした。
この記事を読むと日本人の誇りが読み取れる。
日本は朝鮮半島に関わりすぎた。もういいだろう・・・・・
【コラム】ポスコ初代会長、朴泰俊が見た日本
ポスコが危機に陥ったとき、彼は日本に向かった
過去を忘れない日本人は惜しみなく韓国を助けた まだ助けてほしいのか・・・・
その「大物の時代」を読むと、今の韓日関係はあまりにも貧弱だ
日本が韓国を統治していた時代に日本で青少年期を過ごした
元ポスコ名誉会長・朴泰俊(パク・テジュン)=1927−2011=は
「一生忘れられない」思い出を本に記録した。
水泳大会で1位になったが、朝鮮人だという理由で非難されて2位に
下げられたことや、米軍の爆撃があった日、防空壕(ごう)で
起きたことなどだ。
「防空壕は秩序がきちんとしている。この日はお年寄りたち、
特におばあさんたちが立ち上がった。
『若い人は奥に入りなさい。危険な所は私たちが守る。
どうして本を持って来なかったんだい? 若者は本を開いて勉強しなさい』。防空壕の入り口にテントが張られ、若者が集まった一番奥には
ろうそく2本がともった」
朴泰俊は1位の座を奪われたとき「はらわたが煮えくり返ったが、我慢して
自分自身を落ち着かせた」と書いている。
防空壕でおばあさんに叱られたときは
「植民地の大学生の胸に染み入り、故国に対する責任感を呼び覚ました」と
述懐した。
日本が与えた怒りには耐える一方で感動は受け止め、祖国のための
原動力にしたのだ。
朴泰俊が後に浦項総合製鉄(現・ポスコ)を興すに当たり、
「恩人」と呼んだ日本人が数人いる。
その一人は当代日本で最高の思想家と言われた陽明学者・安岡正篤だ。
総合製鉄所プロジェクトが米国・ドイツ・英国・イタリアに断られたとき、
韓国は日本に助けを求めるしかなかった。
全責任を負って東京に向かった朴泰俊が真っ先に会ったのが安岡だ。
日本政財界の「見えざる手」とされる大物だったからだ。
安岡は「過去を反省して、韓国を助けることが日本の国益」という韓国観を
持っていた。
安岡はまず、技術協力のカギを握っていた稲山嘉寛・日本鉄鋼連盟会長の
所に朴泰俊を行かせた。
そして岸信介元首相ら政界の大物とも次々と会えるようあっせんした。
朴泰俊の情熱に安岡の誠意が助けとなり、あいまいだった日本政府や
日本企業の態度は熱い支持に変わった。ほかの先進国同様、
日本が韓国を無視していたら今のポスコはなかっただろう。
これとよく似た話をサムスン・グループ初代会長の
李秉普iイ・ビョンチョル)=1910−87=も残している。
留学のために乗った連絡船で1等船室の近くに行ったときだった。
日本人刑事が行く手を遮り「朝鮮人が1等船室に行くカネがあるものか。
生意気に」とひどいことを言った。
李秉浮ヘ「後に事業に打ち込んだのは、民族の怒りを胸に深く刻み込んだ
あの小さな出来事があったからだ」と自伝に書いた。
李秉浮ヘ廃虚となった終戦直後、東京の古びた理髪店での出来事も
書き残している。
「この仕事はいつからしているのか」と聞いたところ、店主は
「私が3代目なので、家業としてはかれこれ60年くらいでしょうか。
うちの子も継いでくれたらと思うのですが…」と答えたという。李秉浮ヘ
「『日本は滅びない。絶対に再起するだろう』とそのとき思った」と書いた。
鮮于鉦(ソンウ・ジョン)国際部長 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
二大国時代でもあった。ロシアは不凍港をもとめ、南下政策をとり太平洋に
進出する機会をすすめていたんだな・・・ 朝鮮半島を取り込み、日本を
手中におさめれば、今の世界史は大きく変わっていただろうよ・・・
それに、いち早く気がついたのが、清国、朝鮮半島でもなく日本だった。
