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2014年02月06日

シモン・パティーニョ

シモン・パティーニョ(Simón Iturri Patiño、1862年1月1日 - 1947年4月20日)は、ボリビアの実業家。生前には世界三大富豪の一人とされ、錫で富を築いたことから「錫男爵」と呼ばれた。

コチャバンバで貧しいメスティソの職人の子として生まれ、中等教育を受けた後、ボリビア各地の鉱山で働き鉱山業を学ぶ。1894年にオルロのワヌニ鉱山でスズの鉱脈を当て1924年までに国内生産の5割を保有し、ヨーロッパにおけるスズ精錬業も支配する財閥を築き上げた。

またその富を守るため同じく形成された二つの鉱山業の新興財閥とともに自由党に肩入れして銀鉱山主に支援された保守党に対抗している。しかし、メスティソだったため本国の白人の上流階級には受け入れてもらえなかった。そのためアメリカ、ヨーロッパに渡り外交官のような役割を果たすようになり、1924年に一時帰国したとき以外、後半生は外国で生活した。1947年にブエノスアイレスで死去。死後もパティーニョ財閥は、3大鉱業財閥と一つとして1952年のボリビア革命まで錫鉱業を支配した。
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オルロ

オルロ(オルーロ、スペイン語: Ciudad de Oruro)は、ボリビアのアンデス地方にある都市。オルロ県の行政府所在地。

1606年11月1日にウルス地方の銀採掘の拠点として設立された。当初は、スペイン国王フェリペ3世にちなみ、「オーストリア王家の聖フェリペの町」と呼ばれた。

オルロはフォルクローレの里として有名であり、また、南米三大祭りの一つである「オルロのカーニバル」が2月頃に開催されることでも有名である。

かつては鉱山で栄えたが、第二次世界大戦後は主な産物である錫の需要が落ち、寂れた雰囲気の街になってしまった。近年、希少金属であるリチウムがあることがわかり、今後の開拓が期待されている。

オルロからは塩湖観光で有名なウユニ行きの列車が出ている。この路線は、以前はラパス市まで続いていたが、最近ラパス-オルロ間の運行をやめてしまった。ラパス-オルロ間は長距離バスで結ばれており、ボリビア国内で最も主要なバス路線となっている。数社の民間バス会社が運行しており、1時間に何本か発着がある。所要時間は約3時間で、全線舗装路である。

歴史[編集]

当初、街は1606年11月1日にドン・マヌエル・カストロ・デ・パディージャによって、ウル族エリアの銀山の中心地として創設された。このとき、スペイン国王のフェリペ3世にちなみ「レアル・ビジャ・デ・サン・フェリーペ・デ・アウストリア(スペイン語: Real Villa de San Felipe de Austria)」と名付けられた。銀山が枯渇して、結果的に街は放棄されたが、19世紀後半になって、錫鉱山の中心地として再建された。オルロは、土着民族のウルウルにちなんで名付けられた。一時的に、サルバドーラ錫鉱山は、世界でもっとも重要な錫鉱山となったが、徐々に資源が枯渇しおり、主要な労働者はいまだに鉱業従事者であるものの、オルロは再び衰退の局面に入った。

オルロのカーニバル[編集]

オルロで毎年2月末頃に行なわれるカーニバルは、リオデジャネイロのカーニバル、クスコのインティ・ライミ祭りと並んで、南米三大祭りの一つと言われている。[要出典]オルロ市中心部のソカボン広場を終点とする市内数カ所の道路が会場となる。 リオのカーニバルと比較すると、先住民の文化やスペイン植民地時代の記憶に基づく伝統的な踊りが多く、踊りや音楽の種類ははるかに多い。





ソカボン広場入り口でディアブラーダのグループを見物する人々(2005年)
1789年から行なわれていたという資料もあり、大変歴史の古いカーニバルである。元々は、先住民族であるアイマラ族やケチュア族が持っていたパチャママ(地母神)信仰がキリスト教の聖母マリア信仰と結びつき、この創造の母に捧げるものとして始まったとされる。また、スペイン人侵略者を悪魔(ディアブロ: diablo)と重ね合わせ、恐れを持って踊りに表したと考えられている。

オルロのカーニバルで踊られる踊りには以下のようなものがある。
カポラル(カポラレス) 男性は足に拍車をつけ、軽快にそれを踏みならして踊る。女性はミニスカートで腰を巧みに振りながら回るように踊る。近年最も踊り手が多い踊り。
モレナダ 男性はウェディングケーキのような奇妙な服を着て大きな仮面をかぶってヨタヨタと踊る。女性はミニスカートで回るように踊る。カポラルの次に人気の高い踊り。
ディアブラーダ ディアブロ(diablo:悪魔)の踊り。大きな目玉と角の付いた仮面をかぶり、腿を大きく振り上げたステップを踏む。手にはハンカチを持ち、リズムに合わせて振る。
サヤ(ネグリート) 白人侵略者が黒人奴隷を虐げる様を踊りにしたもの。
スーリシクーリ 鳥の羽でつくった大きな帽子をかぶり、それを回すように踊る。詳細はスーリシクーリの項に記載。
リャメラダ リャマ追いの踊り。詳細はリャメラダの項に記載。
ティンク 殴り合いの踊り。詳細はティンクの項に記載。
トーバス 厳めしい顔の仮面をかぶり、長い羽をつけた帽子をかぶる。小刻みなステップを踏みながら時折大きくジャンプをする激しい踊り。
アンタワラ ポンチョを着て山高帽をかぶり、軽快に踊る。
サンポニャーダ 民族楽器であるサンポーニャを吹きながら踊る。
タルケアーダ 同じく民族楽器のタルカを吹きながら踊る。
インカス インカの王族の扮装をして練り歩く。踊りというよりも仮装行列のような感じである。
ドクトルシート シルクハットに燕尾服、手にはステッキという出立ちでコミカルに踊る。
クジャワダ 丸い帽子のふちに簾のようなものをぶらさげ、手には糸紡ぎの独楽を持って踊る。
ワカワカ 牛のハリボテを腰につけて、それを前後に激しく揺すりながら踊る。「ワカ」はアイマラ族の言葉で牛を意味する。
パラグアージョス 傘を持って、回したり傾けたりしながら踊る。「パラグアス」はスペイン語で傘を意味する。

カーニバルの踊りは、数十人 - 数百人のグループが市内を巡り、中心のソカボン広場での審査の後、寺院でミサを受けるという手順で行なわれる。最後の寺院に入るときには脱帽のうえ膝で歩かなければいけない。数時間踊り続けた後の膝歩きは相当苦しいことであるが、神への信仰の強さを示す好機であると考える人が多い。多数のグループがあり、順番にミサを受けるので、最後のグループが踊り終わるのは深夜の1時などになる。最後のグループが終わった後も、勝手にグループを作って踊ったり、飲んだり騒いだりが朝まで続く。かつては1週間程度踊り続けたという話もあるが、現在はカーニバル開催期間は2 - 3日である。

