2017年01月08日

屋号#大阪丸その(49) (四天王寺)そのB 金堂と壁画






(四天王寺)そのB 金堂と壁画






四天王寺さんには、独自の配置があります。
よく法隆寺の配置と比較対象になるくらいです。






IMG_0638.JPG





【四天王寺式伽藍配置】

中心伽藍は、南から北に一直線に中門・五重塔・金堂・講堂が並び、中門の左右から講堂までを回路で結んでいます。
日本で最も古い建築の様式のひとつです。





その配置の中に金堂があります。





IMG_0630.JPG





今回はその美しい金堂にスポットライトを当てたいと思います。





美しい金堂・・・美というのは不思議なとらえどころのないものですが、この金堂の美しさは、ひとつには仏教美(宗教様式の美とでもいうのでしょうか。)であり、ひとつには普通に見受けられる美(単純な美?)でもあり・・・ともかく美しいのです。





私自身はやはり、わっか市(四天王寺さんの門前市)と同様、若い頃に何も知識のないまま、この金堂を訪れたことが、ありました。
小学生頃、当時、父が凝っていた西国三十三か所のお寺参りによく家族で出かけていた私は、なんとなくお寺文化に慣れていました。
なので、あまり驚くこともなく、お寺文化の慣例を見学していました。





話は脱線しましたが、お寺文化に慣れたはずの私ですが、四天王寺さんの金堂に入った時、正直、目を見張りました。






他のお寺にはないものがあったのです・・・そして、それは美しい世界を描いていました。






四天王寺金堂の中は美しい色彩豊かな壁画に内壁が囲まれていたのです。






渋い茶系の・・・時にそこに仏像・仏具の金色を見出すようなお寺独特の色彩。
鮮やかな色とりどりの色彩はやはり仏教寺院の壁にかけられている五色幕や時に朱色に塗られた柱などしか記憶になく。





IMG_0635.JPG





四天王寺金堂の内部には極彩色に彩られた絵が四方を取り囲んでいます。





その美しい絵は、単なる壁画ではなく、釈迦の一生を描いた壁画でした。
釈迦の誕生から〜入滅(死亡)いわゆる涅槃までの物語を美しい色彩が紡いでいきます。







四天王寺金堂*壁画(作者:日本画家の中村岳陵氏の「仏伝図」)





●釈迦の母君である麻耶夫人の美しい風情を同じく美しい背景とともに描かれていました。





●麻耶夫人の右脇から生まれたばかりの釈迦が7歩歩んだ後、蓮の花の上で右手を上げて立っておられる絵図。
既に幼い釈迦に後光も指しています。

まさしく、この図は釈迦の誕生時の伝説を描いているのだろうと見つめてしまいました。

*釈迦は麻耶夫人の右脇から生まれたとされ、その直後に七歩歩いて、右手は天を指し、左手は地を指して、「天上天下唯我独尊」と言われたとされている。





●出家を思い立った釈迦が白馬に乗り、王位を捨て、思想の旅に出る為、城を出る図。





●降魔成道。





●初転法輪。





●沙羅双樹の下での釈迦入滅。涅槃図。
涅槃図なのにとても印象的な美しい絵図でした。


IMG_0645.JPG


IMG_0644.JPG


(注釈:貴重な本からの一部抜粋の絵図です。画像集に載っていたものを一部抜粋し、掲載しています。この「仏伝図」を描いた日本画家の中村岳陵氏の本は現在、古本であっても入手困難になっています・・・ちなみに私は(古本屋ともリンクしている)Amazonで中村岳陵氏の四天王寺金堂壁画(1960年)を探しましたが、現在、在庫切れでした。もちろん、市場に彼の画集が出ない限り、今後、手に入る見込みもありません。)





やはり、実物に勝るものはありません。
一番圧倒的なのは、実物の壁画を自分の目で見て 感じ取ることなのですが・・・。





壁画に囲まれた金堂の空間には、四天王寺本尊(救世観音菩薩半跏像)が中央に位置し、その四方に四天王像が祭られています。






IMG_0649.PNG






ここに聖徳太子の想いも込められているようです。

(前述したように(四天王寺@参照)日本最古の書物・日本書紀に残っている記録に、聖徳太子は物部氏との戦いに勝つことが出来たのなら、願を賭けた四天王を祭ることのできる寺を建立すると誓願したとあります。
そして願いはかなえられ、聖徳太子は四天王寺を建立します。)


この金堂の四方に祀られている四天王は、まさしく聖徳太子の悲願でもあり夢でもあるのでしょう。





IMG_0632.JPG






四天王を四方に配し、中央に救世観音菩薩半跏像・・・仏教の曼陀羅のような配置とも言えます。





私自身は美しい壁画と曼陀羅的な配置の仏像の金堂を観て、ひとつの宇宙的な空間を感じました。





IMG_0653.JPG






IMG_0655.JPG



他にはない空間がこの金堂にはあるように思えました。






にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村








(次号に続く)



































































2016年12月04日

屋号#大阪丸その(48) (四天王寺)そのA わつか市







(四天王寺)そのA







IMG_0268.JPG









IMG_0217.JPG











四天王寺さんでは、恒例の毎月第一日曜にその門前で【わつか市】が行われています。
(注*7月・10月・1月以外に市がたつ。)






IMG_0222.JPG






約90もの露店・・・食べ物あり。無添加にこだわった食品あり。手作り製品あり。骨董などもあり。
昔懐かしい(ちんどん屋)も見ることが出来る、楽しい門前市です。







見ているだけでも楽しい。
四天王寺さんの門前市。・・・歴史も古く、掘り出し物を見つけるチャンス。パリの蚤の市の日本版?!






