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2019年07月03日

日向神話の本舞台11

伊勢は日向の「伊勢」?


天孫降臨に際し、ニニギノミコトの一行を先導したのがサルタヒコノカミ(猿田彦神)です。


サルタヒコノカミは役目を果たした後、アメノウズメノミコト(天鈿女命)を伴い、「伊勢之狭長田五十鈴川上」(日本書紀)に向かったとされています。通説では、その場所が三重県伊勢市とされています。


ご存じのように、伊勢市にはアマテラスオオミカミ(天照大神)をお祀りする伊勢神宮があります。その近くには五十鈴川が流れています。


しかし、降臨した高千穂が西臼杵郡の高千穂であり、笠沙の岬や御陵墓が延岡にあるとした場合、ここでいきなり三重県の伊勢に話が飛ぶのはおかしいと思いませんか。霧島山高千穂など一連の鹿児島県側の聖蹟説の場合、なおさらの感があります。


神武天皇の東征でも10年以上かけて紀伊国(三重県・和歌山県南部)にたどり着いている状況から考えても、「遠すぎる」という実感があります。

五十鈴川.jpg



三重県や和歌山県には現在、伊勢、五十鈴川、日向、熊野など宮崎県内の地名と類似した地名が散見されます。神武天皇が東征した後に、かつて暮らしていた懐かしい場所の地名を移したと考えられます。


イギリス人がアメリカに渡った際も、ニューヨーク、ニューハンプシャーなど、イギリスの地名にニュー≠付けた地名が多くあることと同じ心理だと思います。


宮崎、三重.jpg



では、「伊勢之狭長田五十鈴川上」はいったいどこでしょうか。


三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは、著書「日向国の神々の聖蹟巡礼」の中で、五十鈴川(門川町)から伊勢ヶ浜(日向市)にいたる沿岸部が「伊勢の狭長田(あまり広くない湿地帯)であったのです」としています。


その根拠として、門川町の五十鈴川なら吾田邑(延岡)から徒歩でたどり着ける距離にあること。「五十鈴川の川上」の「上(かみ)」は、上代では進行方向を「上」としたこと。あるいは古代華夏(中国)の様式に従って「南」を「上」としたことを挙げています。五十鈴川の南には伊勢ヶ浜があります。


日向市細島(鉾島が転化したとの説あり)の鉾島神社がある一帯の字(あざ)は、昔から「伊勢」だそうです。地元の友人から、伊勢ヶ浜の名称もその「伊勢」に由来しているという話を聞きました。


宮崎さんは「現在では伊勢ヶ浜は細島と地続きになっているが、古地図では、細島は伊勢の海に浮かぶ島であった。つまり、猿田彦神は猿女(さるめ)となった天鈿女命をともなって、伊勢ヶ浜に到ったということになるのです。したがって、猿田彦とは『狭長田の男』がなまった名前とも言えるでしょう」としています。


サルタヒコノカミは伊勢の海の阿邪訶(あざか)浜で漁をする最中に、深い海底にいる比良夫貝(ひらぶがい)を取ろうとして、貝に手を挟まれて溺れ死にます。宮崎さんは、この比良夫貝は細島沿岸に生息するハボウギガイとしています。


ハボウギガイは殻幅が30〜40センチあり、貝殻の3分の2ほどを砂泥に埋めており、手を挟まれると貝ごと引き抜くのは容易ではないそうです。


とても興味深い話だと思いませんか。

2019年07月02日

日向神話の本舞台10

ニニギノミコトと西郷隆盛の「時空を超えた出会い」


昨年のNHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、終盤の第46話と第47話(最終回)に延岡が登場し、大きな話題となりました。

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その舞台となったのが、北川町俵野にある「西郷隆盛宿陣跡資料館」(県史跡・西郷南洲翁寓居跡)です。


明治10年(1877)8月15日、国内最後の内戦となった「西南の役」で西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍は、延岡市の和田越で最後の激戦を繰り広げましたが、薩摩軍は善戦むなしく敗れました。


敗れた西郷が宿陣したのが旧児玉熊四郎邸、現在の宿陣跡資料館でした。西郷は8月15日から17日夜まで宿陣し、その間に薩摩軍に解散布告令を出し、当時日本にたった一着しかなかった陸軍大将の軍服を焼きました。そして17日夜、夜陰にまぎれて可愛岳の包囲網を突破し故郷の鹿児島を目指したのです。


資料館の館内では、薩摩軍に解散布告を出した最後の軍議の様子が等身大の人形で再現されているほか、当時の資料を参考に復元した陸軍大将の軍服、西南戦争の関連資料などを展示しています。

