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2014年02月14日
ハンフリー・デービー
サー・ハンフリー・デービー(Sir Humphry Davy、1778年12月17日 - 1829年5月29日)は、イギリスの化学者で発明家[1]。アルカリ金属やアルカリ土類金属をいくつか発見したことで知られ、塩素やヨウ素の性質を研究したことでも知られている。ベルセリウスは On Some Chemical Agencies of Electricity と題したデービーの1806年の Bakerian Lecture[2]を「化学の理論を豊かにした最良の論文のひとつ」としている[3]。この論文は19世紀前半の様々な化学親和力理論の核となった[4]。1815年、デービー灯を発明し、可燃性の気体が存在しても坑夫が安全に働けるようになった。
目次 [非表示]
1 生涯 1.1 年季奉公と詩人
1.2 初期の科学的関心
1.3 気体研究所
1.4 王立研究所 1.4.1 新元素発見
1.4.2 塩素の発見
1.5 有名人になる
1.6 ヨーロッパ旅行 1.6.1 デービー灯
1.6.2 酸と塩基
1.7 晩年と死
2 栄誉と後世への影響
3 主な著作
4 脚注・出典
5 参考文献
6 外部リンク
生涯[編集]
故郷ペンザンスにあるデービーの像
1778年12月17日、コーンウォールのペンザンスに生まれる。教区記録簿によれば、ロバート・デービーの息子で、1779年1月22日に洗礼を受けたという。父は木彫職人で、利益よりも芸術性を追求する傾向があった。旧家の出身で、多少財産があった。妻グレースの家系も旧家だが、それほど裕福ではなかった。グレースの両親は熱病で相次いで亡くなり、グレースは姉妹と共にペンザンスの外科医ジョン・トンキンの養子になった。ロバート・デービーとグレースは5人の子をもうけた。ハンフリーは長男で、他に弟ジョン(1790年-1868年)がおり、3人の妹がいた。ジョンはハンフリー同様に化学者となり、ホスゲンと四フッ化ケイ素を発見している。
幼いころ一家はペンザンスから近郊にある先祖から受け継いだ土地に引っ越した。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父親を説得して私立学校に転校させた。当初ペンザンスのグラマースクールに通っていたが、J. C. Coryton という聖職者の指導を受けるようになった。デービーは記憶力がよく本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書もよく読んだ。8歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、少年たちを集めて最近読んだ本の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。
同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは主にクエーカーで馬具工を営んでいたロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池やライデン瓶を作り、数学の原理を視覚化する模型を作ったりしていた。それらを使ってダンキンはデービーに科学の初歩を教えた。後に王立研究所の教授になったとき、デービーはダンキンから教わった実験の多くを再現することになる。1793年、デービーはトルーローに行き、Cardew という博士の下で教育を終えた。Cardew は後に「彼がこれほど才能があることを見抜けなかった」と述べている。デービー自身は型に嵌められずに放っておかれたことが自分にとってはよかったと後に述べている[5]。
年季奉公と詩人[編集]
1794年に父親が亡くなると、トンキンはデービーをペンザンスで病院を営む外科医ジョン・ビンガム・ボーラスに弟子入り(年季奉公)させた。年季明けは1795年2月10日となっていた。その病院の薬局でデービーは化学を学び、トンキンの自宅の屋根裏で化学実験を行った。デービーの友人はよく「あいつは手に負えない。そのうち俺たちを吹っ飛ばすだろう」と言っていた。また、妹の服に腐食性の化学物質で大きなシミを作ったことがある[5]。
デービーの詩人としての側面は多くの者が言及しており、デービーの伝記を書いたジョン・アイルトン・パリスもデービーの詩について簡単に触れている。デービーが最初に詩を書いたのは1795年のことで、The Sons of Genius と題したその詩は若さゆえの未熟さが目立つ。その後数年間に多数の詩を生み出した。中でも On the Mount's Bay と St. Michael's Mount は感受性豊かで楽しげだが、真の詩的想像力は示されていない。デービーは間もなく科学に専念するため詩作を断念する。17歳のとき、初恋を詩にしていたころ、デービーは熱の物質性という問題をクエーカーの友人と熱心に議論していた。ダンキンはデービーについて「人生で出会った中で最も議論上手」だと述べたことがある。ある冬の日、デービーはダンキンをペンザンスを流れる川に誘い、2つの氷の板をこすりあわせると氷が溶け出すほどのエネルギーが生まれ、こするのをやめると復氷によって氷の板がくっつくという実験を披露した。後にデービーは王立研究所でさらに洗練させた形で同じ実験を披露し、注目を浴びた[5]。
初期の科学的関心[編集]
王立協会フェローだったデービス・ギルバートは、ボーラス博士の自宅の門のところで偶然デービーと出会った。若者の話に興味を持ったギルバートは彼に自分の書斎を使わせることを申し出、自宅に招待した。そこで、聖バーソロミュー病院の付属医学校で化学講師を務めていたエドワーズ博士と出会う。エドワーズ博士はデービーに実験室の器具の使用を許可し、ヘイルの港の水門の問題を話した。当時、銅や鉄でできた水門が海水によって急速に腐食することが問題となっていた。当時ガルバニック腐食は知られていなかったが、その話からデービーは後に船体に銅版を葺いた船での実験を思いついた。ジェームズ・ワットの息子グレゴリー・ワットは療養のためペンザンスを訪れ、デービーの母の家に滞在した。そこでデービーと友人になり、デービーは彼から化学を学んだ。ウェッジウッド家も冬をペンザンスで過ごす習慣があり、デービーは彼らとも面識があった[5]。
トーマス・ベドーズ (Thomas Beddoes) とジョン・ヘイルストーン (en) は地質学上の論争(地球上の岩石は火山によってできたのか、原始地球の海で鉱物が析出して結晶化したのか)を戦わせていた。2人はデービス・ギルバートの案内でコーンウォールの海岸の調査旅行にやってきた。その際にデービーとも知り合うことになった。べドーズはそのころブリストルに気体研究所を創設したところで、研究所を指揮する助手を探していた。そこでギルバートがデービーを推薦。デービーの母とボーラスはそれに賛成したが、トンキンはデービーがペンザンスで外科医として働くことを望んでいた。しかし、デービー本人がべドーズの研究所で働くことを望んでいることを知ると、それを許した。
気体研究所[編集]
ジェームズ・ワット
1798年10月2日、デービーはブリストルの気体研究所にやってきた。この研究所は人工的に製造した気体を医療に応用することを目的としており、デービーは各種実験の指揮を任された。べドーズとデービーの間に交わされた取り決めは寛大なもので、デービーは父の残した不動産の相続権を全て放棄して母に渡すことができた。デービーは医者になることをあきらめたわけではなく、エジンバラ大学で学ぶことを考えていたが、間もなく研究所の一画でボルタ電池を多数作り始めた。ブリストルではダラム伯と知り合い、気体研究所で製造した亜酸化窒素(笑気ガス)を定期的に吸引しに来たグレゴリー・ワット、ジェームズ・ワット、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ロバート・サウジーとも友人になった。ちなみにデービー本人も笑気ガス中毒になっている。このガスを最初に合成したのはイギリスの自然哲学者で化学者のジョゼフ・プリーストリーで、1772年のことである。彼はそれを「フロギストン化窒素ガス」と称していた(フロギストン説)[6]。プリーストリーはその発見を著書 Experiments and Observations on Different Kinds of Air (1775) に記し、鉄のやすり屑を硝酸に浸して熱するという製法も記述した[7]。
ジェームズ・ワットはデービーの亜酸化窒素吸入実験のために運搬可能なガス室を製作した。これにより、ワインによる二日酔いの治療に亜酸化窒素が役立つという結論が得られた(デービーの実験記録に「成功」と記されている)。笑気ガスはデービーの周辺の人々や友人には人気があり、デービー本人もそのガスに痛覚を取り除く能力があることに気づいていたにも関わらず、デービー本人はそれを麻酔剤として使うということに思い至らなかったようである。笑気ガスの麻酔剤としての使用はデービーの死後数十年経って、医療や歯科治療で一般化することになった[8]。
デービーは研究所の仕事に熱心に取り組み、周辺の観光案内をしてくれたべドーズ夫人と長い不倫関係を結んだ[9]。1799年12月、初めてロンドンを訪れ、そこでさらに友人を作っている[5]。
様々なガス実験でデービーはかなりの危険を冒している。一酸化窒素の吸引実験では、口中で硝酸 (HNO3) が発生したと見られ、口の粘膜を激しく損傷する結果となった。一酸化炭素の吸引実験では、死線をさまようことになった。外気を取り入れてやっと生気を取り戻し「私は死なない」と言ったデービーだが、回復するまで数時間を要した[5]。デービーは実験室から庭によろめき出て、自分の脈を取ってみた。実験記録には「糸のようで (threadlike)、脈が極めて速くなる」と記している。
その年、デービーは West-Country Collections の第1巻を刊行した。その半分はデービーの論文 On Heat, Light, and the Combinations of Light、On Phos-oxygen and its Combinations、Theory of Respiration である。1799年2月22日、デービーはデービス・ギルバートへの手紙にカロリック説が間違っていると確信していると記していた。4月10日のデービス・ギルバートへの手紙では、昨日繰り返し実験することの重要性を証明する発見をしたと記している。それは純粋な笑気ガスを製造する方法を確立したという発見だった。彼はさらに7分近く笑気ガスを吸引し続けても全く問題なかったと記している。同年デービーは Researches, Chemical and Philosophical, chiefly concerning Nitrous Oxide and its Respiration を発表した。後年、デービーはそれらの未熟な仮説を出版したことを後悔している[5]。
デービーは気体研究所で電気を使った実験も行って成功したと、デービス・ギルバートへの手紙に書いている。
王立研究所[編集]
1799年、ベンジャミン・トンプソンはロンドンでの「知識普及のための研究所」の創設を提案した。科学を知らない一般人向け(貴族向け)に公開実験を行い、科学の普及に貢献することを目的としている。それが王立研究所である。1799年4月に建物を購入。トンプソンが所長となり、最初の講演者はガーネット博士だった。
James Gillray による風刺画。王立研究所でガーネット博士が行った講演の様子。ふいごを持っているのがデービー、右端にいるのがベンジャミン・トンプソン。ガーネット博士は被験者の鼻をつまんでいる。
デービーの Researches は斬新な内容で化学に関する発見で溢れていたため、自然哲学者らの関心をひきつけ、デービー自身が一躍注目されるようになった。デービーの動向を長い間気にしていたジョゼフ・バンクスは1801年2月、デービーを公式に呼び寄せ、ベンジャミン・トンプソンやヘンリー・キャヴェンディッシュと共に面接した。デービーは1801年3月8日のギルバート宛ての手紙で、バンクスやトンプソンからロンドンの王立研究所での仕事と電気の研究への資金提供の申し出があったことを記している。また、その手紙の中で、べドーズの気体研究所での仕事は続けられないだろうと記している[8]。1801年、デービーは王立研究所で化学講演助手兼実験主任となり、同研究所の発行する雑誌の編集助手も務め、研究所内に部屋を与えられ、燃料と給料を支給されることになった[5]。
1801年4月25日、デービーは比較的新しい分野である動電気学(静電気の対義語。電流が流れる電気を扱う)の講演を行い、天職の1つに出会った。彼は友人のコールリッジと人間の知識の本質や進歩などといった話題でよく会話を交わし、講演では科学的発見によって文明が進歩していくというビジョンを観客に提示した。講演では単に受動的に観察し考察する学者というよりも、自身の実験器具を自在に操って能動的に周囲を支配した。最初の講演は絶賛され、6月の講演では最終的に500人近い観客が集まったという[8]。
デービーは講演に華々しい、時には危険ですらある実験を組み込み、天地創造の引用を散りばめつつ、本物の科学的情報も織り込んで解説した。講演者として人気を博しただけでなく、ハンサムなデービーは女性からの人気も高かった。Gillrayの風刺画で描かれた観客のほぼ半数は女性である。動電気学の一連の講演が終了すると、デービーは農芸化学の一連の講演を開始し、さらに人気を博した。1802年7月、王立研究所で1年あまりが経過したころ講演助手から正講演者に昇格した。23歳のことである。ガーネット博士は健康上の問題を理由に静かに引退した[8]。
1803年11月、デービーは王立協会フェローに選ばれた[10]。18010年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。
新元素発見[編集]
油に浸した金属ナトリウム
ボルタ電池
金属マグネシウムの結晶
1806年、「結合の電気化学的仮説」を発表。
デービーはボルタ電池を使った電気分解の先駆者であり、よくある化合物を分解して様々な新元素を発見した。彼は溶融塩の電気分解によって非常に反応性の高いアルカリ金属であるナトリウムやカリウムといった新たな金属を発見。カリウムは1807年、水酸化カリウム (KOH) の電気分解で発見している。18世紀になるまで、ナトリウムとカリウムは区別されていなかった。カリウムは電気分解で単離された最初の金属である。ナトリウムは、溶融した水酸化ナトリウムを電気分解することで同年デービーが単離した。1808年には石灰と酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見した[11][12]。これは、ベルセリウスらが石灰と水銀の混合物の電気分解からカルシウムのアマルガムを得たと聞き、自分でも試してみた結果である。その後も電気分解実験を続け、マグネシウム、ホウ素[13]、バリウム[14]を発見した。6つの元素を発見した化学者は、デービーただ一人である。
塩素の発見[編集]
塩素は1774年、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが発見したが、「脱フロギストン海塩酸気」"dephlogisticated marine acid air"(フロギストン説参照)と名付け、酸素を含んだ化合物だと誤解していた。シェーレは、二酸化マンガン (MnO2) と塩酸 (HCl、当時は「海塩酸」と呼ばれた) から塩素を作った。
4 HCl + MnO2 → MnCl2 + 2 H2O + Cl2
シェーレは塩素ガスの特性をいくつか観察しており、リトマスを脱色する効果があること、昆虫を殺す効果があること、色が黄緑色であること、王水とよく似た臭いがすることなどを記している。しかし、シェーレはその発見を公表することができなかった。
1810年、塩素を現在の名称である "chlorine" と名付けたのはデービーで、彼はそれが化合物ではなく元素だと主張した[15]。彼はまた、塩酸(塩化水素水溶液)を電気分解しても酸素が得られないことを示した。この発見により、酸は酸素の化合物だとするラヴォアジエの定義を覆した。
有名人になる[編集]
デービーは講演者として多くの観客を集め、名声を謳歌した。笑気ガス(亜酸化窒素)などの気体の生理作用の実験でもよく知られ、笑気ガスがアルコールに優ると述べているが、そのことも問題とはされなかった。
後にデービーは三塩化窒素の実験中の事故で視力を損なった[16]。この化合物を最初に作ったのはピエール・ルイ・デュロンで1812年のことだが、彼も2度の爆発で指を2本失い、片目を失っている。この事故のためデービーは助手としてマイケル・ファラデーを雇うことになった。
ヨーロッパ旅行[編集]
鉱石に埋まったダイヤモンドの結晶
1812年、ナイトに叙せられ、王立研究所での最後の講演を行った後、裕福な未亡人と結婚した。1813年10月、フランスを始めとするヨーロッパ大陸に『新婚旅行』へ旅立つ。この際に実験助手としてファラデーを伴っている(夫人の使用人が当時敵対していたフランスに同行することを拒んだため、彼女はファラデーを使用人として扱ったとされる)。この旅行はまた、ナポレオン・ボナパルトがデービーに贈ったメダルを受け取るための旅でもあった。パリではゲイ=リュサックに依頼され、ベルナール・クールトアが分離した奇妙な物質の調査を行った。それは現在ヨウ素と呼ばれている元素で、デービーはそれが元素に違いないと述べている[17][18]。
一行は1813年12月にパリを発ち、イタリアへ向かった[19]。フィレンツェに滞在すると、ファラデーを助手として一連の公開実験を行った。このとき太陽光線を集めてダイヤモンドを発火させる実験を成功させ、ダイヤモンドが純粋な炭素で構成されていることを証明した。
次にローマへ行き、さらにナポリとヴェスヴィオ山を訪れている。1814年6月、ミラノでアレッサンドロ・ボルタと会い、さらにジュネーヴへ向かった。ミュンヘンとインスブルックを経由してイタリアに戻った。その後ギリシャとコンスタンティノープルに向かう予定だったが、ナポレオンがエルバ島を脱出し情勢が不穏になってきたため、イングランドに帰国した。
なお、夫妻に子供はできなかった。
デービー灯[編集]
デービー灯
1815年にイングランドに戻ると、デービーは炭鉱で使うランプの実験を始めた。当時、炭鉱で坑夫が使うランプの火が充満したメタンに引火して爆発する事故が頻発していた。特に1812年、ニューカッスル近郊で大きな事故があり(en)、地下での明かりの改良が急務となっていた。デービーはランプの火を鉄製の細かい網で覆うことで、ランプ内で燃えているメタンが外に出て行くのを防止することを思いついた。これがデービー灯である。安全灯のアイデアは William Reid Clanny や当時無名だったジョージ・スチーブンソンも提案済みだったが、金網で炎が広がるのを防ぐというデービーのアイデアはその後の設計でよく使われるようになった。スチーブンソンのランプは北東の炭鉱地帯ではよく使われた。炎が外に広がるのを防ぐという考え方は同じだが、その手段がデービーとは異なる。しかし、目の細かい金網を使ったランプは従来よりも暗く、坑道内の湿気の多い環境では金網が錆びやすく劣化しやすかった。そのため、かえって爆発事故による死者数が増加したという。
デービーがデービー灯の原理を発見する際にスミソン・テナントの成果を参考にしたのではないかという議論もあるが、一般に両者はそれぞれ独自にその原理に到達したとされている。デービーは特許を取得せず、その発明によって1816年にランフォード・メダルを受賞している[1]。
酸と塩基[編集]
