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2014年08月03日

悲しみの国、南朝鮮

日本も世界も真実の歴史を知っている、向き合わないのは中華と韓国だけ・・
侵略戦争では断じてない


【コラム】歴史と正直に向き合わない韓国

日清戦争120年、韓中日の史跡にみる歴史との向き合い方

韓中日3カ国はあまりに異なっていた。先月上旬から中旬にかけて、
韓国・中国・日本の日清戦争の現場を取材した。今年は日清戦争120周年。
1894年7月25日、韓国・牙山湾の豊島沖で、日本は清の艦隊を奇襲した。
その後3カ国は互いに異なる歴史の道を歩んだ、ということを言いたいのではない。
言いたいのはまさに今、歴史を記憶する方法についてだ。

日本は、過去を誇らしく回顧していた。
日本の艦隊が出発した佐世保、軍艦を建造した長崎、「戦時の首都」だった
広島などを訪れてそう感じた。「輝ける歴史」と明示してはいなかった。
「1882年 軍艦整備計画案に基づき、2400万円を投じて、8年がかりで軍艦32隻を
建造する計画を立てた」「広島に大本営を設置し、
明治天皇が1894年9月15日から翌年4月27日まで滞在した」。
関連の展示館や記念館の案内文は、静かに事実を記していた。

佐世保の海上自衛隊史料館は、1945年8月までに沈んだ日本の艦艇の数を整理し、
図表にしていた。
太平洋戦争中、空母25隻、駆逐艦253隻、潜水艦170隻、巡洋艦42隻など計502隻が
沈んだ、という内容だ。既に70年前、これほど大規模な艦隊を持っていたという
事実に驚いた。
乾いた文体の「行間」から、過去の戦争に対する郷愁が伝わってくるように感じた。侵略戦争を起こし、他国の国民だけでなく多数の日本国民も犠牲になったという
反省や後悔は、一言もなかったからだ。

中国は、屈辱の歴史を深く刻んでいた。
日清戦争当時、北洋艦隊の司令部があった山東省威海の劉公島に
「甲午戦争博物館」を作り、恥辱の歴史を詳細に記録していた。
劉公島の陥落で清は屈辱的な敗北を味わい、丁汝昌提督は自ら命を絶ち、
巨額の賠償金を払い、台湾など領土を奪われ、
日本軍が旅順を占領した時には中国の民間人約2万人が虐殺された、という
内容だった。
展示館の出口には「甲午戦争で敗れた屈辱の歴史は
『立ち遅れてしまうとすぐにやられる』という道理をあらためて証明した。
われわれはこの歴史を教訓として、海上に鋼鉄の長城を築くことで歴史の悲劇が
繰り返されないようにしなければならない」という誓いが記されていた。

韓国の現場には、何もなかった。専門家の案内がなければ、どこで
どのようなことが起きたのか、全く分からなかった。
日本軍は豊島沖海戦の2日前、7月23日に景福宮を占領し、高宗を捕虜にした。
清と日本は7月29日の「成歓の戦い」を皮切りに、朝鮮の地で戦争を行った。
日本軍は韓半島(朝鮮半島)南部で東学農民軍3万人以上を虐殺した。しかし
景福宮にも、成歓にも、虐殺現場にも、これが記録されている所はなかった。
恥辱の現場を消すことが、痛みを克服する方法だと思ったからなのかもしれない。
しかしこれは、歴史と正直に向き合う態度ではない。

取材の過程で会った中国人の教授は、恥辱の歴史を細かく記憶する理由について
「倒れた場所からまた起き上がらなければならないため」と語った。
ならば韓国は、いまだに倒れたままだ。

李漢洙(イ・ハンス)文化部次長  朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
タグ:日本、韓国
posted by 豊後国主 at 14:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記事
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