 
資料館の存在は「西郷どん」放映前から県内外に広く知られるようになり、来館者が急増。2019年1年間で前年の10倍以上に当たる3万1384人が来館しました。


さて、児玉邸をはじめ俵野一帯の民家に宿陣した西郷らに対し、政府軍は3日2晩、攻撃を仕掛けませんでした。


和田越えの決戦では、薩摩軍3000人に対し、政府軍は約5万人と圧倒的な兵力で対抗しました。和田越えの決戦後は、政府軍が薩摩軍を遠巻きに取り囲み、道という道をふさがれ、西郷らは袋のネズミ同然でした。


戦況は既に決していました。それなのになぜ、政府軍は3日も攻撃を仕掛けなかったのでしょうか。政府軍の兵力をもってすれば、戦争を一気に集結させることができたハズです。


政府軍の陣頭指揮に立っていたのは陸軍中将・山県有朋でした。維新政府では、西郷と協力し軍制改革に当たっていた人です。西郷に対する最後の温情だったのでしょうか?


実は、児玉邸のすぐ裏手には、ニニギノミコトの御陵墓参考地があります。幕末の禁門の変(蛤御門の変)で、京都御所に発砲した長州藩は朝敵とみなされ、第一次長州征討のきっかけとなりました。その際、蛤御門を守った薩摩藩側にいたのが西郷でした。長州藩出身の山県もそのことを十分知っていたと思われます。


杉本隆晴さんは、延岡市副市長時代からこの空白の3日間について、「西郷が袋小路ともいえるこの地に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからであり、政府軍は攻撃ができなかったのではないか」と推察されていました。
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その後、西南戦争で西郷隆盛の食事番(飯炊き)として従軍した深江権太郎(深江熊助の少年時代の名前)が息子に語ったものをまとめた「南州翁の足軽籠かつぎ飯炊き西南ノ役従軍深江権太郎記」の中で、「可愛山陵の神様が薩軍を御救い下ださった所が多々有りました事は過言では無いと思います」との記述があることが分かりました。


ほかにも、側近が高千穂に天の岩戸があり、天照大神の誕生地で村人の尊敬の的であることを調べていたとの記述もありました。事実、西郷軍(薩摩軍解散後は西郷軍となった)は可愛岳突破した後、高千穂を経由して九州山脈を縦断する形で鹿児島を目指しています。


また、西郷隆盛のひ孫の西郷隆夫さんも、延岡を訪れた際に「諸説ありますが、天孫ニニギノミコトの御陵に向けて大砲を撃ち込むことはできなかったから、という話を父よりずっと聞かされてきました」と語っておられます。


明治政府が鹿児島県薩摩川内市の新田神社をニニギノミコトの御陵墓に比定した明治7年(1874)、西郷はすでに下野して鹿児島に帰っており、明治政府の比定を知らなかった可能性があります。


すなわち、明治政府が新田神社を比定する以前は、俵野の経塚古墳こそが御陵墓であるとの共通認識が、西郷らにはあったのではないでしょうか。


これらにより、西郷資料館と御陵墓周辺は今、ニニギノミコトと西郷隆盛が「時空を超えて出会った」聖地となっているのです。

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2019年06月28日

日向神話の本舞台8

今回は延岡市内の町名と、前々回書き切れなかった一部の川の名称について紹介します。


「安賀多(あがた)」は、延岡が縣(吾田、英田)だった名残です。安賀多町のほか、古川町には「安賀多神社」があります。


愛宕山の南側に当たる「片田(かただ)」は、愛宕山の旧名「笠沙(かささ)山」が転じたものとされています。「小野(この)」は、笠沙の姫・コノハナサクヤヒメにちなむ地名と思われます(私見です)。


「三輪(みわ)」は、スサノオノミコト(須佐之男命)の6世孫に当たるオオクニヌシノカミ(大国主神、オオナムチノミコト)にちなむ名称で、奈良県の三輪山大明神につながります。その隣にある「三須(みす)」は「御簾」(みす、神殿や貴人の御殿に用いる簾=すだれ=)に通じ、三輪(御輪)の神様の前に座するとの意味があります。


「三輪」に関しては、三輪神社(延岡市下三輪町)の由緒に「大己貴命(オオナムチノミコト=大国主神)、豊葦原を巡狩して国家を経営される時、この地に来られ住まわれた。その処を青谷城(あおやぎ)山と言う。此処(ここ)に後人が命の幸魂奇魂を祀って青谷城神社と尊称し、後に三輪大明神と号した」とあり、大和(奈良県)の明神は青谷城神社の分神であるとされています。青谷城神社は村里から遠く離れていることから、三輪大明神として村里に遷宮され、現在の三輪神社となったと伝えられています。


