2019年08月06日
手紙
私は昔からずっと、親が亡くなる悲しみを恐怖に感じていました。
昨年の10月に父が、先月母が他界しました。
どちらも急だったので寂しさはありましたが、涙を見せることはありませんでした。
自分を育ててくれた大切な親でも、高齢になると認知症も多少なり出てきますし、転居等、手続きのからむことを自分ではできなくなっていきます。
父と母は5年前、しばらく住んでいたところからアパートに転居することになりました。
札幌から岩手まで手伝いに行った私は、暗いキッチンにホームセンターで買ってきた蛍光灯を付けるなどちょっとした気配りをしながら
「ここが両親にとって終の棲家か。」
そう思いました。
でも現実は、そんな単純なものではないですね。
2016年、母が入院し翌年、回復して特別養護老人ホームへ入所。
今どき特別養護老人ホームへの入所なんて、まるで現実離れした順番待ちです。
しかし入院したことで一番重い要介護5と判定された母は優先して入所することができました。
そうは言っても手続きはそんなた易いものではありません。
希望する老人ホームへ短期間で入所できたとはいえ結果であり、初めはどこへ入所を申し込もうと施設選びから始めます。施設選びはまだ元気だった父が通える場所であることを優先させました。
当時両親が住んでいた近隣に介護施設は全部で12か所ありました。
2016年の暮れ、12か所すべてに連絡を取り申し込み方法を聞き資料請求。
父の意見を聞きながら2か所に絞り、申し込み。
母の容態に合わせて病院を転院、回復とほぼ同時、2017年5月に特別養護老人ホームへ入所できました。
幸い、父母の住むところに私の従弟がいます。
従弟の手を借りなければ、難しかったと思います。
母が入所したことで独り暮らしになった父。そのアパートも高齢な父の一人住まいを許してはくれません。
2017年秋、2年に一度の契約更新時、一人住まいを理由に契約できないと言われ、半年間の猶予で退去を迫られました。
そんな父が転居できる先はサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)くらい。父は要支援2。
市内にサ高住は3箇所あり、2か所に申し込み。先に空きが出た方へ転居することにしました。
ただ、空きが出るのは春の予定。
引っ越し屋は?繁忙期?
引っ越し屋さん数社と、シルバー人材センターに連絡し見積もりを取りたい。しかし春に空きが出るのはわかっていても何月何日まではわかりません。そして繁忙期の引っ越し屋さんは何月何日までわからないと見積もりも出せません。
また引越しの段ボールは引っ越し業者が決まらないので手配できない。そうかと思えば毎日父のところへ通っていたヘルパーさんに頼めばスーパーから持ってきてくれるという情報が入る。
しかし実際、ヘルパーさんはそこまでしてくれない。
他の方法で段ボールは手配できても今度は父が荷造りを全くしてくれない。
それも、岩手に住む父の引っ越しを札幌の私が采配しなければならないのです。
最終的に従弟兄弟が引越しをしてくれました。従弟兄弟の兄は酒造会社に勤めています。トラックを貸してくれました。本当にあのときは助かりました。
そんなことでアパートは父にとっても母にとっても終の棲家にはなりませんでした。
母の特別養護老人ホーム、父のサ高住への転居。
どうしても休日に手続きが多くなります。1〜2か月、ゆっくりできない期間です。
父のサ高住への転居は昨年3月、私が肋骨を骨折して通院した病院からも電話していました。
父の晩年、私は休日に欠かさず父に電話をしていました。
私や家族の近況報告であったり、ときには愚痴であったり。
生まれつきの商売人だった父は口達者で、ソーシャルスタイルでは“エクスプレッシブ”です。
特に一人暮らしになってからは退屈だろうと、こっちの時間を潰して電話で話していました。
そんなとき
「なんだ、ヒマか?」
なんて言われると、腹が立ちましたね。(笑)
母には手紙を書きました。
携帯電話を持っていません。また、ホームに電話を架けても歩けません。
ホーム宛に手紙を書くようになったのは2017年10月です。
手紙は母が自分で読むことができず、職員に読んでもらっているのがわかったのは後からです。
まだ父がいた頃、父はできる限りホームに通っていました。
父が亡くなってからはいよいよ、母一人です。
歩けず、寝たきりの母。
ときどきホームの職員と必要な会話をする以外、何を考えているのでしょう。
父が亡くなってから多いときは週に3通、手紙を書きました。
2月、このブログを無期限で休止すると書いたのは、そのことからです。
仕事が終り、家に着くと9時過ぎ。食事、入浴等。
ブログに1〜2時間かけて、それから手紙を書くと明らかに睡眠不足です。
2017年10月から2019年7月まで22カ月。
58通目を書いたあと、5月に母のところへ行きました。
父の葬儀で訪れてから、約半年の間に随分と衰弱していました。
手紙は400字詰めの原稿用紙で5枚くらい。読むと、だいたい3〜4分を心掛けていました。
ですが衰弱した母を見ると、3〜4分の手紙を聞くのにも、もう集中力は続かないとわかりました。
もちろん職員さんはそれを十分に承知の上で、それでも自分の時間を割いて読んで下さったのでしょう。
それでは申し訳がない。まして母は一日の大半を寝て過ごしていることもわかりました。
以来、手紙は控えるようにしていました。
それでもまったくないのでは母も寂しいだろうと、久しぶりに書いたのが7月26日未明。
朝、出勤途中にポストへ投函し、仕事へ。
その夕方、心臓マッサージをしていると電話があり、その晩岩手に向けて出発。
翌朝、病院で母の亡骸と面会。
日曜日に火葬を済ませ、月曜に荷物をまとめてくれたホームの職員さん。
荷物を取りに行くと、今朝着いたと私の手紙が未開封でありました。
それがホームに宛てた60通目の手紙でした。
2017年から60通の手紙は決して多くないと思います。
それでも父の電話、母の手紙。私はできることはしたと思っています。
これは私が持っていた、親が亡くなる悲しみの恐怖から逃げるためだったのかも知れません。
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