散策がてら、自分なりの掘り出し物をぶらりと見つけに行くのもお勧めです。
玉石混合の宝の山から、自分独自のお宝(と思えるもの)を探し出すのも楽しみのひとつです。





また当日は絵本の読み聞かせなどのイベントもあり、出かける前に当日イベントなどのチェックもかかさずに。
(【四天王寺さんの わつか市】で検索されると、リアルタイムな情報入手も可能です。)





IMG_0221.JPG






さて、私自身の【四天王寺さんの わつか市】について記しておきます。






今から約30年以上前に(まだ若い学生でした。)この四天王寺さんの門前にたつ市に友人と出かけました。
大阪の梅田や難波・心斎橋辺りとは異なり、なんともレトロな、何か懐かしいような雰囲気があり・・・それなりに友人と楽しんで市を見て回りました。
今でいうフリマ(フリーマーケット)に歴史的なレトロさを混ぜ合わせたような?感じでした。

屋台のB級グルメに(焼きそばやリンゴ飴やベビーカステラなどの屋台定番の安価で美味しいもの。)舌鼓を打ちながら、おしゃべりに花を咲かせ・・・門前市を歩き・・・。






当時は、まだまだ昭和の香りも残っていて・・・自分が幼子だったころのような雰囲気が、この市には残っていました。






色々なものが、思い思いに並んでいるのですが・・・私の目を引いたものが二つありました。





ひとつは、着物の銘仙。(めいせん:平織の絹織物=大正時代から昭和時代にかけて、当時としては、お手頃な価格と斬新なデザインで普段着として、またお洒落着として人気のあった和装【着物】)






なんともレトロな着物独特の雰囲気と着物の柄とその色彩の合わせ方に心惹かれて・・・。






しかし、中古品の着物といえど、着物は着物・・・・・ぶらりと5000円位を手にして、友人と見学がてらに寄った私のお財布では残念ながら買えませんでした。
今の時代なら、また別の値打ち=パッチワークの材料や着物の様々なリメイクの生地としても、レトロなお洒落着(着物)としても、より価値がありそうです。
額縁に入れて、自宅に飾っても良いような美しい絵柄と色彩の着物達。






買えなかった、門前市でこころ惹かれたレトロの着物・・・学生ならではの思い出のひとつです。






着物をあきらめた学生の私は、やはり、何かが欲しくなり、友人とあれこれ見て回っていました。





次に思わず、釘付けになったのは、骨董品の小皿です。
私が気に入ったのは、2種類の各5枚・一組、計10枚の小皿でした。






IMG_0269.JPG










たぶん、昔なので、ひとつひとつ絵を描いたに違いない小皿の絵柄でした。
少しづつ、違うのです・・・絵柄が。






IMG_0268.JPG











ひと組は、始祖鳥?不死鳥?のような文様で、もうひと組は、白地に金と黒墨で描かれた【鶴・亀】でした。






IMG_0272.JPG







IMG_0273.JPG








どこかの古民家から出てきたような面持ち。





このふた組(【鳥の文様】と【鶴・亀】で各5枚一組、計10枚)を私は多分?3000円位で購入したと思います。
学生の私のお財布が、思い付きで骨董品を買うには、ぎりぎりラインだったような記憶があります。





なんとなくこのふた組の小皿達は吉兆柄のように、当時学生だった私には思えたものです。




なんだか、良い掘り出し物を探し当てた気分で自宅に戻ったのを覚えています。
達成感というか?充実感というか?
帰宅後もこの小皿を眺めてみたり・・・。











実は今もこの小皿、私の手元にあります。
約30年、1枚も欠けることもなく、私と同じく大阪→東京(学校)→大阪→三重県(結婚)と、移動していったのです。





なんとなくお気に入りだったので、引っ越しの際にも机の上にあった備品として、一緒に引越しし、結果的には三都道府県を行き来しました。





【四天王寺さんの わつか市】で巡り合った不思議な縁のある骨董品でした。
個人的には、とても懐かしい想い出です。







【四天王寺さんの わつか市】は不思議な懐かしさが一杯の門前市です。







にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村




















(次号に続く)






















































2016年11月28日

屋号#大阪丸その(47) (四天王寺@)







(四天王寺@)





天王寺周辺から大阪城まで足を延ばしたのですが、再び、天王寺周辺に舞い戻ることにしました。
ハルカスから歩いて10分の【四天王寺】さんに行きたかったので。





IMG_0187.JPG




天王寺界隈も結構、歩いて来たのですが(この屋号#大阪丸*あべのハルカス周辺のバックナンバー参照)大阪城の後、再び、阿倍野界隈でもある四天王寺さんを訪ねることにしました。
(なかなか難波や梅田や他にたどり着かないまま、現在は、見るところが多い阿倍野界隈とその近くの範囲から出ることが出来ないままになっています。)






聖徳太子が建立した七大寺の一つといわれています。





四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。






四天王寺は推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺の建立に取り掛かったとのこと。






(日本に伝存する最古の書物・【日本書紀】によれば、)
用明天皇2年(587年)、かねてより対立関係にあった蘇我氏(崇仏派)と物部氏(日本古来のアニミズムを重視した廃仏派)との争いが武力抗争に発展しました。
後の聖徳太子(厩戸皇子14歳)は蘇我氏の後方でこの戦いを見ていました。
敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自ら、その上から矢を放って防戦していました。
そのせいで蘇我軍は三たび退却することに。

