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2015年10月31日

第十六章第一節 川島芳子の処刑と逃亡

一九四五年十月十一日夜、国民党「軍統」(軍事統計調査局)の北平第二粛奸小組が、北平東四楼牌九条公館の大門を叩き、川島芳子の逮捕を実行した。はじめは国民党第十一戦区長官孫連仲司令部の倉庫部屋に拘留された。その年の十二月に、彼女は北平第一監獄に移された。
その後は、大体毎月一回は川島芳子に尋問が行われた。最初の段階では、彼女の国籍問題がおよそ論争の焦点となった。その後、法廷は川島芳子を中国人金璧輝として審判することとした。中国の法律によれば、「中国人が中国に対し不利な事を行った場合」は漢奸罪が適用されることになっていた。こうして、川島芳子は死刑判決を受けることとなったのである。
川島芳子は事実上日本人川島浪速の養女であったが、しかし日本の戸籍上は正式な手続きが行われていなかった。
一九四七年十月二十二日、検察官の起訴に基づき、川島芳子に河北法院から死刑が宣告された。その主要な罪状は以下のようなものであった。

(一)被告がたとえ中国と日本の二重国籍を有していたとしても、その父(清朝)粛親王善耆は疑いなく中国人であり、これにより漢奸罪が適用されるべきである。
(二)被告は日本軍要人と密接な交際があり、上海で「一・二八事変」(第一次上海事変)のさい、上海でダンサーになるなどしてスパイ活動を行った。
(三)「満州事変」後に、被告は関東軍と関係を保持し、満州安国軍を組織した。
(四)溥儀と婉容の天津脱出を手伝い、満州国建国の陰謀に加担した。
(五)各方面から提供された証拠に基づき、被告を漢奸罪、スパイ罪と判決し、国際スパイ処罰条例第四条第一項に基づき、被告に死刑を宣告する。

死刑を宣告された後も、川島芳子は生への望みを捨てなかった。死刑執行前の五ヶ月間に、彼女は何度も養父川島浪速に日本国籍の証明を送るよう手紙を書き、養父に彼女の出生日を十年遅らすように頼んだ。そうすれば、満州事変の際に彼女は十五〜六才の少女ということになり、そのような重大事件に関わることはできないと主張するつもりであった。その他にも、彼女は手紙で養父に彼女を多方面から死刑を逃れる方法を講じてほしいと頼んだ。その他、川島芳子が最大の希望を寄せていたのは、愛新覚羅家と彼女の兄である憲立らが、彼女の為に金を「替え玉」を用意することであった。

一九四八年三月二十四日になると、すでに死刑が宣告されていた川島芳子が数ヶ月行ってきた刑を逃れるための努力はどれも功を奏さなかったように思えた。
二十四日の夕方、河北省高等法院裁判長、検察官、北平第一監獄天国長は突然に省高等法院の会議室で会議を開いた。人々はこれはきっと川島芳子の死刑と関係があると推測した。様々な動きから見れば、明日の二十五日が執行日だと、人々は噂した。
確かに、二十五日明け方四時ごろ、実弾を込めた銃を担った軍警を満載した軍のトラックが、省高等法院から北平第一監獄に到着すると、軍警たちは第一監獄の周囲を厳しく警戒し始めた。朝六時に、一台の黒塗りの乗用車が監獄の大門に入ると、薄暗い朝方の光の中で、車から執行検察官、書記官、検験員の三人が降りてきた。
監獄の後ろの庭の西南の角には畑があったが、そこを臨時の刑場として一台の長方形の机と三脚のイスを並べた。机の上には硯と巻紙が置かれ、いたって簡単な配置であった。川島芳子がこの小さな刑場に引きずり出されると、刑場は水を打ったように静かになり、人々は声をひそめた。執行検察官は形式どうりに被告の姓名、本籍、年齢などを尋ねるとこう言った。
「金璧輝!お前の抗告は棄却され、その裁定書は昨日の夜に手元に届けたから、すでに承知のことだろう。本検察官は命令に従い今日お前に死刑を執行するが、何か言い残すことはないか?」
しかし、川島芳子は何も言わなかった。続けて、習慣どうり死刑犯への二個の饅頭を与えようとしたが、川島芳子は受け取らなかった。ちょうどこの時に、監獄の大門の外からますます大きくなる人声が聞こえてきて、刑場の静寂を破った。それは監獄の大門の外で夜中から張っていた記者達と市民の叫び声で、門をドンドン叩く音と共に、「門を開けろ、門を開けろ、中に入れてくれ!」という声が聞こえてきた。
この時に執行検察官が手を振るうと、二名の法官が川島芳子を支え、一人が身を翻すと、彼女を後方に数十歩退かせ、それから彼女の肩を抑えて、川島芳子は検察官を背に声を出すことなくひざまづいた。法官が身を避けて遠ざかると、この時に一人の頚執行官が銃を掲げ、川島芳子の後頭部から銃弾を打ち込み、川島芳子は銃声と共に倒れた。用いられたのは「爆裂弾」で、死者の後頭部から打ち込まれ、顔の額の部分が爆発で裂け、頭部は血漿と泥にまみれていた。
執行検察官が腕にある時計を見ると六時四十分であった。この時、ようやく黎明の曙光が徐々に天を照らし始めた。検死官は死体を検分するために、いまだ硬化していない死体のほうへ向かったが、死者の顔はすでに血漿によって黒ずんだ泥土にまみれており、完全にはっきり顔を確かめることは出来なくなっていた・・・・
監獄の大門の外では徹夜で待っていた人たちが、先を争って門を入って女スパイ川島芳子の最後を見ようと騒いでいた。しかし監獄の中から聞こえた一発の銃声は彼らの希望を打ち砕き、彼らの憤激を引き起こした。北平の十数社の大小の新聞社から来た写真機を手にした外回りの記者たちは全て入場を拒否され門外に留め置かれた。怒り狂った群集は、新聞記者たちと一緒になって門を叩いたり蹴ったりしていたが、重い鉄の大門はびくとも動かなかった。

