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2014年02月14日

キュリー温度

キュリー温度




(キュリー点から転送)

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キュリー温度(―おんど、英: Curie temperature、記号T_{{\mathrm {c}}})とは物理学や物質科学において、強磁性体が常磁性体に変化する転移温度、もしくは強誘電体が常誘電体に変化する転移温度である。キュリー点(―てん、Curie point)とも呼ばれる。ピエール・キュリーより名づけられた。



目次 [非表示]
1 強磁性体のキュリー温度
2 強誘電体のキュリー温度
3 キュリー・ワイスの法則
4 関連項目
5 外部リンク


強磁性体のキュリー温度[編集]

主な強磁性体(*はフェリ磁性体)とそのキュリー温度 (Kittel, p. 449.)


物質名

キュリー温度 (K)

Co 1388
Fe 1043
FeOFe2O3* 858
NiOFe2O3* 858
CuOFe2O3* 728
MgOFe2O3* 713
MnBi 630
Ni 627
MnSb 587
MnOFe2O3* 573
Y3Fe5O12* 560
CrO2 386
MnAs 318
Gd 292
Dy 88
EuO 69

強磁性体におけるキュリー温度は、その温度以上では強磁性の性質が失われる温度(例えば鉄では770℃)である。キュリー温度よりも低い温度では磁気モーメントは磁区の内部で部分的に整列している。温度がキュリー温度へと上昇するに伴い、それぞれの磁区内での磁気モーメントの整列(即ち磁化)は減少する。キュリー温度以上では、物質は純粋な常磁性として振る舞い、磁気モーメントが整列した磁区は消失する(消磁)。

キュリー温度以上の温度領域では、磁場を印加すると磁化に常磁性的な反応が現れる。しかし強磁性と常磁性の交じり合った物質では、磁化には印加磁場の強さに応じたヒステリシス曲線が表れる。キュリー温度での磁化の消失は二次相転移であり、理論的に磁化率が無限大に発散する。この困難を解決するためには、臨界指数を用いることができる。

この効果の応用例は記録メディアの一種である光磁気ディスク (MO) である。光磁気ディスクのデータの消去や書き込みにこの磁性体の特性が用いられている。MO以外にも、ソニーのミニディスクや、一般には普及しなかったCD-MOなどにも応用がされている。

他の使用例としては温度制御があり、Weller社のWTCPTのようにはんだごてや、より一般には温度制御が求められる一部の分野で用いられている。

強誘電体のキュリー温度[編集]

強磁性体との類推により、キュリー温度は強誘電体(圧電物質)が自発分極や圧電特性を失う温度にも用いられる。チタン酸ジルコン酸鉛 (PZT)においては、T_{{\mathrm {c}}}以下では正方晶であり、単位格子の中心には変位した陽イオンがあるため電気双極子をもつ。T_{{\mathrm {c}}}以上では立方晶となり、中心の変位陽イオンはちょうど中心に位置するようになる。よって電気双極子モーメントと自発分極がなくなる。

キュリー・ワイスの法則[編集]

詳細は「キュリー・ワイスの法則」を参照

磁性体においては、キュリー温度以上では、磁化率(帯磁率)をχ、絶対温度をT、キュリー定数をCとしたとき、
\chi ={\frac {C}{T-\theta _{p}}}
という関係が成り立つ。これを、キュリー・ワイスの法則と呼ぶ。ここで\theta _{p}は常磁性キュリー温度などとよばれる。

誘電体でも同様に、誘電率をε、絶対温度をTとしたとき、
\epsilon ={\frac {C}{T-\theta _{p}}}
が成り立つ。このときの\theta _{p}は常誘電性キュリー温度とよばれる。

関連項目[編集]
強磁性体
強誘電体
ピエール・キュリー
キュリーエンジン
ネール温度

フェライト相

フェライト相(ferrite)は、純度100%の鉄において911℃以下の温度領域にある鉄の相(組織)である。この領域において、鉄は体心立方格子構造をとる。αFe、α鉄(アルファてつ)ともいう。ラテン語の鉄『Ferrum』から由来している。

純度100%の鉄において、911℃を超えると、オーステナイトに変化する。この温度をA3点という。

フェライトは、Fe-C状態図において、728℃で最大溶解量0.0218[mass %]までの炭素を固溶できる。この最大溶解量の値が、鉄と鋼の分かれ目となっている。

770℃までは強磁性体である。770℃を超えると常磁性体に変化する。この温度をA2点という。

関連項目[編集]
β鉄
オーステナイト(γ鉄)
デルタフェライト(δ鉄)
パーライト
ソルバイト

地殻

地殻(ちかく、crust)は、天体の固体部分の表層部。マントルの上にあり、大気や海の下にある。

以下では、特に断らない限り、地球の地殻について述べる。



目次 [非表示]
1 地殻の定義
2 地殻の構成元素
3 海洋地殻と大陸地殻 3.1 海洋地殻
3.2 大陸地殻

4 脚注
5 参考文献
6 関連記事
7 外部リンク


地殻の定義[編集]

地球物理学的に言うと、地殻は地上または海底からモホロビチッチ不連続面までの層を指す[1]。地球化学的には、地球表層部に存在し、超苦鉄質岩からなるマントルと対照をなす、珪長質岩、中性岩、苦鉄質岩の層を指す。地球科学書以外の記事では、この「殻」には「地殻」と「リソスフェア」の2通りの呼び方があり、両者がしばしば混同、誤認されている。
地殻地球化学的な観点から地球を深さごとに分けたうち、最も外側に位置するものである。地殻の下に位置するマントルがかんらん岩などの超塩基性岩から成るのに対して、地殻は花崗岩などの酸性岩・安山岩などの中性岩・玄武岩などの塩基性岩から成り、その違いから地殻とマントルを分けている。大陸地殻の厚さは地域変化に富むが、30 - 40kmくらいの地域が多い。他方、海洋地殻はほぼ均一で、6kmくらいである。海洋地域にはごく稀に、地殻が存在せずマントルが直接海底や水面上に露出するメガマリオンと呼ばれる地質構造が存在する。リソスフェアの表層を形成する地殻は、主体をなすマントルと比べ剛性が低い。すなわち「柔らかい」。リソスフェア地球物理学的に定義される地殻と上部マントルの両方にまたがる層である。すなわち、モホロビチッチ不連続面の上部と下部の両方を含む。リソスフェアは、その直下のアセノスフェアマントルと比べて粘性、剛性が非常に高い。一般的な言葉では「硬い」と表現できる。プレートと同義。大陸地域では約120km、海洋地域では約100kmの厚さを持つ。すなわち、大陸地域のリソスフェアは75%がマントル、海洋地域では94%がマントルであり、リソスフェアは主として地殻ではなくマントルから形成されているといえる。その意味で、しばしば「リソスフェア・マントル」 (lithospheric mantle) という用語が用いられる。
地殻の構成元素[編集]

水圏および大気圏を含めた地殻の構成元素の重量比をクラーク数と呼び、このうち岩石圏の主要元素について以下に示す[2]。


元素

割合

O 46.6%
Si 27.7%
Al 8.1%
Fe 5.0%
Ca 3.6%
Na 2.8%
K 2.6%
Mg 2.1%
Ti 0.4%
P 0.1%

海洋地殻と大陸地殻[編集]

マントルは地球規模でほぼ均質であるが、地殻には大陸地殻と海洋地殻の2つの異なる地質構造が存在する。

海洋地殻[編集]

海洋地殻(oceanic crust)は、海底火山の玄武岩質の噴出物等および同種のマグマに由来する斑れい岩質の貫入岩体から構成され、厚さは平均6km程度。大陸地殻と比べ、FeO、MgO を多く含みSiO2が低く、苦鉄質、塩基性である。深海底掘削船「ちきゅう」は海底から深さ7kmまで掘削することができるが、これは地殻を貫通しマントルに到達する目的で設計された。

大陸地殻[編集]

大陸地殻(continental crust)は、30km程度の厚さがある。大陸や日本列島などを構成する地殻である。大規模な山岳地帯ではとくに厚く、チベットでは60〜70kmにおよぶ。これは地殻を構成する岩石の密度が約2.7〜3.0g cm−3でありアイソスタシーが成立しているためである。

多数の岩石の分析結果より推定された大陸性地殻の平均化学組成は、
二酸化ケイ素 SiO2 59.8%
酸化アルミニウム Al2O3 15.5%
酸化カルシウム CaO 6.4%
酸化鉄 FeO 5.1%
酸化マグネシウム MgO 4.1%

であり、塩基性の岩石だけではなく、花崗岩、片麻岩などの SiO2 を多く含む酸性の岩石からも構成される。

大陸地殻の体積は地球全体から見ると非常に小さいが、地球に存在する カリウム40、トリウム232、ウラン235、ウラン238などの放射性元素の約半分が高度に濃集している。またバリウムおよび希土類元素なども地殻に濃縮している。このことはCIコンドライト隕石の組成との比較から言えることであるが、これはカリウムが主に長石に集中しやすく、かつトリウムおよびウランなどはイオン半径および電荷が大きいなどの特殊性から、主にマントルを構成すると考えられるかんらん岩には固溶しにくく排除されやすいためである[2]。

第二次世界大戦以前には、大陸地殻は花崗岩質の「上部地殻(A層)」(シアル, SiAl)と、玄武岩質の「下部地殻(B層)」(シマ, SiMa)に分かれているとされた。大陸地殻下部は海洋地殻につながると考えられ、大陸地殻が海洋地殻の上に浮かんでいるようなモデルが想像されていた。しかし、第二次世界大戦以後の研究で、現在では大陸地殻内にこのような極端な物質境界は存在しないことがわかっている。大陸地殻は水平分布において非常に不均質であるが、大まかに見ると上部は比較的シリカの多い酸性岩(花崗岩質、流紋岩質)が多い傾向にあり、下部はそれよりややシリカの少ない中性岩(閃緑岩質、安山岩質)が多い傾向にある。両者の境界は複雑に入り組んだ一種の漸移動関係とされている。もちろん、大陸地殻下部と海洋地殻は明瞭に異なる地質構造である。