この戦況をみた聖徳太子(厩戸皇子)は願を掛けることにしました。
白膠木(ぬるで)という木から四天王の形を作ります。
その際に「もし、この戦いに勝利することが出来るなら、必ず四天王を安置する寺塔を建てる」と誓願したとのこと。
不思議なことに願いは通じます。
味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は崩れ落ちます。
こうして、崇仏派の蘇我氏の勝利に終わりました。






その6年後の推古天皇元年にその願掛けの約束を果たすべく、四天王寺の建立を始めました。






あの不思議な逸話がたくさんある神がかり的な聖徳太子の願掛けから、産まれることになった四天王寺。
ある意味、日本史の中の大きな節目と言えるのかも?知れません。

歴史的な転換期は前回紹介の大阪城を基とした権力の移り変わりやその体制の変化もありますが、
・・・・・・四天王寺建立までに至る物部氏と蘇我氏の戦いは、日本史の中の宗教的観点から見ると、かなり大きな天下分け目だったのではないだろうか・・・と思います。





IMG_0181.JPG




日本最古の書物でもある【日本書紀】に記載されている悠久の時の物語に想いを馳せながら、広い境内(甲子園球場の約3倍らしい)を散策するのも趣きがあるかも知れません。






所在地:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18

山号:荒陵山(こうりょうざん)
【難波大寺(なにわだいじ)、御津寺(みとでら)、堀江寺(ほりえでら)などの別称も言い伝えがある】

宗派:和宗
【本来は特定宗派に属しない八宗兼学の寺。天台宗に属していた時期もあった。
日本仏教の祖である聖徳太子ゆかりの寺でもあり、既存仏教諸宗派にこだわらない全仏教的立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立した。】





IMG_0182.PNG




(中心伽藍回廊)



IMG_0185.JPG



IMG_0184.JPG



IMG_0183.JPG





(五重塔を含めた伽藍の美しい風景)



IMG_0186.JPG


IMG_0189.JPG



IMG_0188.JPG






にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村




















(次号に続く)




















































2016年11月22日

屋号#大阪丸その(46) (大阪城*[ 現在の大阪城の天守閣)







(大阪城*[ 現在の大阪城の天守閣)







にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村






IMG_0109.JPG






【大阪城天守閣】

1階・・・・・・入口。ショップやシアターがあります。

2階・・・・・・お城の情報コーナー。(兜・陣羽織の試着体験ができます。)


IMG_0116.JPG


3階・・・・・・黄金の茶室(原寸大模型)、大坂城復元模型。

3階〜4階 ・・・歴史資料展示(大坂夏の陣図屏風)

5階・・・・・・大坂夏の陣・図屏風をフィギュアで立体表現されています。パノラマビジョンもあります。

7階・・・・・・豊臣秀吉の生涯。

8階・・・・・・展望台とお土産のショップがあります。






【展望台】
最上階にあります。回廊型式。
360°・地上50メートルの大パノラマが目の前に広がります。





IMG_0110.JPG


IMG_0111.JPG


IMG_0112.JPG


●例の(あべのハルカス)もこのパノラマから見ることが出来ます。
この辺りで最終決戦、天王寺・岡山合戦があったとも言われています。
(一番奥のほぼ中央に位置する高いビルが【あべのハルカス】です。)


(あべのハルカスです。あべのハルカスからも大阪城が見えました。)

IMG_0115.JPG


IMG_0117.JPG












金ぴかの大阪城・置物(お土産ショップにて。)


IMG_0108.JPG



(次号に続く)

















































2016年11月13日

屋号#大阪丸その(45) (大阪城*Z 豊臣大坂城*追記)






(大阪城*Z 豊臣大坂城*追記)





にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村





image.jpeg





以前、この【屋号#大阪丸】で城郭模型作家・島さんの再現された【豊臣大阪城】の作品を掲載させて頂きました。





********





今回、アーマモデリング12月号に城郭模型作家・島さんの作品が掲載されましたので、追記としてご報告させて頂きたいと思います。





アーマ―モデリング12月号*戦国ダイオラマ絵巻に載せられた島さんの作品は・・・・・なんと!!【大坂城炎上】なのです。





IMG_2789.JPG





IMG_2788.JPG





城郭模型作家・島さんの力量は、前回お借りした豊臣大坂城の写真からも ダイレクトに伝わってくるのですが、今回は、なおかつ炎上した豊臣大坂城を作り込んでおられます。





IMG_2786.JPG





正直、びっくり致しました。すごいです。





私自身は(Gegeさん)の影響もあり、幾多の模型コンテストや展示はもちろん、静岡ホビーショーにも足を運んだことがあるのですが・・・・・正直、城炎上は見かけたことがありません。





変化をつけるように、城郭模型を様々な観点(四季折々・・・桜、緑葉、紅葉、雪など。現在の城として、再建現場や現在様式を取り入れたものなど。)から描いたものは拝見してきましたが、正直、【炎上】は初めてでした。





城郭模型作家の島さんは城郭模型だけでも相当な力量がおありだと思うのですが、もはや円谷プロに匹敵するような自由な発想(特撮のよう)、城郭模型の奇才!異才!いや、天才肌ですね、きっと。





(*詳細はアーマモデリング12月号参照)

・・・・・・城郭模型作家・島さんの作品造りなども紹介されています。
スクラッチされ、炎上させた【豊臣大坂城】の写真と共に詳しく掲載されています。





IMG_2787.JPG





IMG_2436.JPG





(城郭模型作家・島 充氏の作品ギャラリー***** http://www.geocities.jp/orin_pos/ )
(城郭模型作家・島 充氏のオンラインショップ***
http://joukakumokei.com