カーニバル期間中とその前の数週間は、水掛けのいたずらが行なわれる。全く見知らぬ人に対して、急に(通りがかりに)水鉄砲などで水をかける。また、小さなゴム風船に水を詰めたものを投げつける。2月は南米では夏であるが、オルロは年中寒冷な場所であるので水に濡れると大変寒い。カーニバル期間中にオルロを訪れる際にはレインコートの着用などの水対策が必要である。

オルロのカーニバルは、ユネスコによる2001年の「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」がなされ、2009年9月の第1回登録で無形文化遺産に登録された。

ラパス

ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市(西: Ciudad Nuestra Señora de La Paz[1])、通称ラパスは、ボリビア多民族国の首都。憲法上の首都はスクレであるが、ラパスは行政・立法府のある事実上の首都である。これは、1825年の独立以来首都であったスクレを基盤にしていた保守党政権を、1899年の「連邦革命」によってラパスを拠点とした自由党が打倒し、議会と政府をスクレからラパスに遷したからである[2]。なお、2006年現在も最高裁判所はスクレに存在する。



歴史[編集]

かつてのインカ帝国支配地は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)によって、 ペドロ・デ・ラ・ガスカ(Pedro de la Gasca)に委任された。

ガスカは、アロンソ・デ・メンドーサ(Alonso de Mendoza)に、 ペルーの征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した。1548年10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、アルト・ペルー南部の鉱山と太平洋岸のペルー副王領の主都リマとの中継地点として、ラパス市が建設された[3]。建設当時の名称はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市(La Ciudad de Nuestra Señora de La Paz、「我らが平和の母の街」の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ(Laja)という場所が中心であった。しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には金があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された[4]。1549年、ホアン・グティエレス・パニアグア(Juan Gutierrez Paniagua)は、公共区域、公共広場、官庁街、大聖堂の場所を選定する都市計画を設計するように命じられた。現在はムリーリョ広場として知られているスペイン広場が、メトロポリタン聖堂や、政府系の建物を建てる場所に選定された。1549年に建設が開始されたサンフランシスコ教会は1610年に積雪によって倒壊したが、1744年より再建が始められ、1784年にアンデス・バロック様式の教会堂として落成した[5]。植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した。

1781年にトゥパク・カタリの指導の下、計6ヶ月の間、アイマラ人がラパスを包囲し。教会や政府の所有物を破壊した。30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した。この時、この場所でエケコの伝説が生まれた。

1809年にスペイン支配からの独立闘争が始まった。1809年7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ(Pedro Domingo Murillo)は、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた。これは南アメリカ諸国のスペイン支配からの解放が始まったことを意味した。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、その晩スペイン広場で絞首刑となったが、彼の名前は、広場の名前として永遠に残り、南米において「革命の声」として、記憶されるだろう。1825年12月9日のイスパノアメリカ独立戦争におけるアヤクーチョの戦いでのスペイン軍に対する、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍率いる大コロンビア共和国軍の決定的勝利の後、街の名前は、ラ・パス・デ・アヤクーチョ (「アヤクーチョの平和」の意味)に変更された。スクレはこの戦いの後、ベネズエラ人でありながらも、新たに独立したボリビア共和国の実質的な初代大統領になった。

1898年、ラパス市は事実上の首都となったが、スクレ市は名目上の歴史的な首都、および憲法上の首都として残った。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてほとんど枯渇していたポトシ銀山とスクレ市を背景とする保守党勢力から、オルロ近郊の錫とラパスを基盤とする自由党勢力に、政治、経済がシフトしたことを反映するものであり、それまでの保守支配層に替わって新たに自由党系の「ロスカ」と呼ばれる寡頭支配層が、1929年の世界恐慌で打撃を受けるまでエリートとして君臨した[6]。

1950年の国勢調査では、ラパス市の人口は290,731人であった[7]。

地理[編集]

中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。現在に至るまで人口は増え続けており、すり鉢の内側はほぼ飽和したために隣のエル・アルト(El Alto)に市街地が拡大している。そのため、市街地の上と下で、700mほどの標高差があると言われる。

山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。近年急速に人口が増加してきている地域では上下水道などのインフラ整備が追いつかず、衛生的な水は不足することがある。下水道が貧弱なため、ちょっとした大雨でも道路が冠水しやすい。そのため、2002年2月には、50人以上の犠牲者を出す水害も発生している。

施設[編集]

大統領宮殿、各国の大使館、銀行などが集中し、いわゆる首都機能は最高裁判所をのぞきほぼすべてがこの市に集まっている。大統領府と大聖堂が面しているムリリョ広場(Plaza Murillo)が市の中心であるが、近年は谷の一番底にあたるプラド通り(El Prado)が中心になってきており、その周囲には近代的な高層ビルが建ち並んでいる。

市の中心部のやや北側にある聖フランシスコ教会(Iglesia de San Francisco)とそこから坂を上ってゆくサガルナガ通り(Calle Sagárnaga)が観光の中心になっており、アルパカや羊の毛で作ったセーター、タペストリーのような民芸品、銀製品、ケーナやチャランゴなどの民族楽器などを売る店が多く集まっている。

サガルナガ通りの近くには「魔女の市場(Mercado de Brujas)」と呼ばれる通りがあり、キリスト教が浸透する以前からアイマラ族などで行なわれていた儀式に用いられる道具などが売られている。ここでは、各種ハーブやセラミックの人形、リャマの胎児のミイラなどが売られている(リャマの胎児のミイラは、家を新築する際に地面の下に埋めて家内安全を祈願するのに用いられる)。

黄金博物館(Museo de Oro)などの4つの博物館があるハエン通り(Calle Jaen)は、スペイン統治時代の雰囲気を残す古い町並みで情緒がある。この通りにはマルカタンボ(Marca Tambo)というペーニャ(フォルクローレの生演奏を聴くことができるレストラン)がある。

市内北東部のミラフローレス地区にはエルナンド・シレス競技場がある。この競技場は2007年に国際サッカー連盟がその標高を理由に公認競技場からはずしたことで話題となった。現在は再びFIFAワールドカップ予選会場として認められている。

祭り[編集]

カーニバル(カルナバル、carnaval)の時(2月頃)とグラン・ポデール祭(El Gran PoderまたはLa Entrada Universitaria)の時(8月頃)には、中心のプラド通りとそれに続くマリスカル・サンタクルス通り(Av. Mariscal Santa Cruz)とモンテス通り(Av. Montes)で、パレードが行なわれる。吹奏楽団の演奏に合わせて民族衣装をまとった十数人から百数十人のグループが踊り歩く。踊りの内容はオルロのカーニバルとほぼ同じであるのでそちらも参照されたい。毎年1月24日にアラシタの祭が開かれる。詳細はエケコの記事を参照。

特色[編集]

空気が希薄であることと、ほとんどの家が「アドベ」とよばれる日干しレンガで造られていることから、火事はめったに発生しない。このため、ラパス市には消防署が存在しないということがしばしば言われるが、実際には消防署も消防車も存在する。空気が希薄なために、吸っていないタバコの火が消える、ビールやコーラが激しく泡立つ、袋菓子、シャンプーなどが膨れあがったり破裂する、輸入品の粉クリームのふたを初めてあけるときに粉が吹き出るなど、高地特有の様々な現象が起きる。

