2019年10月03日
映画「天国と地獄」- 格差社会が生み出す誘拐犯罪の闇
「天国と地獄」1963年(昭和38年) 東宝
監督 黒澤明
脚本 菊島隆三
久坂栄二郎
小国英雄
黒澤明
原作 エド・マクベイン
撮影 斎藤孝雄
中井朝一
音楽 佐藤勝
〈キャスト〉
三船敏郎 仲代達矢 香川京子 山崎努
三橋達也 石山健二郎 木村功
毎日映画コンクール・日本映画大賞/脚本賞
NHK映画祭・最優秀作品賞/監督賞
等、多数受賞
誘拐というのは卑劣な犯罪です。
犯罪に卑劣も高潔もないわけですが、幼い子供をさらって親に身代金を払わせる行為は、親子の情愛を深くえぐって金銭を要求するのですから、子供をさらわれた親の絶望と苦悩は第三者には想像もできません。
「天国と地獄」はエド・マクベインの警察小説「キングの身代金」を原作として、経済成長を突き進み始めた昭和の日本社会に舞台を置き換え、誘拐という卑劣な犯罪の背後に隠された社会の断面に深く切り込んだ人間ドラマの傑作です。
権藤(三船敏郎)はナショナル・シューズの常務です。
しかし、独自の方針を貫いて会社を運営していこうとする権藤に対して重役連中(伊藤雄之助、田崎潤、中村伸郎)は反感を持ち、反旗を翻(ひるがえ)します。
ナショナル・シューズから権藤を追い出そうとする重役たちに対して、権藤は自社株を買い占め、会社の実権を握ろうと画策します。
頼みにしていた大阪からの一報が入り、株の買い占めに成功した権藤は、引き換えの5000万円の小切手を秘書の河西(三橋達也)に渡し、大阪行きを命じます。
誘拐犯人からの電話が入ったのは、その直後でした。
「子どもをさらった。3000万円用意しろ」
驚いた権藤と妻の怜子(香川京子)でしたが、息子の純(江木俊夫)は間もなく帰宅。タチの悪いイタズラ電話だと思って安堵した権藤でしたが、純と一緒に遊んでいたはずの運転手の息子、進一の姿が見えないことに気づきます。
再び犯人からの電話。
「子どもを間違えた。しかし、3000万はあんたが払うんだ、権藤さん」
バカな、どうしておれが!
理不尽な要求に憤然とする権藤ですが、誘拐されたのが権藤家のお抱え運転手、青木(佐田豊)の一人息子の進一(島津雅彦)だと判り、青木は苦悩に打ちひしがれます。
やがて事件は警察の手に委(ゆだ)ねられ、沈着冷静な戸倉警部(仲代達矢)を主任とする刑事たちが権藤邸に乗り込むことになります。
犯人の居所をつかむため、電話には録音テープが仕掛けられ、緊張した空気が権藤邸に流れます。
再び犯人からの電話。
「金は用意できたか?」
しかし権藤は犯人の要求を厳しく拒否。
当然ながら権藤には身代金を払えない理由があります。
株の買い占めに集めた5000万円のために家は抵当に入っており、ビタ一文でも欠ければ株は集まらず、権藤は会社を追われ、全財産を失うことになります。
一人息子の進一を誘拐されて悄然と立ち尽くす青木を見かねた妻の怜子は、権藤に身代金を払ってくれるよう哀願しますが、権藤は払いたいけど払えない胸の内を吐露。苦境に追い込まれます。
権藤の気持ちが変わったのは、犯人逮捕の手がかりをつかむため、嘘でいいから、身代金を払うと言ってもらえないか、と戸倉警部に頼まれてからでした。
一介の靴職人から出直すことを覚悟した権藤は、5000万円の小切手を現金に換えさせ、犯人の要求通り特急「こだま」に乗り、その支持に従うことになります。
権藤邸の応接間に集まったナショナル・シューズの重役たちと権藤とのやり取りで始まる「天国と地獄」は、権藤の置かれた立場と、その後に続く誘拐事件の中での権藤の複雑な心境を、より深く理解させるための見事な設定です。
重役たちとの対立。
権藤と、その秘書で野心家の河西との確執。