日本は日本を護るために朝鮮半島を統治したのだ。そのかわり
多くの日本人の血税をつぎ込みインフラ、社会基盤の整備をした。
この記事を読むと日本人の誇りが読み取れる。
日本は朝鮮半島に関わりすぎた。もういいだろう・・・・・
【コラム】ポスコ初代会長、朴泰俊が見た日本
ポスコが危機に陥ったとき、彼は日本に向かった
過去を忘れない日本人は惜しみなく韓国を助けた まだ助けてほしいのか・・・・
その「大物の時代」を読むと、今の韓日関係はあまりにも貧弱だ
日本が韓国を統治していた時代に日本で青少年期を過ごした
元ポスコ名誉会長・朴泰俊(パク・テジュン)=1927−2011=は
「一生忘れられない」思い出を本に記録した。
水泳大会で1位になったが、朝鮮人だという理由で非難されて2位に
下げられたことや、米軍の爆撃があった日、防空壕(ごう)で
起きたことなどだ。
「防空壕は秩序がきちんとしている。この日はお年寄りたち、
特におばあさんたちが立ち上がった。
『若い人は奥に入りなさい。危険な所は私たちが守る。
どうして本を持って来なかったんだい? 若者は本を開いて勉強しなさい』。防空壕の入り口にテントが張られ、若者が集まった一番奥には
ろうそく2本がともった」
朴泰俊は1位の座を奪われたとき「はらわたが煮えくり返ったが、我慢して
自分自身を落ち着かせた」と書いている。
防空壕でおばあさんに叱られたときは
「植民地の大学生の胸に染み入り、故国に対する責任感を呼び覚ました」と
述懐した。
日本が与えた怒りには耐える一方で感動は受け止め、祖国のための
原動力にしたのだ。
朴泰俊が後に浦項総合製鉄(現・ポスコ)を興すに当たり、
「恩人」と呼んだ日本人が数人いる。
その一人は当代日本で最高の思想家と言われた陽明学者・安岡正篤だ。
総合製鉄所プロジェクトが米国・ドイツ・英国・イタリアに断られたとき、
韓国は日本に助けを求めるしかなかった。
全責任を負って東京に向かった朴泰俊が真っ先に会ったのが安岡だ。
日本政財界の「見えざる手」とされる大物だったからだ。
安岡は「過去を反省して、韓国を助けることが日本の国益」という韓国観を
持っていた。
安岡はまず、技術協力のカギを握っていた稲山嘉寛・日本鉄鋼連盟会長の
所に朴泰俊を行かせた。
そして岸信介元首相ら政界の大物とも次々と会えるようあっせんした。
朴泰俊の情熱に安岡の誠意が助けとなり、あいまいだった日本政府や
日本企業の態度は熱い支持に変わった。ほかの先進国同様、
日本が韓国を無視していたら今のポスコはなかっただろう。
これとよく似た話をサムスン・グループ初代会長の
李秉普iイ・ビョンチョル)=1910−87=も残している。
留学のために乗った連絡船で1等船室の近くに行ったときだった。
日本人刑事が行く手を遮り「朝鮮人が1等船室に行くカネがあるものか。
生意気に」とひどいことを言った。
李秉浮ヘ「後に事業に打ち込んだのは、民族の怒りを胸に深く刻み込んだ
あの小さな出来事があったからだ」と自伝に書いた。
李秉浮ヘ廃虚となった終戦直後、東京の古びた理髪店での出来事も
書き残している。
「この仕事はいつからしているのか」と聞いたところ、店主は
「私が3代目なので、家業としてはかれこれ60年くらいでしょうか。
うちの子も継いでくれたらと思うのですが…」と答えたという。李秉浮ヘ
「『日本は滅びない。絶対に再起するだろう』とそのとき思った」と書いた。
鮮于鉦(ソンウ・ジョン)国際部長 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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