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2019年06月28日
日向神話の本舞台8
今回は延岡市内の町名と、前々回書き切れなかった一部の川の名称について紹介します。
「安賀多(あがた)」は、延岡が縣(吾田、英田)だった名残です。安賀多町のほか、古川町には「安賀多神社」があります。
愛宕山の南側に当たる「片田(かただ)」は、愛宕山の旧名「笠沙(かささ)山」が転じたものとされています。「小野(この)」は、笠沙の姫・コノハナサクヤヒメにちなむ地名と思われます(私見です)。
「三輪(みわ)」は、スサノオノミコト(須佐之男命)の6世孫に当たるオオクニヌシノカミ(大国主神、オオナムチノミコト)にちなむ名称で、奈良県の三輪山大明神につながります。その隣にある「三須(みす)」は「御簾」(みす、神殿や貴人の御殿に用いる簾=すだれ=)に通じ、三輪(御輪)の神様の前に座するとの意味があります。
「三輪」に関しては、三輪神社(延岡市下三輪町)の由緒に「大己貴命(オオナムチノミコト=大国主神)、豊葦原を巡狩して国家を経営される時、この地に来られ住まわれた。その処を青谷城(あおやぎ)山と言う。此処(ここ)に後人が命の幸魂奇魂を祀って青谷城神社と尊称し、後に三輪大明神と号した」とあり、大和(奈良県)の明神は青谷城神社の分神であるとされています。青谷城神社は村里から遠く離れていることから、三輪大明神として村里に遷宮され、現在の三輪神社となったと伝えられています。
「天下(あもり)」は、高天原の下の意味で、地上世界を指します。延岡市の天下は、ニニギノミコトの一行が当時の吾田(縣=延岡)に到着した場所、もしくは上陸地点だったと考えられます。
三重大学名誉教授の宮崎照雄氏は著書「日向国の神々の聖蹟巡礼」の中で、「記紀」に出てくる「高千穂の宮」について、その地勢などから「高千穂の霊峰から五ヶ瀬川に沿って下り、到り着いた『天下』に建てられたことで、『高千穂の宮』と称されたのです」としています。
「天下」の隣には「吉野(よしの)」があります。奈良県の「吉野」地方は、狩りに適した良い野という意味で、古来は離宮が於かれ、天皇の遊興の地だったそうです。延岡の吉野の名称が、奈良に移されたと推測されます。吉野町にある水谷神社はイツセノミコトの新居が建てられた場所とされています。
また、延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから、「水谷神社の由緒には『またこの吉野をはじめ、近隣の三輪・高野(たかの)などの地名は大和の国へ移られた神武天皇ご一行が、故郷を偲んでかの地に付けられた地名じゃ、と古老は自慢したものである 』 とあります」と教えてもらいました。
「中の瀬」と「祓川」
延岡市には「中の瀬町」があり、そこを流れる川が「祓川(はらいがわ)」です。
黄泉国(よみのくに)から帰ったイザナキノカミは、身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓(みそぎはらい)を行いますが、その時、上の瀬は流れが速く、下の瀬は流れが弱いと言って「中の瀬」でそれを行いました。
大正14年(1925)刊の「延岡大観」(山口徳之助著)には、郷土の国学者・樋口種実(1793〜1864)が、イザナキノカミの禊祓(みそぎはらい)の地として、延岡市の「中の瀬」しか考えられないと述べていることが書かれています。禊祓をした川が祓川です。
ニギハヤヒノミコトと速日の峰
ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命、饒速日命)はニニギノミコトより先に降臨した天つ神です。神武天皇が東征した際、天津瑞(あまつしるし=天つ神の子孫であることの印)を献上して、神武天皇に仕えました。
「日本惣国風土記」(天明年間編)には、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫のニニギノミコトの兄であるニギハヤヒノミコトが「速日(はやひ)の峰」(延岡市北方町)に降臨したことから、「速日」になったと記されているそうです。
ニニギノミコトが諸々の神々を率いて天降ったところが速日の峰であるとする文献もあり、それぞれの降臨の地として信じられてきました。
ヤマトタケルノミコトと行縢山
ヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)は12代・景行天皇の皇子です。景行天皇の命を受けて、日本国内を平定するため東奔西走しました。
「行縢(むかばき)神社由来記」(宮崎県史別編 神話・伝承資料)には、ヤマトタケルノミコトが熊襲(くまそ)を退治するためこの地を訪れ、行縢山の麓の野添で祭殿を営み、御祭神の前で祈りを捧げる際に「布引(ぬのびき)の矢筈(やはず)の滝を射てみれば 川上梟師(かわかみたける)落ちて流るる」と詠んだと記されています。
「矢筈の滝」は行縢の滝の別名。川上梟師は熊襲の将。川上梟師を討ち取ったヤマトタケルノミコトは、舞野村で戦勝の舞を舞い、竹宮にしばらく住まわれました。その場所が現在の「下舞野神社」で、昔、竹宮神社といわれていました。
「稲羽の素兔」の舞台は稲葉崎?
古事記の出雲神話で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が因幡国(鳥取県)で、毛をむしられて皮膚が真っ赤になった1匹の兔を助けた話、「稲羽(いなば)の素兔(しろうさぎ)」の話をご存じでしょうか。
隠岐の島(沖の島)から渡ろうとして海に住む和邇(わに)を欺いたために毛をむしり取られた兔の話です。
実は延岡市の稲葉崎(いなばざき)町には「船着」と呼ばれる、周辺の水田より少し高くなった場所があるそうです。日豊本線の西側、現在は住宅地になっている付近で、その沖合は昔、海でした。その沖にある「二ツ島町」が古事記に出てくる「沖の島」であり、現在の稲葉崎こそが「稲羽の素兔」の舞台だったというのです。
祝子町で祝子農園を営む松田宗史さんが、熊本から来た考古学者がそう説明してくれたと言っていました。
延岡の地名は調べれば調べるほど「実に面白い!」。
「安賀多(あがた)」は、延岡が縣(吾田、英田)だった名残です。安賀多町のほか、古川町には「安賀多神社」があります。
愛宕山の南側に当たる「片田(かただ)」は、愛宕山の旧名「笠沙(かささ)山」が転じたものとされています。「小野(この)」は、笠沙の姫・コノハナサクヤヒメにちなむ地名と思われます(私見です)。
「三輪(みわ)」は、スサノオノミコト(須佐之男命)の6世孫に当たるオオクニヌシノカミ(大国主神、オオナムチノミコト)にちなむ名称で、奈良県の三輪山大明神につながります。その隣にある「三須(みす)」は「御簾」(みす、神殿や貴人の御殿に用いる簾=すだれ=)に通じ、三輪(御輪)の神様の前に座するとの意味があります。
「三輪」に関しては、三輪神社(延岡市下三輪町)の由緒に「大己貴命(オオナムチノミコト=大国主神)、豊葦原を巡狩して国家を経営される時、この地に来られ住まわれた。その処を青谷城(あおやぎ)山と言う。此処(ここ)に後人が命の幸魂奇魂を祀って青谷城神社と尊称し、後に三輪大明神と号した」とあり、大和(奈良県)の明神は青谷城神社の分神であるとされています。青谷城神社は村里から遠く離れていることから、三輪大明神として村里に遷宮され、現在の三輪神社となったと伝えられています。
「天下(あもり)」は、高天原の下の意味で、地上世界を指します。延岡市の天下は、ニニギノミコトの一行が当時の吾田(縣=延岡)に到着した場所、もしくは上陸地点だったと考えられます。
三重大学名誉教授の宮崎照雄氏は著書「日向国の神々の聖蹟巡礼」の中で、「記紀」に出てくる「高千穂の宮」について、その地勢などから「高千穂の霊峰から五ヶ瀬川に沿って下り、到り着いた『天下』に建てられたことで、『高千穂の宮』と称されたのです」としています。
「天下」の隣には「吉野(よしの)」があります。奈良県の「吉野」地方は、狩りに適した良い野という意味で、古来は離宮が於かれ、天皇の遊興の地だったそうです。延岡の吉野の名称が、奈良に移されたと推測されます。吉野町にある水谷神社はイツセノミコトの新居が建てられた場所とされています。
また、延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから、「水谷神社の由緒には『またこの吉野をはじめ、近隣の三輪・高野(たかの)などの地名は大和の国へ移られた神武天皇ご一行が、故郷を偲んでかの地に付けられた地名じゃ、と古老は自慢したものである 』 とあります」と教えてもらいました。