苦労を知らないお嬢様育ちながら、やさしい人情味のある妻の怜子。
犯人逮捕に全力を挙げる戸倉警部以下の刑事たち。
権藤邸の応接間は煮えたぎる釜のような熱気と緊張をはらんでおり、その緊張感は進一の誘拐事件の中で一気に頂点に達してゆきます。
犯人の要求に素直に従ったことで進一は無事に解放され、映画は犯人の捜索と逮捕に焦点が移ってゆくことになります。
傑作ぞろいの黒澤作品の中でも、群を抜く傑作だと思う「天国と地獄」。
権藤邸の緊迫した場面はもちろん、身代金引き渡しに利用された特急「こだま」のシーンは、撮り直しのできない状況での撮影のためか、極度に緊張した俳優たちの演技がそのまま伝わってきます。
緊張感だけではなく、黒澤作品独特のユーモアが要所に表れていて、息苦しさを緩和するのに効果を発揮しています。
事件はやがて、カバンに仕掛けられた牡丹色の発煙によって、医学生である竹内銀次郎(山崎勉)が主犯として浮上し、戸倉たちは竹内を追い詰めていくのですが、それまで表面に出てこなかった犯人の竹内が、捜査中の刑事たちと入れ替わるように登場する場面は見事で、そこから竹内の人間像が描かれてゆきます。
経済成長の波に乗って繁栄を謳歌する金持ちと、親を亡くし、苦しく貧しい医学生の青年。
だからといって、貧しい医学生が犯罪に手を染めていいという理屈にはなりませんが、サマセット・モームの「人間の絆」のように、社会全体が貧しさにある時代ならともかく、格差が広がり始めた社会構造の中で、金持ちに対する偏見と憎悪が不気味な蓄積を生み出していくのも仕方のないことなのかもしれません。
「天国と地獄」という題名は、日の当たる高台に傲然(ごうぜん)とそびえる権藤邸と、それを見上げる北向きの古く汚いアパートで暮らす竹内の生活環境の差異を表現していると思われますが、一方で、経済成長の外にはじき出され、麻薬中毒の巣窟に渦巻く人間たちもまた、地獄の底でもだえ苦しむ人々であると捉(とら)えることができます。
いわば、経済の成長によって格差が広がる中で、同じ地上で暮らす人間でありながら、その生活には天国と地獄ほどの違いが生じてしまったということだと思います。
映画のワンシーン、ワンシーンはとても独創的で、なんの変哲もない純と進一のピストルごっこにしても、そのクッキリとした映像感覚は他に類を見ないものです。
黒澤作品では脚本や映像感覚はもちろん素晴らしいのですが、さらに映画的センスの良さも光っていて、竹内が逮捕される別荘のシーンでラジオから深夜放送の音楽が聞こえているのですが、そこに流れているのが「オー・ソレ・ミオ」。
「晴れた日はなんて素晴らしい」で始まる明るい曲調の、このナポリ民謡は、映画ではオーケストラのみの演奏が使われていますが、竹内逮捕の深夜に流れたことによって人生の明暗、悲哀というものを特徴づける、とても印象的な場面になっています。
黒澤はこの場面で「オー・ソレ・ミオ」を下敷きにしたエルヴィス・プレスリーの「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」を使いたかったらしく、高額な著作権使用料などの問題もあって断念したようですが、甘いラブソングとして大ヒットした「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」を仮に黒澤明の思惑通りに使っていたとすれば、「太陽がいっぱい」のトム・リプリーの完全犯罪が崩れ去るラストシーンを彷彿とさせる、映画史に残る名シーンになっていたようにも思います。
社会性と娯楽性を見事に融合させた「天国と地獄」ですが、権藤が竹内と刑務所で面会するラストでは、ドストエフスキーの寒々とした狂気の世界を思わせる幕切れで、残酷で深い余韻を残しました。