1815年、デービーは酸を置換可能な水素(金属と反応したとき金属元素と部分的または完全に置換される水素)を含む物質と定義した。酸と金属を反応させると塩が生じる。塩基は酸と反応して塩と水を生成する物質とされた。これらの定義は19世紀の化学ではほぼうまく機能した。
晩年と死[編集]
マイケル・ファラデーの肖像画(作 Thomas Phillips、1841–1842年ごろ)[20]
デービー灯発明の功績が認められ、1819年1月、デービーは当時のイギリスの科学者(平民)としては最高の栄誉である準男爵を授爵。翌1820年には王立協会会長に就任。
デービーの実験助手マイケル・ファラデーはデービーの成果をさらに発展させ、当代一の科学者となり、デービー最大の発見はファラデーを見出したことだと言われるまでになっていた。しかし、これを快く思わなかったデービーは、ウィリアム・ウラストン自身が否定しているにもかかわらず、ファラデーが「ウラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。そのため、ファラデーはデービーが亡くなるまで古典電磁気学の全ての研究を一時期やめざるを得なかった。1823年頃、ファラデーが王立協会の会員になることを猛烈に反対したが、ファラデーは1824年には会員となっている。
快活で多少過敏な気質だったデービーは、あらゆる仕事に独特の熱意とエネルギーを示した。彼の詩や散文が示すように、デービーの精神は非常に想像力豊かだった。詩人サミュエル・テイラー・コールリッジはデービーを「化学者になっていなかったら、詩人として成功していただろう」と述べ、同じく詩人ロバート・サウジーも「彼は本質的に詩人だ」と述べている。言葉を操る才能と説明の才能に恵まれたデービーは、講演者として大成功を収めた。コールリッジは「暗喩のストックを仕入れるため」にデービーの講演を聞きに行ったという。名声を得ることを人生最大の目的としたデービーは、些細な嫉妬で問題を起こしたりもした。エチケットには無頓着で常に率直だったため、普通なら避けられる問題に直面することもあった[21]。
生涯釣り(サケマス類のフライフィッシング)に親しみ、化学に関する書物以外に、釣りに関する本も執筆した。
1826年、健康上の理由により王立協会会長職を退いた(数年前より脳卒中の発作があった)。1829年、療養のため訪れていたスイスで父方から受け継いだ心臓病により死去。最後の数カ月は有名な "Consolations In Travel" を書いて過ごした。それには、詩の自由な批評、科学や哲学についてのエッセイが含まれている。デービーはジュネーヴの墓地に埋葬された[22]。デービーの研究は、ファラデーによって引き継がれた。
栄誉と後世への影響[編集]
月のクレーター Davy はハンフリー・デービーに因んでいる。
故郷のペンザンスにはデービーの像がある。その側にある記念銘板には、そこが生誕地だと記されている。
ペンザンスには、Humphry Davy School がある。また、ハンフリー・デービーの名を冠したパブもある。
デービーは最初のクレリヒュー(人物四行詩)の主題にされた。
デービーはロンドン動物学会の創設メンバーである。
王立協会は1877年、「化学の何らかの重要な新発見に対して」贈るデービーメダルを創設した。
主な著作[編集]
デービーの完全な著作一覧はFullmerの文献を参照[23]。
Davy, Humphry (1800). Researches, Chemical and Philosophical. Bristol: Biggs and Cottle. ISBN 0407331506.
(1813). Elements of Chemical Philosophy. London: Johnson and Co.. ISBN 0217889476.
(1813). Elements Of Agricultural Chemistry In A Course Of Lectures. London: Longman.
(1816). The Papers of Sir H. Davy. Newcastle: Emerson Charnley. (on Davy's safety lamp)
(1827). Discourses to the Royal Society. London: John Murray.
(1828). Salmonia or Days of Fly Fishing. London: John Murray.
(1830). Consolations in Travel or The Last Days of a Philosopher. London: John Murray.
脚注・出典[編集]
1.^ a b David Knight, ‘Davy, Sir Humphry, baronet (1778–1829)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 accessed 6 April 2008
2.^ “On Some Chemical Agencies of Electricity”. 2007年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年3月2日閲覧。
3.^ Berzelius, J. J.; trans. Jourdian and Esslinger (1829-1833) (French). Traite de chimie. 1 (trans., 8 vol. ed.). Paris. pp. 164., (Swedish) Larbok i kemien (Original ed.). Stockholm. (1818).
4.^ Levere, Trevor H. (1971). Affinity and Matter – Elements of Chemical Philosophy 1800-1865. Gordon and Breach Science Publishers. ISBN 2881245838.
5.^ a b c d e f g h Davy, Sir Humphry (1778–1829), natural philosopher, by Robert Hunt, Dictionary of National Biography, Published 1888
6.^ Keys TE (1941年). “The Development of Anesthesia”. Anesthesiology journal (Sep.1941, vol.2, is.5, p.552-574). 2010年10月27日閲覧。
7.^ Priestley J (1776年). “Experiments and Observations on Different Kinds of Air (vol.2, sec.3)”. 2010年10月27日閲覧。
8.^ a b c d Holmes, Richard (2008). The Age Of Wonder. Pantheon Books. ISBN 978-0-375-42222-5.
9.^ Cooper, Peter (December 23/30, 2000). “Humphry Davy − a Penzance prodigy”. The Pharmaceutical Journal 265 (7128): 920–921.
10.^ “Davy; Sir; Humphry (1778 - 1829); 1st Baronet” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
11.^ Enghag, P. (2004). “11. Sodium and Potassium”. Encyclopedia of the elements. Wiley-VCH Weinheim. ISBN 3527306668.
12.^ Davy, Humphry (1808). “On some new Phenomena of Chemical Changes produced by Electricity, particularly the Decomposition of the fixed Alkalies, and the Exhibition of the new Substances, which constitute their Bases”. Philosophical Transactions of the Royal Society of London (Royal Society of London.) 98: 1–45. doi:10.1098/rstl.1808.0001.
13.^ Weeks, Mary Elvira (1933). “XII. Other Elements Isolated with the Aid of Potassium and Sodium: Beryllium, Boron, Silicon and Aluminum”. The Discovery of the Elements. Easton, PA: Journal of Chemical Education. ISBN 0-7661-3872-0.
14.^ Robert E. Krebs (2006). The history and use of our earth's chemical elements: a reference guide. Greenwood Publishing Group. p. 80. ISBN 0313334382.
15.^ Sir Humphry Davy (1811). “On a Combination of Oxymuriatic Gas and Oxygene Gas”. Philosophical Transactions of the Royal Society 101: 155–162. doi:10.1098/rstl.1811.0008.
16.^ Humphry Davy (1813). “On a New Detonating Compound”. Philosophical Transactions of the Royal Society of London 103: 1–7. doi:10.1098/rstl.1813.0002.
17.^ H. Davy (1813). “Sur la nouvelle substance découverte par M. Courtois, dans le sel de Vareck”. Annales de chemie 88: 322.
18.^ Humphry Davy (January 1, 1814). “Some Experiments and Observations on a New Substance Which Becomes a Violet Coloured Gas by Heat”. Phil. Trans. R. Soc. Lond. 104: 74. doi:10.1098/rstl.1814.0007.
19.^ Williams, L. Pearce (1965). Michael Faraday: A Biography. New York: Basic Books. pp. 36. ISBN 0306802996.
20.^ National Portrait gallery NPG 269
21.^ この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.
22.^ Paris, John Ayrton (1831). The Life of Sir Humphry Davy, Bart., LL.D.. London: Henry Colburn and Richard Bentley. pp. 516–517.
23.^ Fullmer 1969
参考文献[編集]
Davy, John (1839-1840). The Collected Works of Sir Humphry Davy. London: Smith, Elder, and Company. ISBN 0217889441.
Pratt, Anne (1841). “Sir Humphrey Davy”. Dawnings of Genius. London: Charles Knight and Company. (Davy's first name is spelled incorrectly in this book.)
Hartley, Harold (1960). “The Wilkins Lecture. Sir Humphry Davy, Bt., P.R.S. 1778-1829”. Proceedings of the Royal Society of London. Series A, Mathematical and Physical Sciences 255 (1281): 153–180. doi:10.1098/rspa.1960.0060.
Treneer, Anne (1963). The Mercurial Chemist, A Life of Sir Humphry Davy. London: Methuen.
Hartley, Harold (1966). Humphry Davy. London: Nelson. ISBN 0854097295.
Partington, J. R. (1964) History of Chemistry; vol. 4. London: Macmillan; pp. 29–76
Fullmer, June Z. (1969), Sir Humphry Davy's Published Works, Cambridge, MA: Harvard University Press, ISBN 0674809610
Knight, David (1992). Humphry Davy: Science and Power. Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 0631168168.
Lamont-Brown, Raymond (2004). Humphry Davy, Life Beyond the Lamp. Stroud: Sutton Publishing. ISBN 0750932317.
Kenyon, T. K. (2008/2009). “Science and Celebrity: Humphry Davy’s Rising Star”. Chemical Heritage 26: 30–35.
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1 生涯 1.1 年季奉公と詩人
1.2 初期の科学的関心
1.3 気体研究所
1.4 王立研究所 1.4.1 新元素発見
1.4.2 塩素の発見
1.5 有名人になる
1.6 ヨーロッパ旅行 1.6.1 デービー灯
1.6.2 酸と塩基
1.7 晩年と死
2 栄誉と後世への影響
3 主な著作
4 脚注・出典
5 参考文献
6 外部リンク
生涯[編集]
故郷ペンザンスにあるデービーの像
1778年12月17日、コーンウォールのペンザンスに生まれる。教区記録簿によれば、ロバート・デービーの息子で、1779年1月22日に洗礼を受けたという。父は木彫職人で、利益よりも芸術性を追求する傾向があった。旧家の出身で、多少財産があった。妻グレースの家系も旧家だが、それほど裕福ではなかった。グレースの両親は熱病で相次いで亡くなり、グレースは姉妹と共にペンザンスの外科医ジョン・トンキンの養子になった。ロバート・デービーとグレースは5人の子をもうけた。ハンフリーは長男で、他に弟ジョン(1790年-1868年)がおり、3人の妹がいた。ジョンはハンフリー同様に化学者となり、ホスゲンと四フッ化ケイ素を発見している。
幼いころ一家はペンザンスから近郊にある先祖から受け継いだ土地に引っ越した。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父親を説得して私立学校に転校させた。当初ペンザンスのグラマースクールに通っていたが、J. C. Coryton という聖職者の指導を受けるようになった。デービーは記憶力がよく本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書もよく読んだ。8歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、少年たちを集めて最近読んだ本の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。
同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは主にクエーカーで馬具工を営んでいたロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池やライデン瓶を作り、数学の原理を視覚化する模型を作ったりしていた。それらを使ってダンキンはデービーに科学の初歩を教えた。後に王立研究所の教授になったとき、デービーはダンキンから教わった実験の多くを再現することになる。1793年、デービーはトルーローに行き、Cardew という博士の下で教育を終えた。Cardew は後に「彼がこれほど才能があることを見抜けなかった」と述べている。デービー自身は型に嵌められずに放っておかれたことが自分にとってはよかったと後に述べている[5]。
年季奉公と詩人[編集]
1794年に父親が亡くなると、トンキンはデービーをペンザンスで病院を営む外科医ジョン・ビンガム・ボーラスに弟子入り(年季奉公)させた。年季明けは1795年2月10日となっていた。その病院の薬局でデービーは化学を学び、トンキンの自宅の屋根裏で化学実験を行った。デービーの友人はよく「あいつは手に負えない。そのうち俺たちを吹っ飛ばすだろう」と言っていた。また、妹の服に腐食性の化学物質で大きなシミを作ったことがある[5]。
デービーの詩人としての側面は多くの者が言及しており、デービーの伝記を書いたジョン・アイルトン・パリスもデービーの詩について簡単に触れている。デービーが最初に詩を書いたのは1795年のことで、The Sons of Genius と題したその詩は若さゆえの未熟さが目立つ。その後数年間に多数の詩を生み出した。中でも On the Mount's Bay と St. Michael's Mount は感受性豊かで楽しげだが、真の詩的想像力は示されていない。デービーは間もなく科学に専念するため詩作を断念する。17歳のとき、初恋を詩にしていたころ、デービーは熱の物質性という問題をクエーカーの友人と熱心に議論していた。ダンキンはデービーについて「人生で出会った中で最も議論上手」だと述べたことがある。ある冬の日、デービーはダンキンをペンザンスを流れる川に誘い、2つの氷の板をこすりあわせると氷が溶け出すほどのエネルギーが生まれ、こするのをやめると復氷によって氷の板がくっつくという実験を披露した。後にデービーは王立研究所でさらに洗練させた形で同じ実験を披露し、注目を浴びた[5]。
初期の科学的関心[編集]
王立協会フェローだったデービス・ギルバートは、ボーラス博士の自宅の門のところで偶然デービーと出会った。若者の話に興味を持ったギルバートは彼に自分の書斎を使わせることを申し出、自宅に招待した。そこで、聖バーソロミュー病院の付属医学校で化学講師を務めていたエドワーズ博士と出会う。エドワーズ博士はデービーに実験室の器具の使用を許可し、ヘイルの港の水門の問題を話した。当時、銅や鉄でできた水門が海水によって急速に腐食することが問題となっていた。当時ガルバニック腐食は知られていなかったが、その話からデービーは後に船体に銅版を葺いた船での実験を思いついた。ジェームズ・ワットの息子グレゴリー・ワットは療養のためペンザンスを訪れ、デービーの母の家に滞在した。そこでデービーと友人になり、デービーは彼から化学を学んだ。ウェッジウッド家も冬をペンザンスで過ごす習慣があり、デービーは彼らとも面識があった[5]。