 「天下(あもり)」は、高天原の下の意味で、地上世界を指します。延岡市の天下は、ニニギノミコトの一行が当時の吾田(縣=延岡)に到着した場所、もしくは上陸地点だったと考えられます。

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三重大学名誉教授の宮崎照雄氏は著書「日向国の神々の聖蹟巡礼」の中で、「記紀」に出てくる「高千穂の宮」について、その地勢などから「高千穂の霊峰から五ヶ瀬川に沿って下り、到り着いた『天下』に建てられたことで、『高千穂の宮』と称されたのです」としています。


「天下」の隣には「吉野(よしの)」があります。奈良県の「吉野」地方は、狩りに適した良い野という意味で、古来は離宮が於かれ、天皇の遊興の地だったそうです。延岡の吉野の名称が、奈良に移されたと推測されます。吉野町にある水谷神社はイツセノミコトの新居が建てられた場所とされています。


また、延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから、「水谷神社の由緒には『またこの吉野をはじめ、近隣の三輪・高野(たかの)などの地名は大和の国へ移られた神武天皇ご一行が、故郷を偲んでかの地に付けられた地名じゃ、と古老は自慢したものである 』 とあります」と教えてもらいました。



「中の瀬」と「祓川」

延岡市には「中の瀬町」があり、そこを流れる川が「祓川(はらいがわ)」です。


黄泉国(よみのくに)から帰ったイザナキノカミは、身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓(みそぎはらい)を行いますが、その時、上の瀬は流れが速く、下の瀬は流れが弱いと言って「中の瀬」でそれを行いました。


大正14年(1925)刊の「延岡大観」(山口徳之助著)には、郷土の国学者・樋口種実(1793〜1864)が、イザナキノカミの禊祓(みそぎはらい)の地として、延岡市の「中の瀬」しか考えられないと述べていることが書かれています。禊祓をした川が祓川です。


ニギハヤヒノミコトと速日の峰




ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命、饒速日命)はニニギノミコトより先に降臨した天つ神です。神武天皇が東征した際、天津瑞(あまつしるし=天つ神の子孫であることの印)を献上して、神武天皇に仕えました。



「日本惣国風土記」(天明年間編)には、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫のニニギノミコトの兄であるニギハヤヒノミコトが「速日(はやひ)の峰」(延岡市北方町)に降臨したことから、「速日」になったと記されているそうです。


ニニギノミコトが諸々の神々を率いて天降ったところが速日の峰であるとする文献もあり、それぞれの降臨の地として信じられてきました。


ヤマトタケルノミコトと行縢山


ヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)は12代・景行天皇の皇子です。景行天皇の命を受けて、日本国内を平定するため東奔西走しました。


「行縢(むかばき)神社由来記」(宮崎県史別編 神話・伝承資料)には、ヤマトタケルノミコトが熊襲(くまそ)を退治するためこの地を訪れ、行縢山の麓の野添で祭殿を営み、御祭神の前で祈りを捧げる際に「布引(ぬのびき)の矢筈(やはず)の滝を射てみれば 川上梟師(かわかみたける)落ちて流るる」と詠んだと記されています。


「矢筈の滝」は行縢の滝の別名。川上梟師は熊襲の将。川上梟師を討ち取ったヤマトタケルノミコトは、舞野村で戦勝の舞を舞い、竹宮にしばらく住まわれました。その場所が現在の「下舞野神社」で、昔、竹宮神社といわれていました。
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「稲羽の素兔」の舞台は稲葉崎?


古事記の出雲神話で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が因幡国(鳥取県)で、毛をむしられて皮膚が真っ赤になった1匹の兔を助けた話、「稲羽(いなば)の素兔(しろうさぎ)」の話をご存じでしょうか。


隠岐の島(沖の島)から渡ろうとして海に住む和邇(わに)を欺いたために毛をむしり取られた兔の話です。


実は延岡市の稲葉崎(いなばざき)町には「船着」と呼ばれる、周辺の水田より少し高くなった場所があるそうです。日豊本線の西側、現在は住宅地になっている付近で、その沖合は昔、海でした。その沖にある「二ツ島町」が古事記に出てくる「沖の島」であり、現在の稲葉崎こそが「稲羽の素兔」の舞台だったというのです。


祝子町で祝子農園を営む松田宗史さんが、熊本から来た考古学者がそう説明してくれたと言っていました。


延岡の地名は調べれば調べるほど「実に面白い!」。



2019年06月24日

日向神話の本舞台4

 私は延岡市大貫町、それも大瀬川畔の集落に生まれ、育ちました。


 実家に隣接した堤防に上がれば、眼下に大瀬川、その先に愛宕山を望むことができます。今も変わることのない原風景がそこにあります。


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 しかし、その大瀬川がかつて「逢瀬川」と呼ばれ、愛宕山は「笠沙山」と呼ばれていたと知ったのは10数年ほど前のことです。そして今は、その「笠沙山」の存在が、日向神話を語る上でいかに重要かを痛感しています。