「中の瀬」と「祓川」
延岡市には「中の瀬町」があり、そこを流れる川が「祓川(はらいがわ)」です。
黄泉国(よみのくに)から帰ったイザナキノカミは、身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊祓(みそぎはらい)を行いますが、その時、上の瀬は流れが速く、下の瀬は流れが弱いと言って「中の瀬」でそれを行いました。
大正14年(1925)刊の「延岡大観」(山口徳之助著)には、郷土の国学者・樋口種実(1793〜1864)が、イザナキノカミの禊祓(みそぎはらい)の地として、延岡市の「中の瀬」しか考えられないと述べていることが書かれています。禊祓をした川が祓川です。
ニギハヤヒノミコトと速日の峰
ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命、饒速日命)はニニギノミコトより先に降臨した天つ神です。神武天皇が東征した際、天津瑞(あまつしるし=天つ神の子孫であることの印)を献上して、神武天皇に仕えました。
「日本惣国風土記」(天明年間編)には、アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫のニニギノミコトの兄であるニギハヤヒノミコトが「速日(はやひ)の峰」(延岡市北方町)に降臨したことから、「速日」になったと記されているそうです。
ニニギノミコトが諸々の神々を率いて天降ったところが速日の峰であるとする文献もあり、それぞれの降臨の地として信じられてきました。
ヤマトタケルノミコトと行縢山
ヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)は12代・景行天皇の皇子です。景行天皇の命を受けて、日本国内を平定するため東奔西走しました。
「行縢(むかばき)神社由来記」(宮崎県史別編 神話・伝承資料)には、ヤマトタケルノミコトが熊襲(くまそ)を退治するためこの地を訪れ、行縢山の麓の野添で祭殿を営み、御祭神の前で祈りを捧げる際に「布引(ぬのびき)の矢筈(やはず)の滝を射てみれば 川上梟師(かわかみたける)落ちて流るる」と詠んだと記されています。
「矢筈の滝」は行縢の滝の別名。川上梟師は熊襲の将。川上梟師を討ち取ったヤマトタケルノミコトは、舞野村で戦勝の舞を舞い、竹宮にしばらく住まわれました。その場所が現在の「下舞野神社」で、昔、竹宮神社といわれていました。
「稲羽の素兔」の舞台は稲葉崎?
古事記の出雲神話で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が因幡国(鳥取県)で、毛をむしられて皮膚が真っ赤になった1匹の兔を助けた話、「稲羽(いなば)の素兔(しろうさぎ)」の話をご存じでしょうか。
隠岐の島(沖の島)から渡ろうとして海に住む和邇(わに)を欺いたために毛をむしり取られた兔の話です。
実は延岡市の稲葉崎(いなばざき)町には「船着」と呼ばれる、周辺の水田より少し高くなった場所があるそうです。日豊本線の西側、現在は住宅地になっている付近で、その沖合は昔、海でした。その沖にある「二ツ島町」が古事記に出てくる「沖の島」であり、現在の稲葉崎こそが「稲羽の素兔」の舞台だったというのです。
祝子町で祝子農園を営む松田宗史さんが、熊本から来た考古学者がそう説明してくれたと言っていました。
延岡の地名は調べれば調べるほど「実に面白い!」。
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2019年06月27日
日向神話の本舞台7
延岡の地名、名称に関する話の続きを書こうと思いましたが、Facebookの方に延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから「笠沙の岬」に関するコメントをいただきましたので、ご紹介します。
−−「愛宕山は江戸時代のはじめまで『笠沙の岬』と呼ばれていたと言いますが、一般的にはほとんど知られていなかったようですね。戦後初めて高千穂論争に手をつけた安本美典でさえ『瓊瓊杵の尊は、笠沙の地に至ったことになっているが延岡方面には、笠沙に当たる地を求めにくいようである』と『邪馬台国はその後どうなったか』に書いています」
「延岡では誰が知っていたか。石川恒太郎さんが書いた『延岡市史』には、先述した文献上の根拠と『片田』という地名が『笠沙』の転化したものと言われる、ということが書いてあります。確か鳥居龍蔵の『上代の日向延岡』(昭和10年=1935)の添付文書にも同様の記述があったように記憶しますが、江戸時代から今日まで延岡の『笠沙の岬』と呼ばれたことが研究者の注意を喚起したことがあったのか? 明仁天皇が延岡を訪れた時、笠沙山はどこかとお聞きになったが、案内した延岡の人は誰も答えられなかった、などという話がありますが本当ですかね」−−
この話が本当だとしたら由々しきことですね。天皇家には代々、「笠沙の岬」は延岡にあるということが言い伝えられていたのかもしれませんね。それを当の延岡市民が知らなかったとは、非常に恥ずべきことだと思いませんか。
平成10年(1998)に刊行された「宮崎県史・通史編古代2」でも、「日向神話の舞台が、襲高千穂峰・笠沙(現在の鹿児島県川辺郡笠沙町付近か)などであり」と書かれています。延岡市にも宮崎県にも、愛宕山=笠沙の岬≠ニいう認識は一切なかったことの表れでしょう。 日本最初のロマンスの地 ≠ヘ、いつの間にか歴史の闇に葬られてしまっていたようです。
延岡市が「愛宕山」が「笠沙の岬」だったことに着目し、出逢いの聖地≠ニして整備し、情報発信するようになったのは10数年前から。神話研究会会長で「笠沙の会」会長の有留秀雄さんたちの熱心な運動が実ってきた形ですが、有留さんは鹿児島県種子島出身。外からの目で、延岡に埋もれていた財産を発掘してくださったことに唯々感謝しかありません。
杉本隆晴さんによると、鹿児島県史が「笠沙の岬」としている野間岬がある鹿児島県南さつま市笠沙町は、大正11年(1922)に西加世田村から笠沙村に改称、昭和15年(1940)に町制を施行し笠沙町に改称しています。
笠沙町に昔から笠沙≠ニいう古名があったかどうかは知りませんが、これは鹿児島県内に「可愛山陵」などを次々に比定していった明治政府の流れを受けての改称だと考えるのが妥当だと思います。
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2019年06月26日
日向神話の本舞台6 地名・名称について
日本神話にちなんだ地名・名称
「笠沙山(笠沙の岬)」以外にも、日本神話にちなんだ地名、名称が延岡にはたくさんあります。
まず川の名前です。「大瀬川」が「逢瀬川」だったことは前回紹介しました。「五ヶ瀬川」もウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメ(玉依毘売)との間に生まれた4人の皇子の長兄・イツセノミコト(五瀬命)の名前にちなんで「五ツ瀬川」と名付けられていたようです。一番下の弟がカムラヤマイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)、後の神武天皇です。
何度か紹介する江戸時代の「日向国名所歌集」には、延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる、1833〜1898)が詠んだ「可愛(え)の山は霞にきえて打けむる五ツ瀬の川に春雨そふる」があり、当時は「五ツ瀬川」と呼ばれていたことが分かります。
五ヶ瀬川を見下ろす吉野町の高台にある水谷(みずや)神社は、イツセノミコトの新居があった場所とされています。
時代の変遷に応じて地名・名称が変わることはよくありますが、「笠沙山」にしても「逢瀬川」、「五ツ瀬川」にしても、日本最古の書・古事記の舞台だったことを伺わせる地名・名称だけに、残念な改名だとは思いませんか。
大きな瀬(瀬とは流れが速く水深が浅い場所)があるから「大瀬川」、5つの大きな瀬があるから「五ヶ瀬川」ではなく、「古事記・日本書紀に由来する名前なんですよ」の方が情緒があり、心に染みると思います。
延岡市内にはもう一つ、「祝子川」があります。市外の人で祝子≠「ホウリ」と読める人はなかなかいません。
この川も、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた3人の皇子のうち、最後に生まれたホオリノミコト(火遠理命)が、産湯を使ったことからこの名称がついたとされています。ホオリノミコトは後に山幸彦と呼ばれる方で、神武天皇の祖父に当たります。
