2014年02月13日
バルト海
バルト海(バルトかい、Baltic Sea)とは、北ヨーロッパに位置する地中海。ヨーロッパ大陸本土とスカンジナビア半島に囲まれた海洋であり、日本での古称は東海。
目次 [非表示]
1 呼称
2 概要
3 地史
4 周辺地域の歴史
5 海上交通網
6 関連項目
7 脚注
8 外部リンク
呼称[編集]
英語: Baltic Sea (ボールティック・シー)
ドイツ語: Ostsee (オストゼー; “東海”)
スウェーデン語 Östersjön (エステション; “東海”)
デンマーク語 Østersøen (“東海”)
ロシア語: Балтийское море (バルチーイスカイェ・モーリェ)
ポーランド語: Morze Bałtyckie (モジェ・バウティツキェ)
フィンランド語: Itämeri (イテメリ; “東海”)
エストニア語: Läänemeri (レーネメリ; “西海”)
古代ラテン語: Mare Suebicum (マーレ・スエビクム; “スエビ族の海”。 Mare Suevicum とも)
近代ラテン語: Mare Balticum (マーレ・バルティクム)
リトアニア語: Baltijos jūra
ラトビア語: Baltijas jūra
日本での古称「東海」は、ゲルマン系言語における名称の翻訳借用である。
概要[編集]
面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度は459mとなっている。平均水温は3.9度。特筆すべきこととして、平均塩分濃度が全海洋平均の31.9パーミルと比べて26パーミルとかなり低いことがあげられる。この理由としては、流入河川が多いこと、高緯度地帯に位置し、水温が低いため蒸発量が少ないこと、外海である北海への主な出口がカテガット海峡しか存在せず、これが隘路となるため海水の循環が少ないことがあげられる。低水温および低塩分濃度のため、冬季には結氷する。
海域の北部にはボスニア湾、東部にはフィンランド湾、リガ湾、南部にはグダニスク湾などの湾がある。また域内の島嶼としてボーンホルム島(デンマーク)、ゴットランド島(スウェーデン)、エーランド島(スウェーデン)オーランド諸島(フィンランド自治領)、ヒーウマー島、サーレマー島(エストニア)などがある。最も大きな島はゴットランド島であり、域内の南部に位置している。
外海とはカテガット海峡を経てスカゲラック海峡とつながり、さらに北海と結ばれている。さらに、白海・バルト海運河で白海と、キール運河で北海と結ばれているなど、航路が整備されている。
また、海域に面した国家は多くスウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ドイツ、デンマークの国々が面している。
地史[編集]
バルト海が大まかに現在の形となったのは3800年前(紀元前1800年ごろ)と考えられている。最終氷期の最盛期であった2万年前、バルト海地域は現在のバルト海域を中心とする巨大な氷床に覆われていた。この氷床の先端はユトランド半島から北ドイツ平原を通りポーランド北部やリトアニアにまで達していた。現在でもこの地域には、その時期の名残であるモレーン(堆石)が列をなし分布している。氷期から後氷期に入ると氷床は消滅したが、氷河の重みによって旧氷河の中心域は窪地であった。ここにはアンキルス湖(en)が形成され、さらに海面が上昇し、そこが海と繋がると汽水のリットリナ海(en)となり、バルト海の原型が出来上がった。氷床の重みがなくなったため、現在でもバルト海域では地面が上昇を続けており、特に北部のボスニア湾周辺地域で上昇が激しい。ここままのペースで上昇が続くと100年で1mの隆起となり、1万5千年から2万年後にはボスニア湾が消滅してしまうとも考えられている[1]。
周辺地域の歴史[編集]
古代ローマではバルト海南東部をスエビの海(Mare Suebicum)と呼んでいた。南岸にゲルマン人ともケルト人ともいわれるスエビ族が住んでいたようである。民族移動時代の前は、スエビ族はゲルマニアの最強民族として知られていた民族である。8世紀以降、ノルマン人を中心としたヴァイキング(ヴァリャーグ)が、バルト海を掌握していた可能性が高く、バルト海が「ヴァリャーグ海」と呼称されていた時代もある。このころ、すでにシュレースヴィヒには交易都市ハイタブが建設されており、また「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる、バルト海からノヴゴロドやヴォルガ川を通って黒海へ、さらに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた。
