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2017年01月24日

屋号#大阪丸その(51) 大阪のお好み焼き@の【千房】









【まずは千房から】





食べログというサイトで、2000円以上は1割引きだったので、沢山あるお好み焼きの老舗”千房”の支店の中から、千日前の”千房”を目指しました。

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心斎橋をずっと行くと 近鉄難波側に千日前通りに入るところがあります。

千日前通りのアーケードを進んで行くと・・・
そこは、お店屋さんだらけ、パチンコ屋さん、吉本の大阪なんばグランド花月などが、ひしめいたコテコテの大阪の下町庶民の雰囲気漂うような一角で・・・そこに千房があるとのことでした。





途中、分からなくて 道を尋ねたところ、千日前通りのアーケードに大きく緑の旗に”千房”と布看板が出ていました。
上を向けば、良かったんですね。

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目線が、軒並み並ぶお店側にあり、つい見落としていました。





場所は吉本の近くの交番の前。

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いかにも大阪という千日前のど真ん中にそのお店はありました。

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旅行客も多いのか?外国の方にも分かる表記もお店の前にあります。

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しばらく待ってから、中のカウンターの方に通されました。





店内は、熱い鉄板の熱気とお好み焼きや焼きそばの独特の良い香りが漂よっています。

店内も千日前通りと同じく、気さくでコテコテの大阪らしい会話や雰囲気に溢れていました。

確かに東京や他地方都市にないカラー・・・少しレトロ感もある古いお店と相まって、独特の雰囲気です。





実は今から数十年前の若かりし頃にも
道頓堀辺りの”千房”のお好み焼きを友人達とよく食べに行った記憶があります。

学生時代のお好み焼きは、お肉屋さんのコロッケ買い食いに匹敵する程の楽しみのひとつでした。

そして(千房)は、界隈では有名なお好み焼き屋さんなのです。

今もそのお店はありますが、千日前のお店はそこよりもより古くからありそうな風情でした。



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話が脱線しましたが、千日前の”千房”のカウンターに戻ります。








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注文した中から、まずは、(とんぺい焼き)が目の前の鉄板に置かれ、皿に取り分け食べました。
美味しい。
豚玉の豚を焼いたようなものをソースで味付けし、ふわとろの玉子焼きで巻いてある一品。
人気no.1は、伊達ではない美味しさで
お値段も570円(税込616円)と、リーズナブルでした。





次は、豚肉、いか、小海老、すじコン、チーズ入りのお好み焼き(道頓堀焼き大盛り)
色んな味が楽しめて、やはり美味しかったです。
*お値段は1500円(税込1620円)





豚肉、いか、小海老のミックス焼きそばも美味しく頂きました。
*1200円(税込1296円)

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私達夫婦は2人で楽しんで食べましたが、
大食漢の方や若い方、飲まれる方などには他のメニューも豊富にあるので、色々な味を試す楽しみもあるかと思います。

どれも美味しいので、次回はお腹いっぱいにお好み焼きや焼きそば、鉄板焼き+他の料理などを組み合わせたいくつか種類のあるセットものに挑戦したいなぁと思った次第です。





会計時には、携帯の”食べログ”サイトを見せて、合計から10パーセント引いて頂き、かつサービス券を頂きました。
平成29年4月まで、”千房”全店で使用可能な500円券なので かなりなお得な感じがしました。
もちろん、また食べに行きたいです。

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お店を出たすぐ後、どこかで確かに見たことある人とすれ違いました。
月亭八方さんかと思ったのですが、夫の言う通り、芸人の西川のりおさんでした。
やはり吉本のなんばグランド花月が近いだけあるなぁと思いました。





こうして私のお好み焼きツアー第一弾⁈は無事、満腹で終わりました。





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(次号に続く)

































































屋号#大阪丸その(50) 大阪のお好み焼き@の序章








時に無性にお好み焼きを食べたい!ということで、大阪のお好み焼き屋さんに行くことが多々あります。





元々、大阪は(くだおれ)の街・・・探せば、そこそこのお値段で美味しいものが見つかる確率も高く、中でもお好み焼き・たこ焼きのmade in 大阪は美味です。







当時、ライバルに有名なお好み焼き屋さんのチェーン店ぼ◯◯◯◯というのがありましたが、厚ぼったく粉ぽく、美味しくはないことで有名でした。
(一部のお好み焼きファンの好みと見解に過ぎませんが・・・)友人たちの間では、そういうことになっていました。