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2019年06月25日
日向神話の本舞台5 笠沙の岬2
「笠沙の岬はどこか?」の続きです。
「古事記」や「日本書紀」になじみのない人に、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)とコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)の出逢いの話をかいつまんで紹介します。
ある日、ニニギノミコトは笠沙の岬で、麗しい美人に出逢い、一目で恋に落ちてしまいます。ニニギノミコトが「あなたは誰の娘か」と尋ねると、「オオヤマツミノカミ(大山津見神、大山祇神)の娘で、コノハナサクヤヒメと申します」と答え、続けてニニギノミコトが兄弟について尋ねると「姉のイワナガヒメ(石長比売)がおります」と申し上げました。
そこでニニギノミコトは「あなたと結婚したいと思うが、どうか」と尋ねると、「私から申し上げることはできません。私の父、オオヤマツミノカミが申し上げることでしょう」と答えました。
早速、ニニギノミコトはオオヤマツミノカミの所に使いを遣わせると、オオヤマツミノカミは大いに喜び、コノハナサクヤヒメに姉のイワナガヒメを添えて、たくさんの嫁入り道具をも持たせて、送り出しました。
ところが、容姿端麗なコノハナサクヤヒメに比べ、姉のイワナガヒメの容姿は醜かったようで、驚いたニニギノミコトはその日のうちにイワナガヒメを実家にお返しになりました。
父親のオオヤマツミノカミはイワナガヒメだけが送り返されてきたので、大きく恥じ「2人の娘を並べて差し出したのは、イワナガヒメを側において頂ければ、天つ神御子(ニニギのこと)の命は、雪が降り、風が吹いたとしても、常に石のように変わらず動きませんように。また、コノハナサクヤヒメを側において頂ければ、木の花が栄えるように栄えますようにと、願をかけて送り出したからです。コノハナサクヤヒメ一人を留めたのですから、今後、天つ神御子の命は、木の花のようにもろくはかないものになるでしょう」と嘆きました。
この出来事のため、スメラミコト(天皇命)たちの命が限りあるものとなり、寿命が与えられました(以上、竹田恒泰著「現代語古事記」=学研=参照)。
愛宕山を「日本最初の縁結びスポット」に
オオヤマツミノカミは、イザナキノカミ(伊耶那岐神)とイザナミノカミ(伊耶那美神)が大八島に住むべき神々をお生みになった「神生み」の際に生まれた神の一人です。山の神≠ニして知られており、全国に897社ある大山祇神社や山神社の主祭神となっています。
また、古代では結婚は家同士の結びつきなので、一人の男性に姉妹が同時に嫁ぐ姉妹婚はよく行われていたようです。「記紀」が示す地上世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために天降りした天つ神の御子のニニギノミコトと、国つ神の一人で山の神であるオオヤマツミノカミの娘の結婚は、最高の良縁だったのです。
しかしながら、永遠の命の象徴とも言えるイワナガヒメを実家に送り返したことで、ニニギノミコトを始祖とする皇族に寿命が与えられたということになります。
ニニギノミコトは延岡市北川町俵野に、お墓である陵墓参考地がありますし、その子供のホオリノミコト(火遠理命=山幸彦)、孫のウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)、ひ孫のカムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命=後の神武天皇)らも各地にお墓が比定されています。
これに対し、天孫降臨前のアマテラスオオミノカミ(天照大神)ら高天原の神々には寿命がありません。明治天皇の玄孫の竹田恒泰さんいわく、「ですから伊勢神宮は天照大神のお住まいとしておまつりしているのです」。
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出逢った笠沙の岬である愛宕山は今、延岡市も「出逢いの聖地」としてアピールしており、展望台には出逢いの鐘や鍵掛けモニュメントなどが設置されています。
私もある夜、夜景の撮影に展望台に行っていたら、訪れたカップルが鍵(錠前)を掛けた後、そのキーをモニュメントの一段下にあるカワヅザクラ林の方に投げ捨てました。ビックリしました。キーを捨てることで永遠の愛を誓ったのかもしれませんが、「もし別れちゃったらどうするんだろう。あのキーを拾いに行くのかな」と思いました。
どうせなら、この林の中に鵜戸神宮にある運玉入れのようなターゲットを設けて、そこにキーが入ったら「2人は永遠に別れません」といった都市伝説を流布し、竹田さんが言う「日本最初の縁結びスポット」として大々的に売り出してもいいと思います。
この際、「愛宕山」の名称を、古来からの「笠沙山」に戻してはいかがでしょうか?
私は県外市外からの来訪者をご案内してまちあるきする機会が多々あります。その際、笠沙の岬(愛宕山)のいわれを説明しながら「日本最初のナンパスポットです」と紹介しています。不謹慎かもしれませんが……。
大瀬川は「逢瀬川」だった
大瀬川の古名は「逢瀬川」だったようです。ニニギノミコトがこの川を渡って笠沙の岬側にお屋敷があったコノハナサクヤヒメと逢瀬を重ねたとされています。前回紹介した「日向国名所歌集」には、編者の安藤通故が詠んだ「わたらはや袖はぬるともまたれつる人に逢瀬の川とおもへは」の歌など、逢瀬川にちなんだ歌が収められています。
私の住む大貫も「王ノ城」(おおのき)が転化したものという説があります。ご先祖様が眠る浄土寺山の墓地周辺には、県内最古とされる大貫貝塚、延岡で唯一の横穴式石室が現存する「第24号墳」など古墳が点在し、古代からたくさんの人が住んでいたことは明らかです。
三重大学名誉教授の宮崎照雄さんはニニギノミコトが築いた「高千穂の宮」は、延岡市天下町のどこかだとしていますが、私は王の城=Aつまり私の住む大貫ではなかったかと思います。私論です。
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2019年06月24日
日向神話の本舞台4
私は延岡市大貫町、それも大瀬川畔の集落に生まれ、育ちました。
実家に隣接した堤防に上がれば、眼下に大瀬川、その先に愛宕山を望むことができます。今も変わることのない原風景がそこにあります。
しかし、その大瀬川がかつて「逢瀬川」と呼ばれ、愛宕山は「笠沙山」と呼ばれていたと知ったのは10数年ほど前のことです。そして今は、その「笠沙山」の存在が、日向神話を語る上でいかに重要かを痛感しています。
ご存じのように、笠沙の岬は高千穂に天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が伴侶となるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる子供たちを妊娠するエポックメーキングな場所です。
それが延岡の愛宕山である可能性が、にわかに高まってきたのです。いやいや、この表現はおかしいですね。ここ何百年かで忘れ去られようとしていたパンドラの箱≠フ蓋が開けられたと言った方がいいかもしれません。
ここ数年、何度も延岡を訪れている明治天皇の玄孫・竹田恒泰さんは、全国放送のラジオで以下のように話しています(2019年5月1日付夕刊デイリー新聞6面参照)。
「ニニギノミコトは高千穂に降臨した後、笠沙の岬で麗しき乙女(コノハナサクヤヒメ)と出逢う。その場所が延岡。日本の文学史上初めての恋愛が始まった場所が笠沙の岬であり、神様が初めて恋愛をして自分の意思で結ばれたのが笠沙の岬」
「縁結びは出雲大社が有名だが、笠沙の岬の方がいいんじゃないかと思う。延岡の人はこのことをもっとPRしてほしい」
どうですか。旧皇族の竹田さんが延岡人の背中を押してくれようとしているのです。応えない訳にはいきませんよね。
実は竹田さんは、前々回のブログでも紹介した著書「現代語古事記」の中で、「笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)」と明記しておられます。
その竹田さんが、延岡を何度か訪れる中でその位置、景観、伝承などから延岡の愛宕山が笠沙の岬である可能性が高いと思うようになり、全国放送で発信してくれたことは特筆物です。
笠沙の岬はどこか
「笠沙の岬はどこか」−−。杉本さんの講演に話を戻します。
