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2023年07月23日
徳川家康の伊賀越え:1582年の歴史的な逃亡
「伊賀越え」は、畿内(現在の大阪周辺)から東国(現在の関東地方)
へ行く際に伊賀国(現在の三重県西部)を経由することを指します。
歴史上の事件としては、徳川家康が本能寺の変後の逃亡に使用したことが特に有名です。
家康は後に江戸幕府を開き、没後に東照大権現として神に祀られて
「神君」と呼ばれたことから、江戸時代には「神君伊賀越え」と称されました。
家康の伊賀越えは、1582年6月21日に本能寺の変で織田信長が明智光秀軍に殺害された後、
家康が本領である三河国(現在の愛知県東部)への帰還を目指した逃亡行です。
家康の逃亡ルートについては、一次史料が極めて少なく、
その間の所要日数やルートに様々な違いがあり複数の見解が存在します。
家康の逃亡行は、堺から京都へ上洛する途中で、河内国飯盛山付近で
京都から来た茶屋四郎次郎に本能寺の変で織田信長が横死したことを知らされ、
その後、家康らは現・京都府京田辺市興戸の木津川の渡しに行き、
山城国宇治田原(現・京都府宇治田原町)で土豪山口甚介の館(宇治田原城)に宿泊しました。
その後、近江国甲賀小川(現・滋賀県甲賀市)で土豪多羅尾光俊(山口甚介の父)
の館に宿泊し、信楽の小川館から神山へと向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、
柘植(現・三重県伊賀市)を経て、さらに加太越から伊勢に入りました。
伊勢国長太(なご、現・三重県鈴鹿市)で乗船し、
伊勢湾を横断して三河国大浜(現・愛知県碧南市)にたどり着き、
三河国岡崎城(現・愛知県岡崎市)へ帰還しました。
家康の伊賀越えには、酒井忠次、石川数正、本多忠勝などの歴戦の武将が同行しており、
落ち武者狩りの一揆を脅したり、時には家康が籠絡用に家臣に
配分した金品を与えたりして通過しました。
また、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、
家康や供廻の帰還を助けた伊勢商人の角屋七郎次郎秀持は、
家康より「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、
いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と喜ばれ、
廻船自由の特権を与えられました。
へ行く際に伊賀国(現在の三重県西部)を経由することを指します。
歴史上の事件としては、徳川家康が本能寺の変後の逃亡に使用したことが特に有名です。
家康は後に江戸幕府を開き、没後に東照大権現として神に祀られて
「神君」と呼ばれたことから、江戸時代には「神君伊賀越え」と称されました。
家康の伊賀越えは、1582年6月21日に本能寺の変で織田信長が明智光秀軍に殺害された後、
家康が本領である三河国(現在の愛知県東部)への帰還を目指した逃亡行です。
家康の逃亡ルートについては、一次史料が極めて少なく、
その間の所要日数やルートに様々な違いがあり複数の見解が存在します。
家康の逃亡行は、堺から京都へ上洛する途中で、河内国飯盛山付近で
京都から来た茶屋四郎次郎に本能寺の変で織田信長が横死したことを知らされ、
その後、家康らは現・京都府京田辺市興戸の木津川の渡しに行き、
山城国宇治田原(現・京都府宇治田原町)で土豪山口甚介の館(宇治田原城)に宿泊しました。
その後、近江国甲賀小川(現・滋賀県甲賀市)で土豪多羅尾光俊(山口甚介の父)
の館に宿泊し、信楽の小川館から神山へと向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、
柘植(現・三重県伊賀市)を経て、さらに加太越から伊勢に入りました。
伊勢国長太(なご、現・三重県鈴鹿市)で乗船し、
伊勢湾を横断して三河国大浜(現・愛知県碧南市)にたどり着き、
三河国岡崎城(現・愛知県岡崎市)へ帰還しました。
家康の伊賀越えには、酒井忠次、石川数正、本多忠勝などの歴戦の武将が同行しており、
落ち武者狩りの一揆を脅したり、時には家康が籠絡用に家臣に
配分した金品を与えたりして通過しました。
また、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、
家康や供廻の帰還を助けた伊勢商人の角屋七郎次郎秀持は、
家康より「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、
いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と喜ばれ、
廻船自由の特権を与えられました。