二十五日午前九時前後に、一台のアメリカ式ジープが監獄の前で止まり、車からはアメリカ人記者が降りてきて、人ごみを掻き分けて、鉄の門扉を叩いて叫んだ。
「ハロー!門を開けてくれ!」
この外国人の叫び声を聞くと、監獄の鉄の門扉にあるのぞき穴がすぐに開いた。門衛の軍人は金髪碧眼の外国人が門で叫んでいるのを確認すると、いささかも躊躇わずに、このアメリカ人記者の名刺を持って指示を仰ぎに行った。戻って伝えられた回答は、川島芳子は国際的なスパイであるから、外国人記者の取材は許可しようというものであった。そこでこのアメリカ人記者だけが中に入れられたが、中国人記者は一人も中へ入ることを許されなかった。
監獄のこうした外国人だけ優遇するやり方は、民衆の怒りを買ったばかりでなく、さらに待機していた数十名の中国人記者たちの怒りを引き起こし、彼らは抗議のため声を大きくして叫んだ。
「外国人だけに媚を売るな!どうして外国人記者だけに取材させて、自国の中国人記者に取材報道させないんだ。」
「お前たちは何かたくらんでいるだろう!どうして公開審判だったのに、秘密に刑を執行するんだ?」
「どうして執行後にも取材を許可しないんだ?」
しかし、人々がどのように叫んでも、鉄の門扉は堅く閉じられたままであった。
AP通信記者が川島芳子の死刑執行後の写真を撮影し「独占配信」することになった後、川島芳子の死体は監獄の門外に運び出された。

死体

おおよそ、一週間が過ぎたころに、再び門のところに人がやって来た。やって来たのは身を袈裟に包んだ日本人僧侶で名を古川大航と言った。この七十八歳の日本人僧侶は日本の静岡県興津清見寺の住職であった。一九三八年に日本の対中国侵略戦争がまさにたけなわのころ、彼はふらりと海を越えて中国の華北にやってきて、中国軍民の攻撃を受けて戦死した日本軍人のために冥福を祈っていたのである。日本降伏後に、彼はなおも北平の単牌楼観音寺胡同二十号の日本臨済宗妙心寺に住んでいた。
古川は法院に紹介状を持ってきて来意を告げると、門衛の軍人は指示を求めに奥へ行った。
古い板の上に川島芳子の硬直した死体が載せられ、その上にはムシロがかけられていた。周囲には二、三十名の軍官がとりまいて人垣を作り、野次馬たちが入り込まないようにしていた。古川大航はひざまづき、ムシロをあげて覗くと「金璧輝」の顔は血と泥土で汚れて、彼女の面影を認識することは出来ず、ただ長い髪の毛が方まで伸びているのを見た。死体を包んでいた灰色の囚人服が見えたが、「彼女」はがっちりとした、やや中太りしたような体格に見えた。古川は死体を見取ると、目を閉じて手を合わせて、口の中で念仏を唱えて、「死者」のために祈祷を始めた。一緒にやって来た川島芳子の親戚が泣きながら古川は持ってきた新しい敷布団を死体の下に敷き、さらに白い毛布で死体を包んで、それを新しいシーツにいれ、上に日本人が死人のために用いる覆いを掛けた。これらの処理が終わると、古川大航は荷役を雇ってきて、この死体を荷車に運び上げると、北平朝陽門外の日本人墓地に隣接した火葬場に運ばせた。
川島芳子が荼毘に付されると、古川大航は川島芳子は日中両国に属していたということで、彼女の遺骨を二つに分け、半分は中国に葬るために残し、もう半分は日本に持って帰った。古川大航と川島芳子の親戚が火葬上で「墓地」を選び、その後で遺骨を半分に分け、半分は遺骨箱にいれ、もう半分は骨壷に入れた。親戚は川島芳子の遺骨を入れた骨壷を、「墓地」に掘ってあった穴の中に入れて、「墓前」には小さな墓碑を立てた。墓碑には「愛新壁苔妙芳大姐之墓 昭和二十三年」と刻まれた。古川はもう半分の川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を持ち去った。
一九四八年九月、古川大航はついにあの川島芳子の遺骨が入った遺骨箱を手に船に乗り日本へ戻ってきた。

