2019年06月24日
日向神話の本舞台4
私は延岡市大貫町、それも大瀬川畔の集落に生まれ、育ちました。
実家に隣接した堤防に上がれば、眼下に大瀬川、その先に愛宕山を望むことができます。今も変わることのない原風景がそこにあります。
しかし、その大瀬川がかつて「逢瀬川」と呼ばれ、愛宕山は「笠沙山」と呼ばれていたと知ったのは10数年ほど前のことです。そして今は、その「笠沙山」の存在が、日向神話を語る上でいかに重要かを痛感しています。
ご存じのように、笠沙の岬は高千穂に天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が伴侶となるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる子供たちを妊娠するエポックメーキングな場所です。
それが延岡の愛宕山である可能性が、にわかに高まってきたのです。いやいや、この表現はおかしいですね。ここ何百年かで忘れ去られようとしていたパンドラの箱≠フ蓋が開けられたと言った方がいいかもしれません。
ここ数年、何度も延岡を訪れている明治天皇の玄孫・竹田恒泰さんは、全国放送のラジオで以下のように話しています(2019年5月1日付夕刊デイリー新聞6面参照)。
「ニニギノミコトは高千穂に降臨した後、笠沙の岬で麗しき乙女(コノハナサクヤヒメ)と出逢う。その場所が延岡。日本の文学史上初めての恋愛が始まった場所が笠沙の岬であり、神様が初めて恋愛をして自分の意思で結ばれたのが笠沙の岬」
「縁結びは出雲大社が有名だが、笠沙の岬の方がいいんじゃないかと思う。延岡の人はこのことをもっとPRしてほしい」
どうですか。旧皇族の竹田さんが延岡人の背中を押してくれようとしているのです。応えない訳にはいきませんよね。
実は竹田さんは、前々回のブログでも紹介した著書「現代語古事記」の中で、「笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)」と明記しておられます。
その竹田さんが、延岡を何度か訪れる中でその位置、景観、伝承などから延岡の愛宕山が笠沙の岬である可能性が高いと思うようになり、全国放送で発信してくれたことは特筆物です。
笠沙の岬はどこか
「笠沙の岬はどこか」−−。杉本さんの講演に話を戻します。
笠沙の岬は古事記では「笠沙之御前」、日本書紀では「吾田長津笠狭之碕」、「吾田長屋笠狭之御碕」、「吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。」とされています。
“御前”も“御碕”も岬の古語です。日本書紀では詳細に、吾田という場所の長い屋根のような地形の先端に笠狭之御碕があったとしています。当時の海抜は今より高く、延岡平野の大部分が海だったと推測され、市街地に突き出た愛宕山のような山は、海に突き出した岬だったのではないでしょうか。
吾田は「あた」または「あがた」と読み、延岡の古名「縣」(吾田、阿多、英田、安賀多)に通じます。コノハナサクヤヒメは古事記では神阿多都比売、日本書紀では神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、豊吾田津媛といった別名が記されており、三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは「吾田(あた、あだ、あがた、現在の延岡市)で生まれ育った姫であるとするのが、最も記紀神話にかなっている」としています。
残念ながら、古事記も日本書紀も天孫降臨したニニギノミコトがどういう経路で笠沙の岬に至ったのか明記していません。
ただ、古事記では降臨したニニギノミコトが宮を建てて住む際に、「此地者(ここは)、韓国(からくに=空国)に向ひ、笠沙之御前(かささのみさき)に真来(まぎ)通り而(て)、朝日之直刺す国、夕日之照る国なり。故(かれ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地」と語ったと記されています。
この中に出てくる「韓国」が、高千穂霧島山説などでは朝鮮半島と解されていますが、日本書紀では「空国」という表現がされており、「住む人が少ない土地」を指していると思われます。
しかも「朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」とあります。愛宕山に登ったことのある人、いや宮崎県人なら良くおわかりでしょう。太平洋から登る朝日の素晴らしさ、山肌に沈む夕陽の美しさが描かれているのです。
鹿児島県笠沙町の野間岬は、東シナ海側にあり、海に沈む夕陽は素晴らしいですが、海から登る太陽は拝めません。
余談ですが、私が通った延岡小学校の校歌に「朝日たださす あがたなる」とあります。古事記の記述にピッタリだと思いませんか。
最後に、愛宕山が「笠沙山」と呼ばれていた根拠をいくつか紹介します。
一つは、愛宕山にある愛宕神社の由来書です。それによると、高橋元種が慶長8年(1603)、城山に城を築く際に現地にあった愛宕神社を笠沙の岬に移したことから、笠沙の岬を愛宕山と称するようになったとされています。
江戸時代の延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる)がまとめた「日向国名所歌集」には、高橋氏の後に延岡藩主となった有馬氏2代目・康純(在位1641〜1679)が詠んだ歌が紹介されています。
「時鳥(ほととぎす)晴れぬおもひを五月雨の雲の笠沙の山に鳴くらむ」
愛宕山は江戸時代まで「笠沙山(笠沙の岬)」だったのです。