*余談ですが、島さんのブログも大変、興味深く、拝見させて頂いています。
城郭模型の水(川など)の表現を描かれていたりするのですが・・・・・とてもアート的、職人的、科学的、学術的、詩情的で・・・・・ふと、【ルネサンス】が頭に浮かんだ程でした。





この追記も島さんのご厚意で、城郭模型の写真を拝借させて頂きました。
前回の掲載も含めて、ご協力本当にありがとうございました。





(次号に続く)

















































2016年10月16日

屋号#大阪丸その(44) (大阪城*Y 現在の大阪城へ*余談)





(大阪城*Y 現在の大阪城へ*余談)





にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村











◎前号、後半に登場した(Gege)さんの作品を余談に取り上げてみました。





【現在の大阪城】ということで、既に出版されている(月間アーマ―モデリング NO.198*2016 APRIL*4月号)掲載の戦国ダイオラマ絵巻物から(大阪城天守閣復興80周年)の作品を使用させて頂きました。


image.jpeg




〜本文抜粋より〜

【大坂城天守閣復興80周年】
1931年(昭和6年)〜2011年(平成23年)


地元大阪の市民は元より、今では関西から全国、さらには海外からの観光客に愛される
大阪のシンボル大坂城(大阪城)。

そこには約430年の歴史が綴られている。
初代城主であった豊臣秀吉没後の豊臣家は本城の落城によって終焉を迎え、その後、徳川の時代に新たに築城されたが落雷にて天守閣は消滅。そのまま天守閣のない城として幕末、近代を迎えた。
そして戦前の昭和6年(1931年)大阪市民からの莫大な寄付によって現代の天守閣が築造されたのである。

そんな過去と現代を結ぶ交差点とも言える大阪城。
異色の城ダイオラマとして再現。

image.jpeg

***詳細は本のバックナンバーで確認して頂けると幸いです。***






現在の大阪城を表現しているので、城郭模型の中にエレベーターが見えます。





〜本文より抜粋〜
作品のポイントとなった西側シースルーエレベーター(EV)と天守閣。
EVは平成の大修理で設置され、現代の城らしくバリアフリーを実現している。

image.jpeg




約600体のフィギュアは、(1/350 艦船模型用)を城見学者に作り替え、配置されているようです。

image.jpeg





●天守閣最上階、壁上部の鶴(豊臣期は鷺=さぎ)
欄干下はキット付属の虎のデカールを使用。
縁を(透明部分)をカッターで切り取り面相筆でタッチアップしている。
〜本文より〜

細かい作業も光ります。

image.jpeg




〜本文抜粋より〜

【歴史に翻弄されつつも、過去と現在そして未来とをつなぐ大阪のシンボル!】

いまも大阪の象徴として、上町台地北側に位置する大坂城。
現在の天守閣は豊臣秀吉時代の時代からすると豊臣→徳川→現代と、3代目になる。

天守閣下の石垣(天守台)は、1614年(慶長16年)。
大坂夏の陣で豊臣家滅亡後の1620年(元和6年)2代目将軍 徳川秀頼により豊臣色払しょくするため、新たに建て替えられた天守閣。
(1665年落雷にて消失、その後昭和の再建まで天守閣はなかった。)
ともに修築工事がなされ現在に至る。

1931年(昭和6年)、大阪市民の寄付150万円(現在の600〜700億円相当)により天守閣復興。
当時では非常に珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣(現在は博物館などの施設が併設されている)で大阪のシンボルとなる。

今年85年目を迎え、昭和以降の復興天守閣では日本最古で現在 国の登録有形文化財に指定されている。

この情景作品は2011年天守閣復興80周年を題材に、時代の交差点としての位置づけで製作。

奇妙なお城とシースルーエレベーター。
天守台すぐ脇のアスファルト舗装。
ライトアップ用投光機。
近代的な街灯デザイン。
石垣上の落下防止用手摺や天守閣すぐそばに櫓がないなど、戦国時代には考えられない今日的なアンバランスさ。


そして、32m以上の高石垣(高さは日本一)、石垣の積み方も近代的な算木積み。
堀の幅は30m以上(当時の火縄銃射程距離・約30mで算定)。

豊臣大坂城のあった天守閣跡、残念石(築城のために用意されるが使われない石)の展示や、見学の修学旅行生の姿など現在の大阪城として歴史の今昔を表現してみました。


〜と、本文の後記で綴られています。〜



image.jpeg





〜〜〜〜〜





〜本文抜粋より〜

(左写真)西の丸より天守閣を望む。本丸と西丸は高低差があり、天守閣の高さが際立つ。
かつて、大阪に都があったことを伝えているようだ。
(右写真)内堀、石垣の間からたくさんの植物が生え 夏から秋にかけてはうっそうとしている。



image.jpeg





〜〜〜〜〜



追記

●Gegeさんの作品は、同じく(アーマモデリング)の戦国ダイオラマ*2015年12月号に(彦根城)、2016年5月号に(和歌山城)も掲載されています。
また機会ある時に紹介したいと思います。

●豊臣大阪城編の時、作品掲載にご協力して頂いた島さんの(城郭模型製作工房)の城造りやご活動を綴られているブログ・・・とても興味深く、楽しく拝見させて頂いています。
興味のある方は、ぜひ、ブログ閲覧してみて下さい。

(城郭模型作家・島 充氏の作品ギャラリー*** http://www.geocities.jp/orin_pos/ )



