2017年12月28日
ひかる401−1二場勇次さんへのお返事
ひかる401−1二場勇次さんへのお返事
二場勇次さま
お手紙ありがとうございます。
無罪を主張されてて現在無期懲役の判決、大変な心労もございますでしょう。
とてもお痩せになっていらっしゃることが心配です。
でも気力はおありになるようで、無罪をかちとるために私が手助けになることがあればと思います。
私が二場さんにお会いした限りでは無罪という印象です。
人を殺されたような影を感じません。
何か明るいものを感じます。
ひょっとして中村由美さんは亡くなっていないんじゃないのかとさえ思います。
私にとっての中村由美さんは男です。
りゅーちぇるくんみたいな人ではないかと思うのです。
https://lineblog.me/ryuchell/archives/1351180.html
―
日馬富士の事件でも思いますが、報道も医師の診断も警察発表どおり。
中村由美さんて男名ないですよね。
男なのに女だから、死んでるのに生きてるじゃないかとか思います。
―
でもどこで生きてるかはわかりません。世の中どうなっているのだろうと思います。
こんな事言ってると、精神病院送りですね。
―
そして他の人にも言ってるのですが、光子さんはやめて宮崎さんにしてください。
昔は名前で呼ぶのは夫婦だけだったのだそうです。今は昔ですからね!
−
そして刑事裁判傍聴しても思うのですが、これは事実をさばいているのか、それともメタファーなのかという事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC
メタファー(希: μεταφορά, metaphorá、羅: metaphorá、独: Metapher、英: metaphor)は、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、伝統的には修辞技法のひとつとされ、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないものを指す。
概説[編集]
メタファーは、言語においては、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え簡潔に表現する機能をもつ。わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている。
メタファーにもいくつかタイプがあるが、比較的分かりやすい例としては「人生はドラマだ」のような形式をとるものがある。
メタファーは日常的に頻繁に用いられているもの、話している本人も気づかずに用いているものから、詩作などにおいて創造される新奇なものまで、様々なレベルにわたって存在している。
また、メタファーが用いられるのは、いわゆる"言語"(言葉)に限らない。絵画、映画などの視覚の領域でも起きる。
メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきているのである。
メタファーの例[編集]
冒頭に挙げた「人生はドラマだ」はもっとも初歩的なメタファーである。「…は…だ」という形で比喩だということがわかりやすい。
次のようなものもメタファーである。
人生は旅だ。私と一緒に旅をしてみないか?
この例などは、ひとつめの文に加えて、ふたつめの文「私と一緒に旅をしてみないか?」もメタファーであるが、ひとつめの文がメタファーだと分かるため、ふたつめも引き続きメタファーだと理解されやすい。
次の会話の例にもメタファーが含まれている。
A 「どうしたのですか?」
B 「それが・・・、最近、いくら努力してもうまく行きません。つらいことばかりなのです。」
A 「そうですか・・・。一緒にがんばりましょう。闇が深ければ、夜明けは近いのですよ。」
この会話では「闇が深ければ、夜明けは近い」がメタファーである。
(人によっては)メタファーだと気づきにくいタイプのメタファーもある。例えば次のような例である。
わらべは見たり、野中のばら (男の子は見つけた、野に咲く薔薇を) − ゲーテの詩『野ばら』
私の庭にスミレが咲いた。
上記2例のようなメタファーは、恋をする男性の心に生まれることがあるものである。
さらに気づきにくい例を挙げる。例えば次のような一文が芸術的な小説の中に配置されていれば、それは単なる情景描写というよりもメタファーの可能性が高い。
その時彼がふと窓の外を見ると、一羽の鷹が、強風にも流されず、空中に静止していた。
メタファーは人間が根本的に持つ世界の認知、世界の見え方に深く関わっており、聞き手の心の状況に合ったメタファーは強く心を打ち、大きな影響力を持つ。
古典的なメタファー[編集]
メタファーは古今東西の文学作品に普遍的に存在している。その中でも歴史的に見て、多くの人々に読まれ、影響力の大きなメタファーをいくつか挙げる。
メタファーは現存する最古の文学作品といわれる『ギルガメシュ叙事詩』にも豊富に見だすことができる。同作品は多数の写本が作成され、広く流布したと考えられており、現代の視点でも文学作品として第一級だとしばしば評されている。
