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高原茂
メンタル心理カウンセラー・上級心理カウンセラー・行動心理士の高原茂です。宜しくお願い致します。 「このサイトはアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。」 など
プロフィール

2024年11月21日

【瞑想を日課とする】

【瞑想を日課とする】

指導者がいなければ、

瞑想はできないというのは、

思い込みです。

何事も、

決めつけないことが肝要です。

独学で瞑想することはできます。

ディーパック・チョプラ博士の提唱する瞑想法をオススメします。

なぜなら、

チョプラ博士は、

ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に良好な状態)分野の第一人者だからです。

私は、

『ゆだねるということ(下)』(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

の中に書いてある瞑想を、

毎朝、実践しています。

おかげで、

以前に比べて、

随分、心が穏やかになりました。

あなたも試してみませんか?

(推薦図書)
『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
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【虫歯知らず】

【虫歯知らず】

私はかつて、

年数回は歯医者に行って、

虫歯の治療をしてもらっていました。

今は、

まったく治療に行ってません。

夜寝る前、歯磨きした後に、

L.ロイテリ菌のトローチを1錠なめるようにしてから、

口内環境が良くなり、

虫歯がなくなりました。

あなたも、

試してみてはいかがですか?

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【人間関係とは何か?】

【人間関係とは何か?】

人生において、

人間関係は不可欠なものです。

では、

人間関係とは何でしょうか?

これについて、

『ゆだねるということ(下)』(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)

の中に、こう書いてあります。

「人間関係とは何かを理解することが、
シンクロディスティニを実現するきわめて重要な鍵です。

現代社会やいわゆる西洋文明では、
大衆心理学に頼って自分の思考や感情を巧みに処理する方法を考え出そうとします。

自己啓発書は、
もっと満足できる人間関係を築き上げるためのコントロール術を提案しています。

しかし、

どれもみなノウハウにすぎません。

ノウハウを超えた積極的な人間関係が、
シンクロディスティニを起こす人的環境の下地となります。

地球に重力があり、空気があるのとまったく同じように、
人間関係は不可欠なものです。

第二の原理のスートラは、

『わたしは、それである』

という意味です。

この原理の土台である第一の原理で、
わたしたち全員が宇宙のエネルギーの領域に包みこまれていて、
異なる視点はもっていても、
実際には同じひとつの存在であることを学びました。

『わたしは、それである』とは、
世界のなかのあらゆるものを観察して、
自分のもうひとつの姿がそのすべてのなかに映し出されていると気づくことなのです。

あなたとわたしは同じであり、
すべてのものが同じです。

わたしは『それ』であり、
あなたも『それ』であり、
すべてのものが『それ』なのです。

誰もが他者を映し出している鏡です。

わたしたちは他人のなかに自分の姿が映し出されていることに気づかなくてはなりません。

これを『関係の鏡』と呼びます。

関係の鏡を利用して、
『すべて』である自己を見つけ出すのです。

人間関係は魂を進化させる手段でもあります。

この進化の究極の目標は、
宇宙との一体感を肌で感じとることです。

人間はひとり残らずこの宇宙の意識に含まれていますが、
日常生活のなかで宇宙とのつながりに気づいたときにしか、
わたしたちは大きく飛躍することができないのです。

また、
人間関係を断たれてしまうと人は生きてはいけません。

親、子供、恋人、同僚など、
自分が築きあげた人間関係の網の目をいつも意識しましょう。

心の奥底では人間関係のすべてがスピリチュアルな体験なのです。

人を愛しているときは、
時が止まったように感じるものです。

その瞬間、
あなたは不確実なものとも調和しています。

あなたは最高の気分を味わいつつも、
傷つきやすくなっています。

親密さを感じつつ、
危険にさらされたような気持ちを抱えています。

この状況のなかで、
人は変容していきますが、
そのことに不安はなく、
むしろ驚きの念を抱いています。

これがスピリチュアルな体験なのです。

あらゆる人間関係の鏡を通し、
わたしたちは自分の知覚が拡大されていくのに気づきます。

あなたが好きな人も、
嫌いな人も、
同じように自分自身を映し出す鏡です。

あなたはどんな人に魅力を感じますか?