酸素が不足するため、旅行者は高山病にかかりやすく、ひどい場合、嘔吐する。急な坂だらけの街であるので、長く住んでいる人でも息が切れて苦痛を感じることが多い。空港には酸素マスクが常備されている。高山病にかかったときにはコカ茶を飲むと症状が緩和される。

交通[編集]

ラパスの空港であるエル・アルト国際空港は、正確に言うと隣接市であるエル・アルト市(標高4071mに位置し、世界で最も高い都市といわれる)の高原台地にあり標高差は約500mもある[8]。峡谷盆地のラパス市内からは、すり鉢状の地形を螺旋状に上ってゆく高速道路を使って30分ほどで行くことができる。

サンタ・クルス・デ・ラ・シエラやコチャバンバなどの国内主要都市や、リマ、ボゴタ、サンパウロ、リオデジャネイロ、アスンシオンなどの近隣国の主要都市、またアメリカ合衆国のマイアミと結ぶ航空便が開設されている。

ウユニ

ウユニ(スペイン語: Uyuni)はボリビアの西側にある小さな町である。ウユニ塩原から車で1時間のところにあり、塩原観光の拠点となっている。ボリビア中央部のオルロ市から週に5便の鉄道が出ているほか、観光シーズンにはラパス市からの航空便が出ることもある。またラパス・オルロ・ポトシなどの主要都市からのバス便も出ているが、道路状態が悪いことと深夜運行にも拘らず十分な暖房設備を持たないバスが多いため快適とは言い難い。

塩の生産と観光が産業のほとんどを占めている。町の中心のポトシ通りには観光旅行業者のオフィスが何軒か並んでいる。スペイン語はもちろん英語も通用する事務所もあり、片言ながらフランス語ができる人もいる。



ウユニ塩原[編集]





塩の山




魚島から見た塩原




冠水したウユニ塩原、天空の鏡
ウユニ塩原(スペイン語: Salar de Uyuni)はボリビア中央西部のアルティプラーノにある塩の大地。標高約3,700mにある南北約100km、東西約250km、面積約10,582km2[1]の広大な塩の固まり。塩原の中央付近で回りを見渡すと視界の限り真っ白の平地であり寒冷な気候もあって、雪原の直中にいるような錯覚をおこす。

なお本項目では学術的に正確な表現である「塩原(えんげん)」を用いているが、一般には「塩湖」と呼ばれることの方が多い。

乾期(7月頃〜10月頃)には塩原はほぼ乾いておりその上を自動車で簡単に走行できるが、雨期には若干の水が溜まり場所によっては自動車による走行ができないところも現れる。乾期でも塩を数cmから数十cm掘ると水がしみ出てくる。さらに塩原の周辺は細かな土の荒れた土地になっているので、塩原内の旅行は一般の自家用車では不可能と考えた方がよい。そもそも見渡す限り真っ白で目印は遠くに見える山と地元の人が何カ所かにつけたタイヤの道標くらいしかないので、地元観光業者の運転にまかせないと極めて危険である。

アンデス山脈が隆起した際に大量の海水がそのまま山の上に残されることとなった。さらにアルティプラーノは乾燥した気候であったこととウユニ塩原が流出する川を持たなかったことより、近隣の土壌に残された海水由来の塩分もウユニ塩原に集まって干上がることになった。こうして世界でも類を見ない広大な塩原が形成された。

この塩原は高低差が50センチしかないことが調査により判明しており、「世界でもっとも平らな場所」でもある。そのため、雨季に雨により冠水すると、その水が波も立たないほど薄く広がるため、水が蒸発するまでのわずかな期間に「天空の鏡」と形容される巨大な鏡が出現する[2]。

塩原の周囲に住む人たちは、塩を国内外に販売している。一般の食用の塩は、湖の表面の塩を削り取り1m程度の高さの小山を作って乾燥させて作る。この塩は近年日本でも購入できるようになった。また塩原に斧で切れ目を入れ、数十cmないし1m程度の大きさの立方体に切り出すことも行なわれている。この塩のブロックは家畜放牧地にそのまま置いて家畜になめさせたり(家畜のミネラル補給)、ブロックのまま別の塩精製施設に運んだりして使われる。塩原周辺では塩のブロックを建材に使って家などを作ることもある。

塩原の中程には、観光客用に塩で作ったホテルが建てられている。壁もテーブルもベッドも全てが上記の塩のブロックで作られている。ウユニ駅前にある旅行代理店で宿泊の予約ができるほか、喫茶だけでも立ち寄ることができる。

ウユニ塩原はリチウム埋蔵量で世界の半分を占めると見積もられている。電気自動車の電池などリチウム需要は将来的に高まると予想され、新たなリチウム産地としても注目されている。2009年現在は本格的な生産は行われていないが、ボリビア公社事業として2010年を目標にパイロットプラントの設置が進められている。事業には日本の住友商事、三菱商事や、フランス・ロシアのグループが参画を目指している。

同じく塩原の中央付近に「魚島」(スペイン語: Isla de Pescado)という島がある。遠方から見たときに島の形が魚のように見えることからその名前がついた。高さおよそ40mの島には、サボテンが多数生えている。小さな土産物屋はあるが、居住者は無く宿泊施設も無い。塩原の横断に自動車が用いられるようになる前はリャマなどの隊列で移動をしていたが一遍で渡り切るのは困難であるため、この島が重要な休息場所となっていた。雪原のような真っ白な塩原にあるサボテンだらけの島というのは、奇景である。

ポオポ湖

ポオポ湖(ポオポこ : Lago Poopó、ポーポ湖、ポーポー湖とも)は、ボリビア中西部のアルティプラーノにある塩湖。

標高約3,700m、長く広い(90km×32km)湖で、ボリビア中西部のオルロ県東南部に位置する。年間を通しての水域はおよそ1,000km2。ポオポ湖とチチカカ湖をつなぐデスアグアデロ川からの流入が主な水源である。流出する河川を持たず、平均水深は3m以下であり、その湖水面積は大きく変動する[1]。

ポオポ湖はラムサール条約による保護指定を受けている[2]。



湖の変動[編集]

ポオポ湖はその流入のほとんど(およそ92%)を北端のデスアグアデロ川から得ている。湖の東岸にも流入する小川が幾本かあるが、ほとんどが年間の大半は干上がった状態である。最も水位が高い時期には、ポオポ湖は西側のコイパサ塩原まで広がる。アルティプラーノの南側に位置するウユニ塩原に流出する小さな川があるが、一般にはポオポ湖は流出河川を持たない閉塞湖に区分される。

チチカカ湖の水位が標高3,810m以下に下がると、デスアグアデロ川に供給される水量はポオポ湖で蒸発する分よりも少なくなってしまう。この時期にはポオポ湖は縮小する。最大湖水面積として1986年に3,500km2を記録した。その後、1994年まで面積減少が続き、ついには湖が消滅した。1975年から1992年の間は、近年では最も長く湖が存続し続けた期間であった。