笠沙の岬は古事記では「笠沙之御前」、日本書紀では「吾田長津笠狭之碕」、「吾田長屋笠狭之御碕」、「吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。」とされています。
“御前”も“御碕”も岬の古語です。日本書紀では詳細に、吾田という場所の長い屋根のような地形の先端に笠狭之御碕があったとしています。当時の海抜は今より高く、延岡平野の大部分が海だったと推測され、市街地に突き出た愛宕山のような山は、海に突き出した岬だったのではないでしょうか。
吾田は「あた」または「あがた」と読み、延岡の古名「縣」(吾田、阿多、英田、安賀多)に通じます。コノハナサクヤヒメは古事記では神阿多都比売、日本書紀では神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、豊吾田津媛といった別名が記されており、三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは「吾田(あた、あだ、あがた、現在の延岡市)で生まれ育った姫であるとするのが、最も記紀神話にかなっている」としています。
残念ながら、古事記も日本書紀も天孫降臨したニニギノミコトがどういう経路で笠沙の岬に至ったのか明記していません。
ただ、古事記では降臨したニニギノミコトが宮を建てて住む際に、「此地者(ここは)、韓国(からくに=空国)に向ひ、笠沙之御前(かささのみさき)に真来(まぎ)通り而(て)、朝日之直刺す国、夕日之照る国なり。故(かれ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地」と語ったと記されています。
この中に出てくる「韓国」が、高千穂霧島山説などでは朝鮮半島と解されていますが、日本書紀では「空国」という表現がされており、「住む人が少ない土地」を指していると思われます。
しかも「朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」とあります。愛宕山に登ったことのある人、いや宮崎県人なら良くおわかりでしょう。太平洋から登る朝日の素晴らしさ、山肌に沈む夕陽の美しさが描かれているのです。
鹿児島県笠沙町の野間岬は、東シナ海側にあり、海に沈む夕陽は素晴らしいですが、海から登る太陽は拝めません。
余談ですが、私が通った延岡小学校の校歌に「朝日たださす あがたなる」とあります。古事記の記述にピッタリだと思いませんか。
最後に、愛宕山が「笠沙山」と呼ばれていた根拠をいくつか紹介します。
一つは、愛宕山にある愛宕神社の由来書です。それによると、高橋元種が慶長8年(1603)、城山に城を築く際に現地にあった愛宕神社を笠沙の岬に移したことから、笠沙の岬を愛宕山と称するようになったとされています。
江戸時代の延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる)がまとめた「日向国名所歌集」には、高橋氏の後に延岡藩主となった有馬氏2代目・康純(在位1641〜1679)が詠んだ歌が紹介されています。
「時鳥(ほととぎす)晴れぬおもひを五月雨の雲の笠沙の山に鳴くらむ」
愛宕山は江戸時代まで「笠沙山(笠沙の岬)」だったのです。
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実家に隣接した堤防に上がれば、眼下に大瀬川、その先に愛宕山を望むことができます。今も変わることのない原風景がそこにあります。
しかし、その大瀬川がかつて「逢瀬川」と呼ばれ、愛宕山は「笠沙山」と呼ばれていたと知ったのは10数年ほど前のことです。そして今は、その「笠沙山」の存在が、日向神話を語る上でいかに重要かを痛感しています。
ご存じのように、笠沙の岬は高千穂に天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が伴侶となるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる子供たちを妊娠するエポックメーキングな場所です。
それが延岡の愛宕山である可能性が、にわかに高まってきたのです。いやいや、この表現はおかしいですね。ここ何百年かで忘れ去られようとしていたパンドラの箱≠フ蓋が開けられたと言った方がいいかもしれません。
ここ数年、何度も延岡を訪れている明治天皇の玄孫・竹田恒泰さんは、全国放送のラジオで以下のように話しています(2019年5月1日付夕刊デイリー新聞6面参照)。
「ニニギノミコトは高千穂に降臨した後、笠沙の岬で麗しき乙女(コノハナサクヤヒメ)と出逢う。その場所が延岡。日本の文学史上初めての恋愛が始まった場所が笠沙の岬であり、神様が初めて恋愛をして自分の意思で結ばれたのが笠沙の岬」
「縁結びは出雲大社が有名だが、笠沙の岬の方がいいんじゃないかと思う。延岡の人はこのことをもっとPRしてほしい」
どうですか。旧皇族の竹田さんが延岡人の背中を押してくれようとしているのです。応えない訳にはいきませんよね。
実は竹田さんは、前々回のブログでも紹介した著書「現代語古事記」の中で、「笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬)」と明記しておられます。
その竹田さんが、延岡を何度か訪れる中でその位置、景観、伝承などから延岡の愛宕山が笠沙の岬である可能性が高いと思うようになり、全国放送で発信してくれたことは特筆物です。
笠沙の岬はどこか
「笠沙の岬はどこか」−−。杉本さんの講演に話を戻します。
笠沙の岬は古事記では「笠沙之御前」、日本書紀では「吾田長津笠狭之碕」、「吾田長屋笠狭之御碕」、「吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。」とされています。
“御前”も“御碕”も岬の古語です。日本書紀では詳細に、吾田という場所の長い屋根のような地形の先端に笠狭之御碕があったとしています。当時の海抜は今より高く、延岡平野の大部分が海だったと推測され、市街地に突き出た愛宕山のような山は、海に突き出した岬だったのではないでしょうか。
吾田は「あた」または「あがた」と読み、延岡の古名「縣」(吾田、阿多、英田、安賀多)に通じます。コノハナサクヤヒメは古事記では神阿多都比売、日本書紀では神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、豊吾田津媛といった別名が記されており、三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは「吾田(あた、あだ、あがた、現在の延岡市)で生まれ育った姫であるとするのが、最も記紀神話にかなっている」としています。
残念ながら、古事記も日本書紀も天孫降臨したニニギノミコトがどういう経路で笠沙の岬に至ったのか明記していません。
ただ、古事記では降臨したニニギノミコトが宮を建てて住む際に、「此地者(ここは)、韓国(からくに=空国)に向ひ、笠沙之御前(かささのみさき)に真来(まぎ)通り而(て)、朝日之直刺す国、夕日之照る国なり。故(かれ)、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地」と語ったと記されています。
この中に出てくる「韓国」が、高千穂霧島山説などでは朝鮮半島と解されていますが、日本書紀では「空国」という表現がされており、「住む人が少ない土地」を指していると思われます。
しかも「朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」とあります。愛宕山に登ったことのある人、いや宮崎県人なら良くおわかりでしょう。太平洋から登る朝日の素晴らしさ、山肌に沈む夕陽の美しさが描かれているのです。
鹿児島県笠沙町の野間岬は、東シナ海側にあり、海に沈む夕陽は素晴らしいですが、海から登る太陽は拝めません。
余談ですが、私が通った延岡小学校の校歌に「朝日たださす あがたなる」とあります。古事記の記述にピッタリだと思いませんか。
最後に、愛宕山が「笠沙山」と呼ばれていた根拠をいくつか紹介します。
一つは、愛宕山にある愛宕神社の由来書です。それによると、高橋元種が慶長8年(1603)、城山に城を築く際に現地にあった愛宕神社を笠沙の岬に移したことから、笠沙の岬を愛宕山と称するようになったとされています。
江戸時代の延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる)がまとめた「日向国名所歌集」には、高橋氏の後に延岡藩主となった有馬氏2代目・康純(在位1641〜1679)が詠んだ歌が紹介されています。