脚注[編集]

[ヘルプ]

1.^ 島津康男 『地球内部物理学』 裳華房〈物理科学選書〉、1966年。
2.^ a b B.メイスン 『一般地球化学』 松井義人・一国雅巳訳、岩波書店、1970年。

参考文献[編集]

[icon] この節の加筆が望まれています。

関連記事[編集]

ウィキメディア・コモンズには、地球の構造に関連するカテゴリがあります。
モホロビチッチ不連続面
地殻中の元素の存在度
ボーリング

カール・ヴィルヘルム・シェーレ

カール・ヴィルヘルム・シェーレ(Karl (または Carl) Wilhelm Scheele、1742年12月9日 - 1786年5月21日)はスウェーデンの化学者・薬学者。酸素をジョゼフ・プリーストリーとは別に発見したことで有名である。金属を中心とする多数の元素や有機酸・無機酸を発見している。現在の低温殺菌法に似た技法も開発していた。

当時スウェーデン領であったポメラニア地方のシュトラールズントに生まれた。14歳で薬剤師の徒弟として働き始め、その後も薬剤師としてストックホルム、ウプサラ、ケーピンなどで働いた。当時の薬剤師は薬品の精製のために化学実験の装置をもっていたため、シェーレも化学に精通していた。多くの大学からの招聘にもかかわらず学者にはならず、ケーピンで没した。シェーレが若死にしたのは同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと考えられている。また彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあたったのではともされる。

酸素と窒素の発見を逃す[編集]

1771年 - 1772年に軟マンガン鉱を濃硫酸に溶かして加熱し、発生した気体を動物の膀胱で作った袋に蓄えた。ろうそくの火にこの気体を吹き付けると明るく輝くことを発見し、濃硫酸 (vitriol oil) の名前から「ビトリオル空気」(後に「火の空気」)と呼んだ。これが今で言う酸素である。酸化水銀(II)や硝石を加熱からも同じ気体を回収している。1773年の時点で実験をすべて完了した。シェーレはこれらの実験結果を「熱は『火の空気』とフロギストンからなり、酸化水銀(II)の実験は熱によって『火の空気』が追い出される現象である」と解釈した。

さらに水素と空気の燃焼実験により、「火の空気」が空気の約1/5の体積を占め、空気の主成分が「火の空気」ともう一種類の気体(窒素)であることも見出した。

シェーレの酸素の研究は、発見こそプリーストリーよりも早かったが、実験結果を著書『空気と火について』(Chemische Abhandlung von der Luft und dem Feuer) にまとめたのが1777年と遅かった。プリーストリーは酸素の発見論文を1775年に王立協会に提出しているため、現在では酸素の発見者はプリーストリーとされる。

シェーレの発見した元素と化合物[編集]
1769年 - 酒石酸の発見
1771年 - 四フッ化ケイ素の発見(蛍石から)
1773年 - 骨灰を原料とするリンの安価な製法を発見
1774年 - バリウムの発見(軟マンガン鉱の不純物として)
1774年 - 塩素の発見(塩酸を二酸化マンガンで酸化)
1774年 - マンガンの発見(軟マンガン鉱から、単離は助手のJ.G.Gahn)
1774年 - アンモニアの合成
1775年 - ヒ酸の発見
1778年 - モリブデンの発見(輝水鉛鉱から)、シェーレグリーン (顔料CuHAsO3)の合成
1779年 - グリセリンの発見(オリーブ油の加水分解生成物から)
1780年 - 乳酸の発見(腐敗した牛乳から)
1781年 - タングステンの発見(灰重石から酸化タングステン(VI)を単離、灰重石を英語でシェーライトと呼ぶ)

このほかクエン酸・シアン化水素(シアン化水素酸の別名をシェーレ酸という)・シュウ酸・フッ化水素・酪酸・硫化水素を発見した。

タスマニア州

タスマニア州(英: Tasmania、略号:TAS)は、オーストラリア本土の南方海上に位置する州である。州都は最大の都市であるホバート。



目次 [非表示]
1 歴史
2 地理
3 気候
4 生物
5 経済
6 交通
7 教育
8 世界遺産
9 近年の出来事
10 タスマニア州を扱った作品
11 参考資料
12 姉妹都市
13 脚注
14 関連項目
15 外部リンク


歴史[編集]

1642年オランダ人探検家アベル・タスマンが到達し、当時のオランダ東インド会社総督ヴァン・ディーメンにちなんで「ヴァン・ディーメンス・ラント」と命名された。後にイギリスからの移住民により、タスマニア島と改名された。この頃はオーストラリア大陸の一部と考えられていた。

1803年にシドニーから最初の植民が行われた。初期の植民者は流刑囚とその看守であり、南東部のポート・アーサーと西海岸のマッカリー・ハーバーが流刑植民地となった。1826年12月3日ニューサウスウェールズ植民地から分離した。オーストラリアの植民地政府としては2番目の古さである。島の原住民タスマニア・アボリジニ(英語版)とは1830年代までブラック・ウォーと呼ばれる戦争を起こしたが、タスマニア・アボリジニたちはフリンダーズ島へ強制移住させられるなど激減し、純血のタスマニア・アボリジニはハンティングの獲物とされたといった悲劇を経て1876年に絶滅している。なお、白人との混血は存続している(w:アボリジニとはだれか)。1901年オーストラリア連邦の成立にともない州となった。

地理[編集]

オーストラリア大陸南東部から240キロ南方海上(オーストラリアの定義では南極海)に浮かぶタスマニア島はバス海峡によって隔てられている。海峡は1〜2万年前の最終氷期には繋がっていた。島は北海道より少し小さめ(約8割)で、起伏の多い地形。原生林などの自然がよく残る。

同州の標準時(オーストラリア東部標準時:(A)EST)はUTC+10時間(日本標準時+1時間)である。夏時間((A)EDT = UTC+11時間)の開始は10月の第一日曜日早朝、終了は翌年4月の第一日曜日早朝である。

オーストラリアで最も山が多く、現在、火山活動は無い。最高地点はオッサ山 (Mount Ossa) の標高1617m。中央高地から海岸に何本も川が流れ、州内の電力需要を賄う。





中央高地
気候[編集]

4つの季節がある。夏は12月から2月で、最高気温は海岸で平均21℃、内陸で17℃から24℃である。秋は3月から5月。天気が変わりやすい。冬は6月から8月で、最高気温は海岸で平均12℃、内陸は雪が多く3℃である。春は9月から11月までだが、10月まで雪が降ることがよくある。熱波が襲った2009年には最高42℃を記録した。年間降水量は西部では海岸の1500mmから雪が多い山地の2700mmへ変化し、人口が多い北部では700mmから1000mmと少ない。東部は日照が多い。

生物[編集]





タスマニアンデビル




ウォンバット
ホワイトワラビー、ハリモグラ、フェアリーペンギン、オットセイ、イルカ、クジラ、アワビが生息、トロワナ・ワイルドライフパークでは初のタスマニアンデビルの繁殖、カンガルー、パディメロン、ウォンバットを見る事ができる。タスマニアンタイガーは絶滅したとみられる。

経済[編集]

伝統的な主要産業は鉱業(銅、亜鉛、錫、鉄)、林業、農業、観光である。1990年代に製造業が衰退し、シドニーやメルボルンに移住する熟練労働者が増えた。政府部門が最大の雇用者である。州民所得はオーストラリア全州で最も低く、州政府の予算はブリスベン市程度の規模しかない。また近年大規模な森林の伐採が行われ、環境破壊が問題となった。2001年以降、経済が飛躍的に回復し、とくに本土や海外からの移住増加もあって住宅価格が上昇した。

交通[編集]

ホバート国際空港は1998年から国際線の定期便運行を停止している。国内のメルボルン、シドニー、ブリスベーン、アデレードを結ぶカンタス航空とその子会社の定期便が運航しており、とくに格安便による最近の旅客増加は国内第二となった。

州政府がデボンポートとメルボルン間にバス海峡を横断する週6便のフェリーを運航している。

島内は高速道路含め道路が整備されている。鉄道は4都市と鉱業・林業のために使われていたが、1977年以降、一部観光地域を除き、旅客サービスが無くなった。





ホバート国際空港




フェリー
教育[編集]
タスマニア大学 (UTAS) : ホバート、ローンセストン

世界遺産[編集]
タスマニア原生地域 - (1982年、複合遺産)

近年の出来事[編集]
1996年4月29日、当時29歳の白人男性が無差別発砲で観光客や住民35名を射殺し、37名に負傷させた。ポートアーサー事件と呼ばれる。
2004年5月14日、タスマニア出身のメアリー・ドナルドソンがコペンハーゲンでデンマーク皇太子フレゼリクと結婚式を挙行した。
2005年5月 - 女性教師が男子生徒らに性的暴行を行ったとして逮捕された。タスマニアの教育界はこの問題で教師のための倫理規則を採用しなければならない状況になった。(オーストラリア連続少年暴行事件)
2009年6月 - タスマニア大学に留学していた26歳の中国人女子学生が、21歳の2人のオーストラリア人男性によって殺害された。その後に行われた追悼集会の最中にも、現地若者から集会に参加していた留学生に対し野次が飛ばされ、留学生の中には帰国する者もでた。

タスマニア州を扱った作品[編集]
映画「タスマニア物語」(1990年、日本)
小説「グールド魚類画帖 Gould's Book of Fish」 リチャード・フラナガン(2001年、タスマニア)
小説「英国紳士、エデンへ行く English Passengers」 Matthew Kneale (2000年、英国)

参考資料[編集]
タスマニア最後の「女王」トルカニニ 松島駿二郎著 草思社

姉妹都市[編集]
日本の旗 焼津市(日本) 1977年から
イタリアの旗 ラクイラ(イタリア)
イタリアの旗 バリーレ(イタリア)

