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2017年11月26日

秋田縦貫鉄道 秋田内陸線 急行もりよし2号 角館→鷹巣

秋田縦貫鉄道 秋田内陸線 急行もりよし2号 角館→鷹巣



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【4K前面展望】秋田内陸縦貫鉄道 急行(角館〜鷹巣)〈振替有〉

【4K前面展望】秋田内陸縦貫鉄道 急行(角館〜鷹巣)〈振替有〉



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河野談話は俺じゃない!“ 外務大臣に起用された河野太郎氏の人となりは

ヤフーニュースより引用

“河野談話は俺じゃない!“ 外務大臣に起用された河野太郎氏の人となりは https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170804-00010001-abemav-pol


 「戦後史に名を残す岸田外務大臣の後を引き継ぐことになりましたので、心して全力で仕事をしてまいりたいと思っております。核やミサイルの問題で安全保障をめぐる環境が大きく変わっている。これまで以上に日米同盟をしっかりと強化してまいりたい」

 3日に安倍首相が行った内閣改造で、野田聖子氏の起用とともに注目を集めているのが、河野太郎氏の外相起用だ。歯に衣着せぬ発言や、ブログ「ごまめの歯ぎしり」が度々物議を醸し、“自民党の異端児“とも呼ばれる河野氏。

 政治的主張として挙げられるのが、“行革の鬼“として、行政の様々な無駄をなくすこと、そして原発を段階的に廃止すべきという立場、自衛隊のイラク派遣の批判、選択的夫婦別姓の肯定など。

 “違うことは違う“と、時に党や政権に対しても批判的な発言をしてきた。安倍政権の支持率急落の一因となった南スーダンPKO日報問題についても「それ(日報)は絶対どっかにあるからきちんと探せっていう指示をして、探した結果やっぱり電子で全部残ってましたと。ほら見ろと」と、苦言を呈している。




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慰安婦謝罪した「河野談話」の主人公の息子、外相に

ヤフーニュースより引用

慰安婦謝罪した「河野談話」の主人公の息子、外相に https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170804-00028084-hankyoreh-kr


 「河野談話」を出した河野洋平元官房長官の息子の河野太郎元行政改革担当相(54)が、日本政府の新外相に内定したとNHKなど日本のマスコミが3日伝えた。

 日本のマスコミは、安倍晋三政権が3日に実施する内閣改造で自民党の政調会長のポストに移る岸田文雄氏に代わり河野元行政改革担当相を外相に起用する方針を固めたと伝えた。彼の父親の河野洋平元官房長官は1993年、慰安婦動員過程の強制性と軍の介入を認めた河野談話を発表し、安倍政府の歴史修正主義についても批判を加えてきた人物だ。

 河野氏は富士ゼロックスなど民間企業で働き、政界に進出した。脱原発を志向する超党派議員の集まりである「原発ゼロの会」に参加しており、靖国神社参拝について懐疑的であるなど、安倍首相の路線とは距離がある人物だ。韓日議員連盟の会員であり、派閥は麻生派に属する。安倍政権は私学法人スキャンダルと閣僚らの相次ぐ失言などで支持率が20%台まで落ちた状態だ。安倍首相が自分と近い人物で内閣を作る「お友達内閣」を作ったという批判も受けたため、今度は自分と距離がある人物も起用する形を取り、危機脱出を図った。河野新外相だけでなく、アベノミクスに代わる経済政策を勉強する会を進めてきた野田聖子氏を総務相に内定した。東京新聞は、安倍首相が自分と距離がある河野氏と野田氏を入閣させバランスを合わせようとしたと伝えた。

 河野氏は父親が出した河野談話については発言を控えている。彼が運営するブログには河野談話の内容や性格について説明する文章がアップされているが、これに対する積極的な評価が書かれているわけではない。2015年の行政改革担当相入閣直後には、河野談話に対する意見を問う質問に「個人的な見解を申し上げることは適当ではない。日本政府としては(植民地支配と侵略の歴史に謝罪と反省の意を明らかにした)村山談話(1995年)、河野談話を継承すると(安倍)首相が述べた通りだ」と答えた。