12世紀にはいると、バルト海南岸に東方植民運動が起こり、またドイツ騎士団などの騎士修道会によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。北方十字軍とも呼ばれるこの動きによって、西方のドイツからドイツ人が次々と植民を行い、この地域はドイツ化していった。このころのバルト海の制海権を握っていたのはハンザ同盟である。12世紀に設立されたこの同盟は、バルト海南岸のリューベックを盟主とし、ヴィスビューやリガ、ダンツィヒなど多くのバルト海沿岸都市が加盟してこの地方の覇権を握った。バルト海で取れるニシンが同盟諸都市の重要な輸出項目となっており、その他フランドルの織物や、琥珀、穀物といった特産物をやり取りしていた。やがて15世紀にはいるとカルマル同盟を結んだデンマークがハンザ同盟に勝利してバルト海の覇者となったが、16世紀にはいると新大陸の発見によってバルト海のヨーロッパ内における経済重要性が低下し、またネーデルラントやイングランドの商人がバルト海に進出してバルト海交易を支配するようになった。このころにはポーランドが勢力を伸ばし、リトアニアとポーランド・リトアニア連合を組んだ上に世俗化したドイツ騎士団国をプロイセン公国として編入した。やがて、デンマークから独立したスウェーデン王国が17世紀初頭のグスタフ・アドルフの時代に勢力を伸ばし、およそ1世紀の間バルト海の覇権を握った。この時期のスウェーデン王国を、後世ではバルト帝国、あるいはマーレ・バルティクム(バルト海のラテン語名)と呼び表すようになった。やがてロシア帝国にピョートル大帝が現れ、大北方戦争を起こしてスウェーデンのバルト海の覇権を打ち破るとともに、1703年にバルト海の最奥部に新都サンクトペテルブルクを建設した。この町はバルト海交易ルートの拠点のひとつとなり、またロシアの西欧に対する窓ともなった。帝政ロシア時代は、バルチック艦隊の展開海域であり、日露戦争時にはこの海域より日本海に向けてバルチック艦隊が出撃した。
バルト海南岸の、現在ドイツ・ポーランド領となっている地域のうち、低湿で農業に適さない西側はポンメルン(ポモージェ、ポメラニア)、より豊かな東側はプロイセン(プルシ、プロシア)と呼ばれていた。
バルト海の西端はスウェーデンとデンマークに挟まれたエーレスンド海峡で、幅はわずか7 kmしかない。中世より、この海峡はバルト海沿岸諸国が大西洋、北海への航路上必ず通過するルートであった。その為、スウェーデンとデンマークでは通行税をめぐる争いがあり、海峡には要塞や城が設けられていた。その中で有名な城が、デンマーク側にあるシェイクスピアの「ハムレット」の舞台となったクロンボー城(世界遺産)である。尚、現在は両国間での争いはなく、船舶が航行できる。
バルト海には多数の船が沈没している。中でも17世紀当時の世界最大の軍艦ヴァーサ(スウェーデン海軍所属管)が沈んでいて、レックダイバーが捜索し、引き上げられている。
バルト海の海底には良質の琥珀を大量に含む地層が露出している。古来、沿岸各地の海岸では打ち寄せられた琥珀を収穫することができ、地域の特産品であった。
海上交通網[編集]
バルト海は内海のため、海況が穏やかであり、また対岸までの距離も短いため、古くより海上交通網が発達している。現在は、移動時間の短い飛行機の利用も多いが、費用が安い、航空路がない、静養などの理由により船舶を利用する人も多い。貿易船の来航も多いほか、バルト海周辺各国の首都・主要都市からは毎日、大型船舶が出航しており、中にはバルト海クルーズを行うツアーも数多くある。また、北欧諸国特有の海上交通利用法として、ショッピング目的での利用がある。北欧諸国はどこも高福祉政策をとっているため税金が重く、特に酒や食料品など日用品も高税率となっている。しかし、国際航路であれば船上では免税となるために、安い品を求めて人々が国際航路に乗り込み、船上のショッピングモールで酒や砂糖、肉類などを買い込むといったショッピングクルーズが盛んである[2] 。これは北欧諸国がのきなみヨーロッパ連合に加盟した21世紀になっても、EU関税同盟に加盟していないオーランド諸島に寄港することで免税条件をクリアするなどの方法で続いている。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、バルト海に関連するカテゴリがあります。
地理: バルト三国
歴史: ハンザ同盟 - バルト帝国 - バルチック艦隊 - バルト海の戦い (第一次世界大戦)
政治:バルト海諸国理事会
琥珀
バルト海クルーズ
把瑠都凱斗
ヨーロッパ / 北欧 / 東欧 / 中欧