改めて島さん、Gegeさん、ご協力、ありがとうございました。



(次号に続く)























































2016年10月03日

屋号#大阪丸その(43) (大阪城*X 現在の大阪城へ)





(大阪城*X 現在の大阪城へ)




image.jpeg




にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村






大阪城は、(太閤はんのお城)といわれた豊臣秀吉築城時代(安土桃山時代)から、徳川家と江戸幕府による徳川大坂城(江戸時代)を経て来ました。



江戸時代にも度々火災による損傷と修復を繰り返して来たようです。




特に1660年(万治3年)には、城内の青屋門の土蔵造り・(火薬庫)焔硝蔵が、落雷により大爆発を起こしました。
貯蔵していた82tの火薬、鉛弾約43万発、火縄3万6千本が焼失しました。
天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物も損壊。
城外でも家屋約1500棟が倒壊、多数の家屋の屋根も破損し、幾多の死傷者も出ました。



後にこの焔硝蔵(火薬庫)を石造りに幕府は作り直しています。この火薬庫は現存しています。



また1665年(寛文5年)には落雷による天守の焼失があります。
それ以降は天守を持たない城になりました。



江戸末期には、王政復古の大号令の後、二条城から追われた徳川慶喜が居住していたこともありましたが、鳥羽・伏見の戦いで旧・幕府が倒れた為、船で江戸に退却せざる負えなくなりました。



最終的には、大阪城は新政府軍に引き渡されました。
この前後の混乱時に出火、その際、御殿、外堀四と五と七番櫓などの城内建造物が焼失しました。



その後、明治新政府は、城内敷地を陸軍用地に転用しました。
主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠が設けられました。



〜〜〜〜〜



時は流れ、1928年(昭和3年)当時の大阪市長の天守再建含む大阪城公園整備事業提案を元に昭和天皇記念事業として整備が進められました。



image.jpeg


市民の募金150万円によって、天守と陸軍第4師団司令部庁舎が建設されました。
再建工事は、天守閣の基本設計を波江悌夫が担当、1930年(昭和5年)に始まり、翌年、完成しました。



image.jpeg



image.jpeg





(下図は月間アーマ―モデリング Number198*2016 APRILにあたる2016年4月1日刊行の4月号・戦国ダイオラマ絵巻に掲載されている(Gege)さんの作品です。)

059.png







(次号に続く)




























































2016年09月29日

屋号#大阪丸その(42) (大阪城*W 徳川大坂城)





(大阪城*W 徳川大坂城)





にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村







我々が現在、見ている大阪城は幾度かの再建を経た城です。
とはいえ、日本全国・数ある城の中でも独特の存在感=歴史的な背景を持つ城でもあります。



歴史的にも・・・・・戦国武将はもちろんのこと、この大坂城自身は、戦国時代を経た3(スリー)トップの歴史と共に歩みます。



〜〜〜〜〜



3トップ=つまり、【鳴かぬなら・・・・・ホトトギス】の有名な句で表現される三大将のことです。

●【鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス】
・・・・・豪放磊落・野生的な人物・織田信長

●【鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス】
・・・・・創意工夫で叩き上げた人物・豊臣秀吉

●【鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス】
・・・・・人質時代を生き抜いた忍耐の人物・徳川家康



〜〜〜〜〜



このホトトギスの句は、戦国時代を生き抜き、天下を取った三武将の個性を表現した有名なものですが・・・この三大天下人の歴史にまつわる天下の名城こそが、【大坂城】なのです。



元々は浄土真宗・石山本願寺跡地(←大阪城築城の地)を最初に手にしたのは、織田信長でした。
彼はこの地に、より大きく新しい築城を考えていたといわれています。



しかし本能寺の変で、信長は暗殺されてしまいます。
信長亡き後、この地を手にしたのは、部下であり、天下人の跡取りとなった豊臣秀吉でした。



彼は、信長の建てた安土城をモデルとしながらも、全ての面で凌駕することを目指し、豪華絢爛に仕上げて行きました。
秀吉が築城した大坂城は空前の(金銀の装飾含む)富の集積で、彼の権力を誇示するものでした。



秀吉亡き後、関ケ原の合戦に敗れた豊臣家は、一大名に降格はしたものの、相変わらず豪華絢爛たる城に居城し、他大名に影響力を持っていました。
晩年の徳川家康は、天下を取ったとはいえ、この大坂城と豊臣家について、深刻な危惧を持っていました。



ついに徳川家康は、冬の陣で、大坂城に切り込みます。(秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘の件を理由として)



攻めたてる徳川方は20万の大軍ですが、寄せ集めの10万の豊臣軍が守る惣構の中には一兵も突入できなかったと言われています。
それほど難攻不落の堅城だったようです。



しかし講和による終戦後、大坂城は講和条約により、惣構・三の丸の破却、二の丸の堀も強引に埋め立てられ、本丸だけの裸城にされてしまいました。



秀頼の大坂城の思いも深く、しばらくすると、埋められた堀の掘り起こしなど復旧工事を始めます。



これを再軍備の講和条約違反とみなされ、冬の陣より約半年後、大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅びます。



徳川家康は、実は豊臣家を完全に滅ぼした翌年にこの世を去ります。



死後、彼の外孫である松平忠明に与えられましたが、江戸幕府は後に大坂藩を廃止して天領(幕府直轄領)にすると・・・・・1620年(元和6年)から2代目将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払しょくすべく、大坂城修築工事が開始されます。