故に そのことをよく知っている大阪辺りの関西人の友人達とお好み焼きのチェーン店に入るなら”千房”の方でした。






数十年前に別のチェーン店”鶴橋風月”の名は聞いたこともありませんでした。

ここも創業から60年とあります。

私の記憶違いかも知れませんが、数十年前当時にチェーン店が広くあったような印象がないのです。

東海地区の居住地に”鶴橋風月”は進出されていました。

居住している東海地区の友人から、”鶴橋風月”のお店が進出して来た時(10年くらい前でしょうか・・・)、関西出身である私に「ここのお好み焼きは美味しいですか?」と聞かれました。

正直、その時に初めて聞いた名前だったことを憶えています。

食べたことがないので、もちろんよく分かりませんでした。
(*また別機会にトライしてみます。)





因みに東海地区はお好み焼きの熱も大阪程ではないのかも知れません。

数年もすると、店舗は撤退されていました。
他のお好み焼きチェーン店も同じく、進出・撤退があり、いずれも定着しないままでした。




東海地区で強い食べ物はラーメンの(寿がきや)さんですね。
どこに行っても(寿がきやさん)が入っているイメージです。





愛知県出身の知人によりますと、幼い頃から学生時代まで、よく食べていた懐かしい味だそうです。
関西にはあきらかにないお出汁(だし)が特徴的です。
関西人としては、やはり、かつお節と昆布のお出汁(だし)に慣れ親しんでいるせいか、愛知県の知人のように懐かしい味というより、初めての不思議な?風味のお出汁(だし)に感じました。





話が少し脱線しましたが、大阪はお好み焼き屋さんのメッカでもあります。






実は名も知らぬ普通のおばちゃんやおばあちゃんが、商店街辺りで焼いているお好み焼きにすごく美味しいものがあったりします。(また別号で取り上げたいと思います。)

*そんなお好み焼き屋さんに出逢えた日はラッキーデーです。***





お好み焼きもまたお店の大小、新旧問わず、バリエーション豊かな分野なのだと実感します。

東京の呑み倒れ買い倒れ、京都の着倒れ、神戸の履きだおれ、名古屋の貯め倒れ、大阪の食い倒れ、とよく耳にします。
それぞれの好みや風土や文化背景を簡単に表している言葉だと思いますが、たしかに大阪のエネルギーは食べることで、まかなわれているのに違いないという感じです。





また古くは、天下の台所とまで言われた大阪。





そんな食文化の中でも、たこ焼き・お好み焼きは(粉もん文化)の王道であって、私自身はイタリアンであるピザに勝るとも劣らないと思える大阪のお好み焼き・たこ焼きなのです。

イタリアンスパゲッティなら大阪きつねうどんです。
(ケーキの中のいちごショートと同じく、定番かつ代表選手のような感じです。)

そして大阪の普通のお家では、日常的に家でもお好み焼きやたこ焼きも焼くのも当たり前です。

結構、各家庭ごとの独特のお好み焼きの作り方、焼き方などもあったりする位であり、入れる材料も各家庭しだいで、バリエーション豊か。




名前通りの(お好み焼き)なのです。





故にお好み焼きに対して、皆、一過言を持っていたし、こよなく愛してやまない食文化のひとつでした。
当然、大阪人または関西人はお好み焼き屋さんに要求するレベルも高いかと思います。





余談ですが、このブログを書いている私は現在、東海地区に住んでいるのですが、数年間、東京にも住んでいたことがあります。

私自身は大阪と京都に縁が深い関西人です。

親戚は元の出発点である京都から転移した大阪、兵庫、奈良、滋賀、東京あたり、時に東北といったところであり、ともかく関西出身であり、関西に縁が深いことは間違いないのです。





現在も、私自身は東海地区居住ながら、たまに大阪、京都に行くと妙にしっくり馴染みつつ、水を得た魚のようウロウロしていたりします。
(この屋号#大阪丸でも、大阪主体ながら、時に脱線したり?出張して?京都などの他の関西圏や東海地区も掲載したいなぁと考えています。)





しかし、関西出身ながら関西に住んでいたのはもう人生の半分でしかなく、
後の半生は東京と東海地区居住なのです。
そして余生を考えると、引っ越しでもしない限り、間違いなく関西よりも東京や東海地区居住が長くなるのだろうと思います。





コテコテとまではいかない関西人と他府県人とのハーフといった感じでしょうか?





そんな半端な関西人ではありますが、やはり関西も関西文化でもあるお好み焼き大好き人間なのです。
(半端ゆえに、大阪や京都のある関西に郷愁をより感じているのかも?知れません・・・故郷は遠きにありて想うもの?!)