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実家に隣接した堤防に上がれば、眼下に大瀬川、その先に愛宕山を望むことができます。今も変わることのない原風景がそこにあります。
しかし、その大瀬川がかつて「逢瀬川」と呼ばれ、愛宕山は「笠沙山」と呼ばれていたと知ったのは10数年ほど前のことです。そして今は、その「笠沙山」の存在が、日向神話を語る上でいかに重要かを痛感しています。
ご存じのように、笠沙の岬は高千穂に天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が伴侶となるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる子供たちを妊娠するエポックメーキングな場所です。
それが延岡の愛宕山である可能性が、にわかに高まってきたのです。いやいや、この表現はおかしいですね。ここ何百年かで忘れ去られようとしていたパンドラの箱≠フ蓋が開けられたと言った方がいいかもしれません。
ここ数年、何度も延岡を訪れている明治天皇の玄孫・竹田恒泰さんは、全国放送のラジオで以下のように話しています(2019年5月1日付夕刊デイリー新聞6面参照)。
「ニニギノミコトは高千穂に降臨した後、笠沙の岬で麗しき乙女(コノハナサクヤヒメ)と出逢う。その場所が延岡。日本の文学史上初めての恋愛が始まった場所が笠沙の岬であり、神様が初めて恋愛をして自分の意思で結ばれたのが笠沙の岬」
「縁結びは出雲大社が有名だが、笠沙の岬の方がいいんじゃないかと思う。延岡の人はこのことをもっとPRしてほしい」
どうですか。旧皇族の竹田さんが延岡人の背中を押してくれようとしているのです。応えない訳にはいきませんよね。
実は竹田さんは、前々回のブログでも紹介した著書「現代語古事記」の中で、「笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)」と明記しておられます。
その竹田さんが、延岡を何度か訪れる中でその位置、景観、伝承などから延岡の愛宕山が笠沙の岬である可能性が高いと思うようになり、全国放送で発信してくれたことは特筆物です。
笠沙の岬はどこか
「笠沙の岬はどこか」−−。杉本さんの講演に話を戻します。
笠沙の岬は古事記では「笠沙之御前」、日本書紀では「吾田長津笠狭之碕」、「吾田長屋笠狭之御碕」、「吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。」とされています。
“御前”も“御碕”も岬の古語です。日本書紀では詳細に、吾田という場所の長い屋根のような地形の先端に笠狭之御碕があったとしています。当時の海抜は今より高く、延岡平野の大部分が海だったと推測され、市街地に突き出た愛宕山のような山は、海に突き出した岬だったのではないでしょうか。
吾田は「あた」または「あがた」と読み、延岡の古名「縣」(吾田、阿多、英田、安賀多)に通じます。コノハナサクヤヒメは古事記では神阿多都比売、日本書紀では神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、豊吾田津媛といった別名が記されており、三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは「吾田(あた、あだ、あがた、現在の延岡市)で生まれ育った姫であるとするのが、最も記紀神話にかなっている」としています。
残念ながら、古事記も日本書紀も天孫降臨したニニギノミコトがどういう経路で笠沙の岬に至ったのか明記していません。
ただ、古事記では降臨したニニギノミコトが宮を建てて住む際に、「此地者(ここは)、韓国(からくに=空国)に向ひ、笠沙之御前(かささのみさき)に真来(まぎ)通り而(て)、朝日之直刺す国、夕日之照る国なり。故(かれ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地」と語ったと記されています。
この中に出てくる「韓国」が、高千穂霧島山説などでは朝鮮半島と解されていますが、日本書紀では「空国」という表現がされており、「住む人が少ない土地」を指していると思われます。
しかも「朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」とあります。愛宕山に登ったことのある人、いや宮崎県人なら良くおわかりでしょう。太平洋から登る朝日の素晴らしさ、山肌に沈む夕陽の美しさが描かれているのです。
鹿児島県笠沙町の野間岬は、東シナ海側にあり、海に沈む夕陽は素晴らしいですが、海から登る太陽は拝めません。
余談ですが、私が通った延岡小学校の校歌に「朝日たださす あがたなる」とあります。古事記の記述にピッタリだと思いませんか。
最後に、愛宕山が「笠沙山」と呼ばれていた根拠をいくつか紹介します。
一つは、愛宕山にある愛宕神社の由来書です。それによると、高橋元種が慶長8年(1603)、城山に城を築く際に現地にあった愛宕神社を笠沙の岬に移したことから、笠沙の岬を愛宕山と称するようになったとされています。
江戸時代の延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる)がまとめた「日向国名所歌集」には、高橋氏の後に延岡藩主となった有馬氏2代目・康純(在位1641〜1679)が詠んだ歌が紹介されています。
「時鳥(ほととぎす)晴れぬおもひを五月雨の雲の笠沙の山に鳴くらむ」
愛宕山は江戸時代まで「笠沙山(笠沙の岬)」だったのです。
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