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2007年11月18日
岡山の隠れ場・愛の村パーク
愛の村パークを紹介します。
私たちは数回宿泊体験があり、お勧めスポットです。
最近、は言ってないのですが、HPもグレードして素晴らしくなっております。
自然いっぱいの施設です。
県北へのスキー行の宿泊にも便利ですよ
2007年11月15日
岡山の偉人・薄田泣菫
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年5月19日-1945年10月9日)は、日本の詩人。
本名、淳介(じゅんすけ)。
1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町)に、薄田篤太郎、里津の長男として生れた。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。玉島高等学校を経て、岡山県尋常中学校(後に岡山第一中学校。現在の県立岡山朝日高校)を中退。1894年上京し、上野書館に通いながら塾で独学する。1897年帰郷すると、いくつか詩を作り「新著月刊」に投稿、後藤宙外、島村抱月らに絶賛され掲載された。翌年第一詩集『暮笛集』を刊行、「小天地」を編集しながら「明星」などに詩を載せ、『ゆく春』『白羊宮』など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村、土井晩翠後の明治後期の詩壇を背負って立った。
明治の終わりごろから一時小説に興味を移したが、結局随筆に転じ、詩作を離れた。国民新聞社、帝国新聞社に勤めた後、大阪毎日新聞社に勤め、1915年、「茶話」の連載開始。これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介している。「大阪毎日新聞」、「東京日日新聞」、「サンデー毎日」、「苦楽」、「文藝春秋」他に執筆され、異本が多い。
1917年、パーキンソン病に罹患。1919年、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任したが、1923年、病気が悪化したため、休職。晩年は口述したものを夫人が筆記していた。1945年10月4日、意識不明となり疎開先から連島に戻ったが、9日に尿毒症で死去した。享年68。
2007年09月22日
岡山城の話 @
岡山城の歴史(あらまし)
岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天主閣の土台が北に大きく突き出した不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天主閣である。
天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時ここの城主だった金光宗高を滅ぼし、その城を修復した後、沼城から移ってきた。
今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。
こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天主閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しい旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。
そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。
途中、秀吉の朝鮮半島への進攻にが、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天主閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。
県立図書館の裏側にある、お堀を渡って烏城公園入り口から右へ向いて歩いて行くと左に石段が現れる。ここを登れば鉄(くろがね)門。登りきって右に曲がると不明(あかずの)門。ここを登りきったら左に天主閣が現れる。
緒方洪庵展の登りのある、お堀を渡った烏城公園の入り口。
不明門下の石垣
不明門をくぐり石段を登ると、天守閣に一歩近づく
2007年07月16日
2007年06月12日
釣りバカ日誌20作・順調撮影中」
釣りバカ日誌20作の撮影が、岡山県下で撮影開始されました。
5月7日から6月1日までの予定で撮影中・・・
ロケ地・・岡山県内 倉敷市・笠岡市・瀬戸内市・
鏡野町・高梁市・岡山市(五市一町)
全国ロードショー 今年夏〜〜
西田敏行・三国連太郎・浅田美代子・檀れい・
高島政伸・村野武紀・谷啓・星由里子・石田靖・鶴田忍・
奈良岡朋子他・・・・・
皆さん、お楽しみに