おそらく自分と似た性格の人でしょうが、
同じというだけで好きになることはありません。

その人と仲良くなりたいのは、
付き合うことでその人物の特徴を自分でももっと表に出したいと潜在意識で思っているからです。

魅力を感じる人が現れたなら、
なぜその人物に心を引かれるのか、
自分の胸に問いかけてください。

魅力を感じたのは、
その人の美しさ、
気品、
優雅さ、影響力、
権力、
知性のいずれでしょうか?

理由が何であれ、
その人物の性質が、
あなたのなかでまだ開花していないことを確認してください。

そうすれば、
自分のほんとうの姿にもっと近づくことができます。

もちろん、
嫌いな人にも同じことが言えます。

自分が否定している性格を映し出している人物に対して、
人は嫌悪感を覚えます。

しかし、
とことん見つめれば、
あなたが嫌いな人物と共通する性格をもっていることにきっと気づくはずです。

ほんとうの自分の姿に近づこうとするとき、
あなたは自分自身の嫌な面に気づき、
その面に対処していかなくてはなりません。

対立している価値が共存しているところに、
宇宙の本質的な性質があります。

心のなかに臆病者がいなければ、
あなたは勇敢にはなれません。

内面にけちな人間が住んでいなければ、
太っ腹になることはできません。

悪の才能がなければ、
徳の高い人間にもなれないのです。

わたしたちはマイナス面がないかのように振る舞い、
嫌な性質をほかの人間に投影しています。

知らないうちに、
『ふさわしくない』人間を自分のまわりに引き寄せている人がいないでしょうか?

なぜ繰り返し、
そんなことになってしまうのか、
彼らは気づいていません。

そういった人は嫌いな人を引き寄せているのではなく、
自分のなかにも彼らと同じ性質があることを認めようとしないだけなのです。

不愉快な人間と出会ったなら、
対立するものの共存という逆説を受け入れ、
あなた自身の新しい面を発見する機会として利用してください。

あなたのスピリチュアリティ、
自己はそれで一歩成長します。

この世で悟りを開いている人は、
光と闇の両方がもつ可能性をきちんと受け入れています。

自分のマイナスの性質に気づき、
認めている人といっしょにいるとき、
あなたは彼らに評価を下されているとはまったく感じません。

何かを判断しようとするのは、
自分とは関係ないと一線を引き、
善悪、正誤を見きわめようとする心の表れなのです。

進んで自己の光と影の部分を認められた瞬間、
わたしたちは自分自身、
そして人間関係のどちらも改善していくことができるのです。

他人のなかに自分の姿を見いだせることがわかれば、
すべての人間関係が自分の意識を進化させる手段になります。

意識が進化すると、
知覚が拡大されていきます。

知覚が拡大された瞬間、
『すべて』である領域に到達し、
シンクロディスティニを体験できるようになります。

(中略)