脚注[編集]

1.^ 5220.0 – Australian National Accounts: State Accounts, 2009–10.
2.^ “3101.0 – Australian Demographic Statistics, Mar 2012”. オーストラリア統計局 (2012年9月27日). 2012年10月5日閲覧。
3.^ “LISTmap (Mount Ossa)”. Tasmanian Government Department of Primary Industries and Water. 2007年10月6日閲覧。

紅鉛鉱

紅鉛鉱(こうえんこう、crocoite、クロコアイト)は鉱物(クロム酸塩鉱物)の一種。化学組成はクロム酸鉛(II)(PbCrO4)で、鉛の二次鉱物。単斜晶系。

1766年にエカチェリンブルク付近のベレゾフ鉱山で発見され、その色彩からギリシャ語で「サフラン」を意味する κροκος にちなみ命名された。1770年にペーター・ジーモン・パラスにより、この鉱物が鉛を含むこと及び油絵具の原料に向くことが指摘され、「シベリアの赤い鉛」と呼ばれて珍重された。1797年にフランスのルイ=ニコラ・ヴォークランにより紅鉛鉱からクロムが発見された。

現在はタスマニア島から多く産出する。

関連項目[編集]
鉱物 - クロム酸塩鉱物
鉱物の一覧
クロム、クロム酸鉛(II)

ルイ=ニコラ・ヴォークラン

ルイ=ニコラ・ヴォークラン(Louis-Nicolas Vauquelin 、1763年5月16日 - 1829年11月14日)はフランス・ノルマンディー出身の化学者・薬剤師である。1797年にクロム、1798年にベリリウムを発見した。有機化学の分野でもアスパラギン、リンゴ酸、ショウノウ酸、キナ酸などを発見している。

1783年から1791年までアントワーヌ・フールクロア(w:Antoine Fourcroy、1755年6月15日 - 1809年12月16日)の助手になった。フランス革命中は国外に逃れたが、1794年帰国すると、エコール・デ・ミーヌ(国立鉱山学校)の化学の教授、1809年からパリ大学の教授になった。

フレイヤ

フレイヤ(Freja, Freyja)は、北欧神話における女神の1柱。ニョルズの娘であり、フレイの双子の妹[1]。ヴァナディースとも呼ばれる[2]。

カナ表記はフレイア、フレイアー、あるいはドイツ語風にフライア、フライヤとも。綴りは英語やドイツ語では(専門家以外は)Freyaが多い。他にFreiaなど。

美、愛、豊饒、戦い、そして魔法や死を守護する北欧神話の太母。美しい女性の姿をしており女性の美徳と悪徳を全て内包した女神で、非常に美しく、自由奔放な性格で、欲望のまま行動し、性的には奔放であった。

またフレイヤは月の女神でもある。(『月の魔法』著者:ロリー・リード より)



目次 [非表示]
1 概要
2 関係者
3 財産
4 動物
5 主なエピソード 5.1 愛を司る女神
5.2 豊穣の女神
5.3 死者を迎える女神
5.4 黄金を生み出す女神
5.5 その他

6 人間との関わり
7 脚注
8 参考文献


概要[編集]

フレイヤはヴァン神族の出身であり、ヴァン神族とアース神族の抗争が終了し和解するにあたり、人質として父、兄とともにアースガルズに移り住んだとされている[1]。

関係者[編集]

兄は豊穣神フレイ。父は海神ニョルズ。母はニョルズの妹[3]。夫はオーズ[4][5](おそらくアース神族)。娘はフノス[6][5]、ゲルセミ[5]。愛人にオッタル[7](人間)。

財産[編集]





ニルス・ブロメールによって描かれた、猫が牽く車に乗るフレイヤ。彼女の館はフォールクヴァングといい、その広間セスルームニルは広くて美しいといわれており、そこで戦死者を選び取るとされている[8][9]。
ブリーシンガルの首飾り[10]もしくはブリージンガメン[2]という、神をも魅了する黄金製(もしくは琥珀製)の首飾りを所持している。

動物[編集]
豊饒の女神でもあるフレイヤは動物との関わりも多い。多産な豚は彼女の聖獣である。
移動手段として、2匹の猫が牽く車を持っている[9][11]。ヒルディスヴィーニというイノシシも持っていてこれに乗って移動することもある。愛人のオッタルが変身した姿ともいわれている[12]。
フレイヤ自身も動物に変身することがある。フレイヤは夜になると牝山羊に変身して牡山羊と遊ぶという。他に着ると鷹に変身できる鷹の羽衣をもっており、この羽衣は何度かロキに貸している。

主なエピソード[編集]

愛を司る女神[編集]





フレイヤが小人の洞窟で首飾りを見つける場面。




17世紀の写本『AM 738 4to』に描かれたフレイヤ。
性に関してだらしない点があり、首飾りを手に入れる際も、製作した4人の小人たちに求められるまま、4夜をともに過ごしたとされる[13]。人間や神々の中にも多くの愛人がいたという。特にお気に入りだったのが人間の男性オッタルで、彼を猪に変身させてそれに乗って移動することもあったという。そのためか、夫オーズに離縁されている。

フレイとも関係を持った事があるが、ヴァン神族において近親婚は日常的に行われる。『古エッダ』の『ロキの口論』においても、ロキから、フレイヤが兄と一緒にいるときに神々が乱入したことを指摘されている[14]。

人間が恋愛問題で祈願すれば喜んで耳を傾けるともいわれている[9]。

名前の類似からフリッグ(別名フリーン)と混同されやすい。また、愛の女神という点でウェヌスと同一視される。

豊穣の女神[編集]

兄のフレイと共に豊穣神としてアース神族の最重要神とされる。

霜の巨人からしばしば身柄を狙われている。たとえば、破壊されたアースガルズの城壁の建設を請け負った石工は、正体が山の巨人であったが、報酬として望んだのはフレイヤと太陽と月であった[15][16]。また、巨人スリュムがアース神のトールの持つ最強の武器を盗み、返却の条件として出したのは自身とフレイヤとの結婚であった[17]。巨人フルングニルがヴァルハラ宮内で酒に酔った時は、フレイヤとシヴだけを自分の国へ連れて行き後は皆殺しにするなどと豪語した[18]。

死者を迎える女神[編集]

『古エッダ』や『ギュルヴィたぶらかし』では、戦場で死んだ勇敢な戦士を彼女が選び取り、オーディンと分け合うという記述がある。なぜ彼女が主神と対等に戦死者を分け合うとされているのか、理由ははっきりしていない。戦死者をオーディンの元へ運ぶのはワルキューレの役割であるため、フレイヤが彼女たちのリーダーだからと考える研究者もいる。あるいはフレイヤとオーディンの妻フリッグ(別名フリーン)は同じ女神の別の時期の名前であって2人は同一人物だった可能性もあるという。フレイヤがオーディンの妻ならば死者を夫と分け合うのは不自然なことではない。(詳しくはオーズを参照。)さらに、キリスト教への改宗が進んだ時期にはフレイヤがフリッグの地位を占めるようになっていたとも考えられる。その一例として、アイスランドの首領のヒャルティ・スケッギャソンが999年のアルシングの会場で旧来の神々を冒涜した際に謡った詩は、「2匹の犬つまり淫婦のフレイヤとオーディンを一緒にしろ」という趣旨の、2人の関係をほのめかす内容であった[19]。

女性が死んだ際にフレイヤの元へ迎えられるという伝承もあり、サガにおいて、自殺すると決めた女性が、フレイヤの元で食事するまでは断食を続けると語る場面がある[20]。

黄金を生み出す女神[編集]

『巫女の予言』に登場する女性グルヴェイグの正体は彼女だと考えられている。「グルヴェイグ(Gullveig)」という名は「黄金の力」を意味し[21]、黄金の擬人化、または黄金の力が女性の姿をとった存在だとされている[22]。

フレイヤが行方不明になった夫を捜して世界中を旅する間に流した赤い涙は、地中に染み入って黄金になったとされている[6]。そのため黄金は、フレイヤの名乗った別名から「マルデルの涙」と呼ばれることもある[23]。

その他[編集]

グルヴェイグに関連したエピソードとして、グルヴェイグは「セイズ(英語版)」という魔法を使って人々をたぶらかした[15]が、フレイヤもセイズを使うことができ、オーディンに教えたとされている[24]。セイズの本質は人の魂を操る事にあり、霊を呼び寄せて予言を受けたり、己の肉体から魂を分離して遠くで起きた事を知る事ができたという。セイズの使い手は女性とされ、男性が使う事は不快がられた。オーディンがセイズを使う事に対してロキは女々しいやり方と罵倒している。

行方不明のオーズを探す間にフレイヤは様々な異名を名乗った。たとえばMardöll(マルドル、マルデル)、Hörn(ホルン、ホーン)、Gefn(ゲヴン、ゲフン)、Sýr(スュール、シル)が知られている[2]。

女神ゲフィオン(Gefjun)にはフレイヤとの共通点がみられる。フレイヤの別名の中には「ゲヴン」(Gefn)という、「ゲフィオン」に似た名前がある。またフレイヤが女性の死者を迎えるように、ゲフィオンも処女で死んだ女性を迎えている。山室静は2人を同一神格と考えるには材料が不十分としている[25]が、H.R.エリス・ディヴィッドソン(英語版)は「ゲフン」とゲフィオンが関連していると考えている[26]。

出典のはっきりしないエピソードであるが、ラグナロクが到来する前にフレイヤは「どこかへ行ってしまう」ともいわれている。

人間との関わり[編集]