 一方、自民党の保守本流を自負する宏池会(岸田派)のトップでポスト安倍として取り上げられている岸田文雄氏は、党3役の一つである政調会長になり、次期首相の挑戦にさらに有利な位置に立つことになった。安倍首相は2012年第2次内閣発足時から外相を務めた岸田氏に止まってほしいという意思を伝えたが、以後、岸田氏が内心望んでいた党3役に席を移動させた。安倍首相は自分を批判し続けている石破茂議員と近い人物である小此木八郎氏を国家公安担当相、石破派所属議員である斎藤健議員を農林水産相に内定した。朝日新聞は、石破議員を孤立させる意図ではないかとの見方があると伝えた。防衛相は、第2次内閣発足当時から防衛相を歴任し、敵基地攻撃能力の保有を主張する小野寺五典議員が内定された。副首相は麻生太郎氏、官房長官は菅義偉氏が留任し、内閣の基本骨格は維持される見通しだ。

東京/チョ・ギウォン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )




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河野家3代世襲の物語(一郎・洋平・太郎) --- 八幡 和郎

ヤフーニュースより引用

河野家3代世襲の物語(一郎・洋平・太郎) --- 八幡 和郎 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170809-00010015-agora-pol


河野太郎氏の外相就任で、あらためて近代日本の政治史でも有数の名門である河野家が話題になっている。私は「政界名門一族の査定表」(宝島社)(http://amzn.to/2hJyAkg)という本で、この一族を取り上げており、そのなかから、河野家についての記述の要旨を紹介する。

慰安婦問題での河野談話でその名を残しそうなのが、宮沢内閣の官房長官としてこの談話を出した河野洋平氏だ。親中姿勢から、「江(沢民)の傭兵」と揶揄されたこともあった。当時の判断としては、一種の「損切り」ということで、韓国の要求は怪しげな所もあるが、このあたりで手を打って話をおしまいにできればそれもよしということだったと思う。しかし、実際には、韓国がますます増長して要求をエスカレートしただけなので、大失敗だった。

また、村山談話のときの自民党総裁だったが、これも、まったく同じではないが、河野洋平氏の融和路線が良い結果をもたらしたとは思えない。

その父親の河野一郎は、日ソ国交回復の立役者だ。これも賛否両論あるところだが、病気だった鳩山一郎首相にかわって交渉の主導権をとった河野農相が、漁業協定を実現するために領土問題で二島返還だけを、それも、平和条約締結時にという馬鹿げた妥協を、フルシチョフを相手にしてしまった。

有名な岸・大野・河野密約事件は、1959年に帝国ホテルで岸信介、大野伴睦、河野、佐藤栄作の四人が萩原吉太郎(北炭)、児玉誉士夫(右翼の大物)、永田雅一(大映)らの立会で「次期首相は大野、その次は河野」という約束をした事件だ。

ここに至るまでも河野や大野は右翼とのつながりが強かったわけだが、その集大成というべきはこの事件だった。しかし、岸はこの約束を反故にして池田勇人を後継者にした。反米的な姿勢が嫌われたといえばそうだし、戦争の闇から生まれた裏社会と表舞台とが距離を取り始めた事件でもあった。

ただし、国土建設についての河野一郎の識見はたいしたものだった。建設相として東京五輪のための東京改造をやりとげ、さらには、浜名湖周辺への首都移転、京都国際会館を中心にして京都をコンベンション・シティーとして育てること、筑波学園都市の建設、そして、明石・鳴門ルート一本に絞っての本四架橋早期実現など国土全体を果敢にデザインした。

このあたり、我が県に新幹線を、といった個別地域の陣笠的発想から出発した田中角栄とは格の違う存在だったと言える。

その河野一郎は池田内閣末期にも、池田三選に反対して総裁選挙に出た佐藤栄作に対抗して池田を推して後継指名を願いました。しかし、佐藤が総裁選挙に善戦したうえに、予想より早く池田が病気で辞任したために、池田もすんなり佐藤に禅譲した。

河野はなおも野心を燃やしたが、自身が1965年に急逝して夢はたたれた。また、それに先立ち、右翼の野村秋介が河野の自宅に放火して全焼させた事件があったが、このとき、吉田茂が大喜びしたことはよく知られている。良くも悪くも吉田の官僚主導政治、対米協調主義の対極にいた政治家だった。

その河野一郎の父であった治平は、小田原近郊の素封家で、神奈川県会議長もつとめました。治平は朝日新聞の農政記者から政治家となった。弟に参議院議長を務めた河野謙三がおり、また、妻の従兄弟の子にのちに河野洋平のあとをついで新自由クラブの二代目党首になった田川誠一がいる。