ポオポ湖の漁業は規模が小さく、手漕ぎボートと小さな網で行なわれる。写真はリャパリャパニ村 (Llapallapani)の漁師の船である。
なお、チチカカ湖は蒸発量が多いにも関わらず、その水源は水位をほぼ保つのに充分な水量を供給できる[3]。

塩分と地質学[編集]

ポオポ湖の塩分濃度は非常に高い。この塩分濃度は、ポオポ湖が閉鎖水系であり、乾燥地帯に位置していることに由来する。湖水の蒸発に伴い、湖水中の塩分濃度が上昇し、塩分濃度の高い湖水が他所へ移動せず、引き続き蒸発濃縮を続けるためである。ポオポ湖北部はデスアグアデロ川からの河川水供給により希釈されているが、南に行くに従い塩分濃度は上昇する。

塩分濃度は水量によって変化する。2006年10月から11月にかけては、湖北部の水は汽水レベルから食塩水レベルまで変動 (15-30,000 mg/l) した。湖の南端の水は塩水に分類される (105,000-125,000 mg/l)。水質は 4-2 Na-(Mg)-Cl-(SO4)。

塩化ナトリウムの元となる岩塩や長石などの地質要素は水源域に存在し、ポオポ湖の塩分になる。湖本体がある場所は、新生代堆積物であまり層を成していない。この堆積物は遥か有史以前の湖が残したもので、少なくとも5回の氷期の間アルティプラーノにあった。





ポオポ湖岸で足跡にできた塩の結晶
鉱業と重金属[編集]

ポオポ地域の鉱業は長い歴史がある。金属採掘は13世紀には始まっており、インカ帝国の軍隊が用いていた。16世紀にスペインが植民地化を行なってからは、鉱業はいっそう盛んになった。この地域がボリビア鉱業の中心地域であるという現代の認識は、この時代に作られた。

ポオポ地域の東側に沿ったアンデス東山脈の麓が鉱山地区にあたる。銀と錫が経済的に最も重要な鉱物である。

研究によると、ポオポ地域の表面と地下を流れる水からは高い濃度の重金属が検出されている。これらの金属は岩盤中に存在し、風化現象によって放出される。この地域の鉱業はこの重金属汚染にも関与している。鉱山から流れ出る酸や鉱石を処理する機械により、金属の浸出が加速されるのである。また、製錬所からは大気中に重金属を含む物質がまき散らされる。

ポオポ湖に運ばれた重金属の大半は、湖底に堆積しているものと思われる。湖水のヒ素・鉛・カドミウムの濃度は、ボリビアと世界保健機関が飲料水に適するとする基準値を上回っている。

植物相と動物相[編集]

次の3ないし4種の魚類が固有種として存在する。
マウリ(Mauri または Trichomycterus : ナマズの一種)
カラチェ (Carache)
イスピ(Ispi または Orestias : 卵生メダカの一種)

20世紀に入り、次の2つの外来種の魚類が持ち込まれた。
ニジマス (Trucha) : 1942年[4]
ペヘレイ (Odontesthes bonariensis) : 1955年

これらの大型種は、今日では商業的に最も重要な種となっている。 水位が低く塩分濃度が高い年には減少するものの、魚の個体数は比較的多い。

水生鳥類は34種あり、非常に多様である。最も有名なのは、湖の北側と東側の浅瀬に住む3種のフラミンゴである。バードライフ・インターナショナルの協力の下2000年に行なわれた調査では、チリーフラミンゴや南米コンドルを含む6つの絶滅危惧種が確認されている。

合計17の特殊な植物や3種の藻がポオポ湖の周囲で確認されている。定期的な渇水と洪水があるため、沿岸部は植生には適していない。

チチカカ湖

チチカカ湖(チチカカこ、スペイン語: Lago Titicaca)またはティティカカ湖は、アンデス山中のペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖。アルティプラーノの北部に位置する。湖の中央は、南緯約16度、西経約69度で、標高は3810mほどである(Kolata 1996:24)。湖面の60%がペルー領で40%がボリビア領となっている。「汽船などが航行可能な湖として世界最高所」と言われる[1]。数少ない古代湖でもある。


概要[編集]

複数の河川が湖に注ぎ込むが、湖から流れ出すのは大きな河川ではデサグワデーロ川があり、アルティプラーノの南部にあるポーポ湖へと連なっている。

湖には、チチカカ島やルーナ島、タキーレ島、アマンタニ島、太陽の島、月の島、スリキ島、スアシ島など41の大小の島々がある。またペルー側にあるプーノ市街の沿岸や沖合にはウル族(Uros)がトトラと呼ばれる葦を多数重ね合わせた浮島に居住している[1]。かつては小舟もトトラで作っていた。彼らは現在でも浮島に居住しながら、漁や観光客を相手の商売で生計を立てている。チチカカ湖やその周辺には、他にもケチュア族やアイマラ族といった、先住民族が居住しており、漁業や都市部での就労の他、島では農耕などに携わって生計をたてて暮らしている[1]。

1998年8月にボリビア側の領域800km2がラムサール条約登録地となった。

また、この湖にはチリとの戦争で海を失い、内陸国となったボリビアの海軍基地がある。

地理的条件および気象条件[編集]

湖の面積はおよそ8562km2、容積903km3あり、大きい湖 Lago Grande と、小さな湖(あるいはウィニャイマルカ湖)Lago Pequeño(Lago WiñaymarkaあるいはLago Huiñaymarca)に分かれる。

Lago Grande はおよそ面積7130km2、Lago Pequeño はおよそ1430m2ほどある(Boulangé and Aquize Jaen 1981 および Comisión Mixta Peruana Boliviana cited in Kolata 1996:26)。ただし、調査者により、面積や最深部は最大で数十メートルほどの誤差がある。この二つの湖はティキーナの海峡の幅約800mほどのところでつながっている。Lago Grande は、深さ最大で285mあり、約2/3が150m以上の深さであるが、Lago Pequeño は最大でも深さ40mほどしかなく、ほとんどが5-10mほどの深さしかない。

チチカカ湖盆地の平均気温は、湖岸で約0°C、湖中央で8 - 10°Cほどあり(Dejoux 1992:67)、平均降水量は、湖岸で400 - 800mm、湖中央で最大1500mmほどある(前掲書:69)。標高は高いが熱帯に属しているため、年間を通して日照時間は相対的に安定している。湖は全体的には閉鎖系として機能している。実際、河川によって湖から外部へ排出されている流出量は、湖水全体の消失量の5%以下しかない。また、熱帯で標高が高いため湖水の蒸発が激しく、そのため塩分の量が多く1リットルあたり約1グラムほどある。チチカカ湖の湖水の蒸発は、結果的に、この地域全体の気候の温暖化に寄与している。湖水の蒸発によって、地域全体が蒸気に包まれた熱貯蔵効果を持つため、チチカカ湖盆地は、標高が高いにもかかわらず比較的暖かく安定した気候を保っている。

水産資源[編集]

外来種[編集]