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1 呼称
2 概要
3 地史
4 周辺地域の歴史
5 海上交通網
6 関連項目
7 脚注
8 外部リンク
呼称[編集]
英語: Baltic Sea (ボールティック・シー)
ドイツ語: Ostsee (オストゼー; “東海”)
スウェーデン語 Östersjön (エステション; “東海”)
デンマーク語 Østersøen (“東海”)
ロシア語: Балтийское море (バルチーイスカイェ・モーリェ)
ポーランド語: Morze Bałtyckie (モジェ・バウティツキェ)
フィンランド語: Itämeri (イテメリ; “東海”)
エストニア語: Läänemeri (レーネメリ; “西海”)
古代ラテン語: Mare Suebicum (マーレ・スエビクム; “スエビ族の海”。 Mare Suevicum とも)
近代ラテン語: Mare Balticum (マーレ・バルティクム)
リトアニア語: Baltijos jūra
ラトビア語: Baltijas jūra
日本での古称「東海」は、ゲルマン系言語における名称の翻訳借用である。
概要[編集]
面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度は459mとなっている。平均水温は3.9度。特筆すべきこととして、平均塩分濃度が全海洋平均の31.9パーミルと比べて26パーミルとかなり低いことがあげられる。この理由としては、流入河川が多いこと、高緯度地帯に位置し、水温が低いため蒸発量が少ないこと、外海である北海への主な出口がカテガット海峡しか存在せず、これが隘路となるため海水の循環が少ないことがあげられる。低水温および低塩分濃度のため、冬季には結氷する。
海域の北部にはボスニア湾、東部にはフィンランド湾、リガ湾、南部にはグダニスク湾などの湾がある。また域内の島嶼としてボーンホルム島(デンマーク)、ゴットランド島(スウェーデン)、エーランド島(スウェーデン)オーランド諸島(フィンランド自治領)、ヒーウマー島、サーレマー島(エストニア)などがある。最も大きな島はゴットランド島であり、域内の南部に位置している。
外海とはカテガット海峡を経てスカゲラック海峡とつながり、さらに北海と結ばれている。さらに、白海・バルト海運河で白海と、キール運河で北海と結ばれているなど、航路が整備されている。
また、海域に面した国家は多くスウェーデン、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ドイツ、デンマークの国々が面している。
地史[編集]
バルト海が大まかに現在の形となったのは3800年前(紀元前1800年ごろ)と考えられている。最終氷期の最盛期であった2万年前、バルト海地域は現在のバルト海域を中心とする巨大な氷床に覆われていた。この氷床の先端はユトランド半島から北ドイツ平原を通りポーランド北部やリトアニアにまで達していた。現在でもこの地域には、その時期の名残であるモレーン(堆石)が列をなし分布している。氷期から後氷期に入ると氷床は消滅したが、氷河の重みによって旧氷河の中心域は窪地であった。ここにはアンキルス湖(en)が形成され、さらに海面が上昇し、そこが海と繋がると汽水のリットリナ海(en)となり、バルト海の原型が出来上がった。氷床の重みがなくなったため、現在でもバルト海域では地面が上昇を続けており、特に北部のボスニア湾周辺地域で上昇が激しい。ここままのペースで上昇が続くと100年で1mの隆起となり、1万5千年から2万年後にはボスニア湾が消滅してしまうとも考えられている[1]。
周辺地域の歴史[編集]
古代ローマではバルト海南東部をスエビの海(Mare Suebicum)と呼んでいた。南岸にゲルマン人ともケルト人ともいわれるスエビ族が住んでいたようである。民族移動時代の前は、スエビ族はゲルマニアの最強民族として知られていた民族である。8世紀以降、ノルマン人を中心としたヴァイキング(ヴァリャーグ)が、バルト海を掌握していた可能性が高く、バルト海が「ヴァリャーグ海」と呼称されていた時代もある。このころ、すでにシュレースヴィヒには交易都市ハイタブが建設されており、また「ヴァリャーギからギリシアへの道」と呼ばれる、バルト海からノヴゴロドやヴォルガ川を通って黒海へ、さらに東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへとつながる交易ルートが成立しており、すでに交易上重要な位置を占めるようになっていた。