次号は、千日前の”千房”のお好み焼きを掲載予定です。

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(次号に続く)





































































2017年01月08日

屋号#大阪丸その(49) (四天王寺)そのB 金堂と壁画






(四天王寺)そのB 金堂と壁画






四天王寺さんには、独自の配置があります。
よく法隆寺の配置と比較対象になるくらいです。






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【四天王寺式伽藍配置】

中心伽藍は、南から北に一直線に中門・五重塔・金堂・講堂が並び、中門の左右から講堂までを回路で結んでいます。
日本で最も古い建築の様式のひとつです。





その配置の中に金堂があります。





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今回はその美しい金堂にスポットライトを当てたいと思います。





美しい金堂・・・美というのは不思議なとらえどころのないものですが、この金堂の美しさは、ひとつには仏教美(宗教様式の美とでもいうのでしょうか。)であり、ひとつには普通に見受けられる美(単純な美?)でもあり・・・ともかく美しいのです。





私自身はやはり、わっか市(四天王寺さんの門前市)と同様、若い頃に何も知識のないまま、この金堂を訪れたことが、ありました。
小学生頃、当時、父が凝っていた西国三十三か所のお寺参りによく家族で出かけていた私は、なんとなくお寺文化に慣れていました。
なので、あまり驚くこともなく、お寺文化の慣例を見学していました。





話は脱線しましたが、お寺文化に慣れたはずの私ですが、四天王寺さんの金堂に入った時、正直、目を見張りました。






他のお寺にはないものがあったのです・・・そして、それは美しい世界を描いていました。






四天王寺金堂の中は美しい色彩豊かな壁画に内壁が囲まれていたのです。






渋い茶系の・・・時にそこに仏像・仏具の金色を見出すようなお寺独特の色彩。
鮮やかな色とりどりの色彩はやはり仏教寺院の壁にかけられている五色幕や時に朱色に塗られた柱などしか記憶になく。





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四天王寺金堂の内部には極彩色に彩られた絵が四方を取り囲んでいます。





その美しい絵は、単なる壁画ではなく、釈迦の一生を描いた壁画でした。
釈迦の誕生から〜入滅(死亡)いわゆる涅槃までの物語を美しい色彩が紡いでいきます。







四天王寺金堂*壁画(作者:日本画家の中村岳陵氏の「仏伝図」)





●釈迦の母君である麻耶夫人の美しい風情を同じく美しい背景とともに描かれていました。





●麻耶夫人の右脇から生まれたばかりの釈迦が7歩歩んだ後、蓮の花の上で右手を上げて立っておられる絵図。
既に幼い釈迦に後光も指しています。

まさしく、この図は釈迦の誕生時の伝説を描いているのだろうと見つめてしまいました。

*釈迦は麻耶夫人の右脇から生まれたとされ、その直後に七歩歩いて、右手は天を指し、左手は地を指して、「天上天下唯我独尊」と言われたとされている。





●出家を思い立った釈迦が白馬に乗り、王位を捨て、思想の旅に出る為、城を出る図。





●降魔成道。





●初転法輪。





●沙羅双樹の下での釈迦入滅。涅槃図。
涅槃図なのにとても印象的な美しい絵図でした。


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(注釈:貴重な本からの一部抜粋の絵図です。画像集に載っていたものを一部抜粋し、掲載しています。この「仏伝図」を描いた日本画家の中村岳陵氏の本は現在、古本であっても入手困難になっています・・・ちなみに私は(古本屋ともリンクしている)Amazonで中村岳陵氏の四天王寺金堂壁画(1960年)を探しましたが、現在、在庫切れでした。もちろん、市場に彼の画集が出ない限り、今後、手に入る見込みもありません。)





やはり、実物に勝るものはありません。
一番圧倒的なのは、実物の壁画を自分の目で見て 感じ取ることなのですが・・・。





壁画に囲まれた金堂の空間には、四天王寺本尊(救世観音菩薩半跏像)が中央に位置し、その四方に四天王像が祭られています。






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ここに聖徳太子の想いも込められているようです。

(前述したように(四天王寺@参照)日本最古の書物・日本書紀に残っている記録に、聖徳太子は物部氏との戦いに勝つことが出来たのなら、願を賭けた四天王を祭ることのできる寺を建立すると誓願したとあります。
そして願いはかなえられ、聖徳太子は四天王寺を建立します。)


この金堂の四方に祀られている四天王は、まさしく聖徳太子の悲願でもあり夢でもあるのでしょう。





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四天王を四方に配し、中央に救世観音菩薩半跏像・・・仏教の曼陀羅のような配置とも言えます。





私自身は美しい壁画と曼陀羅的な配置の仏像の金堂を観て、ひとつの宇宙的な空間を感じました。





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他にはない空間がこの金堂にはあるように思えました。






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(次号に続く)



































































2016年12月04日

屋号#大阪丸その(48) (四天王寺)そのA わつか市







(四天王寺)そのA







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四天王寺さんでは、恒例の毎月第一日曜にその門前で【わつか市】が行われています。
(注*7月・10月・1月以外に市がたつ。)






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約90もの露店・・・食べ物あり。無添加にこだわった食品あり。手作り製品あり。骨董などもあり。
昔懐かしい(ちんどん屋)も見ることが出来る、楽しい門前市です。







見ているだけでも楽しい。
四天王寺さんの門前市。・・・歴史も古く、掘り出し物を見つけるチャンス。パリの蚤の市の日本版?!