トーマス・ベドーズ (Thomas Beddoes) とジョン・ヘイルストーン (en) は地質学上の論争(地球上の岩石は火山によってできたのか、原始地球の海で鉱物が析出して結晶化したのか)を戦わせていた。2人はデービス・ギルバートの案内でコーンウォールの海岸の調査旅行にやってきた。その際にデービーとも知り合うことになった。べドーズはそのころブリストルに気体研究所を創設したところで、研究所を指揮する助手を探していた。そこでギルバートがデービーを推薦。デービーの母とボーラスはそれに賛成したが、トンキンはデービーがペンザンスで外科医として働くことを望んでいた。しかし、デービー本人がべドーズの研究所で働くことを望んでいることを知ると、それを許した。
気体研究所[編集]
ジェームズ・ワット
1798年10月2日、デービーはブリストルの気体研究所にやってきた。この研究所は人工的に製造した気体を医療に応用することを目的としており、デービーは各種実験の指揮を任された。べドーズとデービーの間に交わされた取り決めは寛大なもので、デービーは父の残した不動産の相続権を全て放棄して母に渡すことができた。デービーは医者になることをあきらめたわけではなく、エジンバラ大学で学ぶことを考えていたが、間もなく研究所の一画でボルタ電池を多数作り始めた。ブリストルではダラム伯と知り合い、気体研究所で製造した亜酸化窒素(笑気ガス)を定期的に吸引しに来たグレゴリー・ワット、ジェームズ・ワット、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ロバート・サウジーとも友人になった。ちなみにデービー本人も笑気ガス中毒になっている。このガスを最初に合成したのはイギリスの自然哲学者で化学者のジョゼフ・プリーストリーで、1772年のことである。彼はそれを「フロギストン化窒素ガス」と称していた(フロギストン説)[6]。プリーストリーはその発見を著書 Experiments and Observations on Different Kinds of Air (1775) に記し、鉄のやすり屑を硝酸に浸して熱するという製法も記述した[7]。
ジェームズ・ワットはデービーの亜酸化窒素吸入実験のために運搬可能なガス室を製作した。これにより、ワインによる二日酔いの治療に亜酸化窒素が役立つという結論が得られた(デービーの実験記録に「成功」と記されている)。笑気ガスはデービーの周辺の人々や友人には人気があり、デービー本人もそのガスに痛覚を取り除く能力があることに気づいていたにも関わらず、デービー本人はそれを麻酔剤として使うということに思い至らなかったようである。笑気ガスの麻酔剤としての使用はデービーの死後数十年経って、医療や歯科治療で一般化することになった[8]。
デービーは研究所の仕事に熱心に取り組み、周辺の観光案内をしてくれたべドーズ夫人と長い不倫関係を結んだ[9]。1799年12月、初めてロンドンを訪れ、そこでさらに友人を作っている[5]。
様々なガス実験でデービーはかなりの危険を冒している。一酸化窒素の吸引実験では、口中で硝酸 (HNO3) が発生したと見られ、口の粘膜を激しく損傷する結果となった。一酸化炭素の吸引実験では、死線をさまようことになった。外気を取り入れてやっと生気を取り戻し「私は死なない」と言ったデービーだが、回復するまで数時間を要した[5]。デービーは実験室から庭によろめき出て、自分の脈を取ってみた。実験記録には「糸のようで (threadlike)、脈が極めて速くなる」と記している。
その年、デービーは West-Country Collections の第1巻を刊行した。その半分はデービーの論文 On Heat, Light, and the Combinations of Light、On Phos-oxygen and its Combinations、Theory of Respiration である。1799年2月22日、デービーはデービス・ギルバートへの手紙にカロリック説が間違っていると確信していると記していた。4月10日のデービス・ギルバートへの手紙では、昨日繰り返し実験することの重要性を証明する発見をしたと記している。それは純粋な笑気ガスを製造する方法を確立したという発見だった。彼はさらに7分近く笑気ガスを吸引し続けても全く問題なかったと記している。同年デービーは Researches, Chemical and Philosophical, chiefly concerning Nitrous Oxide and its Respiration を発表した。後年、デービーはそれらの未熟な仮説を出版したことを後悔している[5]。
デービーは気体研究所で電気を使った実験も行って成功したと、デービス・ギルバートへの手紙に書いている。
王立研究所[編集]
1799年、ベンジャミン・トンプソンはロンドンでの「知識普及のための研究所」の創設を提案した。科学を知らない一般人向け(貴族向け)に公開実験を行い、科学の普及に貢献することを目的としている。それが王立研究所である。1799年4月に建物を購入。トンプソンが所長となり、最初の講演者はガーネット博士だった。
James Gillray による風刺画。王立研究所でガーネット博士が行った講演の様子。ふいごを持っているのがデービー、右端にいるのがベンジャミン・トンプソン。ガーネット博士は被験者の鼻をつまんでいる。
デービーの Researches は斬新な内容で化学に関する発見で溢れていたため、自然哲学者らの関心をひきつけ、デービー自身が一躍注目されるようになった。デービーの動向を長い間気にしていたジョゼフ・バンクスは1801年2月、デービーを公式に呼び寄せ、ベンジャミン・トンプソンやヘンリー・キャヴェンディッシュと共に面接した。デービーは1801年3月8日のギルバート宛ての手紙で、バンクスやトンプソンからロンドンの王立研究所での仕事と電気の研究への資金提供の申し出があったことを記している。また、その手紙の中で、べドーズの気体研究所での仕事は続けられないだろうと記している[8]。1801年、デービーは王立研究所で化学講演助手兼実験主任となり、同研究所の発行する雑誌の編集助手も務め、研究所内に部屋を与えられ、燃料と給料を支給されることになった[5]。
1801年4月25日、デービーは比較的新しい分野である動電気学(静電気の対義語。電流が流れる電気を扱う)の講演を行い、天職の1つに出会った。彼は友人のコールリッジと人間の知識の本質や進歩などといった話題でよく会話を交わし、講演では科学的発見によって文明が進歩していくというビジョンを観客に提示した。講演では単に受動的に観察し考察する学者というよりも、自身の実験器具を自在に操って能動的に周囲を支配した。最初の講演は絶賛され、6月の講演では最終的に500人近い観客が集まったという[8]。
デービーは講演に華々しい、時には危険ですらある実験を組み込み、天地創造の引用を散りばめつつ、本物の科学的情報も織り込んで解説した。講演者として人気を博しただけでなく、ハンサムなデービーは女性からの人気も高かった。Gillrayの風刺画で描かれた観客のほぼ半数は女性である。動電気学の一連の講演が終了すると、デービーは農芸化学の一連の講演を開始し、さらに人気を博した。1802年7月、王立研究所で1年あまりが経過したころ講演助手から正講演者に昇格した。23歳のことである。ガーネット博士は健康上の問題を理由に静かに引退した[8]。
1803年11月、デービーは王立協会フェローに選ばれた[10]。18010年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。
新元素発見[編集]
油に浸した金属ナトリウム
ボルタ電池
金属マグネシウムの結晶
1806年、「結合の電気化学的仮説」を発表。
デービーはボルタ電池を使った電気分解の先駆者であり、よくある化合物を分解して様々な新元素を発見した。彼は溶融塩の電気分解によって非常に反応性の高いアルカリ金属であるナトリウムやカリウムといった新たな金属を発見。カリウムは1807年、水酸化カリウム (KOH) の電気分解で発見している。18世紀になるまで、ナトリウムとカリウムは区別されていなかった。カリウムは電気分解で単離された最初の金属である。ナトリウムは、溶融した水酸化ナトリウムを電気分解することで同年デービーが単離した。1808年には石灰と酸化水銀の混合物を電気分解することでカルシウムを発見した[11][12]。これは、ベルセリウスらが石灰と水銀の混合物の電気分解からカルシウムのアマルガムを得たと聞き、自分でも試してみた結果である。その後も電気分解実験を続け、マグネシウム、ホウ素[13]、バリウム[14]を発見した。6つの元素を発見した化学者は、デービーただ一人である。
塩素の発見[編集]
塩素は1774年、スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが発見したが、「脱フロギストン海塩酸気」"dephlogisticated marine acid air"(フロギストン説参照)と名付け、酸素を含んだ化合物だと誤解していた。シェーレは、二酸化マンガン (MnO2) と塩酸 (HCl、当時は「海塩酸」と呼ばれた) から塩素を作った。
4 HCl + MnO2 → MnCl2 + 2 H2O + Cl2
シェーレは塩素ガスの特性をいくつか観察しており、リトマスを脱色する効果があること、昆虫を殺す効果があること、色が黄緑色であること、王水とよく似た臭いがすることなどを記している。しかし、シェーレはその発見を公表することができなかった。
1810年、塩素を現在の名称である "chlorine" と名付けたのはデービーで、彼はそれが化合物ではなく元素だと主張した[15]。彼はまた、塩酸(塩化水素水溶液)を電気分解しても酸素が得られないことを示した。この発見により、酸は酸素の化合物だとするラヴォアジエの定義を覆した。
有名人になる[編集]
デービーは講演者として多くの観客を集め、名声を謳歌した。笑気ガス(亜酸化窒素)などの気体の生理作用の実験でもよく知られ、笑気ガスがアルコールに優ると述べているが、そのことも問題とはされなかった。
後にデービーは三塩化窒素の実験中の事故で視力を損なった[16]。この化合物を最初に作ったのはピエール・ルイ・デュロンで1812年のことだが、彼も2度の爆発で指を2本失い、片目を失っている。この事故のためデービーは助手としてマイケル・ファラデーを雇うことになった。
ヨーロッパ旅行[編集]
鉱石に埋まったダイヤモンドの結晶
1812年、ナイトに叙せられ、王立研究所での最後の講演を行った後、裕福な未亡人と結婚した。1813年10月、フランスを始めとするヨーロッパ大陸に『新婚旅行』へ旅立つ。この際に実験助手としてファラデーを伴っている(夫人の使用人が当時敵対していたフランスに同行することを拒んだため、彼女はファラデーを使用人として扱ったとされる)。この旅行はまた、ナポレオン・ボナパルトがデービーに贈ったメダルを受け取るための旅でもあった。パリではゲイ=リュサックに依頼され、ベルナール・クールトアが分離した奇妙な物質の調査を行った。それは現在ヨウ素と呼ばれている元素で、デービーはそれが元素に違いないと述べている[17][18]。
一行は1813年12月にパリを発ち、イタリアへ向かった[19]。フィレンツェに滞在すると、ファラデーを助手として一連の公開実験を行った。このとき太陽光線を集めてダイヤモンドを発火させる実験を成功させ、ダイヤモンドが純粋な炭素で構成されていることを証明した。
次にローマへ行き、さらにナポリとヴェスヴィオ山を訪れている。1814年6月、ミラノでアレッサンドロ・ボルタと会い、さらにジュネーヴへ向かった。ミュンヘンとインスブルックを経由してイタリアに戻った。その後ギリシャとコンスタンティノープルに向かう予定だったが、ナポレオンがエルバ島を脱出し情勢が不穏になってきたため、イングランドに帰国した。
なお、夫妻に子供はできなかった。
デービー灯[編集]
デービー灯
1815年にイングランドに戻ると、デービーは炭鉱で使うランプの実験を始めた。当時、炭鉱で坑夫が使うランプの火が充満したメタンに引火して爆発する事故が頻発していた。特に1812年、ニューカッスル近郊で大きな事故があり(en)、地下での明かりの改良が急務となっていた。デービーはランプの火を鉄製の細かい網で覆うことで、ランプ内で燃えているメタンが外に出て行くのを防止することを思いついた。これがデービー灯である。安全灯のアイデアは William Reid Clanny や当時無名だったジョージ・スチーブンソンも提案済みだったが、金網で炎が広がるのを防ぐというデービーのアイデアはその後の設計でよく使われるようになった。スチーブンソンのランプは北東の炭鉱地帯ではよく使われた。炎が外に広がるのを防ぐという考え方は同じだが、その手段がデービーとは異なる。しかし、目の細かい金網を使ったランプは従来よりも暗く、坑道内の湿気の多い環境では金網が錆びやすく劣化しやすかった。そのため、かえって爆発事故による死者数が増加したという。
デービーがデービー灯の原理を発見する際にスミソン・テナントの成果を参考にしたのではないかという議論もあるが、一般に両者はそれぞれ独自にその原理に到達したとされている。デービーは特許を取得せず、その発明によって1816年にランフォード・メダルを受賞している[1]。
酸と塩基[編集]
1815年、デービーは酸を置換可能な水素(金属と反応したとき金属元素と部分的または完全に置換される水素)を含む物質と定義した。酸と金属を反応させると塩が生じる。塩基は酸と反応して塩と水を生成する物質とされた。これらの定義は19世紀の化学ではほぼうまく機能した。
晩年と死[編集]
マイケル・ファラデーの肖像画(作 Thomas Phillips、1841–1842年ごろ)[20]
デービー灯発明の功績が認められ、1819年1月、デービーは当時のイギリスの科学者(平民)としては最高の栄誉である準男爵を授爵。翌1820年には王立協会会長に就任。
デービーの実験助手マイケル・ファラデーはデービーの成果をさらに発展させ、当代一の科学者となり、デービー最大の発見はファラデーを見出したことだと言われるまでになっていた。しかし、これを快く思わなかったデービーは、ウィリアム・ウラストン自身が否定しているにもかかわらず、ファラデーが「ウラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。そのため、ファラデーはデービーが亡くなるまで古典電磁気学の全ての研究を一時期やめざるを得なかった。1823年頃、ファラデーが王立協会の会員になることを猛烈に反対したが、ファラデーは1824年には会員となっている。
快活で多少過敏な気質だったデービーは、あらゆる仕事に独特の熱意とエネルギーを示した。彼の詩や散文が示すように、デービーの精神は非常に想像力豊かだった。詩人サミュエル・テイラー・コールリッジはデービーを「化学者になっていなかったら、詩人として成功していただろう」と述べ、同じく詩人ロバート・サウジーも「彼は本質的に詩人だ」と述べている。言葉を操る才能と説明の才能に恵まれたデービーは、講演者として大成功を収めた。コールリッジは「暗喩のストックを仕入れるため」にデービーの講演を聞きに行ったという。名声を得ることを人生最大の目的としたデービーは、些細な嫉妬で問題を起こしたりもした。エチケットには無頓着で常に率直だったため、普通なら避けられる問題に直面することもあった[21]。
生涯釣り(サケマス類のフライフィッシング)に親しみ、化学に関する書物以外に、釣りに関する本も執筆した。
1826年、健康上の理由により王立協会会長職を退いた(数年前より脳卒中の発作があった)。1829年、療養のため訪れていたスイスで父方から受け継いだ心臓病により死去。最後の数カ月は有名な "Consolations In Travel" を書いて過ごした。それには、詩の自由な批評、科学や哲学についてのエッセイが含まれている。デービーはジュネーヴの墓地に埋葬された[22]。デービーの研究は、ファラデーによって引き継がれた。
栄誉と後世への影響[編集]
月のクレーター Davy はハンフリー・デービーに因んでいる。
故郷のペンザンスにはデービーの像がある。その側にある記念銘板には、そこが生誕地だと記されている。
ペンザンスには、Humphry Davy School がある。また、ハンフリー・デービーの名を冠したパブもある。
デービーは最初のクレリヒュー(人物四行詩)の主題にされた。
デービーはロンドン動物学会の創設メンバーである。
王立協会は1877年、「化学の何らかの重要な新発見に対して」贈るデービーメダルを創設した。
主な著作[編集]
デービーの完全な著作一覧はFullmerの文献を参照[23]。
Davy, Humphry (1800). Researches, Chemical and Philosophical. Bristol: Biggs and Cottle. ISBN 0407331506.
(1813). Elements of Chemical Philosophy. London: Johnson and Co.. ISBN 0217889476.
(1813). Elements Of Agricultural Chemistry In A Course Of Lectures. London: Longman.
(1816). The Papers of Sir H. Davy. Newcastle: Emerson Charnley. (on Davy's safety lamp)
(1827). Discourses to the Royal Society. London: John Murray.
(1828). Salmonia or Days of Fly Fishing. London: John Murray.
(1830). Consolations in Travel or The Last Days of a Philosopher. London: John Murray.
脚注・出典[編集]
1.^ a b David Knight, ‘Davy, Sir Humphry, baronet (1778–1829)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004 accessed 6 April 2008
2.^ “On Some Chemical Agencies of Electricity”. 2007年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年3月2日閲覧。
3.^ Berzelius, J. J.; trans. Jourdian and Esslinger (1829-1833) (French). Traite de chimie. 1 (trans., 8 vol. ed.). Paris. pp. 164., (Swedish) Larbok i kemien (Original ed.). Stockholm. (1818).
4.^ Levere, Trevor H. (1971). Affinity and Matter – Elements of Chemical Philosophy 1800-1865. Gordon and Breach Science Publishers. ISBN 2881245838.