監督 黒澤明
脚本 菊島隆三
久坂栄二郎
小国英雄
黒澤明
原作 エド・マクベイン
撮影 斎藤孝雄
中井朝一
音楽 佐藤勝
〈キャスト〉
三船敏郎 仲代達矢 香川京子 山崎努
三橋達也 石山健二郎 木村功
毎日映画コンクール・日本映画大賞/脚本賞
NHK映画祭・最優秀作品賞/監督賞
等、多数受賞
誘拐というのは卑劣な犯罪です。
犯罪に卑劣も高潔もないわけですが、幼い子供をさらって親に身代金を払わせる行為は、親子の情愛を深くえぐって金銭を要求するのですから、子供をさらわれた親の絶望と苦悩は第三者には想像もできません。
「天国と地獄」はエド・マクベインの警察小説「キングの身代金」を原作として、経済成長を突き進み始めた昭和の日本社会に舞台を置き換え、誘拐という卑劣な犯罪の背後に隠された社会の断面に深く切り込んだ人間ドラマの傑作です。
権藤(三船敏郎)はナショナル・シューズの常務です。
しかし、独自の方針を貫いて会社を運営していこうとする権藤に対して重役連中(伊藤雄之助、田崎潤、中村伸郎)は反感を持ち、反旗を翻(ひるがえ)します。
ナショナル・シューズから権藤を追い出そうとする重役たちに対して、権藤は自社株を買い占め、会社の実権を握ろうと画策します。
頼みにしていた大阪からの一報が入り、株の買い占めに成功した権藤は、引き換えの5000万円の小切手を秘書の河西(三橋達也)に渡し、大阪行きを命じます。
誘拐犯人からの電話が入ったのは、その直後でした。
「子どもをさらった。3000万円用意しろ」
驚いた権藤と妻の怜子(香川京子)でしたが、息子の純(江木俊夫)は間もなく帰宅。タチの悪いイタズラ電話だと思って安堵した権藤でしたが、純と一緒に遊んでいたはずの運転手の息子、進一の姿が見えないことに気づきます。
再び犯人からの電話。
「子どもを間違えた。しかし、3000万はあんたが払うんだ、権藤さん」
バカな、どうしておれが!
理不尽な要求に憤然とする権藤ですが、誘拐されたのが権藤家のお抱え運転手、青木(佐田豊)の一人息子の進一(島津雅彦)だと判り、青木は苦悩に打ちひしがれます。
やがて事件は警察の手に委(ゆだ)ねられ、沈着冷静な戸倉警部(仲代達矢)を主任とする刑事たちが権藤邸に乗り込むことになります。
犯人の居所をつかむため、電話には録音テープが仕掛けられ、緊張した空気が権藤邸に流れます。
再び犯人からの電話。
「金は用意できたか?」
しかし権藤は犯人の要求を厳しく拒否。
当然ながら権藤には身代金を払えない理由があります。
株の買い占めに集めた5000万円のために家は抵当に入っており、ビタ一文でも欠ければ株は集まらず、権藤は会社を追われ、全財産を失うことになります。
一人息子の進一を誘拐されて悄然と立ち尽くす青木を見かねた妻の怜子は、権藤に身代金を払ってくれるよう哀願しますが、権藤は払いたいけど払えない胸の内を吐露。苦境に追い込まれます。
権藤の気持ちが変わったのは、犯人逮捕の手がかりをつかむため、嘘でいいから、身代金を払うと言ってもらえないか、と戸倉警部に頼まれてからでした。
一介の靴職人から出直すことを覚悟した権藤は、5000万円の小切手を現金に換えさせ、犯人の要求通り特急「こだま」に乗り、その支持に従うことになります。
権藤邸の応接間に集まったナショナル・シューズの重役たちと権藤とのやり取りで始まる「天国と地獄」は、権藤の置かれた立場と、その後に続く誘拐事件の中での権藤の複雑な心境を、より深く理解させるための見事な設定です。
重役たちとの対立。
権藤と、その秘書で野心家の河西との確執。
苦労を知らないお嬢様育ちながら、やさしい人情味のある妻の怜子。
犯人逮捕に全力を挙げる戸倉警部以下の刑事たち。