大坂夏の陣によって、焼失した豊臣大坂城の焼け跡に多くの大名を集め、足掛け約10年を費やし、すべての面で豊臣期の大坂城を上回った大城郭の完成を目指したのです。

(徳川大坂城は豊臣大坂城焼け跡を埋め立てた後に築城。
因みに豊臣大坂城の位置は、現在の大阪城前にある貯水池辺りの地下にあるとされています。)



image.jpeg


この徳川家による大坂城修築工事は3期にわたる工事により、1629年(寛延6年)に完成しました。





その後、幕府直轄の城である大坂城の城主は、徳川家の歴代将軍になりました。



こうして徳川大坂城は江戸時代の歴史をわたって行きました。





**********





豪華絢爛たる金細工と黒下見板を使った豊臣大阪城とは、異なる白亜の天守でした。



【本丸東面:1865年(慶応1年)撮影。本末の周辺には11基の三重櫓があり、本丸東面には4基の三重櫓がほぼ一直線に並び、壮観な景色であった。写真は4基のうちの北側3基。(左から)馬印櫓(うまじるし・やぐら)、月見櫓(つきみ・やぐら)、糒櫓(ほしいい・やぐら)】

image.jpeg



【徳川大坂城】

別称:錦城、金城

城の形態:輪郭式の平城

天守の形態:五重・五階・地下一階・層塔型・独立式

築城年:1620年 (元和6年)

築城者:2代目将軍・徳川秀頼

主な遺構:本丸 二の丸 大手門 多聞櫓 千貫槍 乾櫓 一番槍など

文化財指定区分:(天守)登録有形文化財、(大手門など13棟)重文




**********



(次号に続く)
















































2016年09月16日

屋号#大阪丸その(41) (大阪城*V 徳川大坂城)





(大阪城*V  徳川大阪城)



image.jpeg






にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村







現在、私達が見ている大阪城は、通名・徳川大坂城。



江戸時代に修築された大坂城の遺構からのものです。



(実際の天守閣は、現在、SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)になっています。
徳川大坂城は江戸時代からの火災や落雷で消失した後、昭和初期に市民の寄付で再構築、その後、第二次世界大戦の空襲の標的にもなり、度重なる災難の後、いくつかの手を経て現在の姿になっているようです。)



前述したように、石垣なども江戸時代当時の遺構のままです。



私自身が最初に疑問を抱いた大坂城天守閣入り口付近にあった金明水・井戸の【葵のご紋】も、もちろん、徳川家・江戸時代の名残のものでした。



因みに現在の大阪城の天守閣に入場すると、3階・4階は撮影禁止となっています。



実は、ここには大坂城にまつわる数々の当時の自筆の文書や品々が保管展示されていて、また大阪城にまつわる史実なども紹介されています。



大阪城の3階・4階にある膨大な資料の中から、いくつか目についたものを書き記そうと思います。
(詳細は大阪城、若しくは大阪城関連図書をご参照下さい。)



まず、文書や品々は、やはり豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康関連のものが多く目につきました。


史実なのですが、秀吉はもちろんのこと、家康関連も多く、展示されていました。
またこの二人の天下人に関わった大名たち。


絵屏風や絵巻物も解説文と共に展示されていました。


歴史物に興味がある方や好きな方には、十分、見ごたえがあるかと思います。


自筆の文書に目をやったり、様々な展示物をゆっくり見学するのも趣きがあると思います。


またVTRでの大阪城にまつわる史実の紹介コーナーもあり。


館内は外国客の方も含めて、結構なにぎわいでした。



私も大勢の中、列に並びつつも、3階や4階を見学して回りました。



意外に徳川家康関連の展示も多いことが判明しました。



image.jpeg



〜〜〜〜〜



*徳川家康を身ごもった母親が後光を放った観音菩薩?から、啓示を受けているような絵もありました。



沢山ある資料の中で、この絵・・・何故?目に留まったのかというと・・・・・・・・。


@歴史に詳しくない私は、この天守閣近くの井戸に【葵のご紋】を見つけて不思議に思ったこと・・・大阪城は豊臣秀吉が築城したままだと思い込んでいたこと。

大阪城の井戸にある【葵のご紋】の徳川家康由来を知ろうと、展示物をくまなく見ているうちに、この絵と前後の史実解説文に行き当たりました。



Aこの絵は、徳川家康を身ごもった母・於大の方が右手・家屋の下に描かれており、左手・外界天空に雲が浮かび、その上に観音菩薩?が、於大に啓示の光を送っています。


(その昔から、例えば仏教の釈迦の場合は、マーヤ妃が6本の牙を持つ白い象がお腹に飛び込んで来た夢・啓示を受け懐妊したと言われ、やはり三大宗教の一つであるキリスト教のイエスもマリアの処女懐妊を大天使ガブリエルから啓示を受けている。
日本の場合、聖徳太子の母・間人皇女は救世観音が体内に入り、身ごもったとの伝説がある。他、古今東西の聖人や偉人について同様の伝承伝聞がある。)


そうです。この絵を見て、古今東西の聖人や偉人を懐妊した時にまつわる話や神兆の伝説を思い出したのです。



Bそして、この絵は丁寧に彩色され、後光が指す観音菩薩?も、於大の方も美しく描かれていたのですが・・・
将来の天下人・家康(竹千代)を懐妊した母のいる家屋の描き方が・・・全く遠近法を度外視して描かれているところに思わず、見入ってしまいました。


ぱっと見た感じでは、遠近法に目が慣れている現代人には違和感がある家屋の書き方でした。
(何故か?家屋だけが、いびつな形に・・・)