5.^ a b c d e f g h Davy, Sir Humphry (1778–1829), natural philosopher, by Robert Hunt, Dictionary of National Biography, Published 1888
6.^ Keys TE (1941年). “The Development of Anesthesia”. Anesthesiology journal (Sep.1941, vol.2, is.5, p.552-574). 2010年10月27日閲覧。
7.^ Priestley J (1776年). “Experiments and Observations on Different Kinds of Air (vol.2, sec.3)”. 2010年10月27日閲覧。
8.^ a b c d Holmes, Richard (2008). The Age Of Wonder. Pantheon Books. ISBN 978-0-375-42222-5.
9.^ Cooper, Peter (December 23/30, 2000). “Humphry Davy − a Penzance prodigy”. The Pharmaceutical Journal 265 (7128): 920–921.
10.^ “Davy; Sir; Humphry (1778 - 1829); 1st Baronet” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
11.^ Enghag, P. (2004). “11. Sodium and Potassium”. Encyclopedia of the elements. Wiley-VCH Weinheim. ISBN 3527306668.
12.^ Davy, Humphry (1808). “On some new Phenomena of Chemical Changes produced by Electricity, particularly the Decomposition of the fixed Alkalies, and the Exhibition of the new Substances, which constitute their Bases”. Philosophical Transactions of the Royal Society of London (Royal Society of London.) 98: 1–45. doi:10.1098/rstl.1808.0001.
13.^ Weeks, Mary Elvira (1933). “XII. Other Elements Isolated with the Aid of Potassium and Sodium: Beryllium, Boron, Silicon and Aluminum”. The Discovery of the Elements. Easton, PA: Journal of Chemical Education. ISBN 0-7661-3872-0.
14.^ Robert E. Krebs (2006). The history and use of our earth's chemical elements: a reference guide. Greenwood Publishing Group. p. 80. ISBN 0313334382.
15.^ Sir Humphry Davy (1811). “On a Combination of Oxymuriatic Gas and Oxygene Gas”. Philosophical Transactions of the Royal Society 101: 155–162. doi:10.1098/rstl.1811.0008.
16.^ Humphry Davy (1813). “On a New Detonating Compound”. Philosophical Transactions of the Royal Society of London 103: 1–7. doi:10.1098/rstl.1813.0002.
17.^ H. Davy (1813). “Sur la nouvelle substance découverte par M. Courtois, dans le sel de Vareck”. Annales de chemie 88: 322.
18.^ Humphry Davy (January 1, 1814). “Some Experiments and Observations on a New Substance Which Becomes a Violet Coloured Gas by Heat”. Phil. Trans. R. Soc. Lond. 104: 74. doi:10.1098/rstl.1814.0007.
19.^ Williams, L. Pearce (1965). Michael Faraday: A Biography. New York: Basic Books. pp. 36. ISBN 0306802996.
20.^ National Portrait gallery NPG 269
21.^ この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.
22.^ Paris, John Ayrton (1831). The Life of Sir Humphry Davy, Bart., LL.D.. London: Henry Colburn and Richard Bentley. pp. 516–517.
23.^ Fullmer 1969
参考文献[編集]
Davy, John (1839-1840). The Collected Works of Sir Humphry Davy. London: Smith, Elder, and Company. ISBN 0217889441.
Pratt, Anne (1841). “Sir Humphrey Davy”. Dawnings of Genius. London: Charles Knight and Company. (Davy's first name is spelled incorrectly in this book.)
Hartley, Harold (1960). “The Wilkins Lecture. Sir Humphry Davy, Bt., P.R.S. 1778-1829”. Proceedings of the Royal Society of London. Series A, Mathematical and Physical Sciences 255 (1281): 153–180. doi:10.1098/rspa.1960.0060.
Treneer, Anne (1963). The Mercurial Chemist, A Life of Sir Humphry Davy. London: Methuen.
Hartley, Harold (1966). Humphry Davy. London: Nelson. ISBN 0854097295.
Partington, J. R. (1964) History of Chemistry; vol. 4. London: Macmillan; pp. 29–76
Fullmer, June Z. (1969), Sir Humphry Davy's Published Works, Cambridge, MA: Harvard University Press, ISBN 0674809610
Knight, David (1992). Humphry Davy: Science and Power. Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 0631168168.
Lamont-Brown, Raymond (2004). Humphry Davy, Life Beyond the Lamp. Stroud: Sutton Publishing. ISBN 0750932317.
Kenyon, T. K. (2008/2009). “Science and Celebrity: Humphry Davy’s Rising Star”. Chemical Heritage 26: 30–35.
燧石
燧石(ひうちいし、すいせき、flint、フリント)は非常に硬質な岩石の一種。チャートの一種であり硬い上に加工しやすいので、石器時代には世界遺産スピエンヌの燧石鉱山に見られるように石器の材料として使用され、鉄器時代以降は火打石として利用されていた。
ミョウバン
ミョウバン(明礬、英: Alum)とは、1価の陽イオンの硫酸塩 MI2(SO4) と3価の金属イオンの硫酸塩 MIII2(SO4)3 の複塩の総称である。
MIMIII(SO4)2・12H2O または MI2MIII2(SO4)4・24H2O, MI2(SO4)・MIII2(SO4)3・24H2O などで表され、陽イオン1モルあたり12モルの結晶水を含む。
[MI(H2O)6]+, [MIII(H2O)6]3+ 及び2個の SO42− から構成され、結晶構造は 等軸晶系に属する。
溶解度は温度によって大きく変わる。温度によっては水によく溶け、水溶液は弱酸性である。
単にミョウバンといった場合、硫酸カリウムアルミニウム十二水和物 AlK(SO4)2・12H2O を示すことが多いが、このほかにも鉄ミョウバン、アンモニウム鉄ミョウバンなどがあり、混同を避けるためにしばしばカリミョウバンまたはカリウムミョウバンと呼ばれる。特に、カリミョウバンの無水物を焼きミョウバンといい、食品添加物として乾物屋などで販売している。
用途[編集]
クロムミョウバン
CrK(SO4)2・12H2O
染色剤や防水剤、消火剤、皮なめし剤、沈殿剤などの用途があり、古代ローマ時代から使われてきた。上質の井戸がない場合、質の悪い水にミョウバンを入れて不純物を沈殿させて飲用に使うこともあった。また、腋の制汗・防臭剤としても使用されていた。天然のミョウバンは白礬(はくばん)とも呼ばれ、その収斂作用、殺菌作用から、洗眼、含嗽に用いられることがあった。
甘露煮などを作る際に、細胞膜と結合して不溶化することで煮崩れを防ぎ、またナスの漬物では色素であるアントシアニンの色を安定化して、紫色を保つ働きがある。ウニ(雲丹)の加工時の型崩れ防止・保存のための添加物としても使用される。多量に用いるとミョウバン独特の苦みを呈する。
温度の変化により溶解度が大きく変わる性質があり、溶解度曲線や単結晶生成の化学実験によく使用される。
写真現像の定着処理液で硬膜処理剤としてミョウバンが用いられる。とくにフィルム感光面の長寿命化が要求される場合にクロムミョウバンを用いて定着処理の後に超硬膜処理をする場合がある。
日本画では和紙への絵具滲みを防ぐために、ミョウバンと膠の混合液である「礬水(どうさ)」を和紙に塗る。
園芸においてはアジサイの発色に用いられる。アントシアニンの色を安定化して鮮やかな青色を発色させる働きがある。
関連項目[編集]
カリウムミョウバン
明ばん石
明礬温泉
湯の花
入浴剤
ウニ - 安物へは、ミョウバンを主な保存料として添加する。
MIMIII(SO4)2・12H2O または MI2MIII2(SO4)4・24H2O, MI2(SO4)・MIII2(SO4)3・24H2O などで表され、陽イオン1モルあたり12モルの結晶水を含む。
[MI(H2O)6]+, [MIII(H2O)6]3+ 及び2個の SO42− から構成され、結晶構造は 等軸晶系に属する。
溶解度は温度によって大きく変わる。温度によっては水によく溶け、水溶液は弱酸性である。
単にミョウバンといった場合、硫酸カリウムアルミニウム十二水和物 AlK(SO4)2・12H2O を示すことが多いが、このほかにも鉄ミョウバン、アンモニウム鉄ミョウバンなどがあり、混同を避けるためにしばしばカリミョウバンまたはカリウムミョウバンと呼ばれる。特に、カリミョウバンの無水物を焼きミョウバンといい、食品添加物として乾物屋などで販売している。
用途[編集]
クロムミョウバン
CrK(SO4)2・12H2O
染色剤や防水剤、消火剤、皮なめし剤、沈殿剤などの用途があり、古代ローマ時代から使われてきた。上質の井戸がない場合、質の悪い水にミョウバンを入れて不純物を沈殿させて飲用に使うこともあった。また、腋の制汗・防臭剤としても使用されていた。天然のミョウバンは白礬(はくばん)とも呼ばれ、その収斂作用、殺菌作用から、洗眼、含嗽に用いられることがあった。
甘露煮などを作る際に、細胞膜と結合して不溶化することで煮崩れを防ぎ、またナスの漬物では色素であるアントシアニンの色を安定化して、紫色を保つ働きがある。ウニ(雲丹)の加工時の型崩れ防止・保存のための添加物としても使用される。多量に用いるとミョウバン独特の苦みを呈する。
温度の変化により溶解度が大きく変わる性質があり、溶解度曲線や単結晶生成の化学実験によく使用される。
写真現像の定着処理液で硬膜処理剤としてミョウバンが用いられる。とくにフィルム感光面の長寿命化が要求される場合にクロムミョウバンを用いて定着処理の後に超硬膜処理をする場合がある。
日本画では和紙への絵具滲みを防ぐために、ミョウバンと膠の混合液である「礬水(どうさ)」を和紙に塗る。
園芸においてはアジサイの発色に用いられる。アントシアニンの色を安定化して鮮やかな青色を発色させる働きがある。
関連項目[編集]
カリウムミョウバン
明ばん石
明礬温泉
湯の花
入浴剤
ウニ - 安物へは、ミョウバンを主な保存料として添加する。
マグニシア県
マグニシア県(ギリシア語: Μαγνησία / Magnisía)は、ギリシャ共和国のテッサリア地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。人口約21万人(2005年)。古代にはマグネシアと呼ばれた。県都はヴォロス。
目次 [非表示]
1 名称
2 地理 2.1 位置・広がり
2.2 地勢
2.3 主要な都市・集落
3 気候
4 歴史 4.1 古代
4.2 キリスト教の時代
4.3 現代
5 行政区画 5.1 市(ディモス)
5.2 旧自治体(ディモティキ・エノティタ)
5.3 郡(エパルヒア)
6 古代都市
7 交通 7.1 鉄道
7.2 道路
7.3 空港
8 著名な出身者
9 脚注
10 外部リンク
名称[編集]
マグネシア県の名称は、ギリシャ中央部に位置するテッサリア地方の南東部に居住していたマグネテス人 (Magnetes) に由来している。
また、古代のアナトリア半島(現在のトルコ)にも、マグネシア人が入植し、二つのマグネシアという都市を建設した。ひとつ (Magnesia ad Sipylum) は現在のトルコのマニサであり、ひとつ (Magnesia on the Maeander) はイオニア地方のメンデレス川沿いにあった。
滑石の鉱山があり、滑石から作られた白色の粉はマグネシアと呼ばれた。ここからマグネシウムの語源となっている。マグネット(磁石)の語源であるとする説もあるが、これには異説もある。
地理[編集]
位置・広がり[編集]
マグニシア県は、地理的には、2大都市であるアテネとテッサロニキの丁度中間に位置する。
マグネシア県の南西部はフティオティダ県、西部および北部はラリサ県と県境を接し、東部はエーゲ海に面している。
マグネシア県の東にはスポラデス諸島が所在する。リゾート地で有名なスキアトス(英語版)や、自然豊かなスコペロス島、チチュウカイモンクアザラシなどが生息する自然公園があるアロニソス島などの島々は、かつてマグネシア県に所属していたが、現在は別の行政区(スポラデス県)となっている。
毎年200万人を超える観光客が夏季を中心に訪れている。
地勢[編集]
アルガラスティとパガセティコス湾
マグネシア県東部のピリオ半島には、県最大の山であるピリオ山(Pelion)がそびえる。また、県北東部のラリサ県との県境には、マウロヴニ山脈が走っている。フティオティダ県との県境にはオトリス山がある。ピリオ山(Pelion)やケンタウロス山は、自然景観が良好で観光の名所となっている。また山頂や中腹には、聖人や生神女マリアを祀る教会が立ち並んでいる。これらの教会には古代の遺物や中世以前のイコン画などが遺されている。
県内にはアルミロス平野とヴォロス=ヴェレスティノ平野という2つの平野が広がっている。県内に大きな川が無いために、水路は発達していないが、ピリオ山からはアナヴロス川、プラタノレマ川、クシリアス川という小さな川が流れる。
県北部にはカルラ湖(Lake Karla)がある。また、スルピ湾付近には湿地帯が広がっていて、多種の渡り鳥が見られる。この湿地は、アルミロス近郊の低地に茂るナラの森林とともに、保護地域としてNatura 2000に登録された。
海岸部には、地震による陥没によって形成された有名なパガセティコス湾(Pagasetic Gulf)が広がっている。
主要な都市・集落[編集]
人口3000人以上の都市・集落は次の通り。
ヴォロス (Βόλος : ヴォロス市) - 82,439人
ネア・イオニア (Νέα Ιωνία : ヴォロス市) - 30,804人
アルミロス (Αλμυρός : アルミロス市) - 7,566人
ネア・アンヒアロス (Νέα Αγχίαλος : ヴォロス市) - 5,514人
アグリア (Αγριά : ヴォロス市) - 5,229人
