2023年12月14日
吉本お笑いの歴史
吉本興業HD前会長・万博催事検討会議共同座長 大ア洋<13> 「左遷」で東京へ…漫才ブーム到来
2023/12/14
漫才ブームのころのうめだ花月の客席(昭和55年ごろ)
漫才ブームのころのうめだ花月の客席(昭和55年ごろ)
《昭和55年、東京に異動となった。自著「居場所。」によると、「大ア、言うたらなんやけど、この人事は左遷やな」と言われたとある》
入社3年目のことです。吉本興業が初めて東京に拠点を開くので、僕と上司の木村政雄さんの2人だけで赴任しました。会社は当時、なんば、うめだ、京都の3花月など劇場の売り上げと、関西を中心とした放送局での芸人さんの出演が事業の中心で、「関西の劇場の出番を休んで東京のテレビに出演するなんてとんでもない」という雰囲気でした。今から考えるとウソのような話ですが…。
なので新規配属先は「吉本興業東京連絡所」、名前のとおり所属している芸人さんが東京で仕事をする際、大阪に何時ごろに帰れるかなど、本社との連絡係が仕事です。「大阪の劇場が最優先や。ゆめゆめ東京で動いて仕事を取ってくるな」との厳命のもと、大阪からレンタカーで東京・赤坂の5丁目交番近くにあった小さなワンルームの事務所と、対面に借りた木村さんと一緒に住むマンションに荷物を運びこみました。
木村さんは横山やすし・西川きよしさんのマネジャーだったので東京の放送界に知り合いがおり、さらに2人ともお酒が飲めないので、「銀座などで無駄な経費は使わんだろう」との判断もあったのでしょう。木村さんはともかく、実績のなかった僕は左遷≠ニ言われても仕方なかったですね。
《予想通り、木村さんは動いた》
事務所に電話が1台しかなかったので、木村さんが「大ア、親子電話にしよか」ともう1台増やした。ところが親子電話だと、1人しか話せない。これでは不便と本社に企画書を上げ、回線をもう1本増やしました。僕は僕で、浅草の中古バイク店に行って50ccのスーパーカブを買いました。確か9000円だったと思います。これで電車代とタクシー代を浮かそうとの作戦です。こうして東京での仕事がスタートしました。
赴任当初から「吉本一の切れ者」と称された木村さんが、連絡係では収まらないだろうなと思っていましたが、さっそく初日から動き始めた。本社の厳命については「ほっとけほっとけ」と、芸人さんの東京での仕事を入れ始めたのです。新人時代から木村さんには逆らえません。「はい! わかりました」と、土地勘のない都内を飛び回る日々となったのです。
《この年の1月、フジテレビ系「花王名人劇場」で「激突!漫才新幹線」が放映され、横山やすし・西川きよし、セント・ルイスに若手のB&Bらがお茶の間に漫才の醍醐味(だいごみ)を伝え、ブームの萌芽(ほうが)が生まれる。そして4月、「THE MANZAI」(フジテレビ系)がオンエアされ、一気に大きなうねりとなっていった》
あの時代のフジテレビがすごかったのは、「THE MANZAI」と漢字でないタイトルにしたこと、小林克也さんの歯切れのいい呼び出し、電飾で飾られた派手な舞台に軽快なBGM、スピーディーな展開など、これまでの寄席演芸でない、ポップな漫才にしたことです。
お客さんも出演者と同じくらいの大学生や若者を集め、収録会場も寄席小屋だと舞台があって客席が平べったく、めくりがあるじゃないですか。それを舞台を半円にして客席が取り囲むようにし、めくりは置かず、客席もすり鉢状にせり上げて、演者の背後から撮影して会場の熱気が伝わるようにした。常識を打ち破る仕掛けで、まったく新しい漫才番組という商品を作ったということですね。
「THE MANZAI」には、やすきよさんを筆頭に、島田紳助・松本竜介やザ・ぼんち、中田カウス・ボタンさんと関西の若手が出演。それまでは「関西の笑いは箱根の山を越えられない、東京では受けない」とされていましたが、関東のセント・ルイスやツービートとともに高視聴率をたたき出す、全国区の芸人さんとなっていった。吉本興業躍進の大きなきっかけで、嵐のようなブームに僕も巻き込まれていきました。(聞き手 大野正利)