どんな人間にも複数の顔、
いや、
あらゆる顔があります。

世の中に存在するすべてのものが、
あなたの心にも存在しています。

このような自分のもつさまざまな面を受け入れたとき、
宇宙の意識とのつながりに気づき、
あなたの認識は拡大されていきます。

関係の鏡が人生に及ぼす大きな影響について説明している、
スーフィー教の素晴らしい話があります。

ひとりの男がある村を訪れ、

村の古老でスーフィー教の師に会いに行きました。

訪問者は言いました。

『この村に引っ越そうかどうか、考えているところです。

ここに住む村人たちはどんな人か、教えていただけませんか?』

スーフィー教の師が、

『あなたが住んでいた村の人々は、どんな人たちでしたか?』

と逆に尋ね返すと、

訪問者は

『強盗、詐欺師、嘘つきだらけです』

と答えました。

すると、師はこう答えました。

『いいですか。

ここの村人もまったく同じ人間ばかりですよ』

男は村を去り、二度と戻ってはきませんでした。

三十分後、別の男が村にやってきました。

彼もスーフィー教の師を探し、こう尋ねました。

『わたしはここに引っ越そうかどうか、考えているところです。

ここに住む村人たちはどんな人か、教えていただけませんか?』

師は再び、

『あなたが住んでいた村の人々は、どんな人たちでしたか?』

と問い返しました。

訪問者は

『とても親切で、やさしくて、思いやりがあり、愛情深い人々でした。

会えなくなると、とてもさびしくなるでしょう』

と答えました。

すると師は答えました。

『ここに住んでいる村人もまったく同じ人間ばかりですよ』

この話は、他人のなかにもっともはっきりと見えている特色が、

自分のもついちばん強烈な性格であることを思い出させてくれます。

関係の鏡を覗き込めるようになると、

自分の全貌が見えてきます。

この鏡を使えるようにするためには、
曖昧な状況に置かれても不安にならず、
自分のもっているすべての面を認めなくてはなりません。

心の奥深くに否定的な特徴があるからといって、
人間失格というわけではないのです。

弱点のない人などひとりもいません。

自分の短所を認めるのは、
逆に自分が完璧な人間であることの証明なのです。」(39頁〜46頁)

外界は内界を映し出す鏡です。

鏡を利用して、

心の豊かさを追究することが大切です。

人間関係は、

己の魂を成長させる手段です。

人間関係のすべてが『学び』です。

人間関係を通して、

自己意識の進化と向上に努めましょう!

『すべての人が、自分自身の姿を映し出してくれる鏡だと思いなさい』(ディーパック・チョプラ)

『人のふり見て我がふり直せ』

(推薦図書)
『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
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2024年11月19日

【生き抜く】

【生き抜く】

『生き抜く』の意味は何でしょうか?

広辞苑に、こう書いてあります。

「苦しみに耐えて、どこまでも生き通す。」

大辞林には、こう書いてあります。

「困難や苦しみを克服して生き続ける。生き通す。」

新明解国語辞典には、こう書いてあります。

「@ 苦しいことをがまんし、困難を切り抜けて生きていく。

A 正しい生活を、どこまでも続けていく。」

明鏡国語辞典には、こう書いてあります。

「苦しみなどにたえて最後まで生き通す。」

艱難辛苦に耐え、

生き抜くには、

確固たる信念・人生哲学といった心柱が必要です。

天風哲学やチョプラ哲学を学ぶことをオススメします。

なぜなら、

人間の本質・人生の真実について、

核心を衝いているからです。

私も日々、学んでいます。

(推薦図書)
『運命を拓く 天風瞑想録』
(著者 中村天風 講談社文庫)
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『ゆだねるということ(下)』
(著者 ディーパック・チョプラ 訳者 住友進 サンマーク文庫)
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(参考図書)
『生きる』
(著者 石橋直道 講談社 エディトリアル)
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2024年11月18日

【八正道とは?】

【八正道とは?】

『八正道』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「仏陀が最初に説いた仏教の基本的な教えの一。
涅槃(ねはん)に至るための八つの正しいおこない。
すなわち、
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。」

ブリタニカ国際大百科事典には、こう書いてあります。

「仏教で説く実践の徳目。

一般人の生存は苦であり、
その苦の原因は妄執によって起るのであるから、
妄執を完全に断ち切れば完全な悟りを得ることができると考え、
その状態に到達するための修道法として説かれた8種の正しい実践をいう。
すなわち、
正しい見解(正見)、
正しい思惟(正思)、
正しい言語行為(正語)、
正しい行為(正業)、
正しい生活(正命)、
正しい努力(正精進)、
正しい想念(正念)、
正しい精神統一(正定)
の8つをいう。」

現代社会+政治・経済用語集には、こう書いてあります。

「苦を滅して解脱し、
涅槃(ねはん)にいたるための八つの正しい行いをいう。

正しく真理を見る『正見』を目的として、
正しい思惟『正思』と、
正しいことば『正語』、
正しい行動『正業』によって、
正しい生活『正命』をおくり、
正しい努力『正精進(しょうしょうじん)』が行われる。