「時鳥(ほととぎす)晴れぬおもひを五月雨の雲の笠沙の山に鳴くらむ」
愛宕山は江戸時代まで「笠沙山(笠沙の岬)」だったのです。
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2019年06月21日
日向神話の本舞台3
天孫降臨の高千穂はどこか
「天孫降臨の高千穂はどこか」を考えてみましょう。日本神話の天孫降臨伝説に描かれる高千穂に関しては「西臼杵高千穂説」と高千穂峰がある「霧島山説」の2説があります。
杉本さんによると、奈良、平安時代の記述などを見ると、西臼杵高千穂説が有力なのですが、鎌倉時代辺りから霧島山説が浮上。昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、「襲の高千穂は西臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白」とまで断言しています。実はこの「襲」(そ)という記述が食わせ物のようなのです。
西臼杵高千穂説
文献を見てみましょう。
古事記には「竺紫日向之高千穂之九士布流多気」に「天降りあそばされた」と記されています。
「竺紫」は筑紫、今の福岡県付近のことで九州を示しています。「日向」は日向国、当時は今の宮崎県と鹿児島県が日向国でした。「九士布流」は「くしふる」と読み、「多気」は「嶺」「嶽」(たけ)の意味です。高千穂町にある「槵觸(くしふる)神社」付近とされています。
つまり、九州の日向国高千穂にある「くしふるたけ」に降臨したと書いてあるのです。
日本書紀では前回のブログで紹介したように、「日向襲之高千穂峯」」、「筑紫日向高千穂槵觸峯」、「日向槵日高千穂峯」、「日向襲之高千穂槵日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といくつかの説が併記してあり、降臨地に若干の違いがあるにせよ、「日向」の「高千穂」という点では共通しています。
鎌倉時代中期にできた日本書紀の注釈書「釈日本紀」(しゃくにほんぎ、卜部兼方著)には、日向国風土記にある次のような記述が引用されています。
「臼杵郡内知鋪郷(うすきのこおりのうちちほのさと) 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 離天磐座(あめのいわくらをはなれ) 排天八重雲(あめのやえくもをおしわけ) 稜威之道別道別(いずのちわきちわきて) 天降於日向之高千穂二上峰(ひゅうがのたかちほのふたがみのたけにあもりましき)…」
この文章を現代文的に直すと「臼杵の郡の内、知鋪(ちほ=高千穂)の郷。天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を排(おしの)けて、稜威(いつ=神聖なこと)の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯(高千穂町にある二上山)に天降りましき」となります。
風土記は、奈良時代初期の官選の地誌で、元明天皇の詔(みことのり)により各令制国の国庁が編さんしたものです。この風土記の引用は、鎌倉時代に萬葉学者・仙覚が著した万葉集の注釈書「萬葉抄」の中にも見られます。
天皇から風土記編さんの詔が出る前の和銅6年(713)、日向国は日向国、大隅国、薩摩国に分離されており、この日向国風土記は現在の宮崎県内に限定した最も古い地誌といえます。
平安時代になると、国史である六国史(日本書記もその一つ)の中に、西臼杵の高千穂と霧島山の違いを見ることができます。当時は日向国の高千穂と大隅国の霧島が明確に区別されていたことが見て取れます。
「続日本後紀」(837年)では、高千穂は「日向国無位高智保皇神−従五位下」とあり、霧島に関しては「霧嶋岑神(きりしまたけじん)−官社」と記されています。
その後の「日本三代実録」(858年)では「高智保神−従四位上」となっているのに対し、「霧島神−従四位下」となっており、高千穂神社が無位から従四位に格上げになり、霧島神社よりも官位が上になっていたことが分かります。
霧島山周辺はご存じのように活火山で、古来から信仰の対象とされてきました。霧島山信仰は、ここで修業し霧島六社権現を創建した天台宗の僧・性空上人(しょうくうしょうにん、910−1007)による影響が大きく、性空上人の流れをくむ修験者たちの修行の地となっていきました。
室町時代には「長門本−平家物語」の中に、「日本最初の峰、霧島のたけと号す」という文が出てきます。霧島山説をとる学者は、この内容から「高千穂峰」のことを言っているとしていますが、西臼杵高千穂説の学者は「高千穂という名前があるなら高千穂と書くべきじゃないか。高千穂という名称が無かったから『最初の峰』としている」と反論しています。
杉本さんは「私見ですが、弟子の修験者たちが性空上人が修業した霧島山を神格化したいという意思もあって加筆したのかなと思う」と話しています。
こうしたことから宮崎県は大正13年(1924)3月に公表した「史蹟調査報告」の中で、「現下学会の斉しく認める所は、西臼杵郡説を以って真の伝説地なりとするに一定したるものの如し」と裁定。西臼杵郡の高千穂こそが、記紀において伝承された天孫降臨の地であるとして、霧島山説を切って捨てています。
霧島山説
一方、霧島山説は鎌倉時代の百科事典とも言える「塵袋」(ちりぶくろ、作者未詳)に、「皇祖褒能忍耆命(こうそほのににぎのみこと) 日向国囎唹郡高茅穂槵生峰(ひゅうがのくにそおぐんたかちほのみね)にあまくだりまして是より薩摩国閼馳郡駞竹屋村(さつまのくにあたぐんたけやむら)にうつり玉ひと…」とあるのが最初です。
ここに出てくる「囎唹郡」が、霧島山の西にある鹿児島県曽於郡(そうぐん=現・曽於市)に当たると解釈されています。
にわかに霧島山説が発言力を持ってくるのが、江戸時代です。
6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導した新井白石が元禄5年(1692)、高千穂峰に登頂した深見作左衛門ら3人の登頂体験を代作した「霧島嶽の記」の中で、高千穂峰にある天の逆鉾≠フことを具体的に紹介。「あい伝えて言うには、これは天孫が天降りされた時、これをもって標しとされた。古のいわゆる国柱である」と書いた影響が大きかったようです。
「古事記傳」を書いた本居宣長は、悩んだ末に「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし」と記述。簡単に言えば、どちらも高千穂で、どちらかに決めるのは無理だとしました。
さらに、この悩み解決のために「最初に高千穂に降臨し、それからずっと下がって再び高千穂峰に降臨した」という高千穂移動説を提示しています。
霧島説に決定的なインパクトを与えたのが、幕末の英雄・坂本龍馬です。負傷した龍馬は西郷隆盛らの勧めで、おりょう(楢崎龍)を連れて静養のため鹿児島を訪れ高千穂峰に登頂した際、天の逆鉾を引き抜いてみせ「ここは天孫降臨の地だ」と言ったそうです。
「日本最初の新婚旅行」と言われるほど有名なこのエピソードは、霧島高千穂説を大きく後押ししたと言っても過言ではないでしょう。
このため昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、日本書記にある「襲」(そ)は熊襲の襲、「豊後国風土記・肥前国風土記・肥後国風土記等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であろうから、後世永く霧島山の西にある囎唹郡に比定しても支障がないことであろう」と断定。
さらに「日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遙か北方に隔たった日向国臼杵郡の高千穂を指すものとは考えられない。即ち、襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云われよう」として、西臼杵高千穂説を完全否定しています。
西臼杵高千穂説は、文献的には極めて信憑性が高いと言えますが、霧島山説は江戸時代から明治維新にかけて国を牽引した人たちの言動が、大きく影響していると言わざるを得ませんね。
「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」という杉本さんを含め、心優しい°{崎県民との県民性の違いを痛感します。
さて、あなたはどちらの高千穂説を支持しますか?
