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2020年02月09日

違う意見を認めるのは不可能である

年代が変わっても、人の意見は変わらないという
武田先生の「親子喧嘩の原理」は興味深いです。
親子喧嘩というより、憲法改正の喧嘩に応用出来ます。

世論は、今の老人が世代交代で死ぬか、
「老いては子に従え」で変わると思われます。
安倍首相は、どうして世論が変わるまで待てないのか?
それとも、その時期に来ていると思っているのか?
良く分からないです。

その他、温暖化、インフルエンザワクチン、禁煙問題など、
違う意見を認めるのは不可能であると言えます。


喧嘩をしない知恵として、
ひろさちやさんの「捨てちゃえ、捨てちゃえ」というのがありました。

 「イソップ物語」にありましたね。
 親子でロバを市場に売りに行きます。まず、子供をロバに乗せていたら、通りがかりの人が、「親を歩かせて平気でいるとは、親不孝な子だ」と評します。それで、子供をロバから降ろし、親がロバに乗っていたら、「子供がかわいそう。虐待だ」と言う人がいる。次に親子が二人ともロバに乗ったら、「ロバを疲れさせると、市場で高く売れないぞ」と忠告する人がいました。結局、親子はロバを棒に縛りつけ、二人でロバを担いで行きました。そういうお話です。

 これが「世間」と言うものです。世間は勝手なことを言います。しかし、よく考えてみてください。世間の人が言うことは、完全に間違いではありません。「親不孝」といえばその通りだし、「子供がかわいそう」と言うのも間違っていません。だから困るんです。

 よく、世間の人の言うことなど気にする必要はない、無視すればいい、と主張する人がいますが、間違いではないからなかなか無視なんかできません。それで困ってしまうのです。

 では、どうすればよいでしょうか……?

 そこで、「捨てちゃえ、捨てちゃえ」になります。私の方から積極的に世間を捨てるのです。具体的には、世間を馬鹿にすること。喧嘩をしろというのではありませんが、心の中で世間を馬鹿にします。

 それじゃあ、その馬鹿にする方法は……?


「かくあらねばならぬ」ではなく、「いいかげん、ずぼら、ちゃらんぽらん」でちょうどいい
 私たちは、「かくあらねばならぬ」という社会規範に束縛されています。「かくあらねばならぬ」というのが、「こだわり」です。ただでさえ我々は「こだわり」に束縛されているのに、その「こだわり」を他人に適用し、その「こだわり」によって他人を裁いています。そして、他人を裁けば裁くほど、私たち自身がますます強くその「こだわり」を意識し、それに束縛されるはめになります。自縄自縛になります。


他人目――自分は自分と割り切る
 どうも日本人は、他人の生活が気になるらしい。ある文化人類学者が、岩手の農民との問答を紹介していた。農民たちがあまりに早起きなので、人類学者が問うた。そんなに早く起きないと、仕事が間に合わないのか?

 「いいや、もっと遅くてもいいが、早く起きて雨戸を開けておかないと、隣近所から怠け者と思われるので……」

 「じゃあ、雨戸を開けてから、また寝たらよいではないか?」

 「しかしかまどを焚かないと、上から煙が出ないので、すぐにわかってしまう」

 こういう調子で、どの家もどの家も、隣家を気にしながら早起きしているわけだ。都会ではお隣さんがピアノを購入したから、我が家にも……ということになる。

 他人が気になるのは、裏返しにこれを見れば、他人が自由勝手に行動する権利を認めていないことになる。隣人は自分と同じように行動しなければならない――。我々はそんな風に思っているのではないだろうか……。だから、自分も他人と同じように行動せねばならぬと考えてしまう。


異なる意見への毛嫌い――他人には別の意見を持つ権利がある
 他人の意見を変えさせようとしてはいけない。私たちは、他人が自分と違う意見を持っているとき、その相手を、

 「間違っている。けしからんやつだ」

 と断定してしまう。挙句の果ては、新聞や雑誌にその人の考えと違った意見を発表した人に、

 「ぶっ殺してやる!」

 といった脅迫状が舞い込んだりする。どうも他人の意見に対して寛容になれないのが、私の見るところ日本人の悪い癖だ。日本人はもう少し大人になって欲しい。

 ちょっと考えてみるとわかるように、二人の人間の意見が何から何まで一致することはない。自分自身でも、過去の自分と違った意見を持っていることがある。


「役に立つ」という目標――平凡に普通に生きればいい
 「神様はきっと凡人を愛しておられるに違いない。だから神様は、凡人をたくさん作っておられるのだ」

 これは、アメリカの第十六代大統領であったエイブラハム・リンカーンの言葉である。なかなかいい言葉だ。

 キリスト教では、神が人間を作ったと考える。神の作った人間には、特別な才能に恵まれた人もいれば、平凡な普通の人もいる。凡人が多数で、天才はごくわずかだ。

 そして、常識的には、特別な才能を付与された人間が神にかわいがられた人だと思われている。別段これといった理由はないが、非凡な人間の方が神様の寵児のように思えるのだ。多数の凡人は、神様の粗製乱造の製品のように受け取られる。

 それをリンカーンはひっくり返したのである。神様は、たくさんいる普通の人間がかわいくてならないからこそ、好きだからこそ、こんなにたくさんお作りになったのだ――。彼はそう言っている。



必要悪――必要であろうが悪は悪
(前略)

 しかし、こういうところに、典型的な日本人の「宗教音痴」ぶりがある。宗教は永遠の真理を説く。人殺しが悪であり、競争が悪であり、暴力が悪であるのは、永遠の真理である。

 ところが、宗教音痴の日本人は、必要性でもって物事を判断しようとする。戦争においては人殺しが必要だ。そうすると、人殺しを是認し、人殺しを礼賛し始める。

 教育の場における体罰は暴力であって悪であるが、日本人は体罰が必要だという理由でもって、無制限にこれを容認してしまう。競争が必要となれば、競争の称賛をするのが日本人である。そして、宗教家までが、その必要性に合わせて宗教の教えを歪めて説く。太平洋戦争の時には、仏教が

――一殺多生――

 の言葉でもって、戦争における人殺しを肯定してしまった。まさに宗教の自殺行為である。

 要するに日本人にとっては、必要性が物事を善にしてしまうのだ。それが宗教音痴のゆえんである。


希望なんていりません。現在に感謝して楽しむ心を持ちましょう
 欲望は、それを充足すればするほど、ますます膨らむものです。欲望というものはそういうものだと、まずはしっかりと認識してください。

 そうすると、私たちは「欲望」を捨てねばならぬことが明らかになります。

 だが、私がこのように言えば、きっと反論があります。

 たしかに欲望のほとんどは悪いものだけれども、欲望の内には良いものもあるのではないか、といった反論です。たとえば自分の才能を伸ばしたいといった意欲や、未来に希望を持つことなどはいいことではないか。それを一概に否定するのはおかしい。そんな意見をよく聞かされます。

 でも、考えてみてください。希望を持つということは、現在の自分を否定しているのです。より多くのお金を得たいという物欲ではないにしても、もっと進歩向上したいという精神的な欲も「欲望」であることに違いはないのです。そうした希望という名の欲望を持てば、たちまち今ある自分が駄目な存在になってしまいます。

 それは、例えば刑務所にいる人間と同じです。刑務所にいる人間が希望を持てば、自分で現在刑務所の中にいることが屈辱になり、耐えられない毎日を過ごすことになります。むしろ自分が刑務所にいることを忘れて、毎日を楽しく過ごす工夫をした方が良いのではありませんか。すなわち欲望を持たない方が良いのです。
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