すなわち、
正しい日常生活に基づき、
さらにそこから心を常に正しい状態に維持する力『正念』が確立し、
最後に正しい禅定(ぜんじょう)(=心の統一)『正定(しょうじょう)』が実現し、
悟りの智慧(ちえ)が生じて、
正しく真理をみることができるものである。

八正道は中道といわれる。」

倫理用語集には、こう書いてあります。

「苦を滅して解脱(げだつ)し、
涅槃(ねはん)にいたるための八つの正しい行いであり、
修行の基本となる徳目。

次の八種の修行方法をいう。

『正見』は物事を正しく観ずること。

『正思』は、
貪(とん)(貪欲)・瞋(じん)(怒り)・痴(ち)(愚かさ)を離れて心を正しく落ち着かせること。

『正語』は嘘や中傷をいわず、
正しく言葉を語ること。

『正業』は殺生などを避け、
正しい行為を行なうこと。

『正命』は戒律に従って正しい修行生活を送ること。

『正精進(しょうしょうじん)』は正しい方向に努力すること。

『正念』は万物を誤って常なるもの・快楽に満ちたものと見ることなく、
無常で苦に満ちたものと正しく念じること。

『正定(しょうじょう)』は正しい瞑想(めいそう)(禅定(ぜんじょう))を行なうこと。」


岩波 仏教辞典には、こう書いてあります。

「八つの支分からなる聖なる道の意。

苦の滅に導く八つの正しい実践徳目。

〈八聖道〉〈八支正道〉ともいう。

1)正見(正しい見解)、

2)正思(正しい思惟)、

3)正語(正しい言葉)、

4)正業(正しい行い)、

5)正命(正しい生活)、

6)正精進(正しい努力)

7)正念(正しい心の落着き)

8)正定(正しい精神統一)

の八つをいう。

釈迦の最初の説法(初転法輪)において説かれたと伝えられる。

四諦の教えにおいては道諦の内容を構成する。

また、
苦楽の二辺(いたずらな苦行と俗楽にふけるという二つの極端)を離れた中道の具体的実践方法としても説かれる。」

『ブッダの教えがわかる本』(著者 服部祖承 大法輪閣)

には、こう書いてあります。

「仏教には、
いろいろな修行法がありますが、
その中でも最も基本的で中心になるものが、
『八正道』です。

八正道とは、

@正見・A正思惟・B正語・C正業・D正命・E正精進・F正念・G正定の八つの正道のことです。

この正道の『正』『正しい』ということは、
すぐれたとか、
善いとかの意味だけでなく、
中道を守る修行であるというところから正しいのです。

この中道とは、
人間の生き方として決して極端に走らないということ。

そしてすべてに適切・適当であるということ、
これは度を過ごさないということです。

つまり、
あるべきところに、
あるべき状態であるということです。

また、
するべきときにするといったこと、
これが適切・適当であり、
中道なのです。

バランスの取れたあり方です。

これが八正道の修行なのです。

(中略)

正見とは、
正しくものを見るということです。

この正しくものを見るということは、
単に肉眼で観察して詳しく見るということではなく、
知見ということでもあります。

つまり、
その内容を見て知ることです。

では、
何をどう見て知るのでしょうか。

それは第一に、
因果観といわれ、
因果関係を認めることです。

そこに偶然というものはなく、
理由なくして存在するものはないということです。

第二は、
縁起観といわれ、
人間が生きているということが、
どんなに多くの人びとのはたらきや自然からの恩恵によるものかと知ることです。

この因果観と縁起観の二つを基本的な考え方として、
仏教の筋道を理解するのです。

その結果、
仏教の正しい世界観と人生観が得られ、
心は正しい方向に向けられ、
ものの考え方が正しくなります。

したがって仏教の修行でも、
まず第一に心を正しい方向に向けることが大切であり、
そして正しい計画を立てることが肝心です。

そのあとは、
正しい軌道に乗り、
容易に進むことができるのです。

これが正見です。

(中略)

