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2019年06月27日

日向神話の本舞台7



延岡の地名、名称に関する話の続きを書こうと思いましたが、Facebookの方に延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから「笠沙の岬」に関するコメントをいただきましたので、ご紹介します。


−−「愛宕山は江戸時代のはじめまで『笠沙の岬』と呼ばれていたと言いますが、一般的にはほとんど知られていなかったようですね。戦後初めて高千穂論争に手をつけた安本美典でさえ『瓊瓊杵の尊は、笠沙の地に至ったことになっているが延岡方面には、笠沙に当たる地を求めにくいようである』と『邪馬台国はその後どうなったか』に書いています」


「延岡では誰が知っていたか。石川恒太郎さんが書いた『延岡市史』には、先述した文献上の根拠と『片田』という地名が『笠沙』の転化したものと言われる、ということが書いてあります。確か鳥居龍蔵の『上代の日向延岡』(昭和10年=1935)の添付文書にも同様の記述があったように記憶しますが、江戸時代から今日まで延岡の『笠沙の岬』と呼ばれたことが研究者の注意を喚起したことがあったのか? 明仁天皇が延岡を訪れた時、笠沙山はどこかとお聞きになったが、案内した延岡の人は誰も答えられなかった、などという話がありますが本当ですかね」−−

愛宕山夜景.jpg



この話が本当だとしたら由々しきことですね。天皇家には代々、「笠沙の岬」は延岡にあるということが言い伝えられていたのかもしれませんね。それを当の延岡市民が知らなかったとは、非常に恥ずべきことだと思いませんか。


平成10年(1998)に刊行された「宮崎県史・通史編古代2」でも、「日向神話の舞台が、襲高千穂峰・笠沙(現在の鹿児島県川辺郡笠沙町付近か)などであり」と書かれています。延岡市にも宮崎県にも、愛宕山=笠沙の岬≠ニいう認識は一切なかったことの表れでしょう。 日本最初のロマンスの地 ≠ヘ、いつの間にか歴史の闇に葬られてしまっていたようです。


延岡市が「愛宕山」が「笠沙の岬」だったことに着目し、出逢いの聖地≠ニして整備し、情報発信するようになったのは10数年前から。神話研究会会長で「笠沙の会」会長の有留秀雄さんたちの熱心な運動が実ってきた形ですが、有留さんは鹿児島県種子島出身。外からの目で、延岡に埋もれていた財産を発掘してくださったことに唯々感謝しかありません。


杉本隆晴さんによると、鹿児島県史が「笠沙の岬」としている野間岬がある鹿児島県南さつま市笠沙町は、大正11年(1922)に西加世田村から笠沙村に改称、昭和15年(1940)に町制を施行し笠沙町に改称しています。


 笠沙町に昔から笠沙≠ニいう古名があったかどうかは知りませんが、これは鹿児島県内に「可愛山陵」などを次々に比定していった明治政府の流れを受けての改称だと考えるのが妥当だと思います。
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