「天孫降臨の高千穂はどこか」を考えてみましょう。日本神話の天孫降臨伝説に描かれる高千穂に関しては「西臼杵高千穂説」と高千穂峰がある「霧島山説」の2説があります。
杉本さんによると、奈良、平安時代の記述などを見ると、西臼杵高千穂説が有力なのですが、鎌倉時代辺りから霧島山説が浮上。昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、「襲の高千穂は西臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白」とまで断言しています。実はこの「襲」(そ)という記述が食わせ物のようなのです。
西臼杵高千穂説
文献を見てみましょう。
古事記には「竺紫日向之高千穂之九士布流多気」に「天降りあそばされた」と記されています。
「竺紫」は筑紫、今の福岡県付近のことで九州を示しています。「日向」は日向国、当時は今の宮崎県と鹿児島県が日向国でした。「九士布流」は「くしふる」と読み、「多気」は「嶺」「嶽」(たけ)の意味です。高千穂町にある「槵觸(くしふる)神社」付近とされています。
つまり、九州の日向国高千穂にある「くしふるたけ」に降臨したと書いてあるのです。
日本書紀では前回のブログで紹介したように、「日向襲之高千穂峯」」、「筑紫日向高千穂槵觸峯」、「日向槵日高千穂峯」、「日向襲之高千穂槵日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といくつかの説が併記してあり、降臨地に若干の違いがあるにせよ、「日向」の「高千穂」という点では共通しています。
鎌倉時代中期にできた日本書紀の注釈書「釈日本紀」(しゃくにほんぎ、卜部兼方著)には、日向国風土記にある次のような記述が引用されています。
「臼杵郡内知鋪郷(うすきのこおりのうちちほのさと) 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 離天磐座(あめのいわくらをはなれ) 排天八重雲(あめのやえくもをおしわけ) 稜威之道別道別(いずのちわきちわきて) 天降於日向之高千穂二上峰(ひゅうがのたかちほのふたがみのたけにあもりましき)…」
この文章を現代文的に直すと「臼杵の郡の内、知鋪(ちほ=高千穂)の郷。天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を排(おしの)けて、稜威(いつ=神聖なこと)の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯(高千穂町にある二上山)に天降りましき」となります。
風土記は、奈良時代初期の官選の地誌で、元明天皇の詔(みことのり)により各令制国の国庁が編さんしたものです。この風土記の引用は、鎌倉時代に萬葉学者・仙覚が著した万葉集の注釈書「萬葉抄」の中にも見られます。
天皇から風土記編さんの詔が出る前の和銅6年(713)、日向国は日向国、大隅国、薩摩国に分離されており、この日向国風土記は現在の宮崎県内に限定した最も古い地誌といえます。
平安時代になると、国史である六国史(日本書記もその一つ)の中に、西臼杵の高千穂と霧島山の違いを見ることができます。当時は日向国の高千穂と大隅国の霧島が明確に区別されていたことが見て取れます。
「続日本後紀」(837年)では、高千穂は「日向国無位高智保皇神−従五位下」とあり、霧島に関しては「霧嶋岑神(きりしまたけじん)−官社」と記されています。
その後の「日本三代実録」(858年)では「高智保神−従四位上」となっているのに対し、「霧島神−従四位下」となっており、高千穂神社が無位から従四位に格上げになり、霧島神社よりも官位が上になっていたことが分かります。
霧島山周辺はご存じのように活火山で、古来から信仰の対象とされてきました。霧島山信仰は、ここで修業し霧島六社権現を創建した天台宗の僧・性空上人(しょうくうしょうにん、910−1007)による影響が大きく、性空上人の流れをくむ修験者たちの修行の地となっていきました。
室町時代には「長門本−平家物語」の中に、「日本最初の峰、霧島のたけと号す」という文が出てきます。霧島山説をとる学者は、この内容から「高千穂峰」のことを言っているとしていますが、西臼杵高千穂説の学者は「高千穂という名前があるなら高千穂と書くべきじゃないか。高千穂という名称が無かったから『最初の峰』としている」と反論しています。
杉本さんは「私見ですが、弟子の修験者たちが性空上人が修業した霧島山を神格化したいという意思もあって加筆したのかなと思う」と話しています。
こうしたことから宮崎県は大正13年(1924)3月に公表した「史蹟調査報告」の中で、「現下学会の斉しく認める所は、西臼杵郡説を以って真の伝説地なりとするに一定したるものの如し」と裁定。西臼杵郡の高千穂こそが、記紀において伝承された天孫降臨の地であるとして、霧島山説を切って捨てています。
霧島山説
一方、霧島山説は鎌倉時代の百科事典とも言える「塵袋」(ちりぶくろ、作者未詳)に、「皇祖褒能忍耆命(こうそほのににぎのみこと) 日向国囎唹郡高茅穂槵生峰(ひゅうがのくにそおぐんたかちほのみね)にあまくだりまして是より薩摩国閼馳郡駞竹屋村(さつまのくにあたぐんたけやむら)にうつり玉ひと…」とあるのが最初です。
ここに出てくる「囎唹郡」が、霧島山の西にある鹿児島県曽於郡(そうぐん=現・曽於市)に当たると解釈されています。
にわかに霧島山説が発言力を持ってくるのが、江戸時代です。
6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を実質的に主導した新井白石が元禄5年(1692)、高千穂峰に登頂した深見作左衛門ら3人の登頂体験を代作した「霧島嶽の記」の中で、高千穂峰にある天の逆鉾≠フことを具体的に紹介。「あい伝えて言うには、これは天孫が天降りされた時、これをもって標しとされた。古のいわゆる国柱である」と書いた影響が大きかったようです。
「古事記傳」を書いた本居宣長は、悩んだ末に「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし」と記述。簡単に言えば、どちらも高千穂で、どちらかに決めるのは無理だとしました。
さらに、この悩み解決のために「最初に高千穂に降臨し、それからずっと下がって再び高千穂峰に降臨した」という高千穂移動説を提示しています。
霧島説に決定的なインパクトを与えたのが、幕末の英雄・坂本龍馬です。負傷した龍馬は西郷隆盛らの勧めで、おりょう(楢崎龍)を連れて静養のため鹿児島を訪れ高千穂峰に登頂した際、天の逆鉾を引き抜いてみせ「ここは天孫降臨の地だ」と言ったそうです。
「日本最初の新婚旅行」と言われるほど有名なこのエピソードは、霧島高千穂説を大きく後押ししたと言っても過言ではないでしょう。
このため昭和14年(1939)に編さんされた鹿児島県史では、日本書記にある「襲」(そ)は熊襲の襲、「豊後国風土記・肥前国風土記・肥後国風土記等にある球磨・囎唹・球磨・贈於・玖磨囎唹の贈於であり、後の囎唹の地であろうから、後世永く霧島山の西にある囎唹郡に比定しても支障がないことであろう」と断定。
さらに「日本書紀に見ゆる襲の高千穂が、遙か北方に隔たった日向国臼杵郡の高千穂を指すものとは考えられない。即ち、襲の高千穂は臼杵郡の高千穂を指すものではない事が明白と云われよう」として、西臼杵高千穂説を完全否定しています。
西臼杵高千穂説は、文献的には極めて信憑性が高いと言えますが、霧島山説は江戸時代から明治維新にかけて国を牽引した人たちの言動が、大きく影響していると言わざるを得ませんね。
「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」という杉本さんを含め、心優しい°{崎県民との県民性の違いを痛感します。
さて、あなたはどちらの高千穂説を支持しますか?