散策がてら、自分なりの掘り出し物をぶらりと見つけに行くのもお勧めです。
玉石混合の宝の山から、自分独自のお宝(と思えるもの)を探し出すのも楽しみのひとつです。





また当日は絵本の読み聞かせなどのイベントもあり、出かける前に当日イベントなどのチェックもかかさずに。
(【四天王寺さんの わつか市】で検索されると、リアルタイムな情報入手も可能です。)





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さて、私自身の【四天王寺さんの わつか市】について記しておきます。






今から約30年以上前に(まだ若い学生でした。)この四天王寺さんの門前にたつ市に友人と出かけました。
大阪の梅田や難波・心斎橋辺りとは異なり、なんともレトロな、何か懐かしいような雰囲気があり・・・それなりに友人と楽しんで市を見て回りました。
今でいうフリマ(フリーマーケット)に歴史的なレトロさを混ぜ合わせたような?感じでした。

屋台のB級グルメに(焼きそばやリンゴ飴やベビーカステラなどの屋台定番の安価で美味しいもの。)舌鼓を打ちながら、おしゃべりに花を咲かせ・・・門前市を歩き・・・。






当時は、まだまだ昭和の香りも残っていて・・・自分が幼子だったころのような雰囲気が、この市には残っていました。






色々なものが、思い思いに並んでいるのですが・・・私の目を引いたものが二つありました。





ひとつは、着物の銘仙。(めいせん:平織の絹織物=大正時代から昭和時代にかけて、当時としては、お手頃な価格と斬新なデザインで普段着として、またお洒落着として人気のあった和装【着物】)






なんともレトロな着物独特の雰囲気と着物の柄とその色彩の合わせ方に心惹かれて・・・。






しかし、中古品の着物といえど、着物は着物・・・・・ぶらりと5000円位を手にして、友人と見学がてらに寄った私のお財布では残念ながら買えませんでした。
今の時代なら、また別の値打ち=パッチワークの材料や着物の様々なリメイクの生地としても、レトロなお洒落着(着物)としても、より価値がありそうです。
額縁に入れて、自宅に飾っても良いような美しい絵柄と色彩の着物達。






買えなかった、門前市でこころ惹かれたレトロの着物・・・学生ならではの思い出のひとつです。






着物をあきらめた学生の私は、やはり、何かが欲しくなり、友人とあれこれ見て回っていました。





次に思わず、釘付けになったのは、骨董品の小皿です。
私が気に入ったのは、2種類の各5枚・一組、計10枚の小皿でした。






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たぶん、昔なので、ひとつひとつ絵を描いたに違いない小皿の絵柄でした。
少しづつ、違うのです・・・絵柄が。






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ひと組は、始祖鳥?不死鳥?のような文様で、もうひと組は、白地に金と黒墨で描かれた【鶴・亀】でした。






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どこかの古民家から出てきたような面持ち。





このふた組(【鳥の文様】と【鶴・亀】で各5枚一組、計10枚)を私は多分?3000円位で購入したと思います。
学生の私のお財布が、思い付きで骨董品を買うには、ぎりぎりラインだったような記憶があります。





なんとなくこのふた組の小皿達は吉兆柄のように、当時学生だった私には思えたものです。




なんだか、良い掘り出し物を探し当てた気分で自宅に戻ったのを覚えています。
達成感というか?充実感というか?
帰宅後もこの小皿を眺めてみたり・・・。











実は今もこの小皿、私の手元にあります。
約30年、1枚も欠けることもなく、私と同じく大阪→東京(学校)→大阪→三重県(結婚)と、移動していったのです。





なんとなくお気に入りだったので、引っ越しの際にも机の上にあった備品として、一緒に引越しし、結果的には三都道府県を行き来しました。





【四天王寺さんの わつか市】で巡り合った不思議な縁のある骨董品でした。
個人的には、とても懐かしい想い出です。







【四天王寺さんの わつか市】は不思議な懐かしさが一杯の門前市です。







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(次号に続く)






















