スウェーデンのストックホルム・ユールゴーデン、ユールゴーズブロン(英語版)にあるフレイヤの像。




J. Penroseによって描かれたフレイヤ。
ウィキメディア・コモンズには、フレイヤに関連するカテゴリがあります。
ドイツ語で「女性」を意味する「フラウ」(Frau)の語源といわれている。
高貴の婦人をフローヴァ(奥方)という尊称はフレイヤからきているという。
第二次世界大戦中にドイツ軍が使用した対空レーダー「フレイヤ」も彼女が由来である。
原子番号23の元素バナジウム(Vanadium)は、同じくこの女神の英名バナジス(ヴァナディース、Vanadis)にちなんで命名された。
1862年に発見された小惑星も彼女にちなんで(76)「フレイア(Freia)」と命名された。同様に、1884年に発見された小惑星には(240)「ヴァナディース(Vanadis)」と命名された。
金曜日(Friday)はフレイヤの日とされる。

脚注[編集]

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1.^ a b 『北欧の神話』122頁。
2.^ a b c 『エッダ 古代北欧歌謡集』252頁(『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』35章)。
3.^ 『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(一)』39頁(『ヘイムスクリングラ』の『ユングリング家のサガ』)。
4.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』11頁(『古エッダ』の『巫女の予言』)。
5.^ a b c 『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(一)』52頁(『ユングリング家のサガ』)。
6.^ a b 『エッダ 古代北欧歌謡集』251頁(『ギュルヴィたぶらかし』35章)。
7.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』212頁(『古エッダ』の『ヒュンドラの歌』)。
8.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』53頁(『古エッダ』の『グリームニルの歌』第14節)。
9.^ a b c 『エッダ 古代北欧歌謡集』245頁(『ギュルヴィたぶらかし』24章)。
10.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』90頁(『古エッダ』の『スリュムの歌』第13節)。
11.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』272頁(『ギュルヴィたぶらかし』49章)。
12.^ 『北欧神話』(デイヴィッドソン)188頁。
13.^ 『北欧の神話』124頁。
14.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』83-84頁。
15.^ a b 『エッダ 古代北欧歌謡集』11頁(『古エッダ』の『巫女の予言』)。
16.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』258-259頁(『スノッリのエッダ』42章)。
17.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』89-92頁(『スリュムの歌』)。
18.^ 『「詩語法」訳注』24-25頁(『スノッリのエッダ』第二部『詩語法』)。
19.^ 『北欧の神話』125-127頁。
20.^ 『北欧の神話』126頁。
21.^ 『エッダ 古代北欧歌謡集』122頁。
22.^ 『巫女の予言 エッダ詩校訂本』168頁。
23.^ 『北欧の神話』127頁。
24.^ 『北欧の神話』55頁。
25.^ 『北欧の神話』171頁。
26.^ 『北欧神話』(デイヴィッドソン)186頁。

参考文献[編集]
H.R.エリス・デイヴィッドソン『北欧神話』米原まり子、一井知子訳、青土社、1992年、ISBN 978-4-7917-5191-4。
V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。
シーグルズル・ノルダル『巫女の予言 エッダ詩校訂本』菅原邦城訳、東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01225-2。
スノッリ・ストゥルルソン『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -(一)』谷口幸男訳、プレスポート・北欧文化通信社、2008年、ISBN 978-4-938409-02-9
谷口幸男「スノリ『エッダ』「詩語法」訳注」『広島大学文学部紀要』第43巻No.特輯号3、1983年。
山室静『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』筑摩書房〈世界の神話 8〉、1982年、ISBN 978-4-480-32908-0。

セメント

セメント (Cement) とは、一般的には、水や液剤などにより水和や重合し硬化する粉体を指す。広義には、アスファルト、膠、樹脂、石膏、石灰等や、これらを組み合わせた接着剤全般を指す。

本項では、モルタルやコンクリートとして使用される、ポルトランドセメントや混合セメントなどの水硬性セメント(狭義の「セメント」)について記述する。



目次 [非表示]
1 歴史
2 種類 2.1 ポルトランドセメント
2.2 混合セメント
2.3 特殊セメント

3 用途
4 安全性
5 セメント産業 5.1 日本のセメントに因む地名

6 脚注・出典
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク


歴史[編集]

セメントの利用は古く、古代エジプトのピラミッドにもモルタルとして使用されたセメント(気硬性セメント)が残っている。水酸化カルシウムとポゾランを混合すると水硬性を有するようになることが発見されたのがいつごろなのかは不明だが、古代ギリシアや古代ローマの時代になると、凝灰岩の分解物を添加した水硬性セメントが水中工事や道路工事などに用いられるようになった[1]。そういった時代には自然に産出するポゾラン(火山土や軽石)や人工ポゾラン(焼成した粘土、陶器片など)を使っていた。ローマのパンテオンやカラカラ浴場など、現存する古代ローマの建物にもそのようなコンクリートが使われている[2]。ローマ水道にも水硬性セメントが多用されている[3]。ところが、中世になるとヨーロッパでは水硬性セメントによるコンクリートが使われなくなり、石壁や石柱の芯を埋めるのに弱いセメントが使われる程度になった。

現代的な水硬性セメントは、産業革命と共に開発され始めた。これには以下の3つの必要性が影響している。
雨の多い季節に建物の表面仕上げをするのに水硬性の漆喰が必要とされた。
海水にさらされるような築港工事などで水硬性のモルタルが必要とされた。
より強いコンクリートの開発。

産業革命時代に急成長を遂げたイギリスでは、建築用のよい石材の価格が上がったため、高級な建物であってもレンガ造りにして表面を漆喰で塗り固めて石のように見せかけるのが一般化した。このため水硬性の石灰が重宝されたが、固まるまでの時間をより短くする必要性から新たなセメントの開発が促進された。中でもパーカーのローマンセメントが有名である[4] 。これはジェームズ・パーカー (James Parker) が1780年代に発明し、1796年に特許を取得した。それは実際には古代ローマで使われていたセメントとは異なるが、粘土質の石灰石を1000-1100℃と推定される高温で焼成し、その塊を粉砕して粉末としたセメントであり、天然の原料をそのまま使っていた。これを砂と混ぜたものがモルタルとなり、5分から15分で固まった。このローマンセメントの成功を受けて、粘土と石灰を人工的に配合して焼成してセメントを作ろうとする者が何人も現れた。

イギリス海峡の三代目エディストン灯台の建設(1755年 - 1759年)では、満潮と満潮の間の12時間で素早く固まる上に、ある程度の強度を発揮する水硬性モルタルを必要とされた。この時土木工学者のジョン・スミートンは生産現場にも出向き、入手可能な水硬性石灰の調査を徹底的に行ったことで石灰の「水硬性」は原料の石灰岩に含まれる粘土成分の比率と直接関係していることに気づいた。しかし土木工学者のスミートンはこの発見をさらに研究することはなかった。この原理は19世紀に入ってルイ・ヴィカーにより再発見されたが、明らかに彼はスミートンの業績を知らなかったと思われる。1817年、ヴィカーは石灰と粘土を混合し、それを焼成して「人工セメント」を生産した。ジェームズ・フロスト[5]はイギリスで「ブリティッシュセメント」と呼ばれるほぼ同じ製法のセメントを同時期に開発したが、特許を取得したのは1822年だった。1824年、イギリス・リーズの煉瓦積職人ジョセフ・アスプディンが同様の製法について特許を取得し、これを「ポルトランドセメント」と称した。このポルトランドセメントは今日のセメントの主流であり、単にセメントと言った場合このポルトランドセメントを指すことが多い。ポルトランドセメントのスペルは、Portland cementであり、アスプディンはイギリス人であり、イングランドのポートランド島特産の石灰石の色調ににていたことから、Portland cementと命名された。

これらの製品は石灰とポゾランによるコンクリートに比べると、固まる時間が早すぎ(施工可能な時間が不十分)固まった直後の強度が不十分だった(型枠を外すのに数週間かかる)。天然セメントも人工セメントも、その強度は含有するビーライト(Ca2SiO4)の比率に依存する。ビーライトによる強度は徐々に高まっていく。1250℃以下で焼成されているため、現代のセメントで素早く強度を発揮するエーライト(Ca3SiO5)を含んでいない。エーライトを常に含有するセメントを初めて製造したのは、ジョセフ・アスプディンの息子ウィリアム・アスプディンで、1840年代のことである。こちらが今日も使われているポルトランドセメントと同じものである。ウィリアム・アスプディンの製法には謎があったため、ヴィカーやI・C・ジョンソンが発明者だとされていたが、ウィリアムがケントのノースフリートで作ったコンクリートやセメントに関する最近の調査[6]で、エーライトをベースとしたセメントであることが判明した。しかしウィリアム・アスプディンの製法は「大雑把」なもので、現代的セメントの化学的基盤を確立したのはヴィカーと言っていい。またジョンソンは、混合物を窯の中で焼成することの重要性を確立した。

ウィリアム・アスプディンの行った改良による製法では(父が集めるのに苦労していた)石灰をより多く必要とし、窯の温度もより高くする必要があり(そのため燃料も多く消費する)、出来上がったクリンカーは硬すぎて石臼がすぐに磨り減ってしまうという問題があった(当時、クリンカーを粉にする方法は石臼しかなかった)。このため製造コストがかなり高くなったが、その製品は適度にゆっくり硬くなり、固まると即座に強度を発揮するもので、製造過程にデメリットがたくさんあっても用途が格段に広がった。1850年代以降、コンクリートが建築にどんどん使われるようになり、セメントの用途のほとんどを占めるようになった。

日本では、幕末の頃に高価なフランス製のポルトランドセメントを輸入したのが最初とされる。 1875年(明治8年)、日本で最初の官営セメント会社である深川セメント製造所にて、当時の工部省技術官宇都宮三郎がポルトランドセメントの製造に成功した。その後、1884年にこの工場は民間に払い下げとなり、日本セメント(現在の太平洋セメント)となった。また、1881年には山口県小野田市に、民営セメント工場として最初のセメント製造会社小野田セメント(現在の太平洋セメント)が誕生した。当時の生産高は両工場で月産約230t程度であった。

種類[編集]

セメントは、「ポルトランドセメント」、ポルトランドセメントを主体として混合材料を混ぜ合わせた「混合セメント」、その他の「特殊セメント」の3つに大別される。

ポルトランドセメント[編集]