二十六日は「金璧輝(川島芳子)」が処刑されてから二日目の朝であったが、北平の各社新聞は川島芳子が処刑されたというニュースの外にも、記者たちの連名の抗議書を掲載し、各種の疑問を引き起こすこととなった。これらの疑問は詳細かつ具体的で、ずばり核心を突いた理屈に合うもので、それらをまとめると大体以下のように集約される。

一、過去にはずっと金璧輝(川島芳子)の案件は見せしめの典型として、新聞ラジオで過剰なほどに宣伝して、破格にも立錐の余地がないほどの公開審判をやり、映画記録まで撮影しておいて、名前最後の刑執行の場面になって、こうも秘密裏にしかも急いで処理したのか、全く解せない。
二、どんな理由があって慣例を無視して、新聞記者が刑執行前の尋問現場を取材するのを許さなかったのか?処刑が何故これほど秘密に行われたのか?
三、一歩譲って、被告が脱走するのを防止するためあるいは思いがけない自体が発生するのを防ぐためであったとしても、何故処刑後にも現場と刑執行の情況を新聞記者に公開しなかったのか?さらに不思議なのはどうして中国人記者は門外で拒否され、アメリカ人記者だけが現場に入れたのか?
四、どうして死者の顔面部が血と泥ではっきりせず、誰だかわからないようになっているのか?
五、金璧輝(川島芳子)は男装で短髪がトレードマークで、公開審判の際にも人々にそうした印象を与えたのに、どうして使者の髪の毛は首にまとわりつくほど伸びていたのか?
六、どうして人の顔がはっきりわかりにくい薄暗い明け方の時間を選んで死刑を執行したのか?
これらの疑問により北平市民が一致して次のように疑った。三月二十五日の明け方に処刑されたあの長い髪の女性は、本当は金璧輝(川島芳子)本人ではないのではないかと。
北平記者が連名で出した抗議書の前文は以下のようなものであった。

「冀北高等検察処は昨日命令により金璧輝(川島芳子)を死刑にした際、冀北第一監獄は記者たちの入場を拒否し、本市の外回り記者連合会はこのため特に冀北高等検察と冀北第一監獄に質問を提出して、答えを請うために以下のごとく質問状を提出する。
関係者に金璧輝の死刑執行に関し、本会は会員報告に基づき、数点の質問を呈するものである。
(一)中国の各新聞社のデスク(中央社、天津大公報弁事所、民国日報北平弁事所、中電三厰、華北日報、明報、民強報など)は昨日明け方五時頃に高等検察所主任書記官陳潔夫の電話連絡を受け、六時に第一監獄へ金璧輝(川島芳子)死刑執行のニュースを取材に出かけ、各社記者は時間どうりに赴いたにもかかわらず、貴監獄が記者の入場を拒否したのはなぜか。貴監獄は司法部門であるのに、どうしてこのように言を反故にするのか。
(二)昨日明け方に米国の新聞記者は、貴監獄で許されて中に入り金璧輝(川島芳子)の死刑執行のニュースを取材できたのに、知らせを受けて取材に行った中国の記者三十人余りは門前払いを受けた。貴監獄官員によれば、昨日の金璧輝(川島芳子)の死刑は秘密執行の命令を受けたと言っているが、秘密執行でありながら、しかも記者の参加を許したのに、中国人記者三十余人が皆門外に待たされ、中国と外国の新聞にニュースを配信する中央社も例外でなかったのは、貴監獄のこの措置はいかなる法律に根拠があるものか?またいかなる心理によるものか?はたまた別の事情があるのか?我が会の会員は納得できない。ここに謹んで貴監獄にお答えを要求すると同時に、我が会は司法の尊厳と報道の自由が損害を受けたことに極めて大きな遺憾を表明するものである。」
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