2016年11月28日

屋号#大阪丸その(47) (四天王寺@)







(四天王寺@)





天王寺周辺から大阪城まで足を延ばしたのですが、再び、天王寺周辺に舞い戻ることにしました。
ハルカスから歩いて10分の【四天王寺】さんに行きたかったので。





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天王寺界隈も結構、歩いて来たのですが(この屋号#大阪丸*あべのハルカス周辺のバックナンバー参照)大阪城の後、再び、阿倍野界隈でもある四天王寺さんを訪ねることにしました。
(なかなか難波や梅田や他にたどり着かないまま、現在は、見るところが多い阿倍野界隈とその近くの範囲から出ることが出来ないままになっています。)






聖徳太子が建立した七大寺の一つといわれています。





四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。






四天王寺は推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺の建立に取り掛かったとのこと。






(日本に伝存する最古の書物・【日本書紀】によれば、)
用明天皇2年(587年)、かねてより対立関係にあった蘇我氏(崇仏派)と物部氏(日本古来のアニミズムを重視した廃仏派)との争いが武力抗争に発展しました。
後の聖徳太子(厩戸皇子14歳)は蘇我氏の後方でこの戦いを見ていました。
敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自ら、その上から矢を放って防戦していました。
そのせいで蘇我軍は三たび退却することに。

この戦況をみた聖徳太子(厩戸皇子)は願を掛けることにしました。
白膠木(ぬるで)という木から四天王の形を作ります。
その際に「もし、この戦いに勝利することが出来るなら、必ず四天王を安置する寺塔を建てる」と誓願したとのこと。
不思議なことに願いは通じます。
味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は崩れ落ちます。
こうして、崇仏派の蘇我氏の勝利に終わりました。






その6年後の推古天皇元年にその願掛けの約束を果たすべく、四天王寺の建立を始めました。






あの不思議な逸話がたくさんある神がかり的な聖徳太子の願掛けから、産まれることになった四天王寺。
ある意味、日本史の中の大きな節目と言えるのかも?知れません。

歴史的な転換期は前回紹介の大阪城を基とした権力の移り変わりやその体制の変化もありますが、
・・・・・・四天王寺建立までに至る物部氏と蘇我氏の戦いは、日本史の中の宗教的観点から見ると、かなり大きな天下分け目だったのではないだろうか・・・と思います。





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日本最古の書物でもある【日本書紀】に記載されている悠久の時の物語に想いを馳せながら、広い境内(甲子園球場の約3倍らしい)を散策するのも趣きがあるかも知れません。






所在地:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18

山号:荒陵山(こうりょうざん)
【難波大寺(なにわだいじ)、御津寺(みとでら)、堀江寺(ほりえでら)などの別称も言い伝えがある】

宗派:和宗
【本来は特定宗派に属しない八宗兼学の寺。天台宗に属していた時期もあった。
日本仏教の祖である聖徳太子ゆかりの寺でもあり、既存仏教諸宗派にこだわらない全仏教的立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立した。】





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(中心伽藍回廊)



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(五重塔を含めた伽藍の美しい風景)



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(次号に続く)




















































2016年11月22日

屋号#大阪丸その(46) (大阪城*[ 現在の大阪城の天守閣)







(大阪城*[ 現在の大阪城の天守閣)







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【大阪城天守閣】

1階・・・・・・入口。ショップやシアターがあります。

2階・・・・・・お城の情報コーナー。(兜・陣羽織の試着体験ができます。)


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3階・・・・・・黄金の茶室(原寸大模型)、大坂城復元模型。

3階〜4階 ・・・歴史資料展示(大坂夏の陣図屏風)

5階・・・・・・大坂夏の陣・図屏風をフィギュアで立体表現されています。パノラマビジョンもあります。

7階・・・・・・豊臣秀吉の生涯。

8階・・・・・・展望台とお土産のショップがあります。






【展望台】
最上階にあります。回廊型式。
360°・地上50メートルの大パノラマが目の前に広がります。





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●例の(あべのハルカス)もこのパノラマから見ることが出来ます。
この辺りで最終決戦、天王寺・岡山合戦があったとも言われています。
(一番奥のほぼ中央に位置する高いビルが【あべのハルカス】です。)


(あべのハルカスです。あべのハルカスからも大阪城が見えました。)

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金ぴかの大阪城・置物(お土産ショップにて。)


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(次号に続く)

















































2016年11月13日

屋号#大阪丸その(45) (大阪城*Z 豊臣大坂城*追記)






(大阪城*Z 豊臣大坂城*追記)





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以前、この【屋号#大阪丸】で城郭模型作家・島さんの再現された【豊臣大阪城】の作品を掲載させて頂きました。