「ポルトランドセメント」を参照

ポルトランドセメントには、用途に合わせた品質・性質の異なる種類がある。一般的な工事・構造物に使用される「普通ポルトランドセメント」、短期間で高い強度を発現する「早強ポルトランドセメント」、水和熱が低い「中庸熱ポルトランドセメント」、セメントよりも白色である「白色ポルトランドセメント」が主な種類である。

混合セメント[編集]
高炉セメント製鉄所の銑鉄製造工程である高炉から生成する副産物である高炉スラグの微粉末とポルトランドセメントを混合したセメントである。セメントの水和反応で発生した水酸化カルシウムなどのアルカリ性物質や石膏などの刺激により水和・硬化する性質がある。初期強度は普通ポルトランドセメントよりも低いが、この性質により長期にわたって強度が増進し、長期強度は普通ポルトランドセメントを上回る場合もある。海水や化学物質に対する抵抗性に優れ、港湾やダムなどの大型土木工事に使用される。JISでは JIS R 5211 で規定され、高炉スラグの分量により A種 (5-30%)、B種 (30-60%)、C種 (60%-70%) に分類される。ドイツでは20世紀の初頭から製造され、日本では八幡製鐵所で1913年(大正2年)に製造されたのが始まりである。シリカセメント二酸化珪素(シリカ)を60%以上含む天然のシリカ質混合材とポルトランドセメントを混合したセメントである。耐薬品性を要する化学工場に使用される。JISでは JIS R 5212 で規定されている。現在ではほとんど生産されていない。フライアッシュセメントフライアッシュ(火力発電所で発生する石炭の焼却灰)とポルトランドセメントを混合したセメントである。球形のフライアッシュを混合するため、このセメントを使用するコンクリートは流動性が改善されワーカビリティに優れる。また、フライアッシュに含まれる二酸化ケイ素が水和反応によって生じた水酸化カルシウムと反応(ポゾラン反応)し、緻密で耐久性に優れたケイ酸カルシウムの水和物を発生させる。そのため水密性があり、港湾やダムなど水密性が要求される構造物で使用される。JISでは JIS R 5213 で規定され、フライアッシュの分量により A種 (5-10%)、B種 (10-20%)、C種 (20-30%) に分類される。日本では宇部興産で1956年(昭和31年)に製造されたのが始まりである。
特殊セメント[編集]
アルミナセメントアルミニウムの原料であるボーキサイトと石灰石から作られる、酸化アルミニウム(アルミナ)を含むセメントである。練混ぜた後すぐに強い強度を発揮し、耐火性・耐酸性がある。緊急工事や寒冷地での工事、化学工場での建設工事、耐火物などに使用される。
用途[編集]

ポルトランドセメントと混合セメントは、土木・建築用のコンクリートやモルタルの材料として使用される。

セメントに水を練り混ぜたものはセメントペーストと呼ばれ、それに細骨材(砂)を加えたものがモルタルである。モルタルに粗骨材(砂利)を混ぜあわせたものはコンクリートと呼ばれる。モルタルやコンクリートは化学混和剤を添加し、さらに、空気量も適度に確保するように考慮して設計・製造される。

安全性[編集]

セメントは、水と反応すると水酸化カルシウムを発生させ、強いアルカリ性を示す性質がある。そのため、目や鼻、皮膚に対して刺激性、溶解性があり、硬化前のセメントが付着した状態が続くと目の角膜や鼻の粘膜、皮膚に炎症や出血が起きる可能性がある(セメント皮膚炎)。完全に硬化した後のセメント(モルタル・コンクリート)の場合は水酸化カルシウムは二酸化炭素と反応し中性の炭酸カルシウムとなっているので、炎症を引き起こす可能性は多くの場合ない。

セメントの粉塵は平均粒径が10μm程度の微粉末であるため発塵性があり、多量のセメントを吸引すると塵肺になる可能性がある。また、セメントは高温で焼く製造過程で、原料中の三価クロムが六価クロムに変化し、微量にこれを含んでいる。

セメント産業[編集]

セメント製造量の上位5か国は、順に中華人民共和国、インド、アメリカ合衆国、日本、大韓民国である。また、ラファージュ(フランス)、ホルシム(スイス)、セメックス(メキシコ)、ハイデルベルグセメント(ドイツ)、イタルチェメンティ(イタリア)の大手セメントメーカー5社は「セメントメジャー」と呼ばれる。

[icon] この節の加筆が望まれています。

日本のセメントに因む地名[編集]





「セメント町」の町名標山口県山陽小野田市セメント町 - 小野田セメント(現・太平洋セメント)の創業の地であることに由来。
大分県津久見市セメント町 - 太平洋セメントの工場があることに由来。
神奈川県川崎市川崎区セメント通り - 浜町3・4丁目地内を神奈川県道101号扇町川崎停車場線から産業道路へ抜ける道の名称。産業道路の先の浅野町に太平洋セメントの前身の一つである浅野セメント工場があったことに由来する。

脚注・出典[編集]

1.^ Hill, Donald: A History of Engineering in Classical and Medieval Times, Routledge 1984, p106
2.^ PURE NATURAL POZZOLAN CEMENT
3.^ Aqueduct Architecture: Moving Water to the Masses in Ancient Rome
4.^ A J Francis, The Cement Industry 1796-1914: A History, David & Charles, 1977, ISBN 0-7153-7386-2, Ch 2
5.^ Francis op. cit., Ch 5
6.^ P. C. Hewlett (Ed)Lea's Chemistry of Cement and Concrete: 4th Ed, Arnold, 1998, ISBN 0-340-56589-6, Chapter 1

パルテノン神殿

パルテノン神殿(希: Παρθενών, ローマ字: Parthenon)は、古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシア神話の女神アテーナーを祀る神殿(en)。紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われた。パルテノン神殿はギリシア古代(en)建築を現代に伝える最も重要な、ドーリア式建造物の最高峰と見なされる。装飾彫刻もギリシア美術の傑作である。この神殿は古代ギリシアそして民主政アテナイ(en)の象徴であり、世界的な文化遺産として世界遺産に認定されている。

神殿は完全な新築ではなく、この地には古パルテノン(en)と呼ばれるアテーナーの神殿があったが、紀元前480年のペルシア戦争にて破壊された後に再建され、当時あった多くの神殿と同様にデロス同盟、そして後のアテナイ帝国の国庫として使われた。6世紀にはパルテノン神殿はキリスト教に取り込まれ、生神女マリヤ聖堂となった。オスマン帝国の占領(en)後の1460年代初頭にはモスクへと変えられ、神殿内にはミナレットが設けられた。1687年9月26日、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿はヴェネツィア共和国の攻撃によって爆発炎上し、神殿建築や彫刻などはひどい損傷を受けた。1806年、オスマン帝国の了承を得たエルギン伯(en)は、神殿から焼け残った彫刻類を取り外して持ち去った。これらは1816年にロンドンの大英博物館に売却され、現在でもエルギン・マーブルまたはパルテノン・マーブルの名で展示されている。ギリシア政府はこれら彫刻の返却を求めているが、実現には至っていない[1]。ギリシア文化・観光庁(en)は、パルテノン神殿の部分的な破壊の修復や保全など、後世に伝えるための再建計画を実行している。

パルテノン神殿のある丘の下の方は、世界ラリー選手権(WRC)の一戦、アクロポリス・ラリーのスタート地点としても有名である。



目次 [非表示]
1 呼称
2 建設
3 彫刻 3.1 メトープ
3.2 フリーズ
3.3 ペディメント 3.3.1 東ペディメント
3.3.2 西ペディメント

3.4 アテーナー・パルテノス像

4 古パルテノン
5 役割
6 その後の歴史 6.1 ヘレニズム影響下のパルテノン
6.2 キリスト教会堂
6.3 オスマン朝のモスク
6.4 爆破
6.5 ギリシアの独立
6.6 マーブル返還問題

7 再建
8 関連項目
9 出典 9.1 文献
9.2 オンライン資料

10 脚注
11 読書案内
12 外部リンク


呼称[編集]

「パルテノン」の名称はギリシア語の「παρθενών」(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという[2]。ただし、その部屋がどこか、また何故そのように呼ばれたのかという点には諸説ある。古典ギリシア語辞典 (LSJ) では、この部屋は西の房にあったと言い、ジェフリー・M・ヒューイットは、パンアテナイア祭(en)でアレフォロス(en)[3]が仕立てたペプロスをアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた[4]。クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)(en)への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した[5]。この考えによれば、「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる[6]。「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し[7]、特に野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「parthénos」(ギリシア語: παρθένος)[8]が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である[9]。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の人身御供にされたことに関連すると指摘した意見もある[10]。

この建造物全体を「パルテノン」と形容する最初の例は、紀元前4世紀の演説者デモステネスに見られる。ただし5世紀の例では、ただ単に「ho naos」(the temple‐「神殿」)と呼ばれた。建築家のムネシクレス(en)とカリクラテスは、今は失われた文書でこの建築物を「ヘカトンペドス」(Hekatompedos, the hundred footer‐「百足」)と呼んでいた[要出典]。1世紀にプルタルコスは「ヘカトンペドン・パルテノン」と表記し[11]、4世紀以降にはヘカトンペドス、ヘカトンペドン、パルテノンの呼称がそれぞれ使われた。

建設[編集]





パルテノン神殿の間取り図
現在のパルテノンに当たる聖域にアテーナー・パルテノスを祀った神殿を建てようという最初の尽力は、マラトンの戦い(紀元前490年‐紀元前488年)が終わった直後に始められた。アクロポリスの丘の南側に、強固な石灰岩の基礎が敷き並べられ、アテーナー・ポリアス(都市の守護神アテーナー)の古風な神殿の建設が始まった。しかし、この古パルテノン(en)と言及される建築物は紀元前480年にアケメネス朝が侵攻しアテナイの都市を破壊し尽くした時も未だ建設途上にあった[12][13]。