ヴェレスティノ (Βελεστίνο : リガス・フェレオス市) - 3,270人
県下最大の都市は県都である港湾都市ヴォロスである。ヴォロスはテッサリア地方第2の都市であり、ヴォロス港はギリシャ国内で3番目に繁栄している商業港となっている。
カリクラティス改革(2011年1月施行)以前はヴォロスに加え、ネア・イオニアやイオルコスを加えたヴォロス都市圏(約14万3000人)には、県人口の約70%が居住している。
県人口の大半は県東部およびパガシティコス湾(Pagasetic Gulf)沿岸に住んでいるとも言える。
ヴォロス
ネア・アンヒアロス
アグリア
気候[編集]
県の平均気温は17℃であり、平均降水量は年540mmである。8月には気温が37℃から38℃ぐらいまで上昇することもある。気候は県内で差異があり、パガセティコス湾沿岸ではやや多湿であり、ネア・イオニアではやや乾燥、ヴェレスティノやアルミロスでは大陸性な気候となる。
歴史[編集]
マグネシア地域
古代[編集]
ヘシオドスの『ギュナイコーン・カタロゴス』(Catalogue of Women)によると、デウカリオーンとピュラーの娘であり、ヘレーンの姉妹であるパンドーラーは、ゼウスとの間にギリシア人の祖とされる息子グライコスを産んだ。一方で、同じくデウカリオーンとピュラーの娘テュイアーは、ゼウスとの間に2人の息子、マグネースとマケドノスをもうけた。この2人は、ヘレーンの3人の子であるドーロス、クスートス、アイオロスとともにギリシア世界を形成した古代民族の始祖とされた。現在のマグネシア県にあたる地域は、マグネースが支配したとされたためにその名が付けられた。
また、神話の英雄であるイアーソーンやペーレウスとその子アキレウスの故郷としても知られている。磁石を意味する英語の「マグネット」(magnet)は、ギリシャ語で「マグネシアの石」を意味する「マグニティス・リトス」(μαγνήτης λίθος)に由来するという説があるように、この地域では鉄鉱や磁鉄鉱だけでなく、マグネシウムやマンガン(双方とも名称はこの地域に由来する)が産出されることが、古くから錬金術師達に知られていた。紀元前7世紀以前の植民時代には、マグネシアの都市国家も植民都市を建設し、リディア地方のスピル山(Mount Sipylus)の麓や、イオニア地方のメンデレス川沿いに、マグネシアという都市を建設した。(前者は、現トルコの都市マニサである。)
キリスト教の時代[編集]
紀元後5世紀には、現在のマグネシア県の地域にキリスト教の教会が存在していた。それは、第3回公会議の議事録にデメトリアス司教のクレオニコスという人物が連名していることから分かり得る。この時代にはキリスト教が著しく浸透し、県内のネア・アンヒアロスには5つものバジリカが建設された。その後、一般的に心霊主義が広がりを見せると、伝統となったペリオリティカとよばれる建築様式の寺院や教会、修道院などがピリオ山に多く建造された。これらは今でも数多くこの地域に残っている。
現代[編集]
現在のマグネシア県は、1947年にラリサ県から分割して創設された。
2006年には県内で大規模な洪水が起こり、大きな被害を受けた。
行政区画[編集]
マグニシア県とスポラデス県
市(ディモス)[編集]
マグニシア県は、以下の自治体(ディモス、市)から構成される。人口は2001年国勢調査時点。
3(アロニソス),7(スキアトス(英語版)),8(スコペロス)の各市はスポラデス県に所属する。
自治体名
綴り
政庁所在地
面積 Km2
人口
1 ヴォロス Βόλος ヴォロス (el) 387.1 144,420
2 アルミロス(英語版) Αλμυρός アルミロス (el) 909.8 21,169
4 ザゴラ=ムレシ(英語版) Ζαγορά-Μουρέσι ザゴラ (el) 150.5 6,936
5 南ピリオ(英語版) Νότιο Πήλιο アルガラスティ (el) 369.4 11,563
6 リガス・フェレオス(英語版) Ρήγας Φεραίος ヴェレスティノ 549.8 12,096
旧自治体(ディモティキ・エノティタ)[編集]
マグネシア県の旧自治体(2010年まで)
カリクラティス改革(2011年1月施行)以前の広域自治体(ノモス)としてのマグネシア県は、以下の基礎自治体(ディモスおよびキノティタ)から構成されていた。改革後、旧自治体は新自治体(ディモス)を構成する行政区(ディモティキ・エノティタ)となっている。
下表の番号は右図と対応している。「政庁所在地」欄で太字になっているものは、新自治体の政庁所在地となったものを示す。※はキノティタ。
旧自治体
綴り
政庁所在地
新自治体
1 ヴォロス Βόλος ヴォロス ヴォロス
2 アグリア Αγριά アグリア ヴォロス
3 エソニア Αισωνία ディミニ ヴォロス
4 アルミロス Αλμυρός アルミロス アルミロス
5 アロニソス Αλόννησος アロニソス (スポラデス県)
6 アルガラスティ Αργαλαστή アルガラスティ 南ピリオ
7 アルテミダ Αρτέμιδα アノ・レホニア ヴォロス
8 アフェテス Αφέτες ネオホリ 南ピリオ
9 ザゴラ Ζαγορά ザゴラ ザゴラ=ムレシ
10 イオルコス Ιωλκός イオルコス ヴォロス
11 カルラ Κάρλα ステファノヴィキオ リガス・フェレオス
12 ミリエス Μηλιές ミリエス 南ピリオ
13 ムレシ Μουρέσι ツァガラダ ザゴラ=ムレシ
14 ネア・アンヒアロス Νέα Αγχίαλος ネア・アンヒアロス ヴォロス
15 ネア・イオニア Νέα Ιωνία ネア・イオニア ヴォロス
16 ポルタリア Πορταριά ポルタリア ヴォロス
17 プテレオス Πτελεός プテレオス アルミロス
18 シピアダ Σηπιάδα ラフコス 南ピリオ
19 スキアトス Σκιάθος スキアトス (スポラデス県)
20 スコペロス Σκόπελος スコペロス (スポラデス県)
21 スルピ Σούρπη スルピ アルミロス
22 フェレス Φερές ヴェレスティノ リガス・フェレオス
23 アナヴラ ※ Ανάβρα アナヴラ アルミロス
24 ケラミディ ※ Κεραμίδι ケラミディ リガス・フェレオス
25 マクリニツァ ※ Μακρινίτσα マクリニツァ ヴォロス
26 トリケリ ※ Τρίκερι トリケリ 南ピリオ
Διοικητική διαίρεση νομού Μαγνησίας (πρόγραμμα Καποδίστριας) - 旧マグニシア県の自治体・集落一覧(1999年 - 2010年)
郡(エパルヒア)[編集]
県には以下の3つの郡(エパルヒア)があったが、2006年以降法的な位置づけは行われていない。
郡名
綴り
中心地
ヴォロス郡 Βόλος ヴォロス
アルミロス郡 (en) Αλμυρός アルミロス
スコペロス郡 Σκόπελος スコペロス
古代都市[編集]
パガサエ(ヴォロス近郊)
イオルコス
デメトリアス (ヴォロス近郊)
ネア・アンヒアロス
交通[編集]
ヴォロス駅(1995年)
ヴォロス港
鉄道[編集]
19世紀後半に鉄道が敷設された。
ギリシャ国鉄(OSE) (Hellenic Railways Organisation)
道路[編集]
アテネとテサロニキを結ぶ国道1号線が県内を通過しており、欧州自動車道路E75号線にも指定されている。
自動車道路国道1号線 (en) : 〔… - テサロニキ - ラリサ〕 - ヴェレスティノ - 〔ラミア - アテネ〕
国道6号線 (en) : 〔イグメニツァ - トリカラ - ラリサ〕 - ヴェレスティノ - ヴォロス[1]
国道30号線 (en) : 〔アルタ - トリカラ - ファルサラ〕 - アンヒアロス - ヴォロス[2]
欧州自動車道路E75号線
空港[編集]
ネア・アンヒアロス空港(英語版) (ヴォロス市ネア・アンヒアロス地区)
ヴォロスの南西約20kmのネア・アンヒアロスに空港(ヴォロス空港、中央ギリシャ空港とも称される)があり、他のヨーロッパ地域とを空路で繋いでいる。
著名な出身者[編集]
イアーソーン(ギリシア神話の英雄)
ペーレウス(ギリシア神話の英雄)
ハラランボス(89-202、司教)
リガス・ヴェレスティンリス・フェレオス(1757-1798、詩人)
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978、画家・彫刻家)
アレクサンドロス・パパディアマンディス(1851-1911、作家)
ヴァンゲリス(1943、作曲家・音楽家)
フェドン・ギジキス (1917-1999、ギリシャ大統領)
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1 名称
2 地理 2.1 位置・広がり
2.2 地勢
2.3 主要な都市・集落
3 気候
4 歴史 4.1 古代
4.2 キリスト教の時代
4.3 現代
5 行政区画 5.1 市(ディモス)
5.2 旧自治体(ディモティキ・エノティタ)
5.3 郡(エパルヒア)
6 古代都市
7 交通 7.1 鉄道
7.2 道路
7.3 空港
8 著名な出身者
9 脚注
10 外部リンク
名称[編集]
マグネシア県の名称は、ギリシャ中央部に位置するテッサリア地方の南東部に居住していたマグネテス人 (Magnetes) に由来している。
また、古代のアナトリア半島(現在のトルコ)にも、マグネシア人が入植し、二つのマグネシアという都市を建設した。ひとつ (Magnesia ad Sipylum) は現在のトルコのマニサであり、ひとつ (Magnesia on the Maeander) はイオニア地方のメンデレス川沿いにあった。
滑石の鉱山があり、滑石から作られた白色の粉はマグネシアと呼ばれた。ここからマグネシウムの語源となっている。マグネット(磁石)の語源であるとする説もあるが、これには異説もある。
地理[編集]
位置・広がり[編集]
マグニシア県は、地理的には、2大都市であるアテネとテッサロニキの丁度中間に位置する。
マグネシア県の南西部はフティオティダ県、西部および北部はラリサ県と県境を接し、東部はエーゲ海に面している。
マグネシア県の東にはスポラデス諸島が所在する。リゾート地で有名なスキアトス(英語版)や、自然豊かなスコペロス島、チチュウカイモンクアザラシなどが生息する自然公園があるアロニソス島などの島々は、かつてマグネシア県に所属していたが、現在は別の行政区(スポラデス県)となっている。
毎年200万人を超える観光客が夏季を中心に訪れている。
地勢[編集]
アルガラスティとパガセティコス湾
マグネシア県東部のピリオ半島には、県最大の山であるピリオ山(Pelion)がそびえる。また、県北東部のラリサ県との県境には、マウロヴニ山脈が走っている。フティオティダ県との県境にはオトリス山がある。ピリオ山(Pelion)やケンタウロス山は、自然景観が良好で観光の名所となっている。また山頂や中腹には、聖人や生神女マリアを祀る教会が立ち並んでいる。これらの教会には古代の遺物や中世以前のイコン画などが遺されている。
県内にはアルミロス平野とヴォロス=ヴェレスティノ平野という2つの平野が広がっている。県内に大きな川が無いために、水路は発達していないが、ピリオ山からはアナヴロス川、プラタノレマ川、クシリアス川という小さな川が流れる。
県北部にはカルラ湖(Lake Karla)がある。また、スルピ湾付近には湿地帯が広がっていて、多種の渡り鳥が見られる。この湿地は、アルミロス近郊の低地に茂るナラの森林とともに、保護地域としてNatura 2000に登録された。
海岸部には、地震による陥没によって形成された有名なパガセティコス湾(Pagasetic Gulf)が広がっている。
主要な都市・集落[編集]
人口3000人以上の都市・集落は次の通り。
ヴォロス (Βόλος : ヴォロス市) - 82,439人
ネア・イオニア (Νέα Ιωνία : ヴォロス市) - 30,804人
アルミロス (Αλμυρός : アルミロス市) - 7,566人
ネア・アンヒアロス (Νέα Αγχίαλος : ヴォロス市) - 5,514人
アグリア (Αγριά : ヴォロス市) - 5,229人
ヴェレスティノ (Βελεστίνο : リガス・フェレオス市) - 3,270人
県下最大の都市は県都である港湾都市ヴォロスである。ヴォロスはテッサリア地方第2の都市であり、ヴォロス港はギリシャ国内で3番目に繁栄している商業港となっている。
カリクラティス改革(2011年1月施行)以前はヴォロスに加え、ネア・イオニアやイオルコスを加えたヴォロス都市圏(約14万3000人)には、県人口の約70%が居住している。
県人口の大半は県東部およびパガシティコス湾(Pagasetic Gulf)沿岸に住んでいるとも言える。
ヴォロス
ネア・アンヒアロス
アグリア
気候[編集]
県の平均気温は17℃であり、平均降水量は年540mmである。8月には気温が37℃から38℃ぐらいまで上昇することもある。気候は県内で差異があり、パガセティコス湾沿岸ではやや多湿であり、ネア・イオニアではやや乾燥、ヴェレスティノやアルミロスでは大陸性な気候となる。
歴史[編集]
マグネシア地域
古代[編集]
ヘシオドスの『ギュナイコーン・カタロゴス』(Catalogue of Women)によると、デウカリオーンとピュラーの娘であり、ヘレーンの姉妹であるパンドーラーは、ゼウスとの間にギリシア人の祖とされる息子グライコスを産んだ。一方で、同じくデウカリオーンとピュラーの娘テュイアーは、ゼウスとの間に2人の息子、マグネースとマケドノスをもうけた。この2人は、ヘレーンの3人の子であるドーロス、クスートス、アイオロスとともにギリシア世界を形成した古代民族の始祖とされた。現在のマグネシア県にあたる地域は、マグネースが支配したとされたためにその名が付けられた。
また、神話の英雄であるイアーソーンやペーレウスとその子アキレウスの故郷としても知られている。磁石を意味する英語の「マグネット」(magnet)は、ギリシャ語で「マグネシアの石」を意味する「マグニティス・リトス」(μαγνήτης λίθος)に由来するという説があるように、この地域では鉄鉱や磁鉄鉱だけでなく、マグネシウムやマンガン(双方とも名称はこの地域に由来する)が産出されることが、古くから錬金術師達に知られていた。紀元前7世紀以前の植民時代には、マグネシアの都市国家も植民都市を建設し、リディア地方のスピル山(Mount Sipylus)の麓や、イオニア地方のメンデレス川沿いに、マグネシアという都市を建設した。(前者は、現トルコの都市マニサである。)
キリスト教の時代[編集]
紀元後5世紀には、現在のマグネシア県の地域にキリスト教の教会が存在していた。それは、第3回公会議の議事録にデメトリアス司教のクレオニコスという人物が連名していることから分かり得る。この時代にはキリスト教が著しく浸透し、県内のネア・アンヒアロスには5つものバジリカが建設された。その後、一般的に心霊主義が広がりを見せると、伝統となったペリオリティカとよばれる建築様式の寺院や教会、修道院などがピリオ山に多く建造された。これらは今でも数多くこの地域に残っている。
現代[編集]
現在のマグネシア県は、1947年にラリサ県から分割して創設された。
2006年には県内で大規模な洪水が起こり、大きな被害を受けた。
行政区画[編集]
マグニシア県とスポラデス県
市(ディモス)[編集]
マグニシア県は、以下の自治体(ディモス、市)から構成される。人口は2001年国勢調査時点。
3(アロニソス),7(スキアトス(英語版)),8(スコペロス)の各市はスポラデス県に所属する。
自治体名
綴り
政庁所在地
面積 Km2
人口
1 ヴォロス Βόλος ヴォロス (el) 387.1 144,420
2 アルミロス(英語版) Αλμυρός アルミロス (el) 909.8 21,169
4 ザゴラ=ムレシ(英語版) Ζαγορά-Μουρέσι ザゴラ (el) 150.5 6,936
5 南ピリオ(英語版) Νότιο Πήλιο アルガラスティ (el) 369.4 11,563
6 リガス・フェレオス(英語版) Ρήγας Φεραίος ヴェレスティノ 549.8 12,096
旧自治体(ディモティキ・エノティタ)[編集]
マグネシア県の旧自治体(2010年まで)
カリクラティス改革(2011年1月施行)以前の広域自治体(ノモス)としてのマグネシア県は、以下の基礎自治体(ディモスおよびキノティタ)から構成されていた。改革後、旧自治体は新自治体(ディモス)を構成する行政区(ディモティキ・エノティタ)となっている。
下表の番号は右図と対応している。「政庁所在地」欄で太字になっているものは、新自治体の政庁所在地となったものを示す。※はキノティタ。
旧自治体
綴り
政庁所在地
新自治体
1 ヴォロス Βόλος ヴォロス ヴォロス
2 アグリア Αγριά アグリア ヴォロス
3 エソニア Αισωνία ディミニ ヴォロス
4 アルミロス Αλμυρός アルミロス アルミロス
5 アロニソス Αλόννησος アロニソス (スポラデス県)
6 アルガラスティ Αργαλαστή アルガラスティ 南ピリオ
7 アルテミダ Αρτέμιδα アノ・レホニア ヴォロス
8 アフェテス Αφέτες ネオホリ 南ピリオ
9 ザゴラ Ζαγορά ザゴラ ザゴラ=ムレシ
10 イオルコス Ιωλκός イオルコス ヴォロス
11 カルラ Κάρλα ステファノヴィキオ リガス・フェレオス
12 ミリエス Μηλιές ミリエス 南ピリオ
13 ムレシ Μουρέσι ツァガラダ ザゴラ=ムレシ
14 ネア・アンヒアロス Νέα Αγχίαλος ネア・アンヒアロス ヴォロス