********





今回、アーマモデリング12月号に城郭模型作家・島さんの作品が掲載されましたので、追記としてご報告させて頂きたいと思います。





アーマ―モデリング12月号*戦国ダイオラマ絵巻に載せられた島さんの作品は・・・・・なんと!!【大坂城炎上】なのです。





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城郭模型作家・島さんの力量は、前回お借りした豊臣大坂城の写真からも ダイレクトに伝わってくるのですが、今回は、なおかつ炎上した豊臣大坂城を作り込んでおられます。





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正直、びっくり致しました。すごいです。





私自身は(Gegeさん)の影響もあり、幾多の模型コンテストや展示はもちろん、静岡ホビーショーにも足を運んだことがあるのですが・・・・・正直、城炎上は見かけたことがありません。





変化をつけるように、城郭模型を様々な観点(四季折々・・・桜、緑葉、紅葉、雪など。現在の城として、再建現場や現在様式を取り入れたものなど。)から描いたものは拝見してきましたが、正直、【炎上】は初めてでした。





城郭模型作家の島さんは城郭模型だけでも相当な力量がおありだと思うのですが、もはや円谷プロに匹敵するような自由な発想(特撮のよう)、城郭模型の奇才!異才!いや、天才肌ですね、きっと。





(*詳細はアーマモデリング12月号参照)

・・・・・・城郭模型作家・島さんの作品造りなども紹介されています。
スクラッチされ、炎上させた【豊臣大坂城】の写真と共に詳しく掲載されています。





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(城郭模型作家・島 充氏の作品ギャラリー***** http://www.geocities.jp/orin_pos/ )
(城郭模型作家・島 充氏のオンラインショップ***
http://joukakumokei.com





*余談ですが、島さんのブログも大変、興味深く、拝見させて頂いています。
城郭模型の水(川など)の表現を描かれていたりするのですが・・・・・とてもアート的、職人的、科学的、学術的、詩情的で・・・・・ふと、【ルネサンス】が頭に浮かんだ程でした。





この追記も島さんのご厚意で、城郭模型の写真を拝借させて頂きました。
前回の掲載も含めて、ご協力本当にありがとうございました。





(次号に続く)

















































2016年10月16日

屋号#大阪丸その(44) (大阪城*Y 現在の大阪城へ*余談)





(大阪城*Y 現在の大阪城へ*余談)





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◎前号、後半に登場した(Gege)さんの作品を余談に取り上げてみました。





【現在の大阪城】ということで、既に出版されている(月間アーマ―モデリング NO.198*2016 APRIL*4月号)掲載の戦国ダイオラマ絵巻物から(大阪城天守閣復興80周年)の作品を使用させて頂きました。


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〜本文抜粋より〜

【大坂城天守閣復興80周年】
1931年(昭和6年)〜2011年(平成23年)


地元大阪の市民は元より、今では関西から全国、さらには海外からの観光客に愛される
大阪のシンボル大坂城(大阪城)。

そこには約430年の歴史が綴られている。
初代城主であった豊臣秀吉没後の豊臣家は本城の落城によって終焉を迎え、その後、徳川の時代に新たに築城されたが落雷にて天守閣は消滅。そのまま天守閣のない城として幕末、近代を迎えた。
そして戦前の昭和6年(1931年)大阪市民からの莫大な寄付によって現代の天守閣が築造されたのである。

そんな過去と現代を結ぶ交差点とも言える大阪城。
異色の城ダイオラマとして再現。

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***詳細は本のバックナンバーで確認して頂けると幸いです。***






現在の大阪城を表現しているので、城郭模型の中にエレベーターが見えます。





〜本文より抜粋〜
作品のポイントとなった西側シースルーエレベーター(EV)と天守閣。
EVは平成の大修理で設置され、現代の城らしくバリアフリーを実現している。

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約600体のフィギュアは、(1/350 艦船模型用)を城見学者に作り替え、配置されているようです。

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●天守閣最上階、壁上部の鶴(豊臣期は鷺=さぎ)
欄干下はキット付属の虎のデカールを使用。
縁を(透明部分)をカッターで切り取り面相筆でタッチアップしている。
〜本文より〜

細かい作業も光ります。

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〜本文抜粋より〜

【歴史に翻弄されつつも、過去と現在そして未来とをつなぐ大阪のシンボル!】

いまも大阪の象徴として、上町台地北側に位置する大坂城。
現在の天守閣は豊臣秀吉時代の時代からすると豊臣→徳川→現代と、3代目になる。

天守閣下の石垣(天守台)は、1614年(慶長16年)。
大坂夏の陣で豊臣家滅亡後の1620年(元和6年)2代目将軍 徳川秀頼により豊臣色払しょくするため、新たに建て替えられた天守閣。
(1665年落雷にて消失、その後昭和の再建まで天守閣はなかった。)
ともに修築工事がなされ現在に至る。