一郎が死んだとき、洋平氏はまだ28歳だった。早稲田大学卒業後、丸紅飯田(現丸紅)で働きアメリカにも留学している。同時期に、田中真紀子も留学しており交流があったとも言われる。結婚したのは丸紅と伊藤忠の創業家当主だった伊藤恭介の娘で、二人の間に生まれた長男が、現在は衆議院議員の太郎氏だ(余談ながら、伊藤恭介さんには若い頃仕事でたいへんお世話になったことがありますが、とてもお洒落な紳士でした)。したがって、河野太郎氏は近江商人の伊藤忠兵衛の曾孫になる。

洋平氏は父のようなブラックなイメージもなく、物腰もソフトだったことから早くから自民党若手のホープと言われた。ただ、新自由クラブを拙速に立ち上げすぎた。野党分裂に繋がる要素がなかったのが、後の、日本新党などの時代と違うところだ。

イメージとしてはリベラルではあったが、やはり反米色が目立ち、そのあたりが宮沢喜一などと違うところだ。洋平氏は宮沢政権を支えきれず野党となった自民党にあって総裁となり、村山内閣の外相にも就任したが、新自由クラブ以来の経緯もあり、本格保守政権を望む声に押されて橋本龍太郎に総裁を譲ることになった。

そののち、衆議院議長となって史上最長の任期をつとめた。また、自民党総裁時代に、小選挙区制が導入され、旧神奈川3区が分割されたが、洋平は河野家の出身地である小田原を中心とした17区から立候補する事にして、洋平の長男である太郎は、自宅のある平塚を含む15区から出て、33歳で当選しました。

父の洋平氏が2009年の総選挙で引退したとき、太郎は46歳になっていましたが、この選挙制度の隙間を利用することで、在任期間で13年、当選回数で4回のキャリアを親子ダブル立候補で稼いだことになる。



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文大統領「慰安婦合意は韓国人の期待とかけ離れている」

ヤフーニュースより引用

文大統領「慰安婦合意は韓国人の期待とかけ離れている」 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170821-00000070-yonh-kr


【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は21日、青瓦台(大統領府)で超党派の日韓議員連盟の代表団と会談し、旧日本軍の慰安婦問題を巡る2015年末の韓日合意について「韓国人の期待とはかけ離れたものだった」と述べた。

 文大統領は「韓国国民は情緒的にその合意を受け入れることができない」とした上で、国民たちはなぜその時期に被害者と国民への十分な説明がないまま合意に至ったのか疑問に思っていると述べた。

 被害者と十分に協議し同意を得るべきだったがそのような過程がなかったため、その経緯を把握するため外交部長官直属のタスクフォース(TF、特別チーム)が発足し検証作業を行っていると説明した。

 文大統領は、慰安婦の強制性を認めた河野談話(1993年)や植民地支配と侵略を反省する戦後50年の村山談話(1995年)、金大中(キム・デジュン)大統領と小渕恵三首相が結んだ「韓日共同宣言―21世紀に向けた新たなパートナーシップ」(1998年)の趣旨を継承することを望むとの考えも示した。

 また、韓国で来年開かれる平昌冬季五輪に続き20年の東京五輪、22年の北京冬季五輪と北東アジアでの五輪開催を機に韓日関係が発展し、北東アジアの平和と繁栄が実現することを願っていると述べた。

 北朝鮮核問題への対応に関連しては、「韓日両国は基本的価値と戦略的利益を共有しているだけでなく地理的・文化的にも非常に近い隣国だ。北の核とミサイルの脅威に対し共通の対応を取る関係でもある」と強調した。

 続けて「北の核とミサイルは韓国にとって生存にかかわる問題であり、日本にとっても大きな懸念だと理解している。両国が重大な状況を克服するために力を合わせることを望む」と述べた。

 青瓦台の朴洙賢(パク・スヒョン)報道官は同日の会見で、会談について「文大統領と日本の代表団は、韓日間に歴史問題など困難が横たわっているが、未来志向的な関係に発展させ、北の核とミサイルへの対応で緊密に連携しなければならないとの認識で一致した」と伝えた。

 会談は午後4時から約40分間行われ、日本側から日韓議員連盟の額賀福志郎会長ら10人と長嶺安政・駐韓大使が、韓国側からは韓日議員連盟に所属する国会議員や青瓦台関係者が出席した。



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文大統領、日本の議員らと面談し「河野・村山談話の継承してほしい」

ヤフーニュースより引用

文大統領、日本の議員らと面談し「河野・村山談話の継承してほしい」 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170822-00028251-hankyoreh-kr