八正道の第二は、
正思惟です。

正思ともいいます。

これは、
正しい考え方をしようということです。

この正しいということは、
先にも述べましたが、
中道ということで極端に走らず、
すべてに適切・適当であるということです。

したがって、
正しい考えとは、
バランスの取れた、
まさに適した考えということです。

私たち人間は、
無常の世の中に生きているのですから、
どのように生きたらよいかは、
大きな課題です。

そのために常に思い考えることは大切です。

ですから、
この思い考えることは正しくなければなりません。

では、
どのような考え方が正しいのでしょうか。

それについて、
次の三つの考え方がありますので、
ご紹介しましょう。

第一には、
貪欲(欲望・貪り)のない考え方です。

貪欲には愛欲や所有欲、
それに名誉欲・利益欲・権勢欲などがあります。

この欲に一度取りつかれると、
なかなか離れることはできません。

たとえば、
のどが渇いたときに塩水を飲むようなものです。

いくら飲んでも渇きがなくなるどころか、
いっそうひどくなるばかりです。

欲とはこのようなものですから、
欲にからんだ考え方は正しくはありません。

第二には、
瞋恚(怒り)のない考え方です。

瞋恚とは、
怒り・腹立ちのことです。

人間は感情の動物といわれるように、
自分の思うようにならないと不機嫌になり、
怒り、腹を立てるものです。

このような腹を立てた心で、
いくら考えても正しい考えとはなりません。

第三には、
愚痴(愚かさ)のない考え方です。

この場合の愚痴とは、
真理に対して無知で、
一切の道理に通じる智慧が欠けていることです(一般にいう『グチをいう』ということとは異なります)。

この愚かさに気づき、
常に全体を考え、
道理の上から正しく考えることが大切です。

以上の、
貪欲・瞋恚・愚痴は、
仏教では『三毒』といって、
あらゆる煩悩の中で最大のものとされています。

この煩悩を断つことも、
八正道の大切な修行です。

正思惟を行なうためには、
この三毒を断たねばなりません。

つまり、
欲望に執われず、
また感情に左右されず、
そして自己中心的でなく、
常に全体を考え、
しかも道理にかなった考え方をするよう心がけることが、
正思惟なのです。

(中略)

八正道の第三は、
正語です。

これは、
正しい言葉で、
正しく話そうということです。

人間の行なう行為には、
次の三つがあります。

第一は、
身体で行なう行為、
これを身業といいます。

第二は、
口で行う行為、
口業といいます。

そして第三は、
心で行う行為、
意業です。

この三つを仏教では、
身口意の三業といって、
人間の行なうすべての行為の根源としています。

正語は、
三業のうちの口業です。

(中略)

この正語を行なうためには、
次の四つの悪業から離れることが大切であると説かれています。

第一に、
妄語。

これは、
うそをついたり、
いつわりをいうことです。

これは誰が考えても正しくはありません。

真実を語らねばなりません。

第二は、
悪口。

これは、
人をあしざまにののしることです。

人の欠点や弱点をさらけ出して罵倒したり、
悪口雑言をいうことは、
正しくはありません。

第三は、
両舌。

これは、
二枚舌ともいい、
一つのことを二様にいうことです。

たとえば、
他人の仲を裂くために二人の人に対して異なることをいったり、
一方で聞いたことを他方に告げ口をし、
両方の間に、
不和を生じさせるような行為です。

また、
ねたみや中傷で、
他をおとし入れて自分の利益をはかる行為でもあります。

これは離間語といって、
正しくありません。

第四は、
綺語。

これは、
意味のない無益なおしゃべりのことです。

こびたり、
へつらったり、
機嫌をとり、
うわべは美しく巧みに飾ってはいるが、
結局、
人を惑わすような言葉です。

以上のような、
口の悪業から離れ、
真実を語り、
正しくほめたり、
温かいやさしい言葉をかけたりして、
お互いが協調、
融和できるように、
有益な言葉を語ることが正語なのです。

(中略)

八正道の第四は、
正業です。

これは、
正しい振る舞いをしようということです。

正しい振る舞いとは、
正しい行為や行動、
行いのことです。

人間は、
生きている限り、
絶えず何らかの行為や行動をしています。

そして、
この人間の行為、
行動の起こる根源は、
身口意の三業によると、
前項で申しました。

この正業は、
身体で行なう行為、
行動ですから、
身業です。

では、
この正業を正しく行なうためには、
どうすればよいのでしょうか。

正業には、
能動面と抑制面の二つがあります。

能動面は、
私たちが積極的になすべき行為です。

そして抑制面は、
私たちが、
おさえ、
つつしむべき行為のことです。

(中略)