15 ネア・イオニア Νέα Ιωνία ネア・イオニア ヴォロス
16 ポルタリア Πορταριά ポルタリア ヴォロス
17 プテレオス Πτελεός プテレオス アルミロス
18 シピアダ Σηπιάδα ラフコス 南ピリオ
19 スキアトス Σκιάθος スキアトス (スポラデス県)
20 スコペロス Σκόπελος スコペロス (スポラデス県)
21 スルピ Σούρπη スルピ アルミロス
22 フェレス Φερές ヴェレスティノ リガス・フェレオス
23 アナヴラ ※ Ανάβρα アナヴラ アルミロス
24 ケラミディ ※ Κεραμίδι ケラミディ リガス・フェレオス
25 マクリニツァ ※ Μακρινίτσα マクリニツァ ヴォロス
26 トリケリ ※ Τρίκερι トリケリ 南ピリオ
Διοικητική διαίρεση νομού Μαγνησίας (πρόγραμμα Καποδίστριας) - 旧マグニシア県の自治体・集落一覧(1999年 - 2010年)
郡(エパルヒア)[編集]
県には以下の3つの郡(エパルヒア)があったが、2006年以降法的な位置づけは行われていない。
郡名
綴り
中心地
ヴォロス郡 Βόλος ヴォロス
アルミロス郡 (en) Αλμυρός アルミロス
スコペロス郡 Σκόπελος スコペロス
古代都市[編集]
パガサエ(ヴォロス近郊)
イオルコス
デメトリアス (ヴォロス近郊)
ネア・アンヒアロス
交通[編集]
ヴォロス駅(1995年)
ヴォロス港
鉄道[編集]
19世紀後半に鉄道が敷設された。
ギリシャ国鉄(OSE) (Hellenic Railways Organisation)
道路[編集]
アテネとテサロニキを結ぶ国道1号線が県内を通過しており、欧州自動車道路E75号線にも指定されている。
自動車道路国道1号線 (en) : 〔… - テサロニキ - ラリサ〕 - ヴェレスティノ - 〔ラミア - アテネ〕
国道6号線 (en) : 〔イグメニツァ - トリカラ - ラリサ〕 - ヴェレスティノ - ヴォロス[1]
国道30号線 (en) : 〔アルタ - トリカラ - ファルサラ〕 - アンヒアロス - ヴォロス[2]
欧州自動車道路E75号線
空港[編集]
ネア・アンヒアロス空港(英語版) (ヴォロス市ネア・アンヒアロス地区)
ヴォロスの南西約20kmのネア・アンヒアロスに空港(ヴォロス空港、中央ギリシャ空港とも称される)があり、他のヨーロッパ地域とを空路で繋いでいる。
著名な出身者[編集]
イアーソーン(ギリシア神話の英雄)
ペーレウス(ギリシア神話の英雄)
ハラランボス(89-202、司教)
リガス・ヴェレスティンリス・フェレオス(1757-1798、詩人)
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978、画家・彫刻家)
アレクサンドロス・パパディアマンディス(1851-1911、作家)
ヴァンゲリス(1943、作曲家・音楽家)
フェドン・ギジキス (1917-1999、ギリシャ大統領)
ナトロン
ナトロン(natron)は、炭酸ナトリウム10水和物(Na2CO3・10H2O)と約17%の炭酸水素ナトリウム(NaHCO3、重曹とも)を主成分とする、天然に産出する鉱物である。通常、これに少量の塩(岩塩、塩化ナトリウム)や硫酸ナトリウムが混じっている。ナトロンは純度が高ければ色がないので白く見えるが、不純物が含まれていると、灰色や黄色を呈する。ナトロン鉱床は塩湖が乾燥によって干上がったところにできる。歴史上、古くから様々な用途に使用されてきており、今もその鉱物成分は広く利用されている。
現在の鉱物学では、ナトロンは炭酸ナトリウム10水和物のみを指すことが多い。
目次 [非表示]
1 語源
2 古代における重要性 2.1 利用の減退
3 炭酸ナトリウム水和物の化学 3.1 ソーダ灰の原料として
4 地質学的な形成過程
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
語源[編集]
ナトロンの語源は古代エジプト語の
R9
D21
netjeri であり、そこからギリシア語の νιτρων (nitron) となり、各地の言語に広まった。英語やフランス語では natron、スペイン語では natrón、アラビア語では نطرون (natrun) となっている。ナトリウムという元素名もナトロンから派生した現代ラテン語である。
古代における重要性[編集]
古代エジプトでは、干上がった塩湖の湖底から塩の混合物を採掘してナトロンを得ており、数千年に渡って石鹸や洗剤のような用途に使ってきた。油と混ぜることで原始的な石鹸になる。水の硬度を低くしたり、油分を除去するのにも使われた。そのままの形で原始的な歯磨き粉や洗口液としても使われた。またナトロンの成分を使って消毒薬を作り、外傷に使っていた。また、魚や肉の防腐剤としても使っていた。他にも殺虫剤として使ったり、革作りに使ったり、衣類の漂白にも使った。
ナトロンは水を吸収するため乾燥剤としても使えることから、古代エジプトでのミイラ作りにも使われた。さらに、大気中の湿気にさらされるとナトロンの中の炭酸塩が反応してpH値が上がるため、菌が繁殖しにくくなる。いくつかの文化では、ナトロンが生者と死者両方の霊的安全性を高めると考えられていた。ナトロンをひまし油に混ぜると、燃やしたときに煙が出なくなるため、古代エジプト人は墓の中に壁画を描いたり彫刻したりする際の灯りの燃料として使っていた。
ナトロンはエジプシャンブルーという色の顔料を作る際の原料の1つである。これを砂や石灰と混ぜ、少なくとも紀元640年ごろまでローマ人などが陶器やガラスの製造に使っていた。また、融剤として貴金属細工にも使っていた。
利用の減退[編集]
ナトロンの用途の多くは、よく似たナトリウム化合物や鉱物で代替されるようになっていった。ナトロンの洗剤的な特性は炭酸ナトリウムによるものであり、現在では精製された炭酸ナトリウム(ソーダ灰)が他の成分と共に使われている。また、ガラス製造におけるナトロンの役割もソーダ灰が代替していった。ナトロンのもう1つの主成分である炭酸水素ナトリウムも精製されて、ナトロンの用途を代替するようになった。
炭酸ナトリウム水和物の化学[編集]
ナトロンは炭酸ナトリウム10水和物 (Na2CO3・10H2O) の鉱物学的名称でもあり、それは歴史的意味でのナトロンの主成分でもある[2]。炭酸ナトリウム10水和物の比重は1.42から1.47で、モース硬度は1である。単斜晶系の結晶構造を持つ。
炭酸ナトリウム水和物という用語は、一般に1水和物 (Na2CO3・H2O)、10水和物、7水和物 (Na2CO3・7H2O) などを含むが、産業用語としては10水和物のみを指す。7水和物と10水和物は、乾燥した空気中では風解し(水分を失い)、部分的に1水和物のテルモナトライト Na2CO3・H2O に変化する。
ソーダ灰の原料として[編集]
炭酸ナトリウム10水和物は、常温で安定しているが、32 °C (90 °F) 以上になると炭酸ナトリウム7水和物 Na2CO3・7H2O に再結晶化し、37 °C (99 °F)-38 °C (100 °F) 以上になると炭酸ナトリウム1水和物 Na2CO3・H2O に再結晶化する。鉱物としてのナトロンは、テルモナトライト、ナーコライト、トロナ、岩塩、芒硝、ゲイリュサック石、石膏、方解石などとともに産することが多い。工業的に生産される炭酸ナトリウムの多くはソーダ灰、すなわち炭酸ナトリウム無水物 Na2CO3 であり、炭酸水素ナトリウムや炭酸ナトリウム1水和物やトロナを150℃から200℃でV焼することで得られる。
地質学的な形成過程[編集]
地質学的には、鉱物としてのナトロンや歴史的な意味でのナトロンは蒸発岩として形成される。すなわち炭酸ナトリウムを多く含む塩湖が干上がる際に結晶化してできる。炭酸ナトリウムは、強アルカリ性でナトリウムが豊富な塩水が大気中の二酸化炭素を吸収することで生成され、次の化学反応式で表される。
NaOH(aq) + CO2 → NaHCO3(aq)NaHCO3(aq) + NaOH(aq) → Na2CO3(aq) + H2O
炭酸ナトリウム10水和物の純粋な鉱床は珍しい。これは、この化合物が安定している温度の範囲が狭いことと、二酸化炭素の吸収によって炭酸水素塩と炭酸塩の混合水溶液が生み出されるのが普通だからである。この混合水溶液から鉱物のナトロン(および歴史的意味でのナトロン)が形成されるのは、その塩水が干上がっていく際の水温が最高でも 20 °C (68 °F) 程度以下の場合である。塩湖のアルカリ性が非常に強ければ(上の化学反応式からわかるように)炭酸水素塩がほとんど残らないため、30 °C (86 °F) ぐらいまで水温が上がってもナトロンを形成できる。多くの場合、鉱物としてのナトロンはある程度のナーコライト(炭酸水素ナトリウム)と共に形成され、結果として歴史的な意味でのナトロンのような混合物となる。さもなくば、トロナ[3]、テルモナトライト、ナーコライトといった鉱物が一般に形成される。塩湖が干上がる現象は長い時間をかけて進行するため、途中で再び水がたまって塩の鉱床が溶けてまた干上がって結晶化するといったことを繰り返すことがあり、炭酸ナトリウムを含む鉱床は上述した様々な鉱物が層をなした形で形成されることがある。
次の一覧は、ナトロンや類似した炭酸ナトリウム水和物を含む鉱物の主な産地である。
アフリカ チャド: チャド湖畔
エジプト: Wadi El Natrun
エチオピア: ショワ地域(en)
ヨーロッパ ハンガリー: バーチ・キシュクン県、サボルチ・サトマール・ベレグ県
イタリア: カンパニア州、ナポリ県、ヴェスヴィオ火山
ロシア: コラ半島、ヒビヌイ山脈
イングランド: コーンウォール、セントジャスト(en)、ボタラック(en)-ペンディーン(en)一帯
カナダ ケベック州: モンテレジー地域ルイヴィル(en)とモン=サン=ティレール(en)
ブリティッシュコロンビア州内陸部
アメリカ合衆国 カリフォルニア州: インヨー郡
ネバダ州: チャーチル郡 ソーダ湖(en)、ハンボルト郡、ミネラル郡
オレゴン州: レイク郡
ペンシルベニア州: ナトロナ (en)
ワシントン州: オウカノガン郡
脚注[編集]
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1.^ Natron, MinDat.org 2011年10月16日閲覧。 (英語)
2.^ a b Natron, WebMineral.com 2011年10月16日閲覧。 (英語)
3.^ Trona, WebMineral.com 2011年10月16日閲覧。 (英語)
参考文献[編集]
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関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、ナトロンに関連するカテゴリがあります。
鉱物 - 炭酸塩鉱物
鉱物の一覧
炭酸ナトリウム
炭酸水素ナトリウム
トロナ
岩塩
硝酸ナトリウム
現在の鉱物学では、ナトロンは炭酸ナトリウム10水和物のみを指すことが多い。
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1 語源
2 古代における重要性 2.1 利用の減退
3 炭酸ナトリウム水和物の化学 3.1 ソーダ灰の原料として
4 地質学的な形成過程
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
語源[編集]
ナトロンの語源は古代エジプト語の
R9
D21
netjeri であり、そこからギリシア語の νιτρων (nitron) となり、各地の言語に広まった。英語やフランス語では natron、スペイン語では natrón、アラビア語では نطرون (natrun) となっている。ナトリウムという元素名もナトロンから派生した現代ラテン語である。
古代における重要性[編集]
古代エジプトでは、干上がった塩湖の湖底から塩の混合物を採掘してナトロンを得ており、数千年に渡って石鹸や洗剤のような用途に使ってきた。油と混ぜることで原始的な石鹸になる。水の硬度を低くしたり、油分を除去するのにも使われた。そのままの形で原始的な歯磨き粉や洗口液としても使われた。またナトロンの成分を使って消毒薬を作り、外傷に使っていた。また、魚や肉の防腐剤としても使っていた。他にも殺虫剤として使ったり、革作りに使ったり、衣類の漂白にも使った。
ナトロンは水を吸収するため乾燥剤としても使えることから、古代エジプトでのミイラ作りにも使われた。さらに、大気中の湿気にさらされるとナトロンの中の炭酸塩が反応してpH値が上がるため、菌が繁殖しにくくなる。いくつかの文化では、ナトロンが生者と死者両方の霊的安全性を高めると考えられていた。ナトロンをひまし油に混ぜると、燃やしたときに煙が出なくなるため、古代エジプト人は墓の中に壁画を描いたり彫刻したりする際の灯りの燃料として使っていた。
ナトロンはエジプシャンブルーという色の顔料を作る際の原料の1つである。これを砂や石灰と混ぜ、少なくとも紀元640年ごろまでローマ人などが陶器やガラスの製造に使っていた。また、融剤として貴金属細工にも使っていた。
利用の減退[編集]
ナトロンの用途の多くは、よく似たナトリウム化合物や鉱物で代替されるようになっていった。ナトロンの洗剤的な特性は炭酸ナトリウムによるものであり、現在では精製された炭酸ナトリウム(ソーダ灰)が他の成分と共に使われている。また、ガラス製造におけるナトロンの役割もソーダ灰が代替していった。ナトロンのもう1つの主成分である炭酸水素ナトリウムも精製されて、ナトロンの用途を代替するようになった。
炭酸ナトリウム水和物の化学[編集]
ナトロンは炭酸ナトリウム10水和物 (Na2CO3・10H2O) の鉱物学的名称でもあり、それは歴史的意味でのナトロンの主成分でもある[2]。炭酸ナトリウム10水和物の比重は1.42から1.47で、モース硬度は1である。単斜晶系の結晶構造を持つ。
炭酸ナトリウム水和物という用語は、一般に1水和物 (Na2CO3・H2O)、10水和物、7水和物 (Na2CO3・7H2O) などを含むが、産業用語としては10水和物のみを指す。7水和物と10水和物は、乾燥した空気中では風解し(水分を失い)、部分的に1水和物のテルモナトライト Na2CO3・H2O に変化する。
ソーダ灰の原料として[編集]
炭酸ナトリウム10水和物は、常温で安定しているが、32 °C (90 °F) 以上になると炭酸ナトリウム7水和物 Na2CO3・7H2O に再結晶化し、37 °C (99 °F)-38 °C (100 °F) 以上になると炭酸ナトリウム1水和物 Na2CO3・H2O に再結晶化する。鉱物としてのナトロンは、テルモナトライト、ナーコライト、トロナ、岩塩、芒硝、ゲイリュサック石、石膏、方解石などとともに産することが多い。工業的に生産される炭酸ナトリウムの多くはソーダ灰、すなわち炭酸ナトリウム無水物 Na2CO3 であり、炭酸水素ナトリウムや炭酸ナトリウム1水和物やトロナを150℃から200℃でV焼することで得られる。
地質学的な形成過程[編集]
地質学的には、鉱物としてのナトロンや歴史的な意味でのナトロンは蒸発岩として形成される。すなわち炭酸ナトリウムを多く含む塩湖が干上がる際に結晶化してできる。炭酸ナトリウムは、強アルカリ性でナトリウムが豊富な塩水が大気中の二酸化炭素を吸収することで生成され、次の化学反応式で表される。
NaOH(aq) + CO2 → NaHCO3(aq)NaHCO3(aq) + NaOH(aq) → Na2CO3(aq) + H2O
炭酸ナトリウム10水和物の純粋な鉱床は珍しい。これは、この化合物が安定している温度の範囲が狭いことと、二酸化炭素の吸収によって炭酸水素塩と炭酸塩の混合水溶液が生み出されるのが普通だからである。この混合水溶液から鉱物のナトロン(および歴史的意味でのナトロン)が形成されるのは、その塩水が干上がっていく際の水温が最高でも 20 °C (68 °F) 程度以下の場合である。塩湖のアルカリ性が非常に強ければ(上の化学反応式からわかるように)炭酸水素塩がほとんど残らないため、30 °C (86 °F) ぐらいまで水温が上がってもナトロンを形成できる。多くの場合、鉱物としてのナトロンはある程度のナーコライト(炭酸水素ナトリウム)と共に形成され、結果として歴史的な意味でのナトロンのような混合物となる。さもなくば、トロナ[3]、テルモナトライト、ナーコライトといった鉱物が一般に形成される。塩湖が干上がる現象は長い時間をかけて進行するため、途中で再び水がたまって塩の鉱床が溶けてまた干上がって結晶化するといったことを繰り返すことがあり、炭酸ナトリウムを含む鉱床は上述した様々な鉱物が層をなした形で形成されることがある。
次の一覧は、ナトロンや類似した炭酸ナトリウム水和物を含む鉱物の主な産地である。
アフリカ チャド: チャド湖畔
エジプト: Wadi El Natrun
エチオピア: ショワ地域(en)
ヨーロッパ ハンガリー: バーチ・キシュクン県、サボルチ・サトマール・ベレグ県
イタリア: カンパニア州、ナポリ県、ヴェスヴィオ火山
ロシア: コラ半島、ヒビヌイ山脈
イングランド: コーンウォール、セントジャスト(en)、ボタラック(en)-ペンディーン(en)一帯
カナダ ケベック州: モンテレジー地域ルイヴィル(en)とモン=サン=ティレール(en)
ブリティッシュコロンビア州内陸部
アメリカ合衆国 カリフォルニア州: インヨー郡
ネバダ州: チャーチル郡 ソーダ湖(en)、ハンボルト郡、ミネラル郡
オレゴン州: レイク郡
ペンシルベニア州: ナトロナ (en)