1931年(昭和6年)、大阪市民の寄付150万円(現在の600〜700億円相当)により天守閣復興。
当時では非常に珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣(現在は博物館などの施設が併設されている)で大阪のシンボルとなる。

今年85年目を迎え、昭和以降の復興天守閣では日本最古で現在 国の登録有形文化財に指定されている。

この情景作品は2011年天守閣復興80周年を題材に、時代の交差点としての位置づけで製作。

奇妙なお城とシースルーエレベーター。
天守台すぐ脇のアスファルト舗装。
ライトアップ用投光機。
近代的な街灯デザイン。
石垣上の落下防止用手摺や天守閣すぐそばに櫓がないなど、戦国時代には考えられない今日的なアンバランスさ。


そして、32m以上の高石垣(高さは日本一)、石垣の積み方も近代的な算木積み。
堀の幅は30m以上(当時の火縄銃射程距離・約30mで算定)。

豊臣大坂城のあった天守閣跡、残念石(築城のために用意されるが使われない石)の展示や、見学の修学旅行生の姿など現在の大阪城として歴史の今昔を表現してみました。


〜と、本文の後記で綴られています。〜



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〜本文抜粋より〜

(左写真)西の丸より天守閣を望む。本丸と西丸は高低差があり、天守閣の高さが際立つ。
かつて、大阪に都があったことを伝えているようだ。
(右写真)内堀、石垣の間からたくさんの植物が生え 夏から秋にかけてはうっそうとしている。



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追記

●Gegeさんの作品は、同じく(アーマモデリング)の戦国ダイオラマ*2015年12月号に(彦根城)、2016年5月号に(和歌山城)も掲載されています。
また機会ある時に紹介したいと思います。

●豊臣大阪城編の時、作品掲載にご協力して頂いた島さんの(城郭模型製作工房)の城造りやご活動を綴られているブログ・・・とても興味深く、楽しく拝見させて頂いています。
興味のある方は、ぜひ、ブログ閲覧してみて下さい。

(城郭模型作家・島 充氏の作品ギャラリー*** http://www.geocities.jp/orin_pos/ )



改めて島さん、Gegeさん、ご協力、ありがとうございました。



(次号に続く)























































2016年10月03日

屋号#大阪丸その(43) (大阪城*X 現在の大阪城へ)





(大阪城*X 現在の大阪城へ)




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大阪城は、(太閤はんのお城)といわれた豊臣秀吉築城時代(安土桃山時代)から、徳川家と江戸幕府による徳川大坂城(江戸時代)を経て来ました。



江戸時代にも度々火災による損傷と修復を繰り返して来たようです。




特に1660年(万治3年)には、城内の青屋門の土蔵造り・(火薬庫)焔硝蔵が、落雷により大爆発を起こしました。
貯蔵していた82tの火薬、鉛弾約43万発、火縄3万6千本が焼失しました。
天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物も損壊。
城外でも家屋約1500棟が倒壊、多数の家屋の屋根も破損し、幾多の死傷者も出ました。



後にこの焔硝蔵(火薬庫)を石造りに幕府は作り直しています。この火薬庫は現存しています。



また1665年(寛文5年)には落雷による天守の焼失があります。
それ以降は天守を持たない城になりました。



江戸末期には、王政復古の大号令の後、二条城から追われた徳川慶喜が居住していたこともありましたが、鳥羽・伏見の戦いで旧・幕府が倒れた為、船で江戸に退却せざる負えなくなりました。



最終的には、大阪城は新政府軍に引き渡されました。
この前後の混乱時に出火、その際、御殿、外堀四と五と七番櫓などの城内建造物が焼失しました。



その後、明治新政府は、城内敷地を陸軍用地に転用しました。
主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠が設けられました。



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時は流れ、1928年(昭和3年)当時の大阪市長の天守再建含む大阪城公園整備事業提案を元に昭和天皇記念事業として整備が進められました。



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市民の募金150万円によって、天守と陸軍第4師団司令部庁舎が建設されました。
再建工事は、天守閣の基本設計を波江悌夫が担当、1930年(昭和5年)に始まり、翌年、完成しました。



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(下図は月間アーマ―モデリング Number198*2016 APRILにあたる2016年4月1日刊行の4月号・戦国ダイオラマ絵巻に掲載されている(Gege)さんの作品です。)

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(次号に続く)




























































2016年09月29日

屋号#大阪丸その(42) (大阪城*W 徳川大坂城)