聖書は、メタファーと譬え話に満ちた文書の典型としてしばしば挙げられている。聖書およびイエス・キリストのたとえ話は、西洋文学におけるメタファーのありかたに多大な影響を与えている。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。 − 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 15:5、イエスの言葉
私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです − 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 8:12
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか − 新約聖書『マタイによる福音書』 5:13 ( 「地の塩、世の光」の記事も参照可)
仏教においても、仏陀は、相手に応じて比喩を巧みに用いて説いたとされ、メタファーに満ちた話が現在まで伝わっており、仏教圏の人々には広く浸透している。
『涅槃経』第29巻では比喩を、順喩、逆喩、現喩、非喩、先喩、後喩、先後喩、遍喩の8種類に分類している。その中で、現喩は現前のものをもって表現する比喩で、遍喩は物語全体が比喩であるもののことである。
日本の仏教の文書にもメタファーは見出すことができる。
難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する惠日なり − 親鸞『教行信証』総序冒頭部
メタファー観の歴史[編集]
初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで次のように述べている。
「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」
西洋の伝統的な修辞学では比喩(trope、転義法)が研究・分類されてきたが、その中でもメタファーは特に大きなテーマとして扱われている。
文芸においてはメタファーは一貫して称揚されている。
ただし、一時期、近代の言語学や論理学では、メタファーを周辺的な現象とし、批判的に見ることがあった。近代の哲学者の中には、メタファーによって説得しようとする議論を「非理性的なもの」として否定する者がおり、例えばホッブズやロックは、メタファーに頼った議論を「ばかげており、感情をあおるものに過ぎない」などとして批判した。
だがこうした少数の意見を除けば、一般にメタファーは重視されており、文芸においては、ロマン主義以来は、理性を越えた想像力の発露であると見なされるようになった。
言語哲学におけるメタファー理解の変革[編集]
言語哲学では、「隠喩は言語において特殊な現象にすぎない」と見なす見解がかつて主流で、その後、隠喩はつねに言語の根源にあるとする見解が登場することになった。前者の見解は、ある意味で素朴で、そう見なす人のほうが多かった。例えば、古代ギリシャのプラトンや現代のオースティンなどは前者の見解を示した。
だが、近代にはヴィーコ、現代ではブラックが、異なった見解を示し、言語学者のロマン・ヤコブソンは、絵画、文学、映画あるいは夢などの表現の中には、根本的な認知方式としてメタファーの作用があることを指摘した。 さらに近年では、1980年にジョージ・レイコフとジョンソン(M. Johnson)らが『レトリックと人生』("Metaphors we live by")を出版し、「メタファーは抽象概念の理解を支える根本的な概念操作である」「言語活動のみならず、思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透している[1]」と指摘し、多数の資料を提示しつつ分析してみせ、広範囲の支持を得て、学者らのメタファー観は大きく変わった。
近年では、メタファーは単なる言語の要素ではなく、人間の認知と存在の根幹に関わる要素だという認識がされるようになり、メタファーを基礎に据え、概念理解のしくみ・構造を解明しようとする研究が進められている。
政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。
また、精神分析学者ラカンのメタファー・メトニミーへの言及が重要視されることがある。ポール・リクールも隠喩論を展開した。
関連する概念[編集]
物語全体で他の何かを暗示するように構成されたものは寓喩と呼ばれる。
概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現はメトニミーまたは換喩という。「漱石を読んだ」、「風呂が沸いた」のような表現がこれにあたる。また概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現はシネクドキまたは提喩という。例えば「花見」という語における「花」は普通、桜の花を指している。
「…のようだ」「…みたいだ」のように、わざわざ比喩であることを明示する語や形式を用いている比喩は直喩(simile)と呼ばれる。
脚注[編集]
1. ^ 『レトリックと人生』pp.2-4.