紀元前5世紀中頃、デロス同盟が成立した時にはアテナイは当時の文化的な中心を担っており、政権を掌握したペリクレスは野心的な建築計画を立案した[14]。アクロポリスの丘に現存する重要な建築物であるパルテノン神殿やプロピュライア、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿は当時に建立されたものである。パルテノン神殿は彫刻家ペイディアス(フィディアス)指導のもと建設され、彫刻装飾も彼の手で施された。建築家イクティノスとカリクラテスが[15]紀元前447年に施工を開始し、紀元前432年にはほぼ完了したが、装飾の製作は少なくとも紀元前431年までは継続されていた。

パルテノン神殿建設への支出明細が一部残っており、それによるとアテナイから16km離れたペンテリコン山(en)[16]から切り出した石材 (大理石)が使われて、アクロポリスまでの運送に多額の経費が掛かった。この資金の一部には、紀元前454年にデロス島からアクロポリスに移されたデロス同盟の宝物が宛がわれた。

ドーリア式を伝える神殿で、現存するものの中ではヘファイストス神殿(en)が最も往時の形を残しているが、建設当時のパルテノン神殿は最高峰の建築だった。ジョン・ジュリアス・クーパー(en)は、「(パルテノン神殿は)今まで建設された全ての中で無二のドーリア式建築物という評に浴している。古代のものでありながら、その建築にそなわる気品は伝説的でもあり、特にスタイロベートの湾曲、テーパがつけられたナオス(本殿)(en)の壁、エンタシスの円柱などが巧みな調和を醸している。」と評した[17]。「エンタシス」とは、上に向かうにつれ大きくなる円柱のわずかな膨らみを指し、パルテノン神殿のそれは先例の葉巻のような形状に比べれば変化は少ない。円柱が立つスタイロベートは、他のギリシア神殿と同様に[18]ほんの少し上に凸の放物線状の形をなしており、これは雨を排水する意図が盛り込まれている。この形からすると円柱上部は外向きに開いているのではと思いがちだが、実際には内側へわずかに傾いて立てられている[19]。柱はどれも同じ長さをしており、そのためアーキトレーブや屋根もスタイロベート上部と同様な湾曲があり、ゴーハム・スティーブンスは神殿の西側前面が東側よりもわずかに高くなっている点と併せて「全てが繊細な曲線を構築する規則に従っている」と指摘した[20]。このような設計に含まれた意図について、「光がもたらす気品」を狙ったという説もあるが、一種の「錯覚による逆説的効果」を狙ったと考えられる[21]。2本の平行線を描く柱を見上げた時、梁などの水平部分がたわんでいるか両端が曲がっているかのように見え、神殿の全景を概観すると、まるで天井や床が歪んでいる錯覚を覚えてしまう事をギリシア人は意識していた可能性がある。これを避け、神殿が完全に見えるように設計者はわざと曲線を加え、錯覚を補う意図があったものと考えられる。そして、直線だけで構成された単純かつ凡百の神殿と差別化する躍動感をパルテノン神殿に与えたという説もある。

パルテノン神殿などアクロポリスの建造物には、黄金比に基づいて建設されたものが複数存在するという研究報告がある[22]。パルテノン神殿の正面全貌は各要素ともども黄金長方形で囲われている[23]。この、設計に黄金比が用いられた事象についてはさらに近年研究が進んでいる[24]。

スタイロベートを測定した結果から、パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m(228.0フィート)、幅30.9m(101.4フィート)である[25][26]。胞室(en)は長さ29.8m(97.8フィート)、幅19.2m(63.0フィート)であり、内部には屋根を支える2列の柱が立てられている。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m(6.2フィート)、高さ10.4m(34.1フィート)であり、四隅の円柱は若干大きい。柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。この際、威容を持たせるため正面の柱が通常6本のところ8本にされたとの説もある[27]。スタイロベートは東西の端で60mm(2.36インチ)、南北で110mm(4.33インチ)上向きに湾曲している。屋根は大きな大理石の平瓦と丸瓦(en)で葺かれている。

パルテノン神殿に使われる石材は、円柱のドラム1個当たりが5-10トン、梁材は15トン程度の重量であった。これらは高い加工が施され、例えば円柱ドラムの接合面にある凸凹は1/20mm以下に抑えられ、面接合の密着精度は1/100mm以下であり、エジプトのピラミッドのように調整用モルタルは使われていない。この精度は、検査用の塗料を塗った円盤を用意し、接合面と円盤を摺り合わせて凸面を検出し磨く作業を繰り返して実現した[28]。石材の吊り上げには滑車と巻き上げ装置を備えたクレーンが実用化されており、これに対応するため石材にも吊り上げ時に綱を引っ掛ける突起や溝をつける加工が行われた[28]。

彫刻[編集]





アクロポリスの再建とアテナのアレイオス・パゴス、レオ・フォン・クレンツェ画、1846年




南側から見たパルテノン神殿。手前には大理石の平瓦と丸瓦があり、再建用に木枠の上に仮組みされた様子が見られる
ローマの六柱式(en)そして周柱式(en)を持ち、イオニア式の建築様式も備えるドーリア式神殿であるパルテノン神殿には、ペイディアスが製作し紀元前439年か翌年に献納されたアテーナー・パルテノスのクリスエレファンティン(彫像)(en)があった。当初、装飾の石の彫刻には彩色が施されていた[29]。神殿がアテーナーを奉るようになったのはこの頃からであるが、建設そのものは紀元前432年のペロポネソス戦争勃発の頃まで続いた。紀元前438年までには外側の列柱上にある小壁と胞室上の壁の一部にあるイオニア式小壁にドーリア式の彫刻装飾が施された。これらの彫刻は神殿を豪華に飾り、宝物庫としての役割にふさわしさを与えた。胞室の奥にあるオピストドモス (opisthodomus) と呼ばれる部屋にはアテナイを盟主とするテロス同盟が拠出した宝物が納められた。

メトープ[編集]





西側のメトープ。作成されてから2500年を経て、戦争、汚染、不充分な保全、略奪そして破壊を受け現在に至る。
パルテノン神殿には72枚の高浮かし彫りメトープ(長方型の彫刻小壁[30])(en)がある。この様式は従来、神に捧げる奉納の品を納める建物にのみ用いられていた。建築記録によると、これらは紀元前446年から440年の間に製作されたとあり、彫刻家のカラミス (Kalamis) がデザインしたと考えられる。パルテノン神殿正門玄関の上に当たる東側のメトープは、オリンポスの神々が巨人と戦ったギガントマキアーを主題としている。同様に、西端のメトープはアテナイ人とアマゾーンの戦い(en)、南側はラピテース族がテーセウスの助けを受けて半人半獣のケンタウロスと繰り広げた戦い(en)がモチーフとなっている。北面の主題は「トロイアの落城」である[31]。

メトープの13番から21番は失われてしまったが、1674年にフランスのトルコ大使ノワンテル侯爵に随行した画家のジャック・カレイ(en)[32]が描いた絵があり、アテナイ初期の神話などにあるラピテース族の結婚にまつわる伝説が描かれている[14][33]。保存状態が悪い北面のメトープには、イーリオスの陥落の故事が彫られたと思われている。

メトープは、身体運動を筋肉でなく輪郭で制限している戦士の表情や、ケンタウロスの伝説(en)像において静脈まで忠実に表現した様を分析した結果から、厳格様式(en)を現在に伝えるものと判断された[14]。神殿に残されたメトープは北側のものを除きどれも酷く痛んでしまった。外されたものはアクロポリス博物館や大英博物館、ルーヴル美術館[14]に保管されている。





ローレンス・アルマ=タデマ画『フェイディアスとパルテノン神殿のフリーズ』1868年[34]
フリーズ[編集]

パルテノン神殿が持つ最も特徴的な装飾は、胞室の外壁を取り囲むイオニア式のフリーズである。これら浅い浮かし彫りのフリーズは、入れられた日付によると紀元前442年から紀元前438年に据えられた。

ある解釈によると、これはケラメイコスにあるデイピュロンの二重門 (Dipylon Gate)を出発しアクロポリスまで行進するパンアテナイア祭 (en)の様式化された姿を写したと言われる。この祭りは毎年開かれたが、特別な大祭が4年に1度催され、その際にはアテナイ人に外国人も加わり女神アテーナーへ生贄と新調されたペプロス(高貴な家柄から選ばれた「アレフォロス」と呼ばれる7-11歳の少女2-4人を中心に、「エレガスティナイ」と呼ばれる年長の少女たちが手助けし9ヶ月かけて織られたドレス)の奉納が行われた[3]。

最近、ジョーン・ブルトン・コネリー(en)が異なる解釈を提案した。これによると、フリーズのテーマにはギリシア神話が基礎にあり、エレクテウス(en)の最も年少の娘パンドーラーがアテーナーへ捧げられる故事を描いたという解釈を試みている。この人身御供の描写は、エレウシスの王エウモルポス(en)がアテナイを攻めるため軍を集結した際、都市を守護するアテーナーの求めがあったと考えている[35]。

ペディメント[編集]

2世紀の旅行者パウサニアスは、アクロポリスを訪れた際に見たパルテノス神殿について、女神の金と象牙の像を書きつつ、ペディメント(切り妻型屋根の破風部)の短い記録も残した。

ペディメントの製作は紀元前438年から紀元前432年わたって行われた。これらパルテノン神殿の彫刻はギリシア古典芸術の傑作であり、剥き出しの、または薄いキトンを通してなお明瞭に体躯を感じ取らせつつ、脈々と表現された筋肉によって描き出された活力みなぎる肉体の自然な動きを表現している。神々と人間の区別は、理想主義と自然主義のふたつを概念的に相互作用させる中でぼやかされつつ、彫刻家の手によって石に刻み込まれた[36]。しかし、このペディメントは現在に伝わっていない。





現在も見られる東ペディメントの一部
東ペディメント[編集]