北米原産のニジマス(スペイン語ではTrucha arco iris)やヨーロッパ原産のブラウントラウト(スペイン語ではTrucha de arroyo)、アルゼンチン原産の ペヘレイ といった魚類が水産資源として外部から移入されている。

ニジマス (Salmo gairdneri Richardson,1836→現在はOncorhynchus mykiss (Walbaum, 1792)) が1941-42年に、ペヘレイ (Basilichthys bonariensis (Valenciennes 1835)) が1955-56年に、移入される。

ボリビア側にあるティキーナという湖畔には、日本の援助で作られたマスの養殖場がある。[1] ただし、ニジマスは他からもたらされた外来種であったため、30cm近くまで成長する在来種のカラチの大形種 Orestias cuvieri Valenciennes,1846 が絶滅してしまったといわれている。しかしながら、そのこと自体は確認もされておらず、逆に反証もされていないという。

チチカカ湖に棲息する生物についてはまだ研究が進んでいない点も多く、分類、記載されていない種類の魚もあると考えられている。

在来種[編集]
魚類 チチカカ湖では、カダヤシ目のキプリノドン科に分類される狭義の卵生メダカ類、オレスティアス属 Orestias のカラチ( Orestias agassissi Valenciennes,1846 など) やイスピ (O. pentlandii Valenciennes,1846 や O. ispi Lauzanne,1981 など) といった在来固有種の魚が捕獲でき、現在でもから揚げなどにして食用にされている(卵生メダカ類といっても10〜20cm前後まで成長する)。このカラチと思われる図像が、ティワナク遺跡の出土遺物に描かれている。
また、南米に広く棲息する、ヒルナマズ科Trichomycteridae(いわゆるカンディル類を含む科) の一種で、 現地でマウリと呼ばれるナマズ(Trichomycterus dispar (Tschudi,1846))がいる。チチカカ湖には、このヒルナマズ科のうちT.rivulatusおよびT.disparの2種が棲息しているといわれている。マウリも食用にされ、ティワナク遺跡にある彫刻の中にも描かれている。

両生類 チチカカミズガエルなどの大型の水棲のカエルが生息し、他に ヒキガエル属、フクロアマガエル属、ヨツメガエル属なども生息する。一部の種は周辺の地域では足などを唐揚げにして食べる。また、チチカカミズガエルの仲間などは、アイマラやケチュアの生殖儀礼などに用いられている。

爬虫類 全長40-50cmほどのヘビ、Tachymenis peruvianaも棲息している。このヘビと思われる図像が、ティワナク遺跡出土遺物の中に描かれている。

その他 かつて考古学者でボリビア研究者のポスナンスキー(Arthur Posnansky)は、チチカカ湖の漁師から手渡されたとされる1個体の乾燥標本に基いて、世界で唯一の淡水生タツノオトシゴの一種である"Hippocampus titicacaensis Posnansky,1943"を記録した。標高3000m以上の淡水湖にタツノオトシゴ類が生息するとすれば極めて特異なことであるが、彼はチチカカ湖はかつて海とつながっていた時期があり、タツノオトシゴの存在もその傍証であると考えていた。しかしこの記録以降はまったく確認されないことなどから、実際には商人が薬用として持ち込んだ海産種の誤認ではないかと言われており、彼の記録も正式な種の記載とは認められていない。ただしティワナク村にある博物館には、タツノオトシゴが先スペイン期の遺物として展示されており、ポスナンスキーの記録にいくばくかの信憑性を与えているかのようにも見える。しかし、それでもなお、この博物館に展示されている遺物のほとんどについては、それらが発掘された時の詳しい出土状況の説明が加えられていないという問題もある。実際に、この村の博物館には、偽物がいくつか展示されており、このタツノオトシゴも偽物ではないかと言われているが、調べた者はいない。

アルティプラーノ

アルティプラーノ(スペイン語: altiplanoまたはaltiplanicie アルティプラニシエ)は、一般的に新生代に形成された2つかそれ以上の山脈(同時期に隆起したとは限らない)の間の山と山との間に広がる標高の高い平坦な高原地帯で、現在のペルー南部からボリビア、チリなどにかけて広がる高原地帯。

アンデス山脈は、西山系と東山系という2列に山脈が平行して走っている。しかし、およそ南緯14度付近から、このアンデス山脈の間が広がり始め、標高およそ4000m前後で広大な高原地帯が広がりはじめる。この高原地帯をアルティプラーノと呼ぶ。その北部にチチカカ湖、南部にポオポ湖が存在する。

標高が4,000m前後あるため、冷涼で乾燥した気象条件を備える。その厳しい気候のため大木はほとんど生えず、赤茶けた大地が延々と広がっている。現在では、雑穀や塊茎類、マメ類、麦類などの農耕のほか、羊、リャマ、牛などの放牧が行なわれている。

アルティプラーノにある主な観光地や都市を以下に列挙する。
チチカカ湖 - 世界最高地にある湖
ポオポ湖 - チチカカ湖とつながる塩分濃度の高い湖
ウユニ塩原 - 広大な塩の湖
ラパス市 - アルティプラーノの窪地に作られた世界最高地にある首都
オルロ - 南米三大カーニバルの一つが行なわれる、ボリビアの地方都市

「アルティプラーノ」とは、スペイン語で「高く、平らな土地」という意味の言葉である。

カリャワヤ

カリャワヤ(kallawaya、カヤワヤとも)は、南米アンデス地方の山間部に暮らす、呪術師である。ボリビアのラパス県のチャラサニ郡パンパブランカがその中心地として有名である。ここはチチカカ湖の北東側にあたり、インディヘナの習俗を強く残している地域である。ここは、ケチュア族が多くすむ地域である。

カリャワヤは呪術師にして医師であり哲学者でもある。独特の世界観を持ち、人間の心と体、大地、動植物の関係について知見を持つとされる。カリャワヤは全ての自然物(山や木や湖や動物たちなど)を、人間と同じように家族や住む家を持ち名前を持った生命体であると考える。このため、人間が健康であるためには、山や木にも「食事を与える」必要があるとする。

カリャワヤの世界観では、生態系を3つの階層に分けて考える。一つは高地(アルティプラーノ)で、リャマを代表とする。二つ目は高山山間部(バジェ)で、高山植物を代表とする。三つ目は低地(温暖な地域:リャノ)で、綿花や花々を代表とする。

怪我や病気(しばしば精神的な病気も含む)の治療がカリャワヤの最も大切な役割である。この治療のとき、彼らはいくつかの植物を薬草として用いる。

コカはその中でも最も重要な薬草である。コカの葉を噛ませて胃や頭の痛みを抑えたり、空腹時の不快感を和らげたりし、また栄養源としても役立てている。さらに、コカの葉を地面に撒いてその落ち方によって吉凶を占うということもしばしば行なわれる。

