山ですか?天保山なら登ったことありますよ。
第171回芥川賞受賞作。古くなった建外装修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォーム会社から転職して2年。会社の付き合いを極力避けてきた波多は同僚に誘われるまま六甲山登山に参加する。その後、社内登山グループは正式な登山部となり、波多も親睦を図る目的の気楽な活動をするようになっていたが、職人気質で職場で変人扱いされ孤立しているベテラン社員妻鹿があえて登山路を外れる難易度の高い登山「バリ山行」をしていることを知ると……。
「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか! 本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」(本文より抜粋)
会社も人生も山あり谷あり、バリの達人と危険な道行き。圧倒的生の実感を求め、山と人生を重ねて瞑走する純文山岳小説。(Amazon.com より引用)
作品情報
『バリ山行』
著者:松永K三蔵
発行年月日:2024年7月25日
出版社:講談社
感想
『バリ山行』の「バリ」って、昔流行った「バリうざい」「バリかっこいい」とかの「バリ」だと思ってました。
実際には「バリエーションルート」の略で、通常の登山道ではないルートのこと。
当然、整備されたルートではないから、大けがや遭難に繋がりかねない危険なルートで、マナー違反だと非難されたりもする。主人公の職場の先輩・妻鹿(めが)は、そんなバリをやっているらしい。
主人公・波多は前職でリストラに遭い、なんとか転職したものの今の職場も存続が危うく、またもやリストラされるかもしれないという状況。しかも妻と幼い娘までいる。
私だったらプレッシャーでおかしくなりそう。
そんな波多が妻鹿と一緒にバリに出かけることになり、やはりというか、バリ初心者の波多は峪に落ちかけて死ぬ思いをすることになります。
死にかけた恐怖で頭がいっぱいの波多に対して、妻鹿が放った
「ね、感じるでしょ?波多くん」
「問答無用で生きるか死ぬか。まさに本物だよ。ひりつくような、そんな感覚。」
という言葉がきっかけになって、波多は
「そんなもの感じるわけないじゃないですか!死にかけたんですよ!」
と声を荒らげる。
「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか!本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ!生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」(P128)
私、最初にこの箇所を読んだときは、波多の意見に反対だったんですよ。
妻鹿は別に逃げているわけじゃなくて、自然の大いなる力に魅せられ、また、困難なルートに挑戦することに喜びを感じているんだろう、と。
バリ登山については、物語の前半の方で
「……でもね、ホントは山に道なんかないんですよ。昔の人はそうやってルートファインディング、もちろんそんな言葉もなかったけど、山に入って沢沿いとか尾根伝いに、歩けそうな径を探して歩いたんだよね。だからある意味でバリエーションっていうのが一番本来の山登りに近いのかもね。」(P37)
と言われていたこともあって妻鹿には開拓者というイメージを抱いていたし、さらに妻鹿は波多の仕事上のピンチを救ったくらい有能な人物だから、本当にリストラなんて怖くないんだろう、と。
なので波多の言ったことは単なる八つ当たりだと思ってたんですけど、最後の方で妻鹿が社長とひと悶着あって会社を辞めてしまったことが描かれて、やっぱり妻鹿は現実から逃げていただけなのかもしれないと考え直しました。
妻鹿は会社でまとめて申し込む資格試験を受けていたり、生活のために足掻いていたことが明らかになります。
それが分かってからは、妻鹿がバリに出るのは雄大な自然の中に身を置いて「生」を感じるため、というよりむしろ「死んでも構わない」「どうにでもなれ」という自暴自棄に近い思いがあったからなのかな〜と思うようになりました。…アルコールやクスリに依存するような感じ?
一方で、藤木常務から受け継いだボロボロのノートを片手に、ひとりで地道に客先を廻って営業活動をしている姿なんて、開拓者そのもの。
…と考えると、妻鹿がバリ=山に没頭するのは、生活=街に向き合うため?
そう言えば、人間は死を直視することで人生における重大な決断ができるようになる、的なことを昔の哲学者も言ってた気がする。(誰だっけ?)
ひょっとしたら、最初は現実逃避だったのかもしれないけど、山で本物の死を身近に感じるうちに現実の不安と向き合う勇気を得たのかもしれない。
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