ワシントン州: オウカノガン郡
脚注[編集]
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1.^ Natron, MinDat.org 2011年10月16日閲覧。 (英語)
2.^ a b Natron, WebMineral.com 2011年10月16日閲覧。 (英語)
3.^ Trona, WebMineral.com 2011年10月16日閲覧。 (英語)
参考文献[編集]
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関連項目[編集]
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鉱物 - 炭酸塩鉱物
鉱物の一覧
炭酸ナトリウム
炭酸水素ナトリウム
トロナ
岩塩
硝酸ナトリウム
アントゾナイト
アントゾナイト(Antozonite)は、放射性の蛍石の一種であり、1841年にバイエルン州Wölsendorfで発見され[1]、1962年に名づけられた[2]。かつてはStinkspat、Stinkfluss、Stinkstein、fetid fluorite等とも呼ばれた[3]。
Antozonite.jpg
Stinkspat hg.jpg
フッ素原子を含む多数の含有物を含み[4]、結晶が破壊された際にフッ素が放出される特徴がある。フッ素は空気中の酸素や水蒸気と反応してオゾンとフッ化水素を生じる。生じたオゾンの特徴的な匂いが、antozoneと呼ばれる仮説上の化合物と誤認されたことから、この名前が付いた。
2012年に、ミュンヘン工科大学等のチームによって、それまで自然界には存在しないとされていた単体のフッ素分子が含まれていることが確認された[5]。
出典[編集]
1.^ Some physical properties of naturally irradiated fluorite, American Mineralogist, Robert Berman, 1956; "The material has been given the name antozonite, after the supposed evanescent gas, antozone. Earlier names were Stinkstein and Stinkfluss (Hausmann, 1847)"
2.^ American Journal of Science, 1862
3.^ Carbonatites and alkalic rocks of the Arkansas River area, Fremont County, Colorado. 2. Fetid gas from carbonatite and related rocks, American Mineralogist, vol. 50, November–December 1965; E. Wm. Heinrich and Raymond J. Anderson
4.^ Study of the solid and gaseous inclusions in the fluorites from Wölsendorf (Bavaria, F.R. of Germany) and Margnac (Haute Vienne, France) by microprobe and mass spectrometry, by R. Vochten, E. Esmans and W. Vermeirsch, Chemical Geology, volume 20, 1977 doi:10.1016/0009-2541(77)90047-X
5.^ 自然界に単体フッ素=鉱物で確認、定説覆す−独大学 時事ドットコム 2012年7月6日
Antozonite.jpg
Stinkspat hg.jpg
フッ素原子を含む多数の含有物を含み[4]、結晶が破壊された際にフッ素が放出される特徴がある。フッ素は空気中の酸素や水蒸気と反応してオゾンとフッ化水素を生じる。生じたオゾンの特徴的な匂いが、antozoneと呼ばれる仮説上の化合物と誤認されたことから、この名前が付いた。
2012年に、ミュンヘン工科大学等のチームによって、それまで自然界には存在しないとされていた単体のフッ素分子が含まれていることが確認された[5]。
出典[編集]
1.^ Some physical properties of naturally irradiated fluorite, American Mineralogist, Robert Berman, 1956; "The material has been given the name antozonite, after the supposed evanescent gas, antozone. Earlier names were Stinkstein and Stinkfluss (Hausmann, 1847)"
2.^ American Journal of Science, 1862
3.^ Carbonatites and alkalic rocks of the Arkansas River area, Fremont County, Colorado. 2. Fetid gas from carbonatite and related rocks, American Mineralogist, vol. 50, November–December 1965; E. Wm. Heinrich and Raymond J. Anderson
4.^ Study of the solid and gaseous inclusions in the fluorites from Wölsendorf (Bavaria, F.R. of Germany) and Margnac (Haute Vienne, France) by microprobe and mass spectrometry, by R. Vochten, E. Esmans and W. Vermeirsch, Chemical Geology, volume 20, 1977 doi:10.1016/0009-2541(77)90047-X
5.^ 自然界に単体フッ素=鉱物で確認、定説覆す−独大学 時事ドットコム 2012年7月6日
エッチング
エッチング (etching) とは、化学薬品などの腐食作用を利用した塑形ないし表面加工の技法。使用する素材表面の必要部分にのみ防食処理を施し、腐食剤によって不要部分を溶解侵食・食刻することで目的形状のものを得る。
銅版による版画・印刷技法として発展してきた歴史が長いため、銅や亜鉛などの金属加工に用いられることが多いが、腐食性のあるものであれば様々な素材の塑形・表面加工に応用可能である。
金属の試験片を腐食液(ナイタールなど)によって表面を腐食することで、金属組織の観察や検査などに用いられている。
目次 [非表示]
1 フォトエッチング
2 版画・印刷
3 電子回路
4 金属加工
5 半導体工学
6 異方性エッチング
7 その他
8 廃液処理
9 シミュレーションソフトウェア
フォトエッチング[編集]
光硬化樹脂にパターンを露光する事でマスキングする。現在、大半のマスキングに用いられる。
版画・印刷[編集]
防食処理を施した銅板の表面を針で削り、その後腐食させることで凹版を得るのに使用する。腐食作用を通じて間接的に版を加工するので、凹版画技法のなかではさらに、間接法に分類される。直接銅板に線を彫っていく直接法よりも線を意のままに描きやすい。詳しくは版画を参照。
電子回路[編集]
プリント基板(Printed Circuit Board)の作成に用いられる。近年は細密化多層化している。銅箔のエッチング時の化学反応は以下のとおりである。
塩化鉄(III)の3価の鉄イオンが銅に電子を与えられて2価になり、銅は最終的に銅(U)イオンになる。塩化鉄(III)は塩化鉄(II)になる。
{\rm {FeCl_{3}+Cu\longrightarrow FeCl_{2}+CuCl}}{\rm {FeCl_{3}+CuCl\longrightarrow FeCl_{2}+CuCl_{2}}}
金属加工[編集]
プレスなどでは難しい複雑な加工のためにエッチングが応用されている。携帯電話等、電子機器に使用されているプリント基板、ICのリードフレームや電気カミソリの網刃、カラーCRTのシャドーマスクなどの厚さ数十から数百μmの金属板材部品などを製造する技術もある。この方法で作製される模型のパーツはエッチングパーツと呼ばれる。銅合金のエッチングには塩化第二鉄水溶液を使用する。塩化第二鉄が電子を銅に与える事によって銅をイオン化する。塩化第二鉄は塩化第一鉄になる。プレスで打ち抜くと加工工程で塑性変形する為に残留応力が残るが、エッチングであれば残留応力が残らない。但し、圧延工程において板金内部に残留応力が残っている場合は片面がエッチングされた場合、内部の残留応力バランスが崩れて反る場合がある。対策としては加熱して焼き鈍し等によって残留応力を事前に除去する。
JIS規格では熱処理した鉄鋼材料のエッチングによる組織試験法が規定されている。
半導体工学[編集]
半導体工学分野では、フォトリソグラフィとしてウェハーなどの半導体上の薄膜を形状加工する技術に応用されている。半導体ウェハー上に酸化膜等の薄膜を形成し、フォトレジストを塗布してパターンを露光した後にエッチングにより不要な薄膜を除去する。エッチングの手法としては、弗酸などの液体を使用するウェットエッチングと、四フッ化炭素などのガスを使用するドライエッチングが有る。半導体の微細化において結晶構造による特性を利用して異方性エッチングを用いる場合もある。近年ではMEMSの製造にも用いられる。
同様にプリント基板の配線形成のため導体(主に銅箔)を除去するための工程として用いられる。エッチング液としては塩化第二鉄などが用いられる。
異方性エッチング[編集]
結晶構造の違いによる縦横の反応性の違いを利用して縦横比の大きい構造を形成する技術である。反応に用いる薬剤は反応性が弱い種類を使用する為、処理に時間がかかる。綿密に濃度、温度の管理をする必要がある。
その他[編集]
ガラスの装飾技法として大阪の芙蓉商事が考案したガラスエッチングがある。
歯面の脱灰処理もエッチングという。歯科領域におけるエッチングの目的は、1.窩洞形成後の窩洞表面に付着した汚染物の除去、2.切削により形成されるスミヤー層の除去、である。
廃液処理[編集]
エッチング後の廃液には重金属が含まれており、処理剤や電気分解によって回収する。
シミュレーションソフトウェア[編集]
・SUGAR
・MCROCAD
・AnisE (IntelliSense社)[1]
・IntelliEtch (IntelliSense社)
銅版による版画・印刷技法として発展してきた歴史が長いため、銅や亜鉛などの金属加工に用いられることが多いが、腐食性のあるものであれば様々な素材の塑形・表面加工に応用可能である。
金属の試験片を腐食液(ナイタールなど)によって表面を腐食することで、金属組織の観察や検査などに用いられている。
目次 [非表示]
1 フォトエッチング
2 版画・印刷
3 電子回路
4 金属加工
5 半導体工学
6 異方性エッチング
7 その他
8 廃液処理
9 シミュレーションソフトウェア
フォトエッチング[編集]
光硬化樹脂にパターンを露光する事でマスキングする。現在、大半のマスキングに用いられる。
版画・印刷[編集]
防食処理を施した銅板の表面を針で削り、その後腐食させることで凹版を得るのに使用する。腐食作用を通じて間接的に版を加工するので、凹版画技法のなかではさらに、間接法に分類される。直接銅板に線を彫っていく直接法よりも線を意のままに描きやすい。詳しくは版画を参照。
電子回路[編集]
プリント基板(Printed Circuit Board)の作成に用いられる。近年は細密化多層化している。銅箔のエッチング時の化学反応は以下のとおりである。
塩化鉄(III)の3価の鉄イオンが銅に電子を与えられて2価になり、銅は最終的に銅(U)イオンになる。塩化鉄(III)は塩化鉄(II)になる。
{\rm {FeCl_{3}+Cu\longrightarrow FeCl_{2}+CuCl}}{\rm {FeCl_{3}+CuCl\longrightarrow FeCl_{2}+CuCl_{2}}}
金属加工[編集]
プレスなどでは難しい複雑な加工のためにエッチングが応用されている。携帯電話等、電子機器に使用されているプリント基板、ICのリードフレームや電気カミソリの網刃、カラーCRTのシャドーマスクなどの厚さ数十から数百μmの金属板材部品などを製造する技術もある。この方法で作製される模型のパーツはエッチングパーツと呼ばれる。銅合金のエッチングには塩化第二鉄水溶液を使用する。塩化第二鉄が電子を銅に与える事によって銅をイオン化する。塩化第二鉄は塩化第一鉄になる。プレスで打ち抜くと加工工程で塑性変形する為に残留応力が残るが、エッチングであれば残留応力が残らない。但し、圧延工程において板金内部に残留応力が残っている場合は片面がエッチングされた場合、内部の残留応力バランスが崩れて反る場合がある。対策としては加熱して焼き鈍し等によって残留応力を事前に除去する。
JIS規格では熱処理した鉄鋼材料のエッチングによる組織試験法が規定されている。
半導体工学[編集]
半導体工学分野では、フォトリソグラフィとしてウェハーなどの半導体上の薄膜を形状加工する技術に応用されている。半導体ウェハー上に酸化膜等の薄膜を形成し、フォトレジストを塗布してパターンを露光した後にエッチングにより不要な薄膜を除去する。エッチングの手法としては、弗酸などの液体を使用するウェットエッチングと、四フッ化炭素などのガスを使用するドライエッチングが有る。半導体の微細化において結晶構造による特性を利用して異方性エッチングを用いる場合もある。近年ではMEMSの製造にも用いられる。
同様にプリント基板の配線形成のため導体(主に銅箔)を除去するための工程として用いられる。エッチング液としては塩化第二鉄などが用いられる。
異方性エッチング[編集]
結晶構造の違いによる縦横の反応性の違いを利用して縦横比の大きい構造を形成する技術である。反応に用いる薬剤は反応性が弱い種類を使用する為、処理に時間がかかる。綿密に濃度、温度の管理をする必要がある。
その他[編集]
ガラスの装飾技法として大阪の芙蓉商事が考案したガラスエッチングがある。
歯面の脱灰処理もエッチングという。歯科領域におけるエッチングの目的は、1.窩洞形成後の窩洞表面に付着した汚染物の除去、2.切削により形成されるスミヤー層の除去、である。
廃液処理[編集]
エッチング後の廃液には重金属が含まれており、処理剤や電気分解によって回収する。
シミュレーションソフトウェア[編集]
・SUGAR
・MCROCAD
・AnisE (IntelliSense社)[1]
・IntelliEtch (IntelliSense社)
硝石
硝石(しょうせき、nitre[4]、niter[4]、saltpeter[4])は、硝酸塩鉱物の一種。化学組成は KNO3(硝酸カリウム)、結晶系は斜方晶系。
目次 [非表示]
1 産出地
2 性質・特徴
3 用途・加工法
4 サイド・ストーリー
5 脚注
6 関連項目
産出地[編集]
中国内陸部や西アジア、南ヨーロッパのような乾燥地帯、例えばスペイン、イタリア、エジプト、アラビア半島、イラン、インドなどでは、土壌から析出した硝石が地表で薄い層になって産するため、天然に採取される。
北西ヨーロッパや東南アジア、日本のような湿潤環境下では、天然では得がたい。ドイツやフランス、イギリスのような北西ヨーロッパでは、家畜小屋の土壁の中で、浸透した家畜の排泄物が微生物の作用によって硝酸カリウムとなったものを抽出して硝石を得ていた。また、東南アジアでは、伝統的に高床式住居の床下で鶏や豚を多数飼育してきたため、ここに排泄された鶏糞、豚糞を床下に積んで発酵、熟成させ、ここから硝石を抽出してきた他、熱帯雨林の洞穴に大群をなして生息するコウモリの糞から生成したグアノからも抽出が行われてきた。日本では、基本的には戦国時代の火器導入以降の黒色火薬の原料としての硝石を中国や東南アジア方面(インド)からの輸入に頼っていたが、加賀国や飛騨国などでは培養法というサクと呼ばれる草から硝酸カリウムを得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産していたほか、他の地方では古土法と呼ばれる古い家屋の床下にある表層土に微生物の作用によって硝酸カリウムが蓄積したものを抽出して硝石を得ていた。古土法の生産量は少なかったが、結局は戦乱が収まったことにより、国内での需要を賄えるようになった。
性質・特徴[編集]
「硝酸カリウム」を参照
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用途・加工法[編集]
火薬、染料、肥料など窒素を含む化学物質が必要な製品の原材料として、歴史的に用いられてきた。特に加熱すると硝酸イオンが分解して酸素を発生するため、火薬製造における酸化剤として重視されてきた。また、食肉保存において食中毒の原因となる細菌、特に塩漬け豚肉の食中毒の原因となりやすいボツリヌス菌の繁殖を抑制するためにも用いられ、塩漬け加工に際して塩とともに肉にすり込むこと(塩せき)が古くから行われてきた。そのため、硝石を用いた肉加工品は亜硝酸イオンと肉のミオグロビンの結合のため独特の桃色を呈する。通常のハムが加熱しても赤みを保つのはこのためであり、食品添加物として用いられる亜硝酸塩は発色剤とも呼ばれる。
サイド・ストーリー[編集]