 「河野談話と村山談話、金大中(キム・デジュン)大統領と小渕首相の共同宣言の趣旨を継承していただきたいと思っている」

 文在寅(ムン・ジェイン)大統領は21日、大統領府で韓日議員連盟の日本側代表団と面談しながら、このように語った。慰安婦強制動員を認めた「河野談話」(1993年)、日本の侵略戦争と植民地支配に対する反省を盛り込んだ「村山談話」(1995年)、金大中大統領と小淵恵三首相が日本の謝罪と韓国の和解を約束した「韓日パートナーシップ共同宣言」(1998年)の延長線上で、韓日関係を発展させていくべきという持論を確認したのだ。文大統領が8・15光復節記念式で、両国間の軋轢と関連し、「歴史問題に対する日本政府の認識の浮き沈みがあるため」と述べたことと同じ文脈の発言と言える。

 同日、文大統領は大統領府仁王室で韓日議員連盟の日本側代表の額賀福志郎会長と、河村建夫幹事長など12人と面談し、北朝鮮の核・ミサイル危機に対する韓日の協力策などを話し合った。大統領府のパク・スヒョン報道官はその後、ブリーフィングを通じて「同日の面談で、歴史問題など困難はあるが、韓日両国が未来指向的な関係に発展していかなければならないということと、北朝鮮の核・ミサイルの脅威に対して両国が緊密に協調して対応していくべきという認識で一致した」と明らかにした。文大統領はこの場で「最近数年間、韓日関係は足踏み状態にあるが、私の就任後、両国の間の未来志向的関係の流れが作られていると思う」と述べたとパク報道官は伝えた。

 同日の面談で、日本議員たちが先に「韓日慰安婦合意はすでに行われたもの」いう趣旨の話を切り出すと、文大統領は「日本軍慰安婦問題と関連して、両国間の合意があったというが、韓国人の期待とはかけ離れたもので、特に被害当事者のハルモニ(おばあさん)たちと十分に協議して同意すべきだったのに、そのような過程がなかった」と答えたと、大統領府関係者は伝えた。文大統領は「韓国国民が国民感情の面で合意を受け入れられず、なぜその時期にハルモニたちと国民に十分に知らせなかったのかについていぶかしく思ってしている。その経緯を把握するために、外交部でもタスクフォースが活動しており、経緯を見守っている」と述べたと、大統領府は明らかにした。

チョン・ユギョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )



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解散総選挙で日本はどうなるのか? いち早く安倍政権の5年間を総括する!

ヤフーニュースより引用

解散総選挙で日本はどうなるのか? いち早く安倍政権の5年間を総括する! https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170929-00007013-besttimes-pol


「安倍政権とは何だったのか?」政府は衆院を解散。10月10日公示―22日投開票」との日程を決めた。安倍首相の胸の内は今どうなっているのか? 「こんなはずじゃなかったのに…」これが本音じゃないだろうか。小池百合子東京都知事が率いる希望の党が結党宣言し、民進党は四党共闘を放り投げ、右往左往。自民党と希望の党、安倍と小池という究極の選択。どちらに進もうが地獄である。なぜ日本はこんなことになってしまったのか? 安倍政権の危険性をいち早く指摘し、新刊『安倍政権とは何だったのか』でその総括を試みたのが作家適菜収氏。そのなかで、安倍政権に群がり、事実を歪曲してきた言論人やメディアの責任を問うことも忘れてはいけないと警告を発している。売国・壊国の愚作の数々……。そしてこんな政権を野放しにしてきたのがわれわれの社会なのだ。

 

 安倍政権とは何だったのか? 

 政治の腐敗が来るところまで来たという話です。

 わが国は想像以上に脆かった。

 民主党政権の三年間で酷い目に遭ったという意識が国民には強く残っていて、その反動で「民主党よりマシ」「民主党時代に戻すのか」といったテンプレート、思い込みのようなものができた。それが安倍政権を支えていたのだと思います。

 しかし、 本当に民主党よりマシだったのか? 