(大阪城*W 徳川大坂城)





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我々が現在、見ている大阪城は幾度かの再建を経た城です。
とはいえ、日本全国・数ある城の中でも独特の存在感=歴史的な背景を持つ城でもあります。



歴史的にも・・・・・戦国武将はもちろんのこと、この大坂城自身は、戦国時代を経た3(スリー)トップの歴史と共に歩みます。



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3トップ=つまり、【鳴かぬなら・・・・・ホトトギス】の有名な句で表現される三大将のことです。

●【鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス】
・・・・・豪放磊落・野生的な人物・織田信長

●【鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス】
・・・・・創意工夫で叩き上げた人物・豊臣秀吉

●【鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス】
・・・・・人質時代を生き抜いた忍耐の人物・徳川家康



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このホトトギスの句は、戦国時代を生き抜き、天下を取った三武将の個性を表現した有名なものですが・・・この三大天下人の歴史にまつわる天下の名城こそが、【大坂城】なのです。



元々は浄土真宗・石山本願寺跡地(←大阪城築城の地)を最初に手にしたのは、織田信長でした。
彼はこの地に、より大きく新しい築城を考えていたといわれています。



しかし本能寺の変で、信長は暗殺されてしまいます。
信長亡き後、この地を手にしたのは、部下であり、天下人の跡取りとなった豊臣秀吉でした。



彼は、信長の建てた安土城をモデルとしながらも、全ての面で凌駕することを目指し、豪華絢爛に仕上げて行きました。
秀吉が築城した大坂城は空前の(金銀の装飾含む)富の集積で、彼の権力を誇示するものでした。



秀吉亡き後、関ケ原の合戦に敗れた豊臣家は、一大名に降格はしたものの、相変わらず豪華絢爛たる城に居城し、他大名に影響力を持っていました。
晩年の徳川家康は、天下を取ったとはいえ、この大坂城と豊臣家について、深刻な危惧を持っていました。



ついに徳川家康は、冬の陣で、大坂城に切り込みます。(秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘の件を理由として)



攻めたてる徳川方は20万の大軍ですが、寄せ集めの10万の豊臣軍が守る惣構の中には一兵も突入できなかったと言われています。
それほど難攻不落の堅城だったようです。



しかし講和による終戦後、大坂城は講和条約により、惣構・三の丸の破却、二の丸の堀も強引に埋め立てられ、本丸だけの裸城にされてしまいました。



秀頼の大坂城の思いも深く、しばらくすると、埋められた堀の掘り起こしなど復旧工事を始めます。



これを再軍備の講和条約違反とみなされ、冬の陣より約半年後、大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅びます。



徳川家康は、実は豊臣家を完全に滅ぼした翌年にこの世を去ります。



死後、彼の外孫である松平忠明に与えられましたが、江戸幕府は後に大坂藩を廃止して天領(幕府直轄領)にすると・・・・・1620年(元和6年)から2代目将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払しょくすべく、大坂城修築工事が開始されます。



大坂夏の陣によって、焼失した豊臣大坂城の焼け跡に多くの大名を集め、足掛け約10年を費やし、すべての面で豊臣期の大坂城を上回った大城郭の完成を目指したのです。

(徳川大坂城は豊臣大坂城焼け跡を埋め立てた後に築城。
因みに豊臣大坂城の位置は、現在の大阪城前にある貯水池辺りの地下にあるとされています。)



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この徳川家による大坂城修築工事は3期にわたる工事により、1629年(寛延6年)に完成しました。





その後、幕府直轄の城である大坂城の城主は、徳川家の歴代将軍になりました。



こうして徳川大坂城は江戸時代の歴史をわたって行きました。





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豪華絢爛たる金細工と黒下見板を使った豊臣大阪城とは、異なる白亜の天守でした。



【本丸東面:1865年(慶応1年)撮影。本末の周辺には11基の三重櫓があり、本丸東面には4基の三重櫓がほぼ一直線に並び、壮観な景色であった。写真は4基のうちの北側3基。(左から)馬印櫓(うまじるし・やぐら)、月見櫓(つきみ・やぐら)、糒櫓(ほしいい・やぐら)】

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【徳川大坂城】

別称:錦城、金城

城の形態:輪郭式の平城

天守の形態:五重・五階・地下一階・層塔型・独立式

築城年:1620年 (元和6年)

築城者:2代目将軍・徳川秀頼

主な遺構:本丸 二の丸 大手門 多聞櫓 千貫槍 乾櫓 一番槍など

文化財指定区分:(天守)登録有形文化財、(大手門など13棟)重文




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(次号に続く)
















































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