権藤邸の応接間は煮えたぎる釜のような熱気と緊張をはらんでおり、その緊張感は進一の誘拐事件の中で一気に頂点に達してゆきます。
犯人の要求に素直に従ったことで進一は無事に解放され、映画は犯人の捜索と逮捕に焦点が移ってゆくことになります。
傑作ぞろいの黒澤作品の中でも、群を抜く傑作だと思う「天国と地獄」。
権藤邸の緊迫した場面はもちろん、身代金引き渡しに利用された特急「こだま」のシーンは、撮り直しのできない状況での撮影のためか、極度に緊張した俳優たちの演技がそのまま伝わってきます。
緊張感だけではなく、黒澤作品独特のユーモアが要所に表れていて、息苦しさを緩和するのに効果を発揮しています。
事件はやがて、カバンに仕掛けられた牡丹色の発煙によって、医学生である竹内銀次郎(山崎勉)が主犯として浮上し、戸倉たちは竹内を追い詰めていくのですが、それまで表面に出てこなかった犯人の竹内が、捜査中の刑事たちと入れ替わるように登場する場面は見事で、そこから竹内の人間像が描かれてゆきます。
経済成長の波に乗って繁栄を謳歌する金持ちと、親を亡くし、苦しく貧しい医学生の青年。
だからといって、貧しい医学生が犯罪に手を染めていいという理屈にはなりませんが、サマセット・モームの「人間の絆」のように、社会全体が貧しさにある時代ならともかく、格差が広がり始めた社会構造の中で、金持ちに対する偏見と憎悪が不気味な蓄積を生み出していくのも仕方のないことなのかもしれません。
「天国と地獄」という題名は、日の当たる高台に傲然(ごうぜん)とそびえる権藤邸と、それを見上げる北向きの古く汚いアパートで暮らす竹内の生活環境の差異を表現していると思われますが、一方で、経済成長の外にはじき出され、麻薬中毒の巣窟に渦巻く人間たちもまた、地獄の底でもだえ苦しむ人々であると捉(とら)えることができます。
いわば、経済の成長によって格差が広がる中で、同じ地上で暮らす人間でありながら、その生活には天国と地獄ほどの違いが生じてしまったということだと思います。
映画のワンシーン、ワンシーンはとても独創的で、なんの変哲もない純と進一のピストルごっこにしても、そのクッキリとした映像感覚は他に類を見ないものです。
黒澤作品では脚本や映像感覚はもちろん素晴らしいのですが、さらに映画的センスの良さも光っていて、竹内が逮捕される別荘のシーンでラジオから深夜放送の音楽が聞こえているのですが、そこに流れているのが「オー・ソレ・ミオ」。
「晴れた日はなんて素晴らしい」で始まる明るい曲調の、このナポリ民謡は、映画ではオーケストラのみの演奏が使われていますが、竹内逮捕の深夜に流れたことによって人生の明暗、悲哀というものを特徴づける、とても印象的な場面になっています。
黒澤はこの場面で「オー・ソレ・ミオ」を下敷きにしたエルヴィス・プレスリーの「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」を使いたかったらしく、高額な著作権使用料などの問題もあって断念したようですが、甘いラブソングとして大ヒットした「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」を仮に黒澤明の思惑通りに使っていたとすれば、「太陽がいっぱい」のトム・リプリーの完全犯罪が崩れ去るラストシーンを彷彿とさせる、映画史に残る名シーンになっていたようにも思います。
社会性と娯楽性を見事に融合させた「天国と地獄」ですが、権藤が竹内と刑務所で面会するラストでは、ドストエフスキーの寒々とした狂気の世界を思わせる幕切れで、残酷で深い余韻を残しました。
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