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2016年11月28日

屋号#大阪丸その(47) (四天王寺@)







(四天王寺@)





天王寺周辺から大阪城まで足を延ばしたのですが、再び、天王寺周辺に舞い戻ることにしました。
ハルカスから歩いて10分の【四天王寺】さんに行きたかったので。





IMG_0187.JPG




天王寺界隈も結構、歩いて来たのですが(この屋号#大阪丸*あべのハルカス周辺のバックナンバー参照)大阪城の後、再び、阿倍野界隈でもある四天王寺さんを訪ねることにしました。
(なかなか難波や梅田や他にたどり着かないまま、現在は、見るところが多い阿倍野界隈とその近くの範囲から出ることが出来ないままになっています。)






聖徳太子が建立した七大寺の一つといわれています。





四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。






四天王寺は推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺の建立に取り掛かったとのこと。






(日本に伝存する最古の書物・【日本書紀】によれば、)
用明天皇2年(587年)、かねてより対立関係にあった蘇我氏(崇仏派)と物部氏(日本古来のアニミズムを重視した廃仏派)との争いが武力抗争に発展しました。
後の聖徳太子(厩戸皇子14歳)は蘇我氏の後方でこの戦いを見ていました。
敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自ら、その上から矢を放って防戦していました。
そのせいで蘇我軍は三たび退却することに。

この戦況をみた聖徳太子(厩戸皇子)は願を掛けることにしました。
白膠木(ぬるで)という木から四天王の形を作ります。
その際に「もし、この戦いに勝利することが出来るなら、必ず四天王を安置する寺塔を建てる」と誓願したとのこと。
不思議なことに願いは通じます。
味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は崩れ落ちます。
こうして、崇仏派の蘇我氏の勝利に終わりました。






その6年後の推古天皇元年にその願掛けの約束を果たすべく、四天王寺の建立を始めました。






あの不思議な逸話がたくさんある神がかり的な聖徳太子の願掛けから、産まれることになった四天王寺。
ある意味、日本史の中の大きな節目と言えるのかも?知れません。

歴史的な転換期は前回紹介の大阪城を基とした権力の移り変わりやその体制の変化もありますが、
・・・・・・四天王寺建立までに至る物部氏と蘇我氏の戦いは、日本史の中の宗教的観点から見ると、かなり大きな天下分け目だったのではないだろうか・・・と思います。





IMG_0181.JPG




日本最古の書物でもある【日本書紀】に記載されている悠久の時の物語に想いを馳せながら、広い境内(甲子園球場の約3倍らしい)を散策するのも趣きがあるかも知れません。






所在地:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18

山号:荒陵山(こうりょうざん)
【難波大寺(なにわだいじ)、御津寺(みとでら)、堀江寺(ほりえでら)などの別称も言い伝えがある】

宗派:和宗
【本来は特定宗派に属しない八宗兼学の寺。天台宗に属していた時期もあった。
日本仏教の祖である聖徳太子ゆかりの寺でもあり、既存仏教諸宗派にこだわらない全仏教的立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立した。】





IMG_0182.PNG




(中心伽藍回廊)



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(五重塔を含めた伽藍の美しい風景)



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(次号に続く)




















































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