まだ西洋絵画の技術が入ってこない時代の建物の描き方なのだと確信。
昔の人は不思議には思わなかったに違いありません。






〜〜〜〜〜





また史実の解説文を読むと、家康の母・於大の方は、家康の父・松平弘忠に離縁されていました。

元々は於大の父が決めた政略結婚でした。
戦国時代ならではの結婚や離婚でした。

於大の方の兄が松平氏の主君である今川氏と絶縁して、織田氏に従った為、今川氏との関係を慮った弘忠に離縁されていたのです。

離縁された母は、永らく家康と音信不通も。

(後日、皮肉なことに父の意向とは相反し、家康は今川氏から独立し、織田氏と同盟を組みます。)

桶狭間の戦い以降、家康は再婚した母と義理の兄弟を迎え入れます。
晩年、再婚相手死去後、母・於大の方は剃髪し、出家します。



image.jpeg





〜竹千代(後の家康)自身も幼少時より、人質として数奇な人生を歩んでいることは有名です。〜




一時は命を狙われた父・弘忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に忠誠を誓う為に竹千代を人質として差し出すことにした。


しかし竹千代が今川氏に送られる際、同盟の戸田康光に奪われ、今川氏と敵対する織田氏に送られ、人質となる。
竹千代は織田氏の元で数年過ごしたのち、織田信広との人質交換で再び、今川氏の元に送られた。

また数年、今度は今川氏の元、忍従の人質生活を強いられる。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、混乱に乗じて岡崎城に入城し、今川家と決別。
信長と同盟を組んだ。(清州同盟)





・・・・・・・・・・・・・・





その後の活躍は、よくご存じの通りです。









秀吉没後に関ケ原の合戦に勝利し、覇権をものにする。

征夷大将軍になり、江戸幕府を開いた。




天下を取ったように思われた家康だが、秀吉亡き後も豊臣家は最大の脅威であり続けた。

最晩年を迎えていた徳川家康の望みは、天下取りを盤石なものにすることであった。


後継者をめぐるお家騒動に近いものもあったうえ、一大名に転じたものの、未だに豊臣家は特別な存在であり、西側の他大名の多くはこれに従った。
徳川家康には、いつの日にか天下を奪い返す位、驚異ある勢力と映っていたに違いない。


そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動いていく。

豊臣氏は家康の勧めで方広寺を再建。
慶長19年(1614年)4月のことである。
同8月3日、大仏の開眼供養を行う予定であった。

しかし、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。

その語とは「国家安康」で家康の名前の文字を避けなかったのは不敬罪に当たるというものであった。
家康の名を分断し、呪詛する言葉とし、「君臣豊楽」など言葉も豊臣氏を君主として繁栄を願うものと解釈された。

これを受けた豊臣氏は弁明を持たせた家臣を江戸に送るが、家康は会見すら拒否をする。




この件は、豊臣氏攻撃の口実、言いがかり的とも、いや当時の常識では不敬罪にあたるので、秀頼の軽率な呪詛・挑発など、諸説様々である。


いずれにせよ、この件をきっかけとし、大坂城冬の陣が起こることになる。


そして大阪城夏の陣で、ついに豊臣家(秀頼・淀君)は滅んでしまう。


******


この後、徳川二代目秀忠により、大坂城は、徳川家・江戸幕府により、豊臣色を払しょくした修築工事を行う。


これが、私たちが今日見ている大阪城の基盤となる徳川大坂城である。





余談ですが・・・竹千代(家康)は、織田家・今川家の両方の人質となったのですが、最終的には、元々の君主であった今川家よりも対立する織田家を選び、同盟を組んでしまうのは、何故なのだろうか?

*竹千代の家(父)は、有力大名・今川家に忠誠を誓っていた。
*その誠実さを示すために竹千代を人質に差し出し、また妻の兄が織田家に付くと、離縁したほどである。

・・・・・・・





後の家康である竹千代は、父方よりも母方に感性が似ていたのだろうか?
竹千代の伯父(母の兄)は、織田家を選んでいる。

若しくは将来の天下人の嗅覚なのだろうか?

あるいは、自身を人質に差し出し、母を離縁した父やその原因である今川家に背いたのだろうか?





家康は思慮深いと、(あるいはタヌキとも)言われています。
彼の長い人質生活が、与えた後天的性質かも?知れません。
感情を表に出さないことで過酷な環境の中、生き残って来た人なのだろうなぁと思います。





織田信長の豪放磊落な性質は、野生児で思うままに生きて来た証だとしたら、豊臣秀吉の創意工夫も家康の思慮深さもなんとなく腑に落ちるような気がします。



家康の思慮深さ・・・時に非人間的な策略家であったり、良くないイメージもありますが、自身の大坂城入りが間に合わず、秀頼自害の報を聞いて泣いた。という伝説も残っています。



現在に生きる私達は、当然、その場にいたわけでもなく、会ったこともない歴史や歴史上の人物なのですが、色々な史実(もちろん、真贋は別とした伝説も含む)や残された品々を見ていると、なんだか身近に感じられたのも不思議でした。



(次号に続く)




























































2016年09月13日

屋号#大阪丸その(40) (大阪城*U  豊臣大阪城)






(大阪城*U  豊臣大阪城)





にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 大阪府情報へ
にほんブログ村





私自身は、大阪城と聞いてまず思い浮かぶのは、昔、学校の歴史で習った豊臣秀吉が安土・桃山時代に築城した大阪城でした。




image.jpeg



しかし、(大阪城Tで前述もしましたが)現在の私たちが目にしている大阪城は、豊臣秀吉が建てたものではなく、実は徳川家二代目秀忠・江戸時代の遺構の上にあるものなのです。