窒素に相当する英語 nitrogen は、硝石を意味する nitre(米: niter)+ gen に由来する。
フランスでは、硝石採取人という職業があり、国王よりあらゆる家に立ち入って床下や穴蔵の土を採取することができる特権が与えられていた。硝石採取人は採取した土を温湯に溶解して炭酸カリウムを加えて硝酸カリウム塩を作り、これを濃縮して放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化すると精製された硝石となり、火薬の原料に使われる。その生産量は年間300トンほどであり、別名「ケール硝石」と呼ばれていたが、輸入物に比べて品質は低かった。そのため、需要を満たすには足りず、インド硝石などの輸入が大きな割合を占めていたが、フランス革命の時代になると、イギリスとの戦争からインドからの輸入が困難になった。そのため、フランス革命以後になると、硝石丘による人工的に硝石を得る方法が発明され、ナポレオン戦争の火薬原料の供給に大きな役目を果たした。開始から採取まで5年余りを要すが、土の2〜3%もの硝石を得ることができたため、生産量は採取を上回った。硝石丘は他の国でも行われ、幕末の日本にも伝来している。
硝石とよく似た性質を持つものに、チリ硝石がある。チリ硝石は南米チリから大規模な鉱床が発見されて、近代になって資源開発が行われ、ハーバー・ボッシュ法の発見以前には、世界的に重要な窒素工業の原料となっていた。このチリ硝石の主成分は硝酸カリウムではなく、硝酸ナトリウム(NaNO3)である。
脚注[編集]
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1.^ 「おもな鉱物」『理科年表 平成20年』 国立天文台編、丸善、2007年、641頁。ISBN 978-4-621-07902-7。
2.^ Niter, MinDat.org 2012年7月18日閲覧。 (英語)
3.^ Niter, WebMineral.com 2012年7月18日閲覧。 (英語)
4.^ a b c 文部省編 『学術用語集 地学編』 日本学術振興会、1984年、147頁。ISBN 4-8181-8401-2。
目次 [非表示]
1 産出地
2 性質・特徴
3 用途・加工法
4 サイド・ストーリー
5 脚注
6 関連項目
産出地[編集]
中国内陸部や西アジア、南ヨーロッパのような乾燥地帯、例えばスペイン、イタリア、エジプト、アラビア半島、イラン、インドなどでは、土壌から析出した硝石が地表で薄い層になって産するため、天然に採取される。
北西ヨーロッパや東南アジア、日本のような湿潤環境下では、天然では得がたい。ドイツやフランス、イギリスのような北西ヨーロッパでは、家畜小屋の土壁の中で、浸透した家畜の排泄物が微生物の作用によって硝酸カリウムとなったものを抽出して硝石を得ていた。また、東南アジアでは、伝統的に高床式住居の床下で鶏や豚を多数飼育してきたため、ここに排泄された鶏糞、豚糞を床下に積んで発酵、熟成させ、ここから硝石を抽出してきた他、熱帯雨林の洞穴に大群をなして生息するコウモリの糞から生成したグアノからも抽出が行われてきた。日本では、基本的には戦国時代の火器導入以降の黒色火薬の原料としての硝石を中国や東南アジア方面(インド)からの輸入に頼っていたが、加賀国や飛騨国などでは培養法というサクと呼ばれる草から硝酸カリウムを得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産していたほか、他の地方では古土法と呼ばれる古い家屋の床下にある表層土に微生物の作用によって硝酸カリウムが蓄積したものを抽出して硝石を得ていた。古土法の生産量は少なかったが、結局は戦乱が収まったことにより、国内での需要を賄えるようになった。
性質・特徴[編集]
「硝酸カリウム」を参照
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用途・加工法[編集]
火薬、染料、肥料など窒素を含む化学物質が必要な製品の原材料として、歴史的に用いられてきた。特に加熱すると硝酸イオンが分解して酸素を発生するため、火薬製造における酸化剤として重視されてきた。また、食肉保存において食中毒の原因となる細菌、特に塩漬け豚肉の食中毒の原因となりやすいボツリヌス菌の繁殖を抑制するためにも用いられ、塩漬け加工に際して塩とともに肉にすり込むこと(塩せき)が古くから行われてきた。そのため、硝石を用いた肉加工品は亜硝酸イオンと肉のミオグロビンの結合のため独特の桃色を呈する。通常のハムが加熱しても赤みを保つのはこのためであり、食品添加物として用いられる亜硝酸塩は発色剤とも呼ばれる。
サイド・ストーリー[編集]
窒素に相当する英語 nitrogen は、硝石を意味する nitre(米: niter)+ gen に由来する。
フランスでは、硝石採取人という職業があり、国王よりあらゆる家に立ち入って床下や穴蔵の土を採取することができる特権が与えられていた。硝石採取人は採取した土を温湯に溶解して炭酸カリウムを加えて硝酸カリウム塩を作り、これを濃縮して放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化すると精製された硝石となり、火薬の原料に使われる。その生産量は年間300トンほどであり、別名「ケール硝石」と呼ばれていたが、輸入物に比べて品質は低かった。そのため、需要を満たすには足りず、インド硝石などの輸入が大きな割合を占めていたが、フランス革命の時代になると、イギリスとの戦争からインドからの輸入が困難になった。そのため、フランス革命以後になると、硝石丘による人工的に硝石を得る方法が発明され、ナポレオン戦争の火薬原料の供給に大きな役目を果たした。開始から採取まで5年余りを要すが、土の2〜3%もの硝石を得ることができたため、生産量は採取を上回った。硝石丘は他の国でも行われ、幕末の日本にも伝来している。
硝石とよく似た性質を持つものに、チリ硝石がある。チリ硝石は南米チリから大規模な鉱床が発見されて、近代になって資源開発が行われ、ハーバー・ボッシュ法の発見以前には、世界的に重要な窒素工業の原料となっていた。このチリ硝石の主成分は硝酸カリウムではなく、硝酸ナトリウム(NaNO3)である。
脚注[編集]
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1.^ 「おもな鉱物」『理科年表 平成20年』 国立天文台編、丸善、2007年、641頁。ISBN 978-4-621-07902-7。
2.^ Niter, MinDat.org 2012年7月18日閲覧。 (英語)
3.^ Niter, WebMineral.com 2012年7月18日閲覧。 (英語)
4.^ a b c 文部省編 『学術用語集 地学編』 日本学術振興会、1984年、147頁。ISBN 4-8181-8401-2。
とろみ
とろみとは、液体に多少の粘度がある状態を指す表現。主に食品に関係する分野で使用される。「とろり」「とろとろ」などとも表現(擬態語)される。
調理の手法としては、あんかけに代表されるように、他の食材に液体を絡みやすくする目的でとろみがつけられることが多い。独特の食感を楽しんだり、とろみをつけることで温かい汁物を冷めにくくしたりする意味もある。
また、ゆっくりとまとまって食道に流れやすくなって気管への誤嚥を防止する効果があり、介護食では幅広い料理にとろみが利用されている。そのため、とろみ調整は介護食調理の重要な要素を占めている。
目次 [非表示]
1 とろみをつける方法
2 料理
3 調味料
4 菓子
5 その他
6 外部リンク
とろみをつける方法[編集]
食用の液体にとろみを加えるためには、以下のような材料が使われる。
片栗粉 - 水溶き片栗粉・あんかけなど
馬鈴薯などのでん粉 - あんかけなど
小麦粉 - スープ料理など
葛粉 - みたらし餡など
コーンスターチ - 食品・調味料など
増粘安定剤・増粘多糖類 - 調味料・菓子・食品など
とろろ昆布
オクラ、モロヘイヤなど粘性のある野菜類
サツマイモ、ジャガイモ、レンコンなど澱粉質のある芋類及び野菜類
など。
料理[編集]
中華料理八宝菜
エビのチリソース
甘酢あんかけ
など。
日本料理葛湯
みたらし団子
カレー南蛮
カレーライス
シチュー
のっぺい汁
ガタタン
皿うどん
あんかけ焼きそば
あんかけうどん
あんかけスパゲッティ
など。
西洋料理クリーム (食品)
カスタードクリーム
ポタージュ
など。
調味料[編集]
液体調味料・ソースには、食材に絡みやすくするためにとろみが付いていることが多い。
濃縮ソース
ケチャップ
マヨネーズ
など。
菓子[編集]
クリーム菓子
ゼリー
プリン
チューイングガム
など。
その他[編集]
介護用品
ゲル化剤
増粘剤
とろみ剤(高齢者・身体障害者用食事補助剤)
調理の手法としては、あんかけに代表されるように、他の食材に液体を絡みやすくする目的でとろみがつけられることが多い。独特の食感を楽しんだり、とろみをつけることで温かい汁物を冷めにくくしたりする意味もある。
また、ゆっくりとまとまって食道に流れやすくなって気管への誤嚥を防止する効果があり、介護食では幅広い料理にとろみが利用されている。そのため、とろみ調整は介護食調理の重要な要素を占めている。
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1 とろみをつける方法
2 料理
3 調味料
4 菓子
5 その他
6 外部リンク
とろみをつける方法[編集]
食用の液体にとろみを加えるためには、以下のような材料が使われる。
片栗粉 - 水溶き片栗粉・あんかけなど
馬鈴薯などのでん粉 - あんかけなど
小麦粉 - スープ料理など
葛粉 - みたらし餡など
コーンスターチ - 食品・調味料など
増粘安定剤・増粘多糖類 - 調味料・菓子・食品など
とろろ昆布
オクラ、モロヘイヤなど粘性のある野菜類
サツマイモ、ジャガイモ、レンコンなど澱粉質のある芋類及び野菜類
など。
料理[編集]
中華料理八宝菜
エビのチリソース
甘酢あんかけ
など。
日本料理葛湯
みたらし団子
カレー南蛮
カレーライス
シチュー
のっぺい汁
ガタタン
皿うどん
あんかけ焼きそば
あんかけうどん
あんかけスパゲッティ
など。
西洋料理クリーム (食品)
カスタードクリーム
ポタージュ
など。
調味料[編集]
液体調味料・ソースには、食材に絡みやすくするためにとろみが付いていることが多い。
濃縮ソース
ケチャップ
マヨネーズ
など。
菓子[編集]
クリーム菓子
ゼリー
プリン
チューイングガム
など。
その他[編集]
介護用品
ゲル化剤
増粘剤
とろみ剤(高齢者・身体障害者用食事補助剤)
非ニュートン流体
非ニュートン流体(ひニュートンりゅうたい、英: Non-Newtonian fluid)は、流れの剪断応力(接線応力)と流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)の関係が線形ではない粘性の性質を持つ流体のこと。ニュートン流体に当てはまらない流体の総称を指し、この流れのことを非ニュートン流動(non-Newtonian flow)と言う。
ニュートンの粘性法則において、剪断応力(接線応力)τxy は、流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)∂ux /∂y に比例する。ニュートン流体の場合、その比例係数μは定数となり次式で表される:
\tau _{{xy}}=\mu {\partial u_{x} \over {\partial y}}
したがって、流れの粘性の度合いはその比例係数である粘性率 μ の大きさによって表される。非ニュートン流体とは、剪断応力と速度勾配がこのような比例関係にない流体の総称である。
目次 [非表示]
1 構造
2 モデルと分類
3 脚注
4 関連項目
構造[編集]
非ニュートン流体のミクロな構造は、Merrillによって以下のように分類されている。各分類において所属物質をほぼ包括した特性があることが指摘されている[1]。
巨大分子が液状として存在する。 不規則性螺旋非電解巨大分子の溶液 ポリスチレン、ポリメタクリル酸メチル、ポリイソブチレン、ポリ塩化ビニル、ポリ酢酸ビニル、酢酸セルロース、メチルセルロース(英語版)、ゴム様高分子の溶液
不規則性螺旋電解巨大分子の溶液 CMC、カーボポール(英語版)、アルギン酸ナトリウム、アルギン酸アンモニウム、ポリメタアクリル酸のナトリウム塩の溶液
不規則性螺旋巨大分子の塊 溶融高分子
硬直巨大分子の溶液 アルブミン、グロブリンなどのたんぱく質、DNAポリペプチドの溶液
巨大分子の集合体 でん粉の分子成分、ポリ塩化ビニル溶液
固体粒子が懸濁状で液体中に存在する。
低分子成分の液中で、剪断応力が大きいため局所分子配列がかく乱されるもの。
モデルと分類[編集]
Classification of fluids based on the stress vs. rate of strain relationship.
非ニュートン流体のモデル(構成式)として、次式が考えられている:
\tau _{{xy}}=\tau _{{\mathrm {o}}}+\eta \left({\partial u_{x} \over {\partial y}}\right)^{n}
ここで、τxy は剪断応力(接線応力)、τo は降伏強度、ηは非ニュートン粘性、∂ux /∂y は流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)、n は定数である。非ニュートン流体の性質は上式の指数n によって次の3種に大別される:
ダイラタント流体(Dilatant Fluid)τo = 0 , n > 1疑塑性流体(Pseudoplastic Fluid)τo = 0 , n < 1ビンガム流体(Bingham Plastic)τo > 0 , n = 1
ダイラタント流体は流れが強くなるほど流動しにくくなる(速度勾配が大きいほど剪断応力が増加する)流体、疑塑性流体は流れが強くなるほど流動しやすくなる(速度勾配が大きいほど剪断応力の増加が減少する)流体、ビンガム流体は一定の剪断応力に達しないと流動を始めない特徴になる。これらは流れの弾性的な性質が表される。
脚注[編集]
1.^ 城塚正; 平田彰; 村上昭彦 『移動速度論』 オーム社、1966年、174頁。ISBN 4-274-11910-6。
関連項目[編集]
チキソトロピー
レオロジー
HTHS粘度
ちょう度
とろみ
ニュートンの粘性法則において、剪断応力(接線応力)τxy は、流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)∂ux /∂y に比例する。ニュートン流体の場合、その比例係数μは定数となり次式で表される:
\tau _{{xy}}=\mu {\partial u_{x} \over {\partial y}}
したがって、流れの粘性の度合いはその比例係数である粘性率 μ の大きさによって表される。非ニュートン流体とは、剪断応力と速度勾配がこのような比例関係にない流体の総称である。
目次 [非表示]
1 構造
2 モデルと分類
3 脚注
4 関連項目
構造[編集]
非ニュートン流体のミクロな構造は、Merrillによって以下のように分類されている。各分類において所属物質をほぼ包括した特性があることが指摘されている[1]。
巨大分子が液状として存在する。 不規則性螺旋非電解巨大分子の溶液 ポリスチレン、ポリメタクリル酸メチル、ポリイソブチレン、ポリ塩化ビニル、ポリ酢酸ビニル、酢酸セルロース、メチルセルロース(英語版)、ゴム様高分子の溶液
不規則性螺旋電解巨大分子の溶液 CMC、カーボポール(英語版)、アルギン酸ナトリウム、アルギン酸アンモニウム、ポリメタアクリル酸のナトリウム塩の溶液
不規則性螺旋巨大分子の塊 溶融高分子
硬直巨大分子の溶液 アルブミン、グロブリンなどのたんぱく質、DNAポリペプチドの溶液
巨大分子の集合体 でん粉の分子成分、ポリ塩化ビニル溶液
固体粒子が懸濁状で液体中に存在する。
低分子成分の液中で、剪断応力が大きいため局所分子配列がかく乱されるもの。
モデルと分類[編集]
Classification of fluids based on the stress vs. rate of strain relationship.
非ニュートン流体のモデル(構成式)として、次式が考えられている:
\tau _{{xy}}=\tau _{{\mathrm {o}}}+\eta \left({\partial u_{x} \over {\partial y}}\right)^{n}
ここで、τxy は剪断応力(接線応力)、τo は降伏強度、ηは非ニュートン粘性、∂ux /∂y は流れの速度勾配(ずり速度、剪断速度)、n は定数である。非ニュートン流体の性質は上式の指数n によって次の3種に大別される:
ダイラタント流体(Dilatant Fluid)τo = 0 , n > 1疑塑性流体(Pseudoplastic Fluid)τo = 0 , n < 1ビンガム流体(Bingham Plastic)τo > 0 , n = 1
ダイラタント流体は流れが強くなるほど流動しにくくなる(速度勾配が大きいほど剪断応力が増加する)流体、疑塑性流体は流れが強くなるほど流動しやすくなる(速度勾配が大きいほど剪断応力の増加が減少する)流体、ビンガム流体は一定の剪断応力に達しないと流動を始めない特徴になる。これらは流れの弾性的な性質が表される。
脚注[編集]
1.^ 城塚正; 平田彰; 村上昭彦 『移動速度論』 オーム社、1966年、174頁。ISBN 4-274-11910-6。
関連項目[編集]
チキソトロピー
レオロジー
HTHS粘度
ちょう度
とろみ