2014年12月13日
ふざけるな、老兵の追憶
平成21年といえばもう5年前、この老兵はまだ健在かな!?
従軍経験があり、なおかつ戦闘経験があればなおさらと思う、私の叔父も父親の弟で
十代で南太平洋の海にきえた。
きっと、十代のまんま靖国にいるんだと思う。私の父親も帝国海軍の連合艦隊所属の
”戦艦金剛”の通信兵をしていた。
戦争経験をあまり多くを語らない人であったが、マラリヤにかかり別府の海軍病院で
終戦を迎えたらしい。
靖国神社は国のために命をなくした英霊たちの眠るところ、近頃、日本の
インパール作戦で日本軍と相まみえた元英国軍兵士が、あの時の勇敢なる日本兵士に
会いたいと日本を訪れ、共に靖国神社に参拝したと聞く。やはりあのときの戦闘で隣にいた戦友がいると
思えば生き延びた人には耐えられないだろう
靖国に無関心でもいい、だが、否定は決っして許されないことだ。
戦争は常識も良識も通らない…靖国不参拝に「怠けたこと言うな!」
(1/2ページ)
終戦の日の8月15日、靖国神社の境内は夕方になっても参拝者の列が途切れなかった=東京都千代田区
平成21年の晩秋のことである。
「私はノモンハン事件を体験しています」という91歳の男性から話を聞いた。
記憶は確かであった。
モンゴル(1930年代は事実上、ソ連軍の指揮下)と日本軍が、
ノモンハン(内モンゴル自治区の一部で満州国とも呼ばれ、日本が満州事変で
占領した地域)のモンゴルの国境に近いところで、国境の位置をめぐって衝突した
戦争である。後に「ノモンハン事件」と呼ばれた。
《昭和14年5月でしたなあ。広島から船で大連まで行き、それから汽車で
ハルビン、さらに行軍でノモンハンまで行きました。着いたのは7月でしたなあ。
9月には停戦協定が成立し、幸い帰国できました。ノモンハンの戦いで死傷した
日本兵は約2万人といわれています。ソ連軍は戦車で攻めてきましたが、
こちらは馬に大砲と小銃、これでは勝てないと思いましたよ》
男性の白髪がススキの穂のように揺れ、土まみれのたばこを持った手が小刻みに
震えている。
《現地人は草原に羊や豚を飼って生活していましたが、厳寒で大変な所でしたわ。
『兵隊の命より馬や大砲のほうが大事だ。
君たちは一銭五厘でいくらでも集めてこられる』と、何度も聞かされました。
驚いたのはモンゴルという所でした。大陸のど真ん中というのに、砂地なんです。
壕を造るため、2メートル掘っても3メートル掘っても、石ころ一つ出てこない
砂地でしたなあ。私たちの便を豚が食べ、その豚を私たちが食べたんですよ。
それほど厳しい生活であったということをどれほどの日本人が知っていますかねえ》
私の目は涙で潤んだ。
《戦争について皆さんいろいろと仰いますが、戦後60年以上たった今だから
言えることばかり。要するに、戦争は常識も良識も通らない異常な世界だと
いうことが分かっておられないのだと思います。
「靖国神社には参拝しない」という政治家がいますが、家族のことを心配しながら
命を国に預けて、一銭五厘で戦場に赴いたのです。「怠けたこと言うな!」と、
英霊に代って怒鳴ってやりたい気持ちですなあ。
靖国参拝を否定するような考えが日本の常識になっているようでは、まだまだ
安心して死ねませんわ》
夕日の差す男性の目には涙が浮かんでいた。
平成12年8月15日、靖国神社に参拝した石原慎太郎都知事にある記者が
質問しようとしたとき、「何が聞きたいのかね。“公人として参拝したのか、
私人としてか”だろう。東京都知事と記帳した。どこがいけないのか。
君の考えを聞かせてくれ。近代史を勉強しろ。このバカ!」と
吐き捨てるように言ったのが忘れられない。
■足立勝美(あだち・かつみ) 兵庫県立高校教諭、県立「但馬文教府」の長、
豊岡高校長などを務め、平成10年に退職。24年、瑞宝小綬章受章。
『教育の座標軸』など著書多数。個人通信「座標」をホームページで発信。
養父市八鹿町在住。鳥取大農学部卒。76歳。