正業を行なうためには、
善きことを身をもって行い、
自分の心を浄めるようにつとめることです。

そしてさらに行為をつつしむことにより、
心を浄くし、
反省の心や少欲知足の心を養い、
貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の心を薄めていくことです。

またさらに、
悪い行為として、
次の三悪があります。

それは、
殺生・偸盗・邪淫であります。

これは、
身体的悪業とされています。

したがって、
この三悪業から離れることです。

殺生とは、
生きものを故意に殺すこと。

偸盗とは、
他人のものをそれと知りながら盗むことです。

そして邪淫とは、
正しくない不倫の性行為です。

仏教では、
これらの悪業から離れるために、
五戒という戒律がありますが、
この中に不殺生戒、
不偸盗戒、
不邪淫戒として、
定められています。

このような悪業から離れて、
生きものを愛護し、
財物や教法などを惜しむことなく施し与え、
正しい夫婦関係を保つことが正業です。

この正業も正しい心、
前項の正思惟の結果として生きるものであります。

(中略)

八正道の第五は、
正命です。

これは、
正しい生活をしようということです。

この正しい生活とは、
正しい手段によって生きましょうということ。

正しい手段とは、
先の正業の考え方に反しない方法でということです。

つまり、
自分の行為をつつしみ、
心を浄く、
反省の心や少欲知足の心を養い、
貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩から離れるように生活することです。

(中略)

正しい生活法の中には、
正しい規則的な生活をすることも含まれています。

正しい規則的な生活とは、
夜は何時に寝て、
朝は何時に起きるのか。

また、
食事の時間や回数、
そしてその量や質なども、
自分に適したものであるかどうか。

さらに、
会社や学校などへ出かける時間など、
労働時間や勉学の時間、
その他休息や運動・娯楽など、
すべての日々の生活を規則的にすることです。

このような生活をすることによって、
健康を維持し、
仕事の能率も上がることでしょう。

規則的な生活は、
どんな境遇の人にも極めて大切なことであって、
これがよく守られているかどうかによって、
その人が成功するかどうかが決まります。

正命は、
正業を実践する受容な場であるのです。

ですから、
この正命も能動と抑制の両面があり、
正業の精神が生かされねばなりません。

(中略)

八正道の第六は、
正精進です。

これは、
正しい努力をしようということです。

正しい努力とは、
善の理想に向かって、
勇気をもって邁進することです。

精進という言葉は、
日常よく使われます。

心をひとすじにして進む、
懸命に努力するということです。

この精進に対して、
懈怠(なまけ)をいう言葉があります。

これは、
善の理想に向かって進むことを怠ることですから、
邪悪の面に進むことです。

ですから、
これを邪精進といいます。

(中略)

仏教での正精進は、
さらに自分自身の心のあり方を常に抑制し、
修行の目的が達せられるように、
正しく維持することと説かれています。

要は、
心で心を抑制する努力を続けることです。

つまり、
なまけず、
勝手気ままな心に流されないようにすることです。

(中略)

八正道の第七は、
正念です。

これは、
正しい憶念をしようということです。

念とは、
憶念のことですが、
記憶して忘れないということです。

そしてこの念には、
経験したことを記憶にとどめ、
その記憶したことを思い出して再現するという意味があります。

つまり、
仏教者として必要なことは、
常に心にかけ、
忘れないでおくということです。

(中略)

八正道の第八は、
正定です。

これは、
正しい精神統一をしようということです。

定とは、
定意(意を定め、しずめること)とか等持(心を等しく平静に持つこと)ともいわれます。

また読書三昧や道楽三昧というときの三昧のことでもあります。

三昧とは、
そのことに専心し、
熱中することです。

しかし正定は、
正しい三昧でなければなりません。

また正定は、
禅定とも静慮ともいわれ、
やはり正しい精神統一のことです。

この禅定は、
仏教の大切な修行法であって、
六波羅蜜の一つで禅定波羅蜜ともされ、
お釈迦さまも、
菩提樹下で悟りを開かれたとき、
この禅定、
つまり正定を実践されたのです。

