2008年03月25日
「ランボー」地でいくマケイン議員
「ランボー」地でいくマケイン議員
■週刊軍事情報
米大統領選の共和党候補者はジョン・マケイン上院議員に決まった。日本では民主党の候補者選びの方が注目度が高いが、どっこい、マケイン議員の経歴には驚かされる。その“武勇伝”を紹介しよう。
正式な名前はジョン・シドニー・マケイン3世。1936年8月生まれで祖父、父とも米海軍大将だった。しかし、アナポリス(米海軍兵学校)卒業時の成績は899人中894番。卒業後パイロットになり何度か乗機を墜落させているが、奇跡的に大けがはなし。この不死身ぶりの真骨頂がベトナム戦争だ。
67年7月29日、空母フォレスタルではマケイン少佐のA4―Eスカイホーク攻撃機が発艦準備中だった。その時F4戦闘機のロケット弾が暴発してマケイン少佐機の燃料タンクを直撃、大火災が発生した=写真、米海軍提供。当時の映像を見るとマケイン少佐は操縦席から転げ落ちるようにして脱出、直後に搭載されていた爆弾が誘爆した。134人が死亡する大事故になったが、マケイン少佐は軽傷で済んだ。
次は3カ月後の10月26日。ハノイ爆撃中に撃墜され捕虜になる。拷問が繰り返されたが、姓名、階級、認識番号、生年月日しか明かさなかった。さらに北ベトナムは早期釈放して対米交渉に利用しようとしたが、特別扱いを拒否。捕虜の見本のような行動だが、白髪になったり自殺を図ったりするほど5年半の捕虜生活は苛烈だった。
82年に政界進出。理由のひとつは、著書に「北爆ではワシントン政界が攻撃目標にまで介入し、同じ目標を何度も攻撃させられた」と記すように、政治と軍のかかわりに対する不満。「同じ目標の上を何度も飛ぶのは敵に撃墜しろと言っているようなもの」と軍事評論家も指摘する。
また、レーガン政権が83年9月にベイルートに派遣した海兵隊の駐留延長をしようとしたが、新人のマケイン議員は「勝つ見込みがない」と反対。事実、1カ月後、テロによって241人の海兵隊員が死亡し、撤退を余儀なくされている。
「シビリアン・コントロール」とは何か、を考えさせられる逸話ではないだろうか。
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