コカ以外にも、綿花やマテやパセリなど様々な薬草を使っている。

2003年、カリャワヤの世界観はユネスコの無形文化遺産に登録された。

呪術医

呪術医(じゅじゅつい)または呪医(じゅい)とは、医療専従者のうち医療効果の根拠を超自然的なものに求めるもの、もしくは周囲の人間によって超自然的な根拠によって治療する能力があるとされるもののことである。呪術医は病名の診断にトランスや占いを行ったり、治療に際して治療儀礼を施すことがある。民俗学や文化人類学ではシャーマニズムによるシャーマンドクター(shaman doctor)やウィッチドクター(witch doctor)とも呼ばれる。必ずしも伝統的な徒弟制度や秘密結社に所属している必要はなく、つまり呪術医であることは伝統医であることは意味せず、現代社会において広く、同種業態の活動が見られる。

概要[編集]

医療は必ずしもいわゆる医学[1]に基づいた制度医療の専門家の判断で行われるだけではなく、家庭内の敢行、信仰、薬局や薬売り、そして様々な伝統医療や非伝統的な医療との関係の中で多元的に行われる(医療的多元論)[2]。社会分化や社会の複雑化によって誕生した制度医療は人類一般に有効な医療を指向し、脱宗教的な傾向を持っているが、他の医療従事者の中には、自分の医療の原理を超自然的な世界観や身体の超自然的な性質といった宗教的なものに求めるものもいる。そうしたものは診断において、トランスや託宣、占いを用い、治療において治療儀礼などを用いることがある。こうした医療従事者が呪術医と称される。しかし、呪術医の治療は必ずしも治療儀礼が行われる分けではないし、制度医療に対して必ずしも排他的なわけではなく、いわゆる呪術医が調合師していた薬や物理療法が薬理学や生理学的に効果があることも珍しくない。

また呪術医は一般に病気や怪我とされる問題の解決だけでなく、さまざまな不幸や恨み、妬みを制御、解消する役割を担うこともある。そもそもどのような状態が医者の手に委ねられるべきなのかについては社会的に決まる側面が大きく、また呪術によって恨みや妬みの解消されたことが結果的に疾病disease[3]の解消に寄与する場合もあり[4]、そのような社会的な役割も広い意味で呪術医の仕事として扱われることがある。

また、治療者が薬草や身体についての民族科学(民族植物学や民族薬理学など)に基づいた治療を行っているだけにもかかわらず、他の文化圏の人間からすると呪術的な医療と見なされることがある(ヨーロッパの魔女裁判における産婆など)。

社会と呪術医[編集]

現代の医療技術の発達は、この呪術医の経験や知識から、科学的に裏付けされた物へと置き換わる事で発展してきた。しかし現代医療でも治せない病は多く、平均寿命は延びたものの、死はやはり人類にとって不可避なものである。そのため、現代社会にあっても心理的な不安からこれら呪術医を頼る人は少なくない。

その一方で、民間療法は高齢者の生活の知恵として長らく伝えられており、医者の少ない地域社会においては高齢者がこの呪術医的な存在となるケースも見られる。近代社会においてさえも、高齢者による民間療法は病や傷を癒したり害悪を退ける霊力があると見なされる風潮もあった。(高齢者の項を参照)

原始社会と医療[編集]

社会の形成されてゆく中で、個人の死は避けがたい運命として認識されるようになってきたが、その一方で不可避である死を少しでも遠ざけようと、目に見えない(仮想上の)霊的な力を呼び寄せたり遠ざける事で、生命を少しでも永らえさせようと考える人が現れた。

死という現象は、科学的な視点から捉えれば、様々な原因によって死に至っている訳である。しかし、呪術的思考から捉えれば、いわゆる死神等に代表される寿命を司る神や様々な症状を起こさせる霊、または健康な状態に人を保っている精霊などの存在によって影響を受けるとされる。

現在の症候学の萌芽とも言えるこれらの知識体系では、長い年月を掛けて様々な症例に対する知識が収集されると共に、それらを改善する薬草などの情報も、神秘主義というフィルターを掛けられながらではあるものの、丹念に伝承されていった。現代でも未開な民族の間では、これら呪術医の治療行為は、自然崇拝の一端として、それら社会の中で深く信頼されており、また伝承により何世代にも渡って蓄積された医療知識は、特に風土病などに対して治療効果が認められるケースも少なからず見られる。

また呪術医はその霊能力により、原始社会のシャーマン(巫女・祈祷師・占い師といった役職)が兼任しているケースも見られる。災害は「環境が病に冒されている」ために発生すると考えられたため、強力な呪術医は天候や災害といった「自然環境の健康」をも治療できると信じられた地域もあるとされる。

なお近年では環境保護の観点から、環境を擬人化して理解しやすくした上で守ろうという運動も見られる。これらの思想は、前出の「自然環境すら癒す呪術医」の発想に通じる物があるといえよう。

中世の社会と呪術医[編集]

社会が自己組織化され、権力や地位がより明確な象徴を得る過程で、個人の神秘主義家は急速に社会のヒエラルヒーから外れていった。これは個人の神秘主義者が客観的にも明確な基盤に拠らず、自身の信じている知識体系に基いて存在していたためであるが、この段階に於いて呪術医も次第に社会の支持基盤を失っていった。

民間医療を伝えているため、民衆の中にあってこそ、その存在が珍重されたが、他方勢力をもった神秘主義者である宗教者が中世の社会で地位を築くと、それら宗教者が信奉する神秘主義と相容れない個人の神秘主義者は迫害され、その中にあって呪術医は自身の神秘主義を捨てて医療に専念するか、自身の神秘主義を貫いて迫害されるかのどちらかを選んだと思われる。

この段階に於いては呪術医は自己の知識体系を科学的に再構築して医者となるか、迫害されて権力から遠ざかるかのいずれかであったと思われるが、その一方で主力と成った神秘主義者である宗教家が、従来は呪術医が担っていた地位を獲得している。この時代に於いて宗教家=僧侶が呪術医のように振る舞い、また医療行為を行う事は多く、かつての独自の論理体系に基いていた呪術医の中に、迫害されないために勢力のある宗教に改宗した者もいたのかもしれない。

中世ヨーロッパでは、魔女狩りなど勢力のある宗教が他の神秘主義者を弾圧する社会現象が多発したが、これによってヨーロッパ地域に居た呪術医は一掃された。その一方で勢力を持っている宗教家である僧侶が呪術医の立場を確立する事により、高貴な存在とされた王族による接触(ロイヤルタッチ)が治療効果があると流布されたり、必ずしも適切ではない瀉血の乱用に代表される(奇妙な)治療行為が流行した。なお瀉血に関しては一部の症状に有効である事が近年になって判ってきており、これも呪術医の伝統的な治療が見直されている一例に上げる事もできよう。
なお瀉血に関しては、近代や現代においてもきちんとした医学的根拠に基いて利用されている治療法の一つではあるが、中世においては落馬による骨折や伝染病にまで乱用され、あるいは適切な療養で回復したかも知れない人の血液を出させ、体力を徒に損耗させる・瀉血後の傷跡が感染症を招く事によって、多数の死者を出している。(瀉血の項を参照)
近代社会と呪術医[編集]