2019年06月20日
日向神話の本舞台2
前回に続いて、日向神話のお話です。
まず「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関して、杉本さんのお話を紹介したいと思いますが、その前に日本神話の基礎となる「古事記」、「日本書紀」(以後、二つの最後の文字をとって「記紀」とします)について触れてみましょう。
明治天皇の玄孫で延岡でも何度か講演された竹田恒泰さんの著書によると、日本が第二次世界大戦に負け連合国の占領下にあったとき、「歴史的事実ではない」、「創作された物語にすぎない」、「科学的でない」などの理由で、「記紀」は「学ぶに値しないもの」とされ、さも有害図書であるかのような扱いを受けてきたようです。
確かに、黄泉国から戻ったイザナキノミコトが御祓(みそぎはらい)をした際に、いろんな神様が生まれたこと、コノハナサクヤヒメの火中出産、トヨタマヒメが八尋和邇(やひろわに)になって出産したシーンなど、今日の常識では信じられないような話がたくさん出てきます。
でも、どうでしょうか。キリスト教のバイブルである「聖書」でも、天地創造やマリアの処女懐胎など、とても事実とは思えない記述がたくさんあります。アメリカでは「聖書」を知らなければ、ジョークも理解できないといわれるほどで、欧米人、特にキリスト教信者から「聖書は史実ではない」、「科学的でない」などの話を聞いたことはありません。
竹田さんは「ここに書かれている記述が『真実』なのであって、『事実』かどうかはさして重要ではない」と指摘。「十二、十三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という、二十世紀を代表する歴史学者アーノルド・J・トインビー(1889−1975)の言葉を引用し、警鐘を鳴らしています。
「新訳聖書」でのキリストの教えが比喩に満ちたものであるように、日本神話の物語の多くも事実を反映させたものであると考えられ、近年の考古学では事実ではないと思われていた事柄の事実性が確認された例も多いと聞きます。
日本の若者が外国に行くと、「日本とはどんな国ですか?」、「宗教は何ですか?」などと聞かれ、うまく答えられないケースが多いと聞きます。「記紀」に記されている日本神話はまさに、日本人のアイデンティティーに関わる重要な物語だと言っても過言ではなく、それを学んで自分たちの国の成り立ちを知り、誇りを持つことで、諸外国の人とも対等に渡り合える人材が育つのではないでしょうか。特に、その舞台の一つとなっている日向人(宮崎県民)には、ぜひとも読み込んでほしいと思っています。
古事記は日本最古の歴史書で、全3巻からなっています。712年にできています。「上巻」が神代の物語、「中巻」が神武天皇から応神天皇までの記事。下巻が仁徳天皇から推古天皇までの記事で、和漢混交文の原型といわれる文体で記述されています。
日本書紀は古事記編さんから8年後、720年にできた「最古の正史」です。奈良時代から平安時代にかけて日本では、「六国史」と言われる国の正史が編さんされていますが、その最初が日本書紀です。全30巻あり、中国を意識して作られたため、漢文で記述されています。
古事記はそれまで語り継がれてきた歴代天皇の系譜(帝紀)、神々や英雄の物語(旧辞)の内容を元明天皇の命を受けた太安万侶(おおのやすまろ)が苦心してまとめたものです。
しかし、当時の有力氏族の間には、その氏族それぞれに記録や伝承が残っていて、氏族が違えばその内容も若干違ったりしていました。日本書記ではそれら諸氏の記録や寺院の縁起、朝鮮側の資料などを網羅する形でまとめたものです。
ですから、天孫降臨の地一つとっても、「日向襲之高千穂峯」や「筑紫日向高千穂槵觸(くしふる)峯」、「日向槵日高千穂峯」、「日向襲之高千穂槵日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といった記述に分かれています。
杉本さんによると古事記は「天皇や天皇を取り巻く人達、子孫の人達が勉強するために作られた参考書」だったそうで、できたのは日本書紀よりも古いものの、「国史」扱いはされていません。これに対し日本書紀は、当時も日本にとって驚異だった中国に対し、日本とはどういう国かを説明する意味でまとめられたものだったようです。
ありゃりゃ。長々と書いていたら、「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関する杉本さんの話を書くスペースがなくなってしまいました。次回に回します。
古事記を読みたいと思う人には、竹田さんが古事記全文を完全現代語訳した「現代語 古事記」(学研)がオススメです。今回のブログの参考にさせていただきました。
まず「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関して、杉本さんのお話を紹介したいと思いますが、その前に日本神話の基礎となる「古事記」、「日本書紀」(以後、二つの最後の文字をとって「記紀」とします)について触れてみましょう。
明治天皇の玄孫で延岡でも何度か講演された竹田恒泰さんの著書によると、日本が第二次世界大戦に負け連合国の占領下にあったとき、「歴史的事実ではない」、「創作された物語にすぎない」、「科学的でない」などの理由で、「記紀」は「学ぶに値しないもの」とされ、さも有害図書であるかのような扱いを受けてきたようです。
確かに、黄泉国から戻ったイザナキノミコトが御祓(みそぎはらい)をした際に、いろんな神様が生まれたこと、コノハナサクヤヒメの火中出産、トヨタマヒメが八尋和邇(やひろわに)になって出産したシーンなど、今日の常識では信じられないような話がたくさん出てきます。
でも、どうでしょうか。キリスト教のバイブルである「聖書」でも、天地創造やマリアの処女懐胎など、とても事実とは思えない記述がたくさんあります。アメリカでは「聖書」を知らなければ、ジョークも理解できないといわれるほどで、欧米人、特にキリスト教信者から「聖書は史実ではない」、「科学的でない」などの話を聞いたことはありません。
竹田さんは「ここに書かれている記述が『真実』なのであって、『事実』かどうかはさして重要ではない」と指摘。「十二、十三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という、二十世紀を代表する歴史学者アーノルド・J・トインビー(1889−1975)の言葉を引用し、警鐘を鳴らしています。
「新訳聖書」でのキリストの教えが比喩に満ちたものであるように、日本神話の物語の多くも事実を反映させたものであると考えられ、近年の考古学では事実ではないと思われていた事柄の事実性が確認された例も多いと聞きます。
日本の若者が外国に行くと、「日本とはどんな国ですか?」、「宗教は何ですか?」などと聞かれ、うまく答えられないケースが多いと聞きます。「記紀」に記されている日本神話はまさに、日本人のアイデンティティーに関わる重要な物語だと言っても過言ではなく、それを学んで自分たちの国の成り立ちを知り、誇りを持つことで、諸外国の人とも対等に渡り合える人材が育つのではないでしょうか。特に、その舞台の一つとなっている日向人(宮崎県民)には、ぜひとも読み込んでほしいと思っています。
古事記は日本最古の歴史書で、全3巻からなっています。712年にできています。「上巻」が神代の物語、「中巻」が神武天皇から応神天皇までの記事。下巻が仁徳天皇から推古天皇までの記事で、和漢混交文の原型といわれる文体で記述されています。
日本書紀は古事記編さんから8年後、720年にできた「最古の正史」です。奈良時代から平安時代にかけて日本では、「六国史」と言われる国の正史が編さんされていますが、その最初が日本書紀です。全30巻あり、中国を意識して作られたため、漢文で記述されています。
古事記はそれまで語り継がれてきた歴代天皇の系譜(帝紀)、神々や英雄の物語(旧辞)の内容を元明天皇の命を受けた太安万侶(おおのやすまろ)が苦心してまとめたものです。
しかし、当時の有力氏族の間には、その氏族それぞれに記録や伝承が残っていて、氏族が違えばその内容も若干違ったりしていました。日本書記ではそれら諸氏の記録や寺院の縁起、朝鮮側の資料などを網羅する形でまとめたものです。
ですから、天孫降臨の地一つとっても、「日向襲之高千穂峯」や「筑紫日向高千穂槵觸(くしふる)峯」、「日向槵日高千穂峯」、「日向襲之高千穂槵日二上峯」、「日向襲之高千穂添山峯」といった記述に分かれています。
杉本さんによると古事記は「天皇や天皇を取り巻く人達、子孫の人達が勉強するために作られた参考書」だったそうで、できたのは日本書紀よりも古いものの、「国史」扱いはされていません。これに対し日本書紀は、当時も日本にとって驚異だった中国に対し、日本とはどういう国かを説明する意味でまとめられたものだったようです。
