2020年05月02日
60年前に引退した「氷川丸」のエピソード
「氷川丸」運航していた日本郵船は戦前、北米や欧州など数多くの海外航路を有し、当時の世界の著名人も利用していました。
幾多もの歴史に残る客船や貨客船を世界の海に浮かべていたのです。
ブリッジから晴天に恵まれた横浜港を眺める。
過去を遡ること1922年(大正11年)
アインシュタインが夫人とフランスのマルセイユ(10月5日)から
神戸(11月17日)まで「北野丸」に乗船していたとの記録もある。
1930年に処女航海を行なった「氷川丸」(11,600トン)は
戦前戦後30年間にわたって横浜〜シアトル間に就航していた。
その乗船客のひとりに1932年(昭和7年)には
喜劇王チャップリンも乗船しました。
氷川丸の一等乗客専用のダイニングルームです。
単に食事をとるだけでなく、乗客同士のコミュニケーションの場でした。
氷川丸就航時のディナーを再現。
正統派のフランス料理です。
その後も秩父宮夫妻、フルブライト留学生、宝塚歌劇団など多彩な乗客も迎えた氷川丸。
秩父宮殿下夫妻がご乗船された一等客室のベッドルーム。
一等客室にはベッドルームの他にリビングもあります。
“客船”と言う華やかな顔を持つ半面、太平洋戦争では病院船として徴用され、
敗戦直後には復員引退者輸送に尽力したと言う時代の荒波にもまれた歴史を持ちます。
1953年、再び貨客船として
「北太平洋の花」
と言う憧れの存在であり続けた。
1960年8月、惜しまれながら引退。
処女航海からちょうど60年の歳月が流れていた。
戦中戦後に12年間の中断はあったものの、北太平洋の波涛をくぐり抜け横断すること
238回。
25,000人と言う人々の船旅を支えてきたのです。
そして、引退の翌年「横浜港開港100周年記念事業」の一環としては生まれ故郷である横浜に係留されたのである。
あれから60年経った現在、世界の客船が停泊する横浜大桟橋から山下公園側を望む一角に佇む姿は、長らく横浜港のシンボルであり続け、日本人にとって“客船”のイメージを
形成してきたのです。
氷川丸の引退を持って、日本郵船はクルーズ客船事業から撤退したが、「ポスト氷川丸」となる客船建造計画を模索した時代でもあったのです。
日本郵船百年史の「二引きの旗のもとに」に以下のような記述がある。
「氷川丸引退か?」
この噂を伝え聞いた社内外から
「何とかもう一度、客船を作ってくれ」
と言う声が、潮のように押し寄せてきたと言う。
日本郵船もクルーズ 客船事業を存続すべきか。撤退の道を選ぶのか。
非常に「もの」と「人」で作る芸術品であり、その国の文化遺産でもある。
ヨーロッパでは、外洋を走る豪華客船を持たなければ、一流の海運会社とみなされない時代があった。
金があれば、誰でもタンカーを持つことができる。それは「もの」自体だからである。
しかし、客船は、金で買うことはできない。「人」自身だからである。
しかし客船を継続することは一つの文化の伝承である。
この日本に、伝承できるものは日本郵船しかいないと自負する。
氷川丸引退の7年前の1953年、観光事業審議会は太平洋客船の建造について取り上げ、閣議決定に持ち込んでいる。
そして1959年には超党派の「太平洋客船懇談会」ができ、その委員長に就任したのは田中角栄氏であった。
1964年に東京オリンピック、70年に大阪万博と国際的イベントを控えていた日本国内で「海洋国家日本のシンボルとして、新しい客船を」と言う声が官民問わず高まってきた。
日本郵船はこの気を捉え、1959年に作成していた新造船計画「太平洋横断客船建造計画関係資料」を田中委員長に提出する。
その内容は前出の「二引きの旗のもとに」によれば次のようなものであった。
3万1000トン、航海速力26ノット(※1ノット=時速1.852キロ)、最高速力31ノット、客室定員1200人。
これを2隻揃えて、サンフランシスコ、ロサンゼルスの航路に配船する。
船価は2隻で当時の金額で 概算300億円。日本船主協会、海運造船振興協議会など業界団体から客船建造の要望書が提出された。
ホノルルやロサンゼルスの日系人商業会議所から総理大臣あての要望書も到着した。
運輸省(現在の国土交通省)は田中委員長の強力なバックアップと、これらの要望により、1959年度予算で一般会計10億円、財政投融資13億7500円の予算案を策定。
計画通りに進めば第一船は1963年7月、第二船は1964年7月に完成するはずだった。
しかし、天災が夢のプランを本当に夢のままにしてしまう。
59年9月に猛烈な台風が紀伊半島や東海地方を襲い、5000人以上の死者・行方不明者を出した伊勢湾台風である。
当時の大蔵大臣・佐藤栄作氏は客船に当てていた予算を伊勢湾台風被害復旧に回すことを決定。
こうして新造船プランは伊勢湾台風と言う風と共に去ってしまう。
日本郵船首脳は、ジェット機時代を迎えて、「もはや客船の時代は去った」と判断するしかなかった。
経済合理性という厳しい現実が、氷川丸の引退。そして客船事業からの撤退を決断した。
日本郵船百年史の「二引きの旗のもとに」より
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