神殿の正面に当たる[19]東ペディメントには女神アテーナーがゼウスの頭部から誕生した物語を描写する。ゴロシア神話によると、激しい頭痛に悩まされたゼウスが苦痛を和らげるために火と鍛冶の神ヘーパイストスに命じて槌で頭を叩かせた。するとゼウスの頭が裂け、中から鎧兜を纏った女神アテーナーが飛び出した。この情景を東ペディメントは描写している。

この東ペディメントは教会に転用された際に改築のため破壊されていたが[19]、1674年にジャック・カレイ(en)が写生を残していた。そして、再建時はこれを元に推測や想像が加えられた。アテーナー誕生の出来事では、ゼウスとアテーナを中心に、ヘーパイストスやヘーラーなど主だったオリンポスの神々が周りを取り囲んでいなければならず、カレイの絵を中心に南北に配列を加えて再建が行われた[37]。

西ペディメント[編集]

プロピュライア(正門)に面する西ペディメントは、アテーナーとポセイドーンが都市の守護者たる立場を争った姿が表現されている。二柱の神は中央で対峙し、反らせたお互いの体躯を中心に対称を成す。向かって左の女神はオリーブの枝を、右の海神は地球を打ち据える三叉の槍をそれぞれ手に持ち、チャリオットを牽く荒々しい馬と、アテナイ神話の個性を備えた軍団が従いながら、破風の鋭角な面を埋めている[38]。

アテーナー・パルテノス像[編集]

ペイディアス作と判明しているパルテノン神殿の彫像は、唯一ナオス(本殿)に納められたアテーナー像だけである[39]。これは大きな金と象牙の彫像であったが現在は失われ、その写しや壷の絵、宝石のカット、硬貨の意匠および文章で表現された内容しか残っていない。

古パルテノン[編集]

アテネのアクロポリス神域の開闢は非常に古く、新石器時代に遡る築壁、ミケーネ時代の城壁跡が発見されている[19][1]。ここへアテーナー・パルテノスの聖域を設けようという試みは、マラトンの戦い(紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われた。これは、いつ作られたか定かでないオリーブの木で彫られたアテーナー・ポリアスの像[40]を祭った古風な神殿の横にあったヘカトンパイオン(100フィートの意味)という建物を取り替えて建てられた。この「古パルテノン」と言える神殿は紀元前480年にアケメネス朝ペルシアがアテナイを占拠し際にアクロポリス全体とともに完全に破壊されるが、その時点で未だ建設中だった[19]。この古パルテノンの建築と破壊はヘロドトスも伝え[41]、円柱の一部はエレクテイオン北側の幕壁に、眼に見える形で流用された。1885年から1890年にかけて、Patagiotis Kavvadiasが行った調査で古パルテノンの遺構が見つかり、存在が確認された。ヴィルヘルム・デルプフェルト(en)が主導し、ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) が指揮を執ったこの発掘では、デルプフェルトが「パルテノンI」と呼ぶ元々の古パルテノンの基礎部分が、現在のパルテノン神殿とずれた位置にあることを発見し、従来の定説に訂正を加えた[42]。デルプフェルトの調査によると、古パルテノンは3段の基礎があり、2段は土台と同じポロス島の石灰岩が用いられているのに対し最上段はKarrhaの大理石が使われ、これは後に覆われペリクレス時代のパルテノン神殿の基礎段となった。ただしこれは規模が小さく北方向にずれており、現在のパルテノン神殿が旧来の建物をすっぽりと覆いつつ全く新たに建設された事を示す。発掘に関する最終報告ではより複雑な図が示され、この基礎が執政官キモン時代の壁と同じ時代のものであり、それらは古パルテノン建設後期のものである可能性を示した[43]。

古パルテノンが紀元前480年に破壊されたのならば、再建されるまで33年もの間崩れたまま放置されていたのか疑問が持たれた。これについて、紀元前479年のプラタイアの戦いを前に行われた「ペルシア人の暴虐を忘れないために、破壊された聖域は再建しない」というギリシア同盟による宣誓が影響する合意があった[19][44]。紀元前450年のカリアスの和約成立でアテナイ人はこの宣誓を無効にすることができた[19][45]が、それまで再建に取り掛かれなかった理由には、ペルシアの侵攻に抗っていたため財政的余裕が無かったというありふれた背景もあった。しかし、バート・ホッジ・ヒルが行った発掘から、キモン在任の紀元前468年以降の時代には「2つ目のパルテノン(パルテノンU)」が存在したと考えられる[46]。ヒルの主張では、デルプフェルトが発見した「パルテノンI」最上段に当たるKarrha大理石は、「パルテノンU」3段の1番下に当たり、その基壇が敷設された面は23.51×66.888m(77.13フィート×219.45フィート)になると計算した。

1885年の発掘では、掘り起こし手段が慎重さに欠けた上にリファイリングも雑だったため多くの重要な証拠が失われてしまい、考古学の順序だて法(en)では古パルテノンの時代認定は明瞭にできなかった。1925年から1933年にかけて、B.グラーフとE.ラングロッツはアクロポリスから出土した陶器の破片を研究し、2巻の論文を著した[47]。これに影響されたアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムーア(en)は、神殿基盤の年代特定と、アクロポリスの盛土の下に隠されていた5つの壁に関する研究を発表した。ディンスムーアは「パルテノンI」の建設年を最も早くとも紀元前495年とし、デルプフェルトの考えと矛盾する結論を導いた[48]。さらにディンスムーアは、デルプフェルトが定義したペリクレス時代の「パルテノンU」以前に神殿は2つあったと主張した。1935年の『American Journal of Archaeology』にて、ディンスムーアとデルプフェルトの2人は意見を交換し合っている[49]。

役割[編集]

古代において、宗教的建造物は高台に立てられることが多く、それは権威を高める効果をもたらした。パルテノン神殿はその典型と言え[50]、アクロポリスの丘からは紀元前8世紀頃の青銅製トリポット等奉納品が出土し、同じく出土した碑文から紀元前6世紀頃には青銅や大理石の奉納像が据えられていた[19]。紀元前5世紀における再建は、当時ペルシャへ対抗するギリシア諸都市国家の中核を占めるアテナイの威信を知らしめす役割を担ったものだった[31]。この思想は、神殿の中心に信奉する女神アテナを置き、その四方に異民族や化物ら野蛮な周辺部族を制圧するモチーフを配した全体の構図に表され、ギリシア的支配構造とアテナイの優位性を象徴している[31]。

そして、パルテノン神殿は対ペルシア戦勝記念の性格も持ち、バルバロイに対するギリシアの勝利を記念する機能もあった[14]。西側メトープのアマゾネスとの戦いは過去から使われるアクロポリスでは一般的なモチーフだが、パルテノン神殿のそれは攻め込むアマゾネスからアテナイを防衛する情景が描かれている。その他の彫刻類も様々な神話上の敵との戦いを描き、これらは異民族であるペルシアとの戦闘と文明たるギリシアの勝利を象徴している[40]。

その一方で、必ずしも現代的な用語「神殿」で想起される機能だけを担っていた訳ではない[51]。建物内に小さな建屋を備えて古来からのアテーナー・エルガネ (Athena Ergane) を祀る聖域[51]が発見されても、都市の守護者アテーナー・ポリアス (Athena Polias) の崇拝の場では無く、ペプロスを着てオリーブのクソアノン(en)を持つ女神の宗教的イメージはアクロポリス北側の古い祭壇で祀られた[52]。そして、パルテノン神殿は本質的に宝物庫として利用された。





ヴァルヴァキオン・スクール(en)近郊で発見された、アテーナーの奉納像。2世紀頃のローマ時代のアテーナー・パルテノス像を再現していると思われる。 アテネ国立考古学博物館蔵
ペイディアスが奉納した巨大なアテーナー像もまた、崇拝の対象ではなく[53]、いかなる宗教的な盛り上がりも記録されていない[52]。いかなる司祭も祭壇も無く、礼賛する名称も無い[54]。トゥキディデスによると、ペリクレスはこの像を「金の蓄え」と呼び、「移動可能な40タレントの純金を含む」と言ったと伝える[55]。アテナイの政治家は、金は当時の鋳造技術でいつでも取り出すことができ[56]、その行為は別に信心に反するものではない[54]とほのめかした。ただし、このアテーナー像は甲冑を脱ぎ、左手はよもや盾を掲げず下げたままに任せながら、右の掌に勝利の女神ニーケーを載せている。これは勝利で終えた戦いを象徴し、戦勝記念の一環である要素が反映している[40]。

このような点は、パルテノン神殿がただの崇拝の対象や戦勝の記念だけでなくペイディアスが奉納したアテーナー像の壮大な収納殿と見なすべき点もある[40][57]。そして同時に、紀元前454年にデロスからアテナイへ移されたデロス同盟の基金を保管する部屋も備え、国庫という機能も持った。

その後の歴史[編集]

ヘレニズム影響下のパルテノン[編集]

紀元前4世紀に入ると、アテナイはアレクサンドロ大王のマケドニア王国によるヘレニズム文化の影響下に入る。ギリシア文化を後継したヘレニズム時代の王たちは、パルテノン神殿を尊重しつつも自らの王位を権威づける場として用いた。紀元前1世紀にベルガモン国王は神殿に彫刻群を奉納したが、その中にはガリア人との戦いを描いたものが含まれていた。さらに後のローマ皇帝ネロのパルティア戦争をモチーフとした彫刻がアテナイ人によって加えられた。これらは、ヘレニズムやローマ帝国がギリシアの後継者たることを知らしめる目的を持っていたが、それゆえにパルテノン神殿は保たれる結果に結び付いた[58]。

ペルシア撃退を記念したパルテノン神殿だが、その後のゲルマン人侵入による被害を受ける事もあった。アテナイは267年にヘルリア族、396年には西ゴート族に包囲されたが、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けた。その後、ローマ皇帝の命で神殿は修復されるが、それは旧来の姿へ完全に戻すものではなく、屋根は部分的にしか架けられず、柱もヘレニズム的なものへ変わった[58]。