―
政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。
との事ですが、本当の事が言えない現実が、政治的に人の名前によって表現されるようなことがあるようにも思います。
勿論、言葉はもろ刃の剣
http://kotowaza-allguide.com/mo/morohanotsurugi.html
諸刃の剣
【読み】 もろはのつるぎ
【意味】 諸刃の剣とは、一方では非常に役立つが、他方では大きな損害をもたらす危険もあるというたとえ。また、相手に打撃を与えるが、自分もそれと同等の打撃を受けるおそれがあるというたとえ。
【注釈】 両方の縁に刃のついている剣は、人を斬ることもできるが一つ間違えれば自分自身も傷つけてしまう恐れがあることから。
「両刃の剣」とも書き、「両刃」は「もろは」とも「りょうば」とも読む。
【用例】 「強い薬での治療は効果も得られるが、副作用が強いこともあり、諸刃の剣となるだろう」
―
名前って色々あるし、同じ名前の人でも、違う人生ですしね。
最近は国土交通省の職員録の名前が気になってます。
―
そして、事件の詳しい内容を手紙に書いてくださりありがとうございます。
―
刑事裁判をメタファーとしてとらえるのか、私は単純ですので、事実を追及する立場でいきたいのですが、
―
メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきているのである。
―
↑このような事を考えないといけないのかです。または感じる、テクノロジーによる下半身の刺激とかオナラとか汗、赤面のテクノロジーとか。
この概念メタファーに覚せい剤の密輸を取り締まっている税関が財務省で、概念は外貨、国際経済問題が入っていて、覚せい剤と売春がつながってて、それは政治的に公安的に必須の状態にあるみたいなのがあると、メタファーにならざるおえないとかあるのでしょうか?
−
https://www.youtube.com/watch?v=MbnxVxfjaOQ
粉雪 - レミオロメン(フル)
―
ララライ ララライ ってライ病(ハンセン病)みたいです。
日本は武器輸出も原発輸出もしてるし再稼働してるしモンゴルはウランがとれるしモンゴルの首都はウランバートルで日本の国技のすもうの横綱はモンゴルの人で、相撲界はゆれてます。
二場さんは田川の人で、貴乃花の相撲茶屋貴乃花は田川にあります。
私の父羽と出ますが父は自衛隊、大分の日出生台の演習場で演習していたこともあるそうですが、中村由美さんは大分の飲食店で働いてありました。
―
ではお手紙の内容です。
私は中村由美さんを男ではないかと思っていて、二場さんが女とおっしゃる。
そこで根本的に違います。
すると事件そのものがまったくなかったとか違ったことだでもいいような気もするのです。
―
たとえば日馬富士の事件
貴の岩の顔の傷は平手でたたいたものには思えないし、頭のホッチキスは傷がみえなくて髪留め見たいです。
私には傷の証拠がウソにしか思えないので、まったくのでっち上げの事件に思えます。
日馬富士と朝青龍は仲良しだったらしくリベンジのようにも思います。
朝青龍 明徳さんは今
2017年8月3日、新しくモンゴル大統領に就任したハルトマーギーン・バトトルガより日本担当の外交顧問および大統領特別大使として指名された[59][60]。
だそうです。
―
二場さんの事件、事件そのものがなかったのではないかと思いつつも、何かのリベンジかもしれず、お手紙の中身について考えさせていただきます。
―
とここまで書きまして、情報アップブログに掲載いたしますので、ここまで一部させて続きはU部でお送りします。
二場勇次さま
お手紙ありがとうございます。
無罪を主張されてて現在無期懲役の判決、大変な心労もございますでしょう。
とてもお痩せになっていらっしゃることが心配です。
でも気力はおありになるようで、無罪をかちとるために私が手助けになることがあればと思います。
私が二場さんにお会いした限りでは無罪という印象です。
人を殺されたような影を感じません。
何か明るいものを感じます。
ひょっとして中村由美さんは亡くなっていないんじゃないのかとさえ思います。
私にとっての中村由美さんは男です。
りゅーちぇるくんみたいな人ではないかと思うのです。
https://lineblog.me/ryuchell/archives/1351180.html
―
日馬富士の事件でも思いますが、報道も医師の診断も警察発表どおり。
中村由美さんて男名ないですよね。
男なのに女だから、死んでるのに生きてるじゃないかとか思います。
―
でもどこで生きてるかはわかりません。世の中どうなっているのだろうと思います。
こんな事言ってると、精神病院送りですね。
―
そして他の人にも言ってるのですが、光子さんはやめて宮崎さんにしてください。
昔は名前で呼ぶのは夫婦だけだったのだそうです。今は昔ですからね!