12世紀にはいると、バルト海南岸に東方植民運動が起こり、またドイツ騎士団などの騎士修道会によって、バルト海南東域の非キリスト教徒への軍事侵攻および植民が行われた。北方十字軍とも呼ばれるこの動きによって、西方のドイツからドイツ人が次々と植民を行い、この地域はドイツ化していった。このころのバルト海の制海権を握っていたのはハンザ同盟である。12世紀に設立されたこの同盟は、バルト海南岸のリューベックを盟主とし、ヴィスビューやリガ、ダンツィヒなど多くのバルト海沿岸都市が加盟してこの地方の覇権を握った。バルト海で取れるニシンが同盟諸都市の重要な輸出項目となっており、その他フランドルの織物や、琥珀、穀物といった特産物をやり取りしていた。やがて15世紀にはいるとカルマル同盟を結んだデンマークがハンザ同盟に勝利してバルト海の覇者となったが、16世紀にはいると新大陸の発見によってバルト海のヨーロッパ内における経済重要性が低下し、またネーデルラントやイングランドの商人がバルト海に進出してバルト海交易を支配するようになった。このころにはポーランドが勢力を伸ばし、リトアニアとポーランド・リトアニア連合を組んだ上に世俗化したドイツ騎士団国をプロイセン公国として編入した。やがて、デンマークから独立したスウェーデン王国が17世紀初頭のグスタフ・アドルフの時代に勢力を伸ばし、およそ1世紀の間バルト海の覇権を握った。この時期のスウェーデン王国を、後世ではバルト帝国、あるいはマーレ・バルティクム(バルト海のラテン語名)と呼び表すようになった。やがてロシア帝国にピョートル大帝が現れ、大北方戦争を起こしてスウェーデンのバルト海の覇権を打ち破るとともに、1703年にバルト海の最奥部に新都サンクトペテルブルクを建設した。この町はバルト海交易ルートの拠点のひとつとなり、またロシアの西欧に対する窓ともなった。帝政ロシア時代は、バルチック艦隊の展開海域であり、日露戦争時にはこの海域より日本海に向けてバルチック艦隊が出撃した。
バルト海南岸の、現在ドイツ・ポーランド領となっている地域のうち、低湿で農業に適さない西側はポンメルン(ポモージェ、ポメラニア)、より豊かな東側はプロイセン(プルシ、プロシア)と呼ばれていた。
バルト海の西端はスウェーデンとデンマークに挟まれたエーレスンド海峡で、幅はわずか7 kmしかない。中世より、この海峡はバルト海沿岸諸国が大西洋、北海への航路上必ず通過するルートであった。その為、スウェーデンとデンマークでは通行税をめぐる争いがあり、海峡には要塞や城が設けられていた。その中で有名な城が、デンマーク側にあるシェイクスピアの「ハムレット」の舞台となったクロンボー城(世界遺産)である。尚、現在は両国間での争いはなく、船舶が航行できる。
バルト海には多数の船が沈没している。中でも17世紀当時の世界最大の軍艦ヴァーサ(スウェーデン海軍所属管)が沈んでいて、レックダイバーが捜索し、引き上げられている。
バルト海の海底には良質の琥珀を大量に含む地層が露出している。古来、沿岸各地の海岸では打ち寄せられた琥珀を収穫することができ、地域の特産品であった。
海上交通網[編集]
バルト海は内海のため、海況が穏やかであり、また対岸までの距離も短いため、古くより海上交通網が発達している。現在は、移動時間の短い飛行機の利用も多いが、費用が安い、航空路がない、静養などの理由により船舶を利用する人も多い。貿易船の来航も多いほか、バルト海周辺各国の首都・主要都市からは毎日、大型船舶が出航しており、中にはバルト海クルーズを行うツアーも数多くある。また、北欧諸国特有の海上交通利用法として、ショッピング目的での利用がある。北欧諸国はどこも高福祉政策をとっているため税金が重く、特に酒や食料品など日用品も高税率となっている。しかし、国際航路であれば船上では免税となるために、安い品を求めて人々が国際航路に乗り込み、船上のショッピングモールで酒や砂糖、肉類などを買い込むといったショッピングクルーズが盛んである[2] 。これは北欧諸国がのきなみヨーロッパ連合に加盟した21世紀になっても、EU関税同盟に加盟していないオーランド諸島に寄港することで免税条件をクリアするなどの方法で続いている。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、バルト海に関連するカテゴリがあります。
地理: バルト三国
歴史: ハンザ同盟 - バルト帝国 - バルチック艦隊 - バルト海の戦い (第一次世界大戦)
政治:バルト海諸国理事会
琥珀
バルト海クルーズ
把瑠都凱斗
ヨーロッパ / 北欧 / 東欧 / 中欧
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