2012年11月10日
土佐国の紹介(山之内一豊と妻)
本日の訪問ありがとうございます。
山内 一豊(やまうち かずとよ)をご存知ですか??
そうです土佐藩の初代藩主です。
山内但馬守盛豊の二男として尾張に生まれたそうです。
豊臣秀吉の天下統一後は播磨の大名として配置され、掛川城に入城し(一豊48歳)。
そして1600年、関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐24万石へと大抜擢され、一国一城の主となったようです。
妻・千代は岐阜県の郡上八幡出身の方と云われています。
まだ、一豊が織田家の一家臣でしかなかった頃、馬揃えと云うものがあり、近く行なわれる戦の前に、馬を一堂に集めてその検分をするようです。
その時、馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うが金がなかった。それをみかねた妻・千代は夫に何かあったらと父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡し、一豊はその10両でその馬を買いそのみごとな馬は信長の目をひき、感心を得たようです。
秀吉の没後、権力争いの動きが見え始め、再び戦乱の世へと傾いていた時、一豊は早くから家康に対して忠誠を見せ、関ヶ原の戦の前に、大阪にいる千代は、石田三成の監視下に置かれながらも夫・一豊に豊臣側の情報を送りました。
自分はどうなってもいいから、家康に忠義を尽くして下さいという内容の密書を送り、千代はその密書を開封せずに家康に渡すようにと一豊に伝えます。一豊はその千代の言葉通り、開封することなく家康に密書を渡し、自分の忠義を示したそうです。
この二つの逸話は有名だそうで、千代の内助の功によって一豊は出世できたと言われています。
それまで土佐国を治めていた長宗我部氏滅亡後土佐に入国し1601年から河中山城の築城を着手し、後に河中山は高智山と改名され、この高智が、現在の高知の由来だとされています。
1545年〜1605年没 61歳
その妻千代さんも61歳で没しました。
「夫婦とは・・・・・・!」
ブログを書く元気が出てきます。最後まで見て頂き有難うございます。
山内 一豊(やまうち かずとよ)をご存知ですか??
そうです土佐藩の初代藩主です。
山内但馬守盛豊の二男として尾張に生まれたそうです。
豊臣秀吉の天下統一後は播磨の大名として配置され、掛川城に入城し(一豊48歳)。
そして1600年、関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐24万石へと大抜擢され、一国一城の主となったようです。
妻・千代は岐阜県の郡上八幡出身の方と云われています。
まだ、一豊が織田家の一家臣でしかなかった頃、馬揃えと云うものがあり、近く行なわれる戦の前に、馬を一堂に集めてその検分をするようです。
その時、馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うが金がなかった。それをみかねた妻・千代は夫に何かあったらと父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡し、一豊はその10両でその馬を買いそのみごとな馬は信長の目をひき、感心を得たようです。
秀吉の没後、権力争いの動きが見え始め、再び戦乱の世へと傾いていた時、一豊は早くから家康に対して忠誠を見せ、関ヶ原の戦の前に、大阪にいる千代は、石田三成の監視下に置かれながらも夫・一豊に豊臣側の情報を送りました。
自分はどうなってもいいから、家康に忠義を尽くして下さいという内容の密書を送り、千代はその密書を開封せずに家康に渡すようにと一豊に伝えます。一豊はその千代の言葉通り、開封することなく家康に密書を渡し、自分の忠義を示したそうです。
この二つの逸話は有名だそうで、千代の内助の功によって一豊は出世できたと言われています。
それまで土佐国を治めていた長宗我部氏滅亡後土佐に入国し1601年から河中山城の築城を着手し、後に河中山は高智山と改名され、この高智が、現在の高知の由来だとされています。
1545年〜1605年没 61歳
その妻千代さんも61歳で没しました。
「夫婦とは・・・・・・!」
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