−
そして刑事裁判傍聴しても思うのですが、これは事実をさばいているのか、それともメタファーなのかという事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC
メタファー(希: μεταφορά, metaphorá、羅: metaphorá、独: Metapher、英: metaphor)は、隠喩(いんゆ)、暗喩(あんゆ)ともいい、伝統的には修辞技法のひとつとされ、比喩の一種でありながら、比喩であることを明示する形式ではないものを指す。
概説[編集]
メタファーは、言語においては、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え簡潔に表現する機能をもつ。わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている。
メタファーにもいくつかタイプがあるが、比較的分かりやすい例としては「人生はドラマだ」のような形式をとるものがある。
メタファーは日常的に頻繁に用いられているもの、話している本人も気づかずに用いているものから、詩作などにおいて創造される新奇なものまで、様々なレベルにわたって存在している。
また、メタファーが用いられるのは、いわゆる"言語"(言葉)に限らない。絵画、映画などの視覚の領域でも起きる。
メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきているのである。
メタファーの例[編集]
冒頭に挙げた「人生はドラマだ」はもっとも初歩的なメタファーである。「…は…だ」という形で比喩だということがわかりやすい。
次のようなものもメタファーである。
人生は旅だ。私と一緒に旅をしてみないか?
この例などは、ひとつめの文に加えて、ふたつめの文「私と一緒に旅をしてみないか?」もメタファーであるが、ひとつめの文がメタファーだと分かるため、ふたつめも引き続きメタファーだと理解されやすい。
次の会話の例にもメタファーが含まれている。
A 「どうしたのですか?」
B 「それが・・・、最近、いくら努力してもうまく行きません。つらいことばかりなのです。」
A 「そうですか・・・。一緒にがんばりましょう。闇が深ければ、夜明けは近いのですよ。」
この会話では「闇が深ければ、夜明けは近い」がメタファーである。
(人によっては)メタファーだと気づきにくいタイプのメタファーもある。例えば次のような例である。
わらべは見たり、野中のばら (男の子は見つけた、野に咲く薔薇を) − ゲーテの詩『野ばら』
私の庭にスミレが咲いた。
上記2例のようなメタファーは、恋をする男性の心に生まれることがあるものである。
さらに気づきにくい例を挙げる。例えば次のような一文が芸術的な小説の中に配置されていれば、それは単なる情景描写というよりもメタファーの可能性が高い。
その時彼がふと窓の外を見ると、一羽の鷹が、強風にも流されず、空中に静止していた。
メタファーは人間が根本的に持つ世界の認知、世界の見え方に深く関わっており、聞き手の心の状況に合ったメタファーは強く心を打ち、大きな影響力を持つ。
古典的なメタファー[編集]
メタファーは古今東西の文学作品に普遍的に存在している。その中でも歴史的に見て、多くの人々に読まれ、影響力の大きなメタファーをいくつか挙げる。
メタファーは現存する最古の文学作品といわれる『ギルガメシュ叙事詩』にも豊富に見だすことができる。同作品は多数の写本が作成され、広く流布したと考えられており、現代の視点でも文学作品として第一級だとしばしば評されている。
聖書は、メタファーと譬え話に満ちた文書の典型としてしばしば挙げられている。聖書およびイエス・キリストのたとえ話は、西洋文学におけるメタファーのありかたに多大な影響を与えている。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実をゆたかに結ぶ。 − 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 15:5、イエスの言葉
私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです − 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 8:12