ありゃりゃ。長々と書いていたら、「天孫降臨の高千穂はどこか?」に関する杉本さんの話を書くスペースがなくなってしまいました。次回に回します。
古事記を読みたいと思う人には、竹田さんが古事記全文を完全現代語訳した「現代語 古事記」(学研)がオススメです。今回のブログの参考にさせていただきました。
2019年06月19日
日向神話の本舞台その1
6月15日夜、延岡市の川中コミュニティーセンターで五重縁の会が主催する「のべおか郷土愛」講演会が開かれました。
講師は、前延岡市副市長の杉本隆晴さん。副市長時代から日向神話を観光振興に結びつけようと様々な施策に取り組まれていました。
特に、西南戦争で政府軍に敗れた薩摩軍が、北川町俵野の児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからだと提唱。西郷軍に従軍した深江権太郎の手記や、隆盛のひ孫に当たる西郷隆夫氏の証言などから裏付けされ、俵野を「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきました。
副市長退任後は、日向神話研究会(会長・有留秀雄笠沙の会会長)副会長として、高千穂、日向と連携しながら、日向神話をあらゆる角度から深く分析されています。
杉本さんは「宮崎県北は日向神話の本舞台」をテーマに、日向神話のあらすじを説明した後、文献などを紹介しながら「天孫降臨の高千穂はどこか」、「ニニギノミコトはどこから来たのか」、「笠沙の岬はどこか」、「可愛山陵はどこか」、「神武東征の出発地はどこか」などについて詳しく考察されました。
個人的に私は、「天孫降臨の地は西臼杵の高千穂」、「笠沙の岬は延岡市の愛宕山」、「可愛山陵は北川町俵野にある陵墓参考地」と思っています。
しかしながら、高千穂説に「西臼杵高千穂」と「霧島連山高千穂の峰」の2説あるように、笠沙の岬、ニニギノミコト御陵墓、東征出発地に関しても、既に鹿児島県内に比定地があり、宮崎県北はむしろ後発組≠フ感が否めません。
杉本さんは「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」と前置きした上で、そうした論点について文献史学から見た変遷を分かりやすく説明してくれました。
江戸時代には笠沙山と呼ばれていたものが愛宕山になっていたり、逢瀬川が大瀬川に、五ツ瀬川が五ヶ瀬川になっていたり、私たちは知らず知らずのうちに神話にちなんだ古き良き名前を消し去ってしまっていたようです。
次回からは、杉本さんの講演内容に基づいて、宮崎県北が「日向神話の本舞台」と言われる根拠を考えてみたいと思います。
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講師は、前延岡市副市長の杉本隆晴さん。副市長時代から日向神話を観光振興に結びつけようと様々な施策に取り組まれていました。
特に、西南戦争で政府軍に敗れた薩摩軍が、北川町俵野の児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからだと提唱。西郷軍に従軍した深江権太郎の手記や、隆盛のひ孫に当たる西郷隆夫氏の証言などから裏付けされ、俵野を「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきました。
副市長退任後は、日向神話研究会(会長・有留秀雄笠沙の会会長)副会長として、高千穂、日向と連携しながら、日向神話をあらゆる角度から深く分析されています。
杉本さんは「宮崎県北は日向神話の本舞台」をテーマに、日向神話のあらすじを説明した後、文献などを紹介しながら「天孫降臨の高千穂はどこか」、「ニニギノミコトはどこから来たのか」、「笠沙の岬はどこか」、「可愛山陵はどこか」、「神武東征の出発地はどこか」などについて詳しく考察されました。
個人的に私は、「天孫降臨の地は西臼杵の高千穂」、「笠沙の岬は延岡市の愛宕山」、「可愛山陵は北川町俵野にある陵墓参考地」と思っています。
しかしながら、高千穂説に「西臼杵高千穂」と「霧島連山高千穂の峰」の2説あるように、笠沙の岬、ニニギノミコト御陵墓、東征出発地に関しても、既に鹿児島県内に比定地があり、宮崎県北はむしろ後発組≠フ感が否めません。
杉本さんは「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」と前置きした上で、そうした論点について文献史学から見た変遷を分かりやすく説明してくれました。
江戸時代には笠沙山と呼ばれていたものが愛宕山になっていたり、逢瀬川が大瀬川に、五ツ瀬川が五ヶ瀬川になっていたり、私たちは知らず知らずのうちに神話にちなんだ古き良き名前を消し去ってしまっていたようです。
次回からは、杉本さんの講演内容に基づいて、宮崎県北が「日向神話の本舞台」と言われる根拠を考えてみたいと思います。
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2019年06月16日
ブログ始めました!
今年5月で還暦を迎えました。
年齢的なものもあるかもしれませんが、ここ数年、この宮崎県北、延岡に暮らす自分たちのアイデンティティーを掘り起こすような仕事が多くなってきました。
社業の柱として取り組む「自分史」制作のための取材活動、郷土が生んだ偉大な詩人・渡辺修三の顕彰活動、日向神話の研究会、延岡市史編さんを願う会の活動等々。
第二次世界大戦終結から70年以上が経ち、新しい元号を迎えた今だからこそ、掘り起こし、後世に伝えていくべき重要な事ばかりと考え、微力ながらお手伝いをさせていただいています。
県外の大学を卒業後、生まれ故郷の延岡に戻り、地元夕刊紙の記者として23年、さまざまな分野の記事を書いてきました。
2〜3年スパンでスポーツ、警察・消防、行政・議会、経済といった専門分野の担当をこなしたほか、宮崎支社に3年半、日向支社に2年勤務させてもらい、民俗や文化関係の取材現場も経験することができました。
同期はもとより、先輩・後輩を含めた他の記者の誰よりも、恵まれていたかもしれません。記事の上手い、下手は別にしてですが…(^0^)。
新聞記者を辞めた後も、2誌のフリーペーパーの編集作業に携わりながら、ボランティアとして延岡発祥チキン南蛮党、ひむか感動体験ワールド、ひむかのくに・えんぱく、ひむか共和国実行委員会などの団体に関わり、ひむかエリアの魅力を内外に発信してきたつもりです。
そうした経験を踏まえながら、自分が見聞きし、教えられたこと、学んだことなどをこのブログを通じてお伝えしていけたらと思います。
始める以上は毎日更新が原則でしょうが、生来の怠け者のため、しばしば休むこともあるかもしれませんが、末永くおつきあいいただけたらと思います。
まずはごあいさつでした。
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年齢的なものもあるかもしれませんが、ここ数年、この宮崎県北、延岡に暮らす自分たちのアイデンティティーを掘り起こすような仕事が多くなってきました。
社業の柱として取り組む「自分史」制作のための取材活動、郷土が生んだ偉大な詩人・渡辺修三の顕彰活動、日向神話の研究会、延岡市史編さんを願う会の活動等々。
第二次世界大戦終結から70年以上が経ち、新しい元号を迎えた今だからこそ、掘り起こし、後世に伝えていくべき重要な事ばかりと考え、微力ながらお手伝いをさせていただいています。
県外の大学を卒業後、生まれ故郷の延岡に戻り、地元夕刊紙の記者として23年、さまざまな分野の記事を書いてきました。
2〜3年スパンでスポーツ、警察・消防、行政・議会、経済といった専門分野の担当をこなしたほか、宮崎支社に3年半、日向支社に2年勤務させてもらい、民俗や文化関係の取材現場も経験することができました。
同期はもとより、先輩・後輩を含めた他の記者の誰よりも、恵まれていたかもしれません。記事の上手い、下手は別にしてですが…(^0^)。
新聞記者を辞めた後も、2誌のフリーペーパーの編集作業に携わりながら、ボランティアとして延岡発祥チキン南蛮党、ひむか感動体験ワールド、ひむかのくに・えんぱく、ひむか共和国実行委員会などの団体に関わり、ひむかエリアの魅力を内外に発信してきたつもりです。
そうした経験を踏まえながら、自分が見聞きし、教えられたこと、学んだことなどをこのブログを通じてお伝えしていけたらと思います。
始める以上は毎日更新が原則でしょうが、生来の怠け者のため、しばしば休むこともあるかもしれませんが、末永くおつきあいいただけたらと思います。
まずはごあいさつでした。
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