(厳密には、現代の天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造=いわゆるSRC造です。近年に再構築されました・・・【近代における大阪城】は後述予定。)



冬の陣・夏の陣も記憶にはあるのですが・・・知識不足ゆえ、その後に徳川2代目徳川秀忠や江戸幕府により、豊臣色を払しょくする修築工事が行われていることは知りませんでした・・・。




(端的に言うと、江戸時代からの度重なる火災や落雷→ほとんどが消失→昭和初期に市民からの募金150万円で再建→第二次世界大戦での空襲の標的も経る。→幾度もの災難をくぐり抜け、その都度、沢山の手を経て、現在の姿があります。現在の大阪城の土台は、徳川家と江戸時代築城の時のものです。)



1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓、石垣などは全て徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認されています。






************





本来の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が築城した大坂城。
(註釈*当時、大阪は大坂と表記されていました。)


実は地中に【豊臣大坂城】の遺構が残っています。
(豊臣大坂城は、丹羽長秀が築城した安土城の石垣をそのまま踏襲。)
現在の大阪城地下7メートル下から、当時の石垣が発見されています。


image.jpeg






************





今回は、【豊臣大阪城】にスポットを当ててみたいと思います。





〜安土・桃山時代に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)により築城された・・・通名【豊臣大坂城】〜





摂津・上町台地北端に築いた平山城である。または輪郭式平城。

地形的に恵まれてもいた。
北に流れる淀川に旧大和川が合流し、その辺りには瀬戸内海最大の港・渡辺津があった。
また堺や京都、山陰をもつなぐ陸上的にも重要な箇所でもあった。
つまり水陸ともを網羅出来る要塞なのである。

元は浄土真宗の本山である石山本願寺があったとされるが、天正8年(1580年)、石山合戦の講和後、織田信長に明け渡された地でもある。
織田信長は、この地に新たな城を築くことを検討していたと言われている。


しかし本能寺の変で織田信長は暗殺される。


●翌・天正11年(1583年)
信長の後継者として天下統一を目指す秀吉がその拠点として、石山本願寺跡地に築城を開始する。

・輪郭式平城・・・本丸を中心とし、大規模な郭を同心円状に連ねている。その間に内堀・外堀を配置した。
秀吉は水陸の要塞として、辺りも見渡せるよう考慮したといわれている。


●天正13年(1585年)
豪華な望楼型天守の完成・・・5層6階地下2階。
金箔瓦。金の飾り金具。黒塗りの下見板など。
秀吉の当時の威光を表わすにふさわしい豪華絢爛たる城であった。


●天正18年(1590年)
小田原攻めより、小田原城の総構えからヒントを得て、町屋を囲む総構えを築く。


●慶長3年(1598年)秀吉死亡まで、城の拡充は続いていた。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜



ここまでが、【豊臣大坂城】の簡略化した歩みなのですが・・・



豊臣秀吉死後、関ケ原の合戦に敗れたのち、豊臣家は摂河泉65万7千400石の一大名に転落します。・・・しかし二代目秀頼は、秀吉亡き後も、豪華絢爛な大坂城を居城としていました。


●1614年(慶長19年)大坂冬の陣・・・徳川家康率いる大軍に攻められ、篭城戦を行う。
そして講和が結ばれ、二の丸、三の丸などの破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城となる。


●秀頼は堀の再建を試みる。
しかし、これが講和条件破棄とみなされる。


●1615年(慶長20年)大坂夏の陣・・・冬の陣から4か月後、大坂城はついに落城し、豊臣家は滅亡。



ここまでが、実質の豊臣大坂城の(簡略化した)歩みとなります。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜



その後は、どうなったのか?というと、前述(大阪城T参照。)した通りです。




●落成後の大坂城は、徳川家康の外孫である松平忠明に大坂城下の復興の任務とともに与えられます。


●1619年(元和5年)に忠明は大和郡山に移封。


●江戸幕府は大坂藩を廃止し、大坂を幕府管轄領(天領)とした。


●その後、二代目将軍・徳川秀忠、江戸幕府による豊臣色を払拭する大坂城の修築工事が行われた。


(因みにこれ以降の大阪城を【徳川大坂城】と呼びます。)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜





image.jpeg




(上の図=豊臣大坂城(右)、徳川大阪城(左)にある極楽橋。下写真は徳川大阪城由来の現在のもの。その下絵図は豊臣大坂城の極楽橋。)


image.jpeg


image.jpeg





【豊臣大坂城】と【徳川大阪城】

image.jpeg





【豊臣大坂城】の図面資料

image.jpeg





*****************




はるか悠久の史実に想いを馳せながら、【豊臣大坂城】の姿を想像するのも良いかも知れません。





全体像が分かり易い*写真は、当時の【豊臣大坂城】を再現された城郭模型作家・島 充氏の作品です。
(今回、ご無理を言ってお願いし、島さんより写真をご提供して頂きました。)





image.jpeg




image.jpeg




image.jpeg




image.jpeg




image.jpeg




上記は城郭模型作家・島氏の作品なのですが、当時の【豊臣大坂城】を三次元・立体の姿で垣間見ることが出来、大変、参考になりました。

(城郭模型作家・島 充氏の作品ギャラリー*** http://www.geocities.jp/orin_pos/ )




(城郭模型作家の島 充さん、ご協力、本当にありがとうございました。)







(次号に続く)










































ファン
検索
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
カテゴリーアーカイブ
プロフィール