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか − 新約聖書『マタイによる福音書』 5:13 ( 「地の塩、世の光」の記事も参照可)
仏教においても、仏陀は、相手に応じて比喩を巧みに用いて説いたとされ、メタファーに満ちた話が現在まで伝わっており、仏教圏の人々には広く浸透している。
『涅槃経』第29巻では比喩を、順喩、逆喩、現喩、非喩、先喩、後喩、先後喩、遍喩の8種類に分類している。その中で、現喩は現前のものをもって表現する比喩で、遍喩は物語全体が比喩であるもののことである。
日本の仏教の文書にもメタファーは見出すことができる。
難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する惠日なり − 親鸞『教行信証』総序冒頭部
メタファー観の歴史[編集]
初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで次のように述べている。
「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」
西洋の伝統的な修辞学では比喩(trope、転義法)が研究・分類されてきたが、その中でもメタファーは特に大きなテーマとして扱われている。
文芸においてはメタファーは一貫して称揚されている。
ただし、一時期、近代の言語学や論理学では、メタファーを周辺的な現象とし、批判的に見ることがあった。近代の哲学者の中には、メタファーによって説得しようとする議論を「非理性的なもの」として否定する者がおり、例えばホッブズやロックは、メタファーに頼った議論を「ばかげており、感情をあおるものに過ぎない」などとして批判した。
だがこうした少数の意見を除けば、一般にメタファーは重視されており、文芸においては、ロマン主義以来は、理性を越えた想像力の発露であると見なされるようになった。
言語哲学におけるメタファー理解の変革[編集]
言語哲学では、「隠喩は言語において特殊な現象にすぎない」と見なす見解がかつて主流で、その後、隠喩はつねに言語の根源にあるとする見解が登場することになった。前者の見解は、ある意味で素朴で、そう見なす人のほうが多かった。例えば、古代ギリシャのプラトンや現代のオースティンなどは前者の見解を示した。
だが、近代にはヴィーコ、現代ではブラックが、異なった見解を示し、言語学者のロマン・ヤコブソンは、絵画、文学、映画あるいは夢などの表現の中には、根本的な認知方式としてメタファーの作用があることを指摘した。 さらに近年では、1980年にジョージ・レイコフとジョンソン(M. Johnson)らが『レトリックと人生』("Metaphors we live by")を出版し、「メタファーは抽象概念の理解を支える根本的な概念操作である」「言語活動のみならず、思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透している[1]」と指摘し、多数の資料を提示しつつ分析してみせ、広範囲の支持を得て、学者らのメタファー観は大きく変わった。
近年では、メタファーは単なる言語の要素ではなく、人間の認知と存在の根幹に関わる要素だという認識がされるようになり、メタファーを基礎に据え、概念理解のしくみ・構造を解明しようとする研究が進められている。
政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。
また、精神分析学者ラカンのメタファー・メトニミーへの言及が重要視されることがある。ポール・リクールも隠喩論を展開した。
関連する概念[編集]
物語全体で他の何かを暗示するように構成されたものは寓喩と呼ばれる。
概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現はメトニミーまたは換喩という。「漱石を読んだ」、「風呂が沸いた」のような表現がこれにあたる。また概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現はシネクドキまたは提喩という。例えば「花見」という語における「花」は普通、桜の花を指している。
「…のようだ」「…みたいだ」のように、わざわざ比喩であることを明示する語や形式を用いている比喩は直喩(simile)と呼ばれる。
脚注[編集]
1. ^ 『レトリックと人生』pp.2-4.