 むしろ、民主党の一番危険な部分、愚劣な部分を引き継いだのが安倍政権ではないでしょうか。憲法の恣意的な解釈、デフレ下の増税、TPP……。また、移民政策、農協や家族制度への攻撃といった愚策中の愚策を急進的に押し通してきた。

 やってきたのはシンプルな対米追従・売国路線です。




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台湾の過去10年の命運を見つめた書籍、日本語版刊行へ

ヤフーニュースより引用

台湾の過去10年の命運を見つめた書籍、日本語版刊行へ https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171026-00000003-ftaiwan-cn


(台北 26日 中央社)台湾の過去10年余りの命運を見つめた書籍「受困的思想:台湾重返世界」の日本語版が刊行されることが26日までに分かった。日本の出版社は、日本人の台湾理解に寄与できると同時に、戦後の周辺諸国に対する責任への反省を日本人に促せると考えているという。

同書を台湾で出版した衛城出版の荘瑞琳編集長によれば、日本語版出版が決まったのは今年7月。荘氏は、日本側が出版の方向性を理解し、ほぼ同じ知識観を持っていたことに感動したと語る。

著者は、中央研究院台湾史研究所の呉叡人副研究員。同書では世界史を視野とし、台湾を困難に閉じ込める根源と困難脱出の道を模索する。困難脱出に関しては、日台関係や村山談話、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」などの切り口からも論ぜられている。

(羅苑韶/編集:名切千絵)




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[コラム]振り子の軸はどこまで動くのか

ヤフーニュースより引用

[コラム]振り子の軸はどこまで動くのか https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171027-00028802-hankyoreh-kr


 日本の衆議院早期総選挙で、自民・公明執権与党が議席の3分の2以上を占める圧勝をおさめた後の23日、インタビューをした中野晃一上智大教授は、日本政治の右傾化傾向を研究してきた学者だ。韓国でも翻訳された『右傾化する日本政治』で中野教授は、日本政治の右傾化傾向を振り子に比喩して説明する。振り子は揺れるので、左に行ったり右に行ったりする。だが、振り子の軸自体が右に移動すれば、振り子が左に揺れても以前ほどには左に行くことができない。

 日本の現代政治は、1994年の社会党出身の村山富市首相就任や2009年の民主党の政権交替成功のように左に動いた時があったが、軸自体は常に右に移動しているということだ。最近会ったある日本人記者も同じような話をした。「今リベラル(進歩)に見える政治家たちもリベラルではない。以前に比べて状況がひどすぎるのでそんな風に見えるということだけだ」と話した。

 中野教授は、第2次大戦の敗戦後に日本の保守が軽武装・経済成長重視路線を選択した“保守本流”から、冷戦後の新自由主義と復古的国家主義が結合した“新右派連合”に移行したと分析する。新右派連合の新世代が小泉純一郎政権時期に力を蓄えて現れた結果が安倍晋三政権だと診断する。

 中野教授だけでなく日本の進歩的な人々は、日本右傾化の重要な分岐点を1997年と見る。1997年は“バックラッシュ(反発)元年”と呼ばれる。1995年に植民地支配に対する反省を表明した村山談話、そしてその後に日本軍「慰安婦」に関する記述を入れた教科書が大挙登場し、1997年に極右的歴史観で武装した人々が「新しい歴史教科書をつくる会」をスタートさせた。安倍政権を動かす団体として注目される極右団体「日本会議」が結成されたのも1997年だった。

 野党もますます右に移った。アジア中心外交を主張した鳩山由紀夫首相は、1年ももたずに辞任し、民主党政権の最後の首相は民主党内の保守派である野田佳彦であった。

 2012年にスタートした安倍政権は、平和憲法を基礎にした日本の戦後体制まで崩しつつある。2014年に憲法の解釈変更という違憲的方法で集団的自衛権の行使が可能だと閣議決定した。翌年には集団的自衛権の行使を実質的に裏付ける法整備として安保法制改定を強行した。集団的自衛権という名目で自衛権の発動要件を曖昧にさせ、日本が戦争可能な国になる道を開いた。安倍政権が改憲をする現実的な必要性自体はないという分析まで出てくる理由だ。

 安倍政権は総選挙圧勝後、今のところ姿勢を低くしている。安倍首相自身のみならず閣僚たちは「謙虚」、「努力」のような謙虚に見える単語を連発する。息を整えているのだろう。安倍政権が日本の戦後平和主義の理念的核心である憲法を改定することに成功できるかは確実でないものの、“右向け右”は続いている。

 総選挙前に訪れた東京の明治神宮には「教育勅語」を書いたパンフレットが置かれていた。パンフレットには「(教育勅語は)私たち国民の永遠不滅な道徳教育の基礎だと言える」と記されていた。天皇のために命まで捧げよという趣旨の内容が書かれた教育勅語は、日本軍国主義教育の象徴だった。教育勅語で教育を受けた日本の若者たち、そして植民地朝鮮の多くの若者たちが戦場で命を失った。日本政治の右傾化を対岸の火事とは考えられない理由だ。

チョ・ギウォン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )




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