2018年12月17日
「太宰治とタケの映像から(1)」
NHKBSプレミアムの番組から。
プレミアムカフェ選 生誕100年 太宰治と故郷「津軽」。
あまりにも有名な太宰治なのに、初めて知ることばかりで観る機会があってよかったと感謝。
彼の著書「津軽」には書かれているのだろうが、私は読んでない。
彼の詳細はこちらで殆ど知ることができる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB
今回書くのは、
「3歳から小学校入学までは14歳の女中近村たけが子守りを務めた。」たけのことだ。
たけが修治=本名、津島 修治(つしま しゅうじ)の子守を辞めて青森の小泊(こどまり)に嫁いだ。
修治がたけを訪ねた時の話だ。
昭和19年5月27日に、地域の運動会に行っていたたけと会えた時に感じた気持ち。
「無足無風の気持ちであった。平和とはこんな気持ちのことをいうのだろう。」と。
その時の二人の様子が銅像になっている。
旅の翌年、終戦である。
豪農であった「ヤマゲン」(彼の実家)は戦後の農地改革で田畑の多くを失い、4年後太宰は玉川上水に身を投げる。
実家を継いだ跡取りの兄文治が、その家を手放したのは、彼の遺体が上がった7日後の、昭和23年6月26日だった。
故郷を思い続けた太宰治。
著書に印されたのは家紋の「鶴丸」。
病弱だった母の代わりに育ててくれたたけへの思い。
少年の家来であり、家庭教師でもあった。
一番心休まる場所だったのだろう。
少年の心を思うと、たけそのものが「母」のぬくもりだったのだろう。
そのたけの映像がある。
「小泊の歴史を語る会」会長の柳沢さんが、撮ってくれてあったのだ。
14歳の時から修治の子守を務めた女中近村たけさん。
写真ではない、映像として残っている。
(私はこの録画を永久保存したいと思っている。)
こんな映像を発掘されたNHKの実力に頭がさがります。
と、いう思いを、「太宰治とタケの映像から。(2)」に続けます。
プレミアムカフェ選 生誕100年 太宰治と故郷「津軽」。
あまりにも有名な太宰治なのに、初めて知ることばかりで観る機会があってよかったと感謝。
彼の著書「津軽」には書かれているのだろうが、私は読んでない。
彼の詳細はこちらで殆ど知ることができる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB
今回書くのは、
「3歳から小学校入学までは14歳の女中近村たけが子守りを務めた。」たけのことだ。
たけが修治=本名、津島 修治(つしま しゅうじ)の子守を辞めて青森の小泊(こどまり)に嫁いだ。
修治がたけを訪ねた時の話だ。
昭和19年5月27日に、地域の運動会に行っていたたけと会えた時に感じた気持ち。
「無足無風の気持ちであった。平和とはこんな気持ちのことをいうのだろう。」と。
その時の二人の様子が銅像になっている。
旅の翌年、終戦である。
豪農であった「ヤマゲン」(彼の実家)は戦後の農地改革で田畑の多くを失い、4年後太宰は玉川上水に身を投げる。
実家を継いだ跡取りの兄文治が、その家を手放したのは、彼の遺体が上がった7日後の、昭和23年6月26日だった。
故郷を思い続けた太宰治。
著書に印されたのは家紋の「鶴丸」。
病弱だった母の代わりに育ててくれたたけへの思い。
少年の家来であり、家庭教師でもあった。
一番心休まる場所だったのだろう。
少年の心を思うと、たけそのものが「母」のぬくもりだったのだろう。
そのたけの映像がある。
「小泊の歴史を語る会」会長の柳沢さんが、撮ってくれてあったのだ。
14歳の時から修治の子守を務めた女中近村たけさん。
写真ではない、映像として残っている。
(私はこの録画を永久保存したいと思っている。)
こんな映像を発掘されたNHKの実力に頭がさがります。
と、いう思いを、「太宰治とタケの映像から。(2)」に続けます。
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