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2018年11月02日
「八重山上布」・「八重山ミンサー」は、みね屋工房!
石垣島の伝統工芸と言えば、機織りの技術。
昔から受け継がれてきた細かな作業から生まれたのが、「八重山上布」&「八重山ミンサー」です。
昔から受け継がれてきた細かな作業から生まれたのが、「八重山上布」&「八重山ミンサー」です。
「みね屋工房」の紹介です。
「八重山上布」&「八重山ミンサー」について
「八重山上布」
琉球王朝時代、八重山地方では、人頭税という過酷な税 制が、270年もつづき、15歳〜50歳までの男が、人頭税とし、反物や穀物などを王府に納めていました。
八重山上布は、薩摩藩を通して江戸・大阪などへも出荷され、琉球王府においても、貴重品となり、ごく限られた人々だけが身につけられる、庶民の生活からはかけ離れた高級な織物とされ、南国の風土と島人たちの手によって育てられ、現代に至っています。
原料となる芋麻の中でも、一番良い糸を作り出すのが、方言で、(ウリズンプー)と言われる「春の芋麻」です。
手作業によって、手で紡ぐ糸になります。
糸は、亜熱帯の島の山野に自生する(紅露)・(福木)その他の植物で染められて、手織の上布となります。
近年、植物繊維が見直され、特に八重山上布は、麻地の感触と洗練された柄で、高い評価を受けています。
風通しもよく、天然の色合いと素朴な柄が夏の衣服として、最適で、のれんやタペストリー等インテリアとしても多くの人々に愛用されています。
「八重山上布」
琉球王朝時代、八重山地方では、人頭税という過酷な税 制が、270年もつづき、15歳〜50歳までの男が、人頭税とし、反物や穀物などを王府に納めていました。
八重山上布は、薩摩藩を通して江戸・大阪などへも出荷され、琉球王府においても、貴重品となり、ごく限られた人々だけが身につけられる、庶民の生活からはかけ離れた高級な織物とされ、南国の風土と島人たちの手によって育てられ、現代に至っています。
原料となる芋麻の中でも、一番良い糸を作り出すのが、方言で、(ウリズンプー)と言われる「春の芋麻」です。
手作業によって、手で紡ぐ糸になります。
糸は、亜熱帯の島の山野に自生する(紅露)・(福木)その他の植物で染められて、手織の上布となります。
近年、植物繊維が見直され、特に八重山上布は、麻地の感触と洗練された柄で、高い評価を受けています。
風通しもよく、天然の色合いと素朴な柄が夏の衣服として、最適で、のれんやタペストリー等インテリアとしても多くの人々に愛用されています。
「八重山ミンサー」
1634年、石垣島川平村の「大浜安師」と言う男性が、木綿の栽培から製造までの技術を慶良間諸島から持ち帰ったことから、八重山の綿織物の始まりとされています。
古来は、八重山地方の習慣に、男性に求婚された女性が、その承諾の返事の代わりに、幅の狭い織物を自分で織って男性へ贈っていたことから、「綿狭」がミンサーと呼ばれるようになったようです。
1634年、石垣島川平村の「大浜安師」と言う男性が、木綿の栽培から製造までの技術を慶良間諸島から持ち帰ったことから、八重山の綿織物の始まりとされています。
古来は、八重山地方の習慣に、男性に求婚された女性が、その承諾の返事の代わりに、幅の狭い織物を自分で織って男性へ贈っていたことから、「綿狭」がミンサーと呼ばれるようになったようです。
何本もの糸を様々な青色に染め、引き揃え、手織りした石垣島の海を表現した風景織!
軽くて丈夫なミンサー帯地から製作されたバック!