 ご存じのように、笠沙の岬は高千穂に天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が伴侶となるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる子供たちを妊娠するエポックメーキングな場所です。


 それが延岡の愛宕山である可能性が、にわかに高まってきたのです。いやいや、この表現はおかしいですね。ここ何百年かで忘れ去られようとしていたパンドラの箱≠フ蓋が開けられたと言った方がいいかもしれません。


 ここ数年、何度も延岡を訪れている明治天皇の玄孫・竹田恒泰さんは、全国放送のラジオで以下のように話しています(2019年5月1日付夕刊デイリー新聞6面参照)。


 「ニニギノミコトは高千穂に降臨した後、笠沙の岬で麗しき乙女(コノハナサクヤヒメ)と出逢う。その場所が延岡。日本の文学史上初めての恋愛が始まった場所が笠沙の岬であり、神様が初めて恋愛をして自分の意思で結ばれたのが笠沙の岬」


 「縁結びは出雲大社が有名だが、笠沙の岬の方がいいんじゃないかと思う。延岡の人はこのことをもっとPRしてほしい」


 どうですか。旧皇族の竹田さんが延岡人の背中を押してくれようとしているのです。応えない訳にはいきませんよね。


 実は竹田さんは、前々回のブログでも紹介した著書「現代語古事記」の中で、「笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)」と明記しておられます。


 その竹田さんが、延岡を何度か訪れる中でその位置、景観、伝承などから延岡の愛宕山が笠沙の岬である可能性が高いと思うようになり、全国放送で発信してくれたことは特筆物です。


笠沙の岬はどこか

 「笠沙の岬はどこか」−−。杉本さんの講演に話を戻します。


 笠沙の岬は古事記では「笠沙之御前」、日本書紀では「吾田長津笠狭之碕」、「吾田長屋笠狭之御碕」、「吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。」とされています。


 “御前”も“御碕”も岬の古語です。日本書紀では詳細に、吾田という場所の長い屋根のような地形の先端に笠狭之御碕があったとしています。当時の海抜は今より高く、延岡平野の大部分が海だったと推測され、市街地に突き出た愛宕山のような山は、海に突き出した岬だったのではないでしょうか。


 吾田は「あた」または「あがた」と読み、延岡の古名「縣」(吾田、阿多、英田、安賀多)に通じます。コノハナサクヤヒメは古事記では神阿多都比売、日本書紀では神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、豊吾田津媛といった別名が記されており、三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは「吾田(あた、あだ、あがた、現在の延岡市)で生まれ育った姫であるとするのが、最も記紀神話にかなっている」としています。


 残念ながら、古事記も日本書紀も天孫降臨したニニギノミコトがどういう経路で笠沙の岬に至ったのか明記していません。


 ただ、古事記では降臨したニニギノミコトが宮を建てて住む際に、「此地者(ここは)、韓国(からくに=空国)に向ひ、笠沙之御前(かささのみさき)に真来(まぎ)通り而(て)、朝日之直刺す国、夕日之照る国なり。故(かれ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地」と語ったと記されています。


 この中に出てくる「韓国」が、高千穂霧島山説などでは朝鮮半島と解されていますが、日本書紀では「空国」という表現がされており、「住む人が少ない土地」を指していると思われます。


 しかも「朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」とあります。愛宕山に登ったことのある人、いや宮崎県人なら良くおわかりでしょう。太平洋から登る朝日の素晴らしさ、山肌に沈む夕陽の美しさが描かれているのです。


 鹿児島県笠沙町の野間岬は、東シナ海側にあり、海に沈む夕陽は素晴らしいですが、海から登る太陽は拝めません。


 余談ですが、私が通った延岡小学校の校歌に「朝日たださす あがたなる」とあります。古事記の記述にピッタリだと思いませんか。


 最後に、愛宕山が「笠沙山」と呼ばれていた根拠をいくつか紹介します。


 一つは、愛宕山にある愛宕神社の由来書です。それによると、高橋元種が慶長8年(1603)、城山に城を築く際に現地にあった愛宕神社を笠沙の岬に移したことから、笠沙の岬を愛宕山と称するようになったとされています。


 江戸時代の延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる)がまとめた「日向国名所歌集」には、高橋氏の後に延岡藩主となった有馬氏2代目・康純(在位1641〜1679)が詠んだ歌が紹介されています。


 「時鳥(ほととぎす)晴れぬおもひを五月雨の雲の笠沙の山に鳴くらむ」


 愛宕山は江戸時代まで「笠沙山(笠沙の岬)」だったのです。
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