近代に於いて、西欧医学の外科医療や薬物学が急速に発展した。しかしその一方で即物的な対症療法はしばしば、患者の容態の(良い意味でも、悪い意味でも)激変を招くケースもあり、これら外科医療や薬剤に対する不信感も少なからず見られた。この事から、患者の中には古くから伝わる呪い(まじない)等に執着するケースも少なからず発生した。

西洋医学は、より精密な研究と正確で詳細な知識を糧に改良・改善され、次第に社会的地位を獲得するに至ったが、当初はそれら医療技術に要求される対価は一般労働者の生活を非常に圧迫し得るものであったため、これら近代医療は権力者や富豪だけのものとされた。このため労働者階級の大半は、その貧しさのために呪術的な民間療法に気休めを求める他はなかった。

この現象は近年の発展途上国にも見られ、特に原始的な生活を営む少数民族では、それら民族内に存在する西洋文明全体に対しての否定的な風潮から、従来その地域に無かった伝染病が発生した場合に西洋医学的な医療行為が拒絶されるケースも発生、結果として少数民族の村落に甚大な被害が発生・拡大した事例も報告されている。南米ペルーでは2004年9月より、土着動物のチスイコウモリの中に狂犬病ウイルスに汚染されたものが増加、地域住民が噛まれて感染する被害が続出し、2005年2月までに先住民族の子供ら11名が死亡する事態となっている。衛生当局が医師を派遣するも、ワクチン投与が拒まれるケースもあるという。

他方、西欧は近代以降において他国にその版図を伸ばしたが、その過程で先住民族の間や呪術医に伝わる民間療法を調査、薬効が認められる薬草などを精力的に収集して近代薬物学の発展を促した。しかしその一方で、植民地政策の一環で先住民族の文化を全否定し、この呪術医のもつ知識や経験をも否定して放逐してしまったケースも見られ、近年になって僻地に逃れたこれら先住民族の呪術医の持つ知識や経験が代替医療として、または彼等の使用する薬草・薬剤に新しい有効成分を含む事が発見される等して、その医療行為の有効性が再評価されるケースも散見される。

現代社会と呪術医[編集]

近代にてこれら呪術医の類型と見なされていた東洋医学の鍼治療(針治療とも)も、欧米の現代医学上で一定の治療効果が認められ、1970年代以降より徐々にその利用者が増えている。ニクソン大統領1971年訪中の際に同行した記者が、鍼麻酔により虫垂炎の治療された体験談が米国メディアで伝えられた事が、欧米でも一般に広く利用・または真面目に研究されるきっかけとなったとされている。(鍼の項を参照)

他方、古くから各地に伝わる呪術・古代医療に加え、全く根拠の無い(それどころか経験則にも拠っていない)心霊医療までもが先進国等でも流行し、こちらは西洋医学では治療法の確立されていない珍しい病気や難病、または劇的な治療効果の得難い慢性病や、精神的な不安から来る身体の不快感を解消しようとする人に利用されている。しかし疑似科学に騙されやすい人々が、治療効果の認められないようなサービスにまで、その労働力によって得た富を注ぎ込むケースも見られ、こちらは社会問題となっている。

近年では肉体と精神の健康は不可分であるという(民間に於いて・または医療機関に於いても)風潮もあり、神秘主義的な呪術医の持つ一種の暗示効果から「本当に治った」(若しくは「治ったような気がする」)というケース(プラシーボ効果など)も吹聴されるに至り、この問題が通信環境の拡充も手伝って「伝染」しやすい傾向も見られる。

幻覚と呪術医[編集]

古くはメキシコの呪術医などがサボテンの一種ペヨーテのような幻覚をもたらす物質を用いてシャーマニズム行為を行っていた。それがよく知られるようになったのは1938年にアルバート・ホフマンがリゼルグ酸ジエチルアミド(LSD)の合成に成功し、オルダス・ハクスレーなどの影響もあり1960年代に幻覚剤に対する注目度が高まってからであった。幻覚剤は目眩く様な視覚刺激をもたらし「サイケデリック」と表現された(後この名を冠する芸術が次々生まれる)。これは当時ベトナム戦争に伴ってアメリカで興りつつあった反戦運動の形態カウンターカルチャー・ヒッピー文化の原動力ともなり心理学者ティモシー・リアリーなどが理論的支柱になった。ヒッピー・ムーブメントはのちに精神面を重視するニューエイジ・ブームをもたらす一因になった。日本では文化人類学者の中沢新一などが『チベットの死者の書』関係で大きな影響を与えている。

コンピュータゲームと呪術医[編集]

1980年代以降、コンピュータゲームではファンタジーRPGの流行に伴い、これら呪術医や魔法医等が頻繁に登場する。

ゲームによっては死者復活までもが(僧侶などの役職として描かれるが、その実体は近代西欧における宗教関係者による呪術医行為に起因する)呪術医によってなされてしまう物もある。

関連する社会事象・事件[編集]

ライフスペース・ミイラ事件[編集]

詳細は「成田ミイラ化遺体事件」を参照

日本では1999年に千葉県にて、4ヶ月前からホテルに宿泊していたとされる男性の半ばミイラ化した遺体が発見され、大きな話題となった。

この事件において、自称「自己啓発セミナー主催団体」のライフスペース主催者と男性の家族等は、男性はミイラ化しているが生きていると主張、警察側が遺体を司法解剖したために死亡したと訴えた。しかし警察側は男性が重度の脳内出血によって病院に運ばれ、入院治療を受けていた最中に男性の家族によって連れ出され、適切と思われる治療も受けられないまま、喉に痰が絡んで窒息を起こして死亡したとして、病院から連れ出した男性の家族を保護責任者遺棄致死罪で起訴、千葉地方裁判所は懲役2年6ヶ月・執行猶予3年を言い渡した。

アーユルヴェーダ

アーユルヴェーダ(サンスクリット: आयुर्वेद[1])はインド大陸の伝統的医学で、その名は生気、生命を意味するサンスクリット語の「アーユス」[2]と知識、学を意味する「ヴェーダ」[3]の複合語である。現代西洋でいう医学のみならず、生活の知恵、生命科学、哲学の概念も含んでいる。約五千年の歴史があり、チベット医学や古代ギリシア、ペルシアの医学等にも影響を与えたといわれており、インド占星術とアーユルヴェーダも深い関わりがあるとされている。「ヴァイシェーシカ」や「サーンキャ」を基礎においている。

現在、世界各地で西洋医学の代替手段として利用されている。

健康の基本的な考え方[編集]

心、体、行動や環境(西洋医学の父といわれるヒポクラテスも重視した)も含めた全体としての調和が健康にとって重要とみる。アーユルヴェーダでは病気になってしまってからそれを治すことより、病気になりにくい心身を作ること、病気を予防し、健康を維持するという「予防医学」の考え方に立っている。アーユルヴェーダは人間の身体を構成するパンチャブータ(五つの幽霊という意味。水は土を突き抜けていくように、古代インドでは、物質は見た目だけの粗大な構造物だと考えられていた。)つまりプリティヴィー(土)、アープ(水)、テージャス(火)、ヴァーユ(風)、アーカーシャ(空間)の形而上学に基づいて作られている。これらのより良いバランスを保つことにより、より具体的には、トリドーシャ(3大基本エネルギー要素の意)つまりヴァータ(気質:風と空気の複合元素)、ピッタ(胆汁酸:火と風の複合元素)及びカパ(痰:水と土の複合元素)のバランスが取れていること、各ダートゥ(肉体の「7つの構成要素」の意)がきちんと消化されていること、不快な状態がないことなどが健康の条件となる。