キリスト教会堂[編集]





パルテノン神殿の夜景
この後の東ローマ帝国時代、パルテノン神殿はその機能を大きく変ずることになる。5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像がキリスト教信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる[59]。そして6世紀から7世紀頃[58]、神殿は童貞女マリヤ聖堂に変えられ、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ4番目に重要な巡礼地となった[60]。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた[58]。1018年にはバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した[60]。中世には生神女聖堂とされた[60]。

ラテン帝国の時代には、聖母マリア(en)のカトリック教会として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端にはアプスが増築された[58]。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。このように、神を祭る様式がクリスチャンのものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられた。

オスマン朝のモスク[編集]

1456年、アテナイはオスマン帝国の占領下に置かれた。すると今度は、パルテノン神殿はモスクに改築された[58]。オスマン帝国は領地の遺跡には一定の敬意を払い無分別な破壊を行わなかったが、それは保全に努めたという事ではなく、戦時に防壁や要塞を建設するために遺跡の石材などを流用することもあった。さらにパルテノン神殿にはミナレットが増築され[58]、その神殿に相当する高さの階段は今でも残ったまま、円柱の台輪を隠してしまっている。しかし、オスマン帝国は神殿そのものには変更を加えず、17世紀のヨーロッパ人訪問者はアクロポリスの丘に残る他の建築物ともども手付かずのままに置かれていることを証言した。





パルテノン神殿南側の情景。1687年の爆破で損傷を受けたと推測される箇所。




エドワード・ドッドウェル(en)画『View of the Parthenon from the Propylea』。1821年にロンドンで出版された『Views in Greece』の一葉で、遺跡の間に住居が立ち並ぶ[61]当時のアクロポリスを描いた。
爆破[編集]





パルテノン神殿の壁の破片。ヴェネツィアの攻撃で受けた被害によるものと思われる。
1687年、神聖同盟に加盟したヴェネツィア共和国とオスマン帝国が戦い(大トルコ戦争)、フランシスコ・モロシーニ(en)率いるヴェネツィアがアテナイを攻撃した際、パルテノン神殿は最大の破壊を被る[62][1]。オスマン帝国はアクロポリスを要塞化し、神殿に弾薬を貯蔵庫した[58]。ヴェネツィアとの戦争の際にはここに女や子供を避難させたが、これはヴェネツィア側が神殿を敬い攻撃を加えないだろうと期待した対応だった[58]。しかし9月26日、ヴェネツィアの臼砲がフィロパポスの丘から砲撃を加え、パルテノン神殿の弾薬庫が爆発、神殿は一部が破壊された[58][63]。神殿の内部構造は破壊され、屋根部分の遺構も崩れ、柱も特に南側のものが折られた。彫刻の被害は甚大で、多くが壊され地面に落ちた。モロシーニは剥落した彫刻類を戦利品として略奪し、後に組み直された。この結果、彫刻が飾られていた際の配置は、1674年にジャック・カリーが描いた絵から推し量ることしかできなくなった[64]。この後、アクロポリスの多くの建物は打ち捨てられ、小さなモスクだけが建てられた。

18世紀になるとオスマン帝国は停滞状態となり、その結果ヨーロッパ人がアテナイを訪問する機会が増えた。パルテノン神殿のような美観の絵が数多く描かれ、ギリシアに対する愛着(ギリシア愛(en))が沸き起こり、イギリスやフランスでギリシア独立の世論が高まった[58]。ディレッタンティ協会の任を受けて考古学者のジェームズ・スチュアート(en)とニコラス・リヴェット(en)がアテナイに入ったのはそのような動きの初期に当たる。彼らはアテナイの遺跡群を調査し、1781年にはパルテノン神殿を実測した最初の資料を作成して『Antiquities of Athens Measured and Delineated』第2巻に収録した。1801年、イギリスの駐コンスタンティノープル大使エルギン伯トマス・ブルース(en)は[14]、アクロポリス遺跡の型取りと図面の作成、およびその作業に必要ならば近年の建築物を壊す事、そしてそれらを持ち出すことを認めるfirman(勅令)をスルターンから得た。この勅令は原本が残っていないため疑わしい面もあるが、エルギン伯は見つけ出した彫刻類の持ち出しが認められたとこれを拡大解釈した。住民を雇い入れ、建造物から彫刻類を引き剥がし、若干のものを拾い、また住民から買い入れるなどの手段で集めた。このために建物は深刻な損傷を受け、さらにイギリスへ輸送するに当たって軽くするために剥ぎ取ったフリーズのブロックを半分に裂いてしまった。これらイギリスに渡った彫刻類はエルギン・マーブルと呼ばれる[65]。

ギリシアの独立[編集]

1832年、ギリシアは独立を果たした。パルテノン神殿のミナレットは目につく部分が取り壊され、続いてアクロポリスに建つ中世とオスマン帝国の建造物はことごとく除かれた。そして、残っていた建築資材を用いて復元が行われた[62]。そのような中、胞室に設けられていた小さなモスクはJoly de Lotbinièreが撮影した写真が残り、1842年に出版されたアクロポリスを被写体にした初の写真集『Excursions Daguerriennes』で伺うことができる[66]。

その後アクロポリスはギリシア政府が直轄して管理する歴史的地区に定められた。現在では毎年何百万人もの観光客が訪れ、再建されたプロピュライアを抜け、パルテノン神殿へ至るパナテナイック通りを歩き、アクロポリスの西側の小道を散策することができる。これら立ち入ることが出来る場所は低い柵で区切られて、遺跡が傷まないよう配慮されている。





大英博物館に蔵されているパルテノン神殿の等身大ペディメント彫刻
マーブル返還問題[編集]

詳細は「エルギン・マーブル」を参照

一方、エルギン伯が持ち去ったパルテノン神殿のマーブルは大英博物館に現存する。その他にも、神殿の彫刻はパリのルーヴル美術館、コペンハーゲンなどにも保存されているが、現在所有点数が最も多いのは2009年6月20日に開館したアクロポリス博物館である[67][68]。神殿の建物自体にも若干の彫刻が残っている。

1983年以降、ギリシア政府は大英博物館に対して彫刻を返還するよう求めている[67]。しかし博物館側はこれを明確に拒否しており[69]、その背景には法律上の問題を重視するイギリス政府の意向がある。そのような中2007年5月4日にギリシアとイギリスは前文化相同士がロンドンで、法律顧問を同席し会談の場を持った。それはここ数年における意義深いもので、将来へ何らかの解決が見出されることを期待されている[70]。

再建[編集]

1975年、ギリシア政府はパルテノン神殿などアクロポリスの建造物の修復へ本格的に乗り出し、幾許かの遅れがあったが1983年にアクロポリス博物館の維持運営を担う委員会が設立された[71]。後に計画には欧州連合が資金的・技術的支援を提供した。考古学委員会はアクロポリスに残る文化遺跡を徹底的に記録し、建築家がコンピューターを導入して本来の位置を解析した。特に重要で壊れやすい彫刻類はアクロポリス博物館に移された。マーブルブロックを吊り上げるクレーンも、使用しない時には目立たないように屋根の勾配に沿って折り畳めるものが導入された。

修復作業を通じ、過去に行われた補修が適切さに欠けていたところも発見された。これらは取り除かれ、慎重に回復が行われている[72]。ブロックの固定には腐食を防ぐために鉛のコーティングが施された鉄製のH型金具が元々は用いられていたが、19世紀の補修ではこのようなコーティングが為されなかったため錆など腐食によって金具が膨張し、大理石を割ってしまうなど損傷を拡大させていた[73]。そのため、金属製器具は強さと軽さを兼ね備え、腐食にも強いチタンが用いられるようになった[16]。

パルテノン神殿を1687年以前の形に復元することは事実上難しいが、爆破による損傷はできるだけ軽減される。特にアテナイは地震が起こる地区であるため構造の欠陥を補強することや[74]、円柱や楣石の欠けた箇所を大理石セメントで丁寧に埋めることが行われている。このように、大理石はかつてと同様にペンテリコン山から切り出されてほとんど全ての主要部分に用いられながら、必要に応じて近代的な材料が投入されつつ再建は行われている。





補修作業、2008年






構造安定性を高めるための作業(工事中)、2007年






補修中の箇所






北側の補修図


関連項目[編集]





テネシー州ナッシュビルのパルテノン神殿ギリシア建築
パルテノン神殿 (テネシー州ナッシュビル) - テネシー州ナッシュビルにパルテノンの復元がある。
法隆寺 – パルテノン神殿のエンタシス法にある柱の中央部分が太い構造は、日本の法隆寺回廊にある柱の設計にまで伝わっている[75]。

出典[編集]

文献[編集]
栗原麻子、奈良大学文学部世界遺産コース編 (2001年). “2.ヨーロッパの都市 アテネ”. 世界遺産と都市. 風媒社. ISBN 4-8331-4029-2.
佐藤達生 (2005年). 図説 西洋建築の歴史 美と空間の系譜. 河出書房新社. ISBN 4-309-76069-4.
周藤芳幸、沢田典子 (2004年). 古代ギリシア遺跡事典. 東京堂出版. ISBN 4-490-10653-X.
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Tarbell, F.B. A History of Ancient Greek Art. online.
Whitley, James (2001年). “The Archaeology of Democracy: Classical Athens”. The Archaeology of Ancient Greece. ケンブリッジ大学出版局. ISBN 0-521-62733-8.

オンライン資料[編集]
“Greek Premier Says New Acropolis Museum to Boost Bid for Parthenon Sculptures”. International Herald Tribune. (2006年10月9日) 2007年4月23日閲覧。
“Parthenon” (英語). Online Etymology Dictionary. 2007年5月5日閲覧。
“Talks Due on Elgin Marbles Return”. BBC News. (2007年4月21日) 2007年4月23日閲覧。
Ioanna Venieri. “Acropolis of Athens - History” (英語). Acropolis of Athens. Οδυσσεύς. 2007年5月4日閲覧。
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