従軍経験があり、なおかつ戦闘経験があればなおさらと思う、私の叔父も父親の弟で
十代で南太平洋の海にきえた。
きっと、十代のまんま靖国にいるんだと思う。私の父親も帝国海軍の連合艦隊所属の
”戦艦金剛”の通信兵をしていた。
戦争経験をあまり多くを語らない人であったが、マラリヤにかかり別府の海軍病院で
終戦を迎えたらしい。
靖国神社は国のために命をなくした英霊たちの眠るところ、近頃、日本の
インパール作戦で日本軍と相まみえた元英国軍兵士が、あの時の勇敢なる日本兵士に
会いたいと日本を訪れ、共に靖国神社に参拝したと聞く。やはりあのときの戦闘で隣にいた戦友がいると
思えば生き延びた人には耐えられないだろう
靖国に無関心でもいい、だが、否定は決っして許されないことだ。
戦争は常識も良識も通らない…靖国不参拝に「怠けたこと言うな!」
(1/2ページ)
終戦の日の8月15日、靖国神社の境内は夕方になっても参拝者の列が途切れなかった=東京都千代田区
平成21年の晩秋のことである。
「私はノモンハン事件を体験しています」という91歳の男性から話を聞いた。
記憶は確かであった。
モンゴル(1930年代は事実上、ソ連軍の指揮下)と日本軍が、
ノモンハン(内モンゴル自治区の一部で満州国とも呼ばれ、日本が満州事変で
占領した地域)のモンゴルの国境に近いところで、国境の位置をめぐって衝突した
戦争である。後に「ノモンハン事件」と呼ばれた。
《昭和14年5月でしたなあ。広島から船で大連まで行き、それから汽車で
ハルビン、さらに行軍でノモンハンまで行きました。着いたのは7月でしたなあ。
9月には停戦協定が成立し、幸い帰国できました。ノモンハンの戦いで死傷した
日本兵は約2万人といわれています。ソ連軍は戦車で攻めてきましたが、
こちらは馬に大砲と小銃、これでは勝てないと思いましたよ》
男性の白髪がススキの穂のように揺れ、土まみれのたばこを持った手が小刻みに
震えている。
《現地人は草原に羊や豚を飼って生活していましたが、厳寒で大変な所でしたわ。
『兵隊の命より馬や大砲のほうが大事だ。
君たちは一銭五厘でいくらでも集めてこられる』と、何度も聞かされました。
驚いたのはモンゴルという所でした。大陸のど真ん中というのに、砂地なんです。
壕を造るため、2メートル掘っても3メートル掘っても、石ころ一つ出てこない
砂地でしたなあ。私たちの便を豚が食べ、その豚を私たちが食べたんですよ。
それほど厳しい生活であったということをどれほどの日本人が知っていますかねえ》
私の目は涙で潤んだ。
《戦争について皆さんいろいろと仰いますが、戦後60年以上たった今だから
言えることばかり。要するに、戦争は常識も良識も通らない異常な世界だと
いうことが分かっておられないのだと思います。
「靖国神社には参拝しない」という政治家がいますが、家族のことを心配しながら
命を国に預けて、一銭五厘で戦場に赴いたのです。「怠けたこと言うな!」と、
英霊に代って怒鳴ってやりたい気持ちですなあ。
靖国参拝を否定するような考えが日本の常識になっているようでは、まだまだ
安心して死ねませんわ》
夕日の差す男性の目には涙が浮かんでいた。
平成12年8月15日、靖国神社に参拝した石原慎太郎都知事にある記者が
質問しようとしたとき、「何が聞きたいのかね。“公人として参拝したのか、
私人としてか”だろう。東京都知事と記帳した。どこがいけないのか。
君の考えを聞かせてくれ。近代史を勉強しろ。このバカ!」と
吐き捨てるように言ったのが忘れられない。
■足立勝美(あだち・かつみ) 兵庫県立高校教諭、県立「但馬文教府」の長、
豊岡高校長などを務め、平成10年に退職。24年、瑞宝小綬章受章。
『教育の座標軸』など著書多数。個人通信「座標」をホームページで発信。
養父市八鹿町在住。鳥取大農学部卒。76歳。
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