―
政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。
との事ですが、本当の事が言えない現実が、政治的に人の名前によって表現されるようなことがあるようにも思います。
勿論、言葉はもろ刃の剣
http://kotowaza-allguide.com/mo/morohanotsurugi.html
諸刃の剣
【読み】 もろはのつるぎ
【意味】 諸刃の剣とは、一方では非常に役立つが、他方では大きな損害をもたらす危険もあるというたとえ。また、相手に打撃を与えるが、自分もそれと同等の打撃を受けるおそれがあるというたとえ。
【注釈】 両方の縁に刃のついている剣は、人を斬ることもできるが一つ間違えれば自分自身も傷つけてしまう恐れがあることから。
「両刃の剣」とも書き、「両刃」は「もろは」とも「りょうば」とも読む。
【用例】 「強い薬での治療は効果も得られるが、副作用が強いこともあり、諸刃の剣となるだろう」
―
名前って色々あるし、同じ名前の人でも、違う人生ですしね。
最近は国土交通省の職員録の名前が気になってます。
―
そして、事件の詳しい内容を手紙に書いてくださりありがとうございます。
―
刑事裁判をメタファーとしてとらえるのか、私は単純ですので、事実を追及する立場でいきたいのですが、
―
メタファーは人間の類推能力の応用とされることもあり、さらに認知言語学の一部の立場では、人間の根本的な認知方式のひとつと見なされている(概念メタファー)。メタファーは、単に言語の問題にとどまるというよりも、もっと根源的で、空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきているのである。
―
↑このような事を考えないといけないのかです。または感じる、テクノロジーによる下半身の刺激とかオナラとか汗、赤面のテクノロジーとか。
この概念メタファーに覚せい剤の密輸を取り締まっている税関が財務省で、概念は外貨、国際経済問題が入っていて、覚せい剤と売春がつながってて、それは政治的に公安的に必須の状態にあるみたいなのがあると、メタファーにならざるおえないとかあるのでしょうか?
−
https://www.youtube.com/watch?v=MbnxVxfjaOQ
粉雪 - レミオロメン(フル)
―
ララライ ララライ ってライ病(ハンセン病)みたいです。
日本は武器輸出も原発輸出もしてるし再稼働してるしモンゴルはウランがとれるしモンゴルの首都はウランバートルで日本の国技のすもうの横綱はモンゴルの人で、相撲界はゆれてます。
二場さんは田川の人で、貴乃花の相撲茶屋貴乃花は田川にあります。
私の父羽と出ますが父は自衛隊、大分の日出生台の演習場で演習していたこともあるそうですが、中村由美さんは大分の飲食店で働いてありました。
―
ではお手紙の内容です。
私は中村由美さんを男ではないかと思っていて、二場さんが女とおっしゃる。
そこで根本的に違います。
すると事件そのものがまったくなかったとか違ったことだでもいいような気もするのです。
―
たとえば日馬富士の事件
貴の岩の顔の傷は平手でたたいたものには思えないし、頭のホッチキスは傷がみえなくて髪留め見たいです。
私には傷の証拠がウソにしか思えないので、まったくのでっち上げの事件に思えます。
日馬富士と朝青龍は仲良しだったらしくリベンジのようにも思います。
朝青龍 明徳さんは今
2017年8月3日、新しくモンゴル大統領に就任したハルトマーギーン・バトトルガより日本担当の外交顧問および大統領特別大使として指名された[59][60]。
だそうです。
―
二場さんの事件、事件そのものがなかったのではないかと思いつつも、何かのリベンジかもしれず、お手紙の中身について考えさせていただきます。
―
とここまで書きまして、情報アップブログに掲載いたしますので、ここまで一部させて続きはU部でお送りします。
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