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吉本興業HD前会長・万博催
2023/12/14
価格:4880円 |
漫才ブームのころのうめだ花月の客席(昭和55年ごろ)
漫才ブームのころのうめだ花月の客席(昭和55年ごろ)
《昭和55年、東京に異動となった。自著「居場所。」によると、「大ア、言うたらなんやけど、この人事は左遷やな」と言われたとある》
入社3年目のことです。吉本興業が初めて東京に拠点を開くので、僕と上司の木村政雄さんの2人だけで赴任しました。会社は当時、なんば、うめだ、京都の3花月など劇場の売り上げと、関西を中心とした放送局での芸人さんの出演が事業の中心で、「関西の劇場の出番を休んで東京のテレビに出演するなんてとんでもない」という雰囲気でした。今から考えるとウソのような話ですが…。
なので新規配属先は「吉本興業東京連絡所」、名前のとおり所属している芸人さんが東京で仕事をする際、大阪に何時ごろに帰れるかなど、本社との連絡係が仕事です。「大阪の劇場が最優先や。ゆめゆめ東京で動いて仕事を取ってくるな」との厳命のもと、大阪からレンタカーで東京・赤坂の5丁目交番近くにあった小さなワンルームの事務所と、対面に借りた木村さんと一緒に住むマンションに荷物を運びこみました。
木村さんは横山やすし・西川きよしさんのマネジャーだったので東京の放送界に知り合いがおり、さらに2人ともお酒が飲めないので、「銀座などで無駄な経費は使わんだろう」との判断もあったのでしょう。木村さんはともかく、実績のなかった僕は左遷≠ニ言われても仕方なかったですね。
《予想通り、木村さんは動いた》
事務所に電話が1台しかなかったので、木村さんが「大ア、親子電話にしよか」ともう1台増やした。ところが親子電話だと、1人しか話せない。これでは不便と本社に企画書を上げ、回線をもう1本増やしました。僕は僕で、浅草の中古バイク店に行って50ccのスーパーカブを買いました。確か9000円だったと思います。これで電車代とタクシー代を浮かそうとの作戦です。こうして東京での仕事がスタートしました。
赴任当初から「吉本一の切れ者」と称された木村さんが、連絡係では収まらないだろうなと思っていましたが、さっそく初日から動き始めた。本社の厳命については「ほっとけほっとけ」と、芸人さんの東京での仕事を入れ始めたのです。新人時代から木村さんには逆らえません。「はい! わかりました」と、土地勘のない都内を飛び回る日々となったのです。
《この年の1月、フジテレビ系「花王名人劇場」で「激突!漫才新幹線」が放映され、横山やすし・西川きよし、セント・ルイスに若手のB&Bらがお茶の間に漫才の醍醐味(だいごみ)を伝え、ブームの萌芽(ほうが)が生まれる。そして4月、「THE MANZAI」(フジテレビ系)がオンエアされ、一気に大きなうねりとなっていった》
あの時代のフジテレビがすごかったのは、「THE MANZAI」と漢字でないタイトルにしたこと、小林克也さんの歯切れのいい呼び出し、電飾で飾られた派手な舞台に軽快なBGM、スピーディーな展開など、これまでの寄席演芸でない、ポップな漫才にしたことです。
お客さんも出演者と同じくらいの大学生や若者を集め、収録会場も寄席小屋だと舞台があって客席が平べったく、めくりがあるじゃないですか。それを舞台を半円にして客席が取り囲むようにし、めくりは置かず、客席もすり鉢状にせり上げて、演者の背後から撮影して会場の熱気が伝わるようにした。常識を打ち破る仕掛けで、まったく新しい漫才番組という商品を作ったということですね。
「THE MANZAI」には、やすきよさんを筆頭に、島田紳助・松本竜介やザ・ぼんち、中田カウス・ボタンさんと関西の若手が出演。それまでは「関西の笑いは箱根の山を越えられない、東京では受けない」とされていましたが、関東のセント・ルイスやツービートとともに高視聴率をたたき出す、全国区の芸人さんとなっていった。吉本興業躍進の大きなきっかけで、嵐のようなブームに僕も巻き込まれていきました。(聞き手 大野正利)
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