トリ・ドーシャ(3つの元素)[編集]

トリドーシャ त्रिदोष(3つのドーシャ दोष)説は、鉱物、植物、動物、人間および環境世界はヴァータ वात ・ピッタ पित्त ・カパ कफ という3要素を持っているとする説。人間は個人により3要素の強さの違いがあり、性格や体質の違いとして現れるという。また、それに合わせた食生活、病気の治療法があるという。各ドーシャにおいて、ヴァータは「空・風」、ピッタは「火」、カパは「水・地」、を表している。ドーシャは1日のなかでカパ、ピッタ、ヴァータの順で変化のサイクルがあり、1年のなかでもサイクルがあり、人の一生の中でも変化する。また、食べ物や行動などでも変化する。

サプタ・ダートゥ(7つの構成要素)[編集]
1.ラサ(血漿)
2.ラクタ(乳糜、にゅうび)
3.マーンサ(筋肉)
4.メーダ(脂肪)
5.アスティ(骨)
6.マッジャー(骨髄)
7.シュックラ(生殖組織)

食べ物は以上の順で代謝されていくという。そして最終的に、オージャス(活気)となり、生き生きとした健康な状況を生み出すとする。

これらのダートゥを変換するためにはアグニ(消化の火)が働く。アグニが正常に働かないとアーマ(未消化物)が生成され、またマラ(老廃物)の生成と排泄に異変が起きる。

診断[編集]

診断を大きく分けると、
1.問診(プラシュナ)
2.触診(スバルシャナ)
3.視診(ダルシャナ)
4.聴診(サブタ・パリクシャー)

に分類できる。

視診には、舌診(ジフワ・パリクシャー)、眼での診断(ネトラ・パリクシャー)など、触診には、脈診(ナーディ・パリクシャー)、他に便や尿、痰などの排泄物でも診断を行う。

浄化法・治療法[編集]

アーユルヴェーダの浄化法は可能な限り身体に負担を掛けないように時間を掛けて、過剰なドーシャやアーマを身体外に排泄させるために1.前処置→2.中心処置→3.後処置の順番で施される。
1.前処置 プールヴァカルマ アーマパーチャナアーマ(毒素)の消化法
スネハナ・カルマ油剤法
シローダーラー頭部の浄化、中枢神経の強壮、精神疾患などの治療
アビヤンガ(= Abhyanga とは塗布する意・オイルマッサージのこと)塗布するオイルの種類によって目的が違う
ピリツイル(スネハナカルマ + スウェーダナ・カルマ(発汗法のこと) / 王様の治療法と呼ばれ、熱い数リットルのオイルを全身に振り掛けマッサージする。麻痺、リューマチなどの難治性疾患に効果がある)
エラキリ(スネハナカルマ+スウェーダナ・カルマ / 関節痛、リューマチに効果がある)
ナバラキリ(スウェーダナカルマ)ナバラライス(薬米)と Bala などの生薬と牛乳を使用する

2.プラダーナ・カルマ 中心処置 パンチャカルマ ヴァマナ(催吐法・主に胃・肺・食道・喉の浄化を目的とする):Vaman
ヴィレチャナ(催下法、下剤):Virechan
バスティ(浣腸法):Basti
ナスヤ(点鼻法・主に喉・頭部・顔面を浄化する事を目的とする):Navan、Nasya
ラクタ・モークシャ(瀉血療法):Rakta Moksha

3.後処置 パシュチャートカルマ シャマナ鎮静法 ドーシャのバランシングとアグニの正常化
サンサルジャナ食餌療法
ラサーヤナ不老長寿法 生薬や鉱物で作られた薬品を摂る(Chavanapurash が有名)
ヴァジーカラナ強精法 良い子孫を作る為の方法 ラサーヤナ同様、薬品を摂る


8部門[編集]
治病医学 内科学(カーヤ・チキッツァー)
小児科学(バーラ・タントラ)
精神科学 = 鬼人学(ブーダ・ヴィディヤー)
耳鼻咽喉科及び眼科学(シャーラーキャ・タントラ)
外科学(シャーリャ・チキッツァー)
毒物学(アガダ・タントラ)

予防医学 老年医学 = 不老長寿法(ラサーヤナ)
強精法(ヴァジーカラナ)


思想的背景[編集]

『チャラカ・サンヒター』では「バラドヴァージャ」という仙人がインドラ神に赴き、アーユル・ヴェーダを受け取ったと述べられている。『チャラカ・サンヒター』は『アタルヴァ・ヴェーダ』を根拠とし、三人の仙人が風、水、火について述べることで三元素を解説している。学術的には、チャラカ・サンヒターは2世紀頃に成立し(文献と成立年代は矛盾しているが、不祥の太古、無限遠、未来を説明する場合であっても、便宜的に数字を置く慣行がある。仏教も同様である。)、第1巻第1章はヴァイシェーシカ学派、第3巻第八章はニヤーヤ学派、第4巻第一章はサーンキヤ学派の思想が反映されていると評価されている。 太古に完成したサンヒターに基づく技術のために進歩が否定されているように見えるが、実際にはアーユルヴェーダの薬草類には8世紀から19世紀の文献のものも含まれ、ムガール帝国時代にイスラム医学が取り入れられ医学的な進歩を享受するなど、太古のヴェーダの権威を残しつつ、柔軟に折衷されている。

日本での現状[編集]


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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年6月)

近年は、ヨーガと並んでインド式美容、インド式セラピーの方法論として女性向けの雑誌・エステなどで取り上げられることが多く、人気のセラピーとして知られている。だが、語感や視覚イメージから来る神秘性、重厚さ、伝統的な雰囲気だけを利用した紛い物も存在する。アーユルヴェーダではその理論に基づいた多数の生薬を含んだオイル(100種類以上・生薬1:オイル4:水16の割合で作られる)が使用されるが、日本のサロンのほとんどではシローダラー(額のチャクラに垂らす)を胡麻油やアロマオイルで行っている。

また仮に、日本国内で正式なアーユルヴェーダを実行しようとしても、パンチャカルマ(浣腸法)などは医療行為に当たるため、施すことができない。治療を行えるのは医師だけである。また最近、ネトラタルパナ(点眼)で眼病を引き起こしたり、カーナプラーナ(点耳)で難聴を引き起こす可能性があるため、これらの施術を行っているサロンは医師法に抵触している可能性がある。その他、なんらかの薬事効果や治療効果を謳った場合も同法ないしは薬事法に抵触する。 厚生労働省及び保健所はネトラタルパナ(点眼)は医師法違反になるとの見解である。
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