東日本大震災で被害の大きかった宮城県石巻市。震災後、子どもたちが取材し地域のニュースを届ける「石巻日日こども新聞」が発行されている。私は8月、石巻市を訪ねて「こども記者」と一緒に過ごした。活動を紹介する連載の2回目は、創設した女性の物語。
石巻日日こども新聞 震災から1年後の2012年3月創刊。「石巻日日新聞」の協力で制作。年4回の発行で部数は3万部。一口3千円からのサポーターに支えられている。
キャリア積み、東北へ戻る
「石巻日日こども新聞」を始めたのは、石巻出身の太田倫子さん(48)。高校まで、地元で過ごした。東京外語大に進み、アラビア語を学んだ。いろいろな経験をしたいと小さな商社に入社。それからフランスに行って語学の勉強をした。ブリュッセルにある、日本の銀行の支店で働いた。
1998年に帰国し、森ビルに就職。社長の秘書や森美術館の運営に関わった。東京でバリバリと働くうち、仕事のペースに疲れ、両親がいる東北に帰りたいと思うように。2008年、山形の農家のPRの仕事についた。その後、仙台で温泉施設の経営する会社に転職。マーケティングチームで地元をPRする仕事だった。
2011年、震災が起こり、チームは解散となって、自宅待機の日々。何かしたいと仙台や石巻の小学校でボランティア活動に加わった。学校は休みで、避難所になっていた。子どもたちのアクティビティが少ないと感じた。
家庭・学校以外に感情表す場を
子どもたちに接して衝撃を受けたのは、受けた被害の大きさによって、リアクションが違うことだった。
友人がインド人のマジシャンを呼び、太田さんもコーディネートを引き受け、一緒に学校を回った。津波の被害が大きかった地域の子どもたちは、笑顔がなく、しーんとしていた。家庭や学校で、笑ってはいけないと気を使っているようだった。
「気持ちや感情を表現する場がいると思いました。心の中に閉じ込めておくとトラウマになる。家庭や学校は大変な状況だったので、それ以外の居場所が必要でした」
内閣府の助成制度に、「子どもの表現活動の場作り」を提案して採用された。助成を得て、団体を作る必要があり、2011年末に仙台市で社団法人「キッズ・メディア・ステーション」を設立。
太田さんは「新聞を作ろう」と決めた。記事を見せて、情報発信をする。そして読者のリアクションがあれば子どもたちのモチベーションが上がるだろうという直感があった。
国内外の友人にも、「何かしてあげたい」「どうしてる?」と言われていた。新聞を作って、知りたい人に届ける。「こういう状況で困っている人がいる」という話を載せれば、間接的に助けられると思った。
地元紙に飛び込み、二人三脚
「新聞にするなら、きちんとした形にしたい。けれど、メディアの仕事をしていたわけではないので、どうすればいいかわかりませんでした」
地元の夕刊紙「石巻日日新聞」が震災後、印刷ができない状況になり、記者が手書きで壁新聞を作り、避難所に貼りだして情報を届けていた。
「小さいころから、なじみのある新聞でした。こども新聞の企画書を持って、当時の報道部長を訪問したんです。作り方がわからないので協力していただけないかと言ったら、すぐにやりましょうと」。以来、日日新聞と二人三脚でこども新聞を発行してきた。
毎週土曜日、石巻市内でワークショップを開く。そこに希望者が参加、取材や執筆、校正や発送作業をして、年に4回、発行する。
2012年3月、創刊号のテーマは「ありがとう」。2号は「写真で伝えよう」。3号は「未来を考えよう」。初めはテーマを決めた。題字のデザインや、キャラクター「しんちゃん」の絵は、こども記者が描いた。
駆け出しのころは、日日新聞の記者が取材や執筆について教えに来てくれた。レイアウトもプロの編集者が手がける。通常の新聞と同じ仕様で、4面ある。印刷は実費で協力してもらう。折り込み料金は無料。昨年から月に1回、日日新聞にこども新聞のコーナーができて、記事が掲載されている。
「社員さんも初めは何だろうと思ったでしょう。今は楽しみにしてくださっています」。読者からは、「フリガナが読みやすい」「孫を見守っているようで楽しみ」「おもしろい」と声が寄せられる。高齢者の取材でこども記者が訪ねると喜ばれ、「あの人のところにも行ったら」と勧められることも。
太田さんのほかに、ボランティア含め大人のスタッフが数人いて、試行錯誤しながら続けている。企業や個人の助成・寄付も受けたが、基本は一口3千円からのサポーターに支えられている。
こども記者に力もらい背中押す
太田さんは「それまでの人生で、私は何がしたいのかわかりませんでした」という。様々なキャリアを積んでも、したいことではないと思って長続きしなかったという。「今は何をどうすればいいかわかる。違和感がないんです」
こども新聞の創刊号を出したとき、先のことは考えていなかった。お金はどうしよう。どうやって子どもと一緒にやればいいか、ノウハウもない。「2号目が出なくてもなんとも思われないよねと開き直っていました」
その都度、どうしようと思った。けれど5号目が完成したころ、これは役割として与えられたもの、心配しなくても続くという漠然とした自信が出てきた。それから「継続しなければ」という使命感が生まれた。
太田さんも、子どもたちと一緒に楽しんでいる。自身は子育ての経験はないが、親でも先生でもない立場だからこそ、子どもたちの良さがわかるし、支えられると思っている。
震災後、大きな病気をした。「気持ちを立て直すのに大変な時もあり、この活動が生きる意味になりました。子どもたちから、生命力や前向きな力をもらっています。初めは子どもたちのトラウマにならないようにと上からの動機だった。今は同じ目線で、背中を押し続けている感じです」
なかのかおり | ジャーナリスト(福祉・医療・労働) 10/10
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