福岡県の明治日本の産業革命遺産として、
三井鉱山の「三池炭鉱」関連施設「万田坑跡」
そのほかが 世界文化遺産として登録されています。
同じ炭坑では長崎県の 端島炭鉱 元三菱鉱業が所有する
通称「軍艦島」も世界文化遺産です。
ほかにも筑豊炭田では「伊藤伝衛門」や「白蓮」
そして炭坑労働の写生で有名な「山本作兵衛」などが有名です。
佐渡島(さど)の金山もしかり
共通して言えるのは、世界文化遺産としての関連施設や資料の保存とともに、
今回は「三池炭鉱」について私の見聞も織り交ぜながら記載したいと思います。
福岡県の西南端に位置する大牟田市と、隣接する熊本県荒尾市を含む、
広大な地域で石炭が発見されたのが明治の頃と言われている。
遠浅で有名な有明海の波打ち際に、
海底から剥がれた真っ黒な石炭が打ち寄せられ、
ゴロゴロ転がっている状態のところで、
漁を終えた漁師仲間達が焚火しながら
「オ〜この黒い石が燃えとるバイ」とかなんとか言って
石炭を発見したのが始めかもしれません。(私の推測)
その報告を受けた明治政府が掘削を始めたのがきっかけで、
石炭の鉱脈は陸地だけではなく有明海の海底にまで広がっていました。
その後、三井財閥が明治政府から譲り受け石炭部門として設立した三井鉱山は、
長い間日本の工業生産を支え続け、エネルギー(石炭)産業として発展していきます。
この大牟田市と荒尾市は、
♬〜月が出た出た 月が出た 三池炭坑の上に出た〜♬ と唄われる、
民謡(炭坑節)でも有名な炭鉱の街として栄えたところです。
山口県宇部市でも
明治時代から昭和にかけて、海底炭田群を宇部興産が買収合併し、
石炭とセメントで 宇部の化学コンビナート へと発展してゆく。
炭鉱で富を得た複数の炭鉱主たちが、
宇部市の繁華街で昼夜を問わず大賑わいを見せていたと言う、
料亭では靴ベラ代わりに札束を使ったと、
昔風の食堂のお婆さんが話してくれました。
炭鉱の労働は過酷なもので、塩をかじりながら大量の汗を流し、
岩盤(最高温度だと50℃にも達する) を掘削する、
身体中が粉塵と汗で黒まみれになるという 。
新聞沙汰にならない落盤(山はね)は日常茶飯事で、
掘削現場では、一寸先は何が起こるか知れたものではない、
作業場で光るのはヘッドライトと大きくみひらいた瞳だけ。
勤務が終わると、
その日の疲れを癒しに大牟田・荒尾の繁華街は、
くりだした労働者達で溢れかえっていた。
男たちの顔は笑っていた。
やがてエネルギー資源が石炭から石油へと変わり始めると、
企業は生産調整名目の合理化に着手しながら、
炭坑労働者の人員整理(首切り)へとシフトし、
ついに資本家対労働者の対決 「三池闘争」 へと進んでいく、
労働組合の分断、警察機動隊、地元暴力団を使ったデモ鎮圧。
その時の様子をかすかに覚えている、
炭住街(炭坑労働者の社宅)では第一組合と第二組合の反目、
まさに貧しい者同士が敵対してしまうような状況に置かれ、
第一組合側のスピーカーからは荒木栄作曲の「がんばろう」の歌が
一日中流れていた。
TVの臨時ニュースが「三川抗が爆発」と報道している、
窓の外をもう一度見た、
遠くに黒煙が立ち上っている。
母が夕方帰ってきた、「今日三川抗が爆発したゲナヨ」と、母に告げた。
忘れていた! 姉の婿が三川抗の炭坑マンだった・・・
母が言う「出産休暇は昨日までバイ」
「あんたすぐ荒尾まで聞きに行ってくれんね」
「ねぇちゃんには内緒バイ」
4kmほどの道を自転車で走った、姉は出産入院中で荒尾の家は誰もいなかった、
仕方なく三川抗(海底炭鉱 )入り口へ行ってみた。
家族や友人の安否を気遣う人でごった返していた。
「あがったぞー」 大きい声と一緒に担架が救急車に運ばれていく、
隣にいたおばさんは周りの人を捕まえては、
独り言を大きな声で叫んでいた「うちの人は大丈夫ダケン」
この異様な雑踏から逃げるように家に帰った。
死傷者458名、一酸化炭素中毒839名、
私の高校の生徒の親や、高校夜間部生徒もこの事故で亡くなった。
私の義理の兄は出産休暇を延長していて助かった。
(事故当日は救助活動で現場に駆け付けたとの事でした)
(1963年)炭塵爆発を起こした。
「三池争議」のあと、
三井鉱山がコスト削減の人員整理(首切り)を最優先にした、
原因のひとつに、
首切り合理化(効率化)が安全管理をおろそかにした為だとも言われている。
炭坑災害では他にも
山口県宇部市の炭坑では(1942年)海水流入事故で183人が死亡する
という事故も起きている。
ここでは犠牲者が今も引き上げられないまま坑道ごと放棄されたと記され、
犠牲者の約7割が(徴用)朝鮮半島出身者だったとも言われている。
最近になって地元有志での遺骨収集が始まったが
国はまだ動こうとしていない
この様に、
日本の近代化産業革命遺産が世界文化遺産として登録される時、
時代を支えながらも、安全無視の過酷な労働の中で命を奪われた人たちの事を、
忘れてはいけないと思う。
1997年三井鉱山(三川抗)閉山
にぎわっていた繁華街もさびれ、
若者は県外に出て行き、残っているのは老人と子供、
人口も最盛期20万から13万ほどに減り、今も減り続けている。
老人は、くわえ煙草でこう言う「昔はよかった」
どれくらい昔のことを「良かった」と言っているのか私にはわからない。
私の母校は昔、集治監所(三池刑務所)だった。
校庭には地下へ通じる防空壕みたいなものがあった、
入ってみたが途中からコンクリートの壁で塞がれていた、
その先には「囚人労働」が行われていた宮原坑が有る、
おそらく囚人を採炭労働に連れ出す地下道だったかもしれない。
私にとって炭坑と言う言葉を聞く時、
どうしても過酷な労働と結びついてしまうのは、
三川抗の炭塵爆発の時の異様な現場に居合わせた為だろうか。
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