では、
この正定を修めるためには、
どうすればよいのでしょうか。

そのためには、
坐禅という形が基本とされています。

坐禅は、心を訓練する方法です。

それには、
まず姿勢を正しくして坐り、
次に呼吸を整え、
そして心を整えるのです。

通常これを二十分から五十分間持続します。

この訓練を持続することによって、
広やかな心が養われてきます。

やがて今まで気づかなかったことに気づき、
執われから解放され、
いわゆる心眼が開けてくるのです。

ところで、
経典によれば、
この正定は四禅定であると説かれています。

この四禅定とは、
禅定の深まりゆく過程を、
第一禅から第四禅として説いたものです。

第一禅(初禅)は、
人が静かに坐って体と呼吸を整え、
ホッとした安らかな落ち着いた気持ちになること。

第二禅は、
心の安静とともに、
法悦ともいうべきよろこびを味わうこと。

第三禅は、
さらに心が落ち着いてきて集中が深まり、
常識的な意識が休止して雑念が去り、
法悦のよろこびもしずまって、
より落ち着いて、
静かに解放された安楽な心となってくる状態のこと。

第四禅は、
心の落ち着いた集中が、
さらに深まり浄められ、
安楽の想念さえもなくなって、
心はひたすら澄んでくる状態のこと。

要するに、
正定とは、
単なる精神統一ということにとどまらず、
執われのもととなるあらゆる思考を静め、
心眼に目覚めることなのです。」(54頁〜69頁)


八正道を学び、

真理を究め、

修行を実践して、

悟りを開きましょう!


(推薦図書)
『ブッダの教えがわかる本』
(著者 服部祖承 大法輪閣)
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2024年11月17日

【Creatorの意図とは?】

【Creatorの意図とは?】

宇宙は偶然に出来たのではありません。

宇宙全体を創り出している根源的な知性の存在を認めることが大原則です。

アインシュタインは、こう述べています。

『科学を真剣に追究する人は誰でも、人間の意志よりも優れているある意志が、はっきりと宇宙の法則を示していると確信するようになる』(1936年、フィリス・ライトという学生に科学者は祈るのかと聞かれた時)

仏教でいうところの『唯識』が示すとおり、

意識のみが宇宙の唯一の実在です。

人間の本質も、

宇宙の本質も、

意識です。

宇宙意識のみが実在であり、

すべては『ワンネス』です。

生物の進化・人類の進歩・精神文化の進展・物質文明の発展を見れば、

明らかに、

宇宙意識(Creator)の意図は、

『進化と向上』

にあります。

したがって、

私たちの天命は、

『自己意識の進化と向上に努めること』

です。

自己啓発・自己研鑽・自己陶冶に励みましょう。

どこまでも高みを目指し、

魂を成長させましょう!

『百尺竿頭一歩を進む』

The best may amend.
(最上の者も改められよう)

(参考図書)
『ゴッド・コード――遺伝子に秘められた神のメッセージ』
(著者 グレッグ・ブレイデン 訳者 島津公美 ダイヤモンド社)
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『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』
(著者 三田一郎 講談社)
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2024年11月16日

【六波羅蜜とは?】

【六波羅蜜とは?】

『六波羅蜜』とは何でしょうか?

岩波 仏教辞典に、こう書いてあります。

「大乗仏教において菩薩に課せられた6種の実践徳目で、〈六度〉ともいわれる。

1)布施(檀):財施、法施(真理を教えること)、無畏施(恐怖を除き、安心を与えること)の3種。

2)持戒:戒律を守ること。

3)忍辱:苦難に堪え忍ぶこと。

4)精進:たゆまず仏道を実践すること。

5)禅定:瞑想により精神を統一させること。

6)智慧(般若):真理をみきわめ、悟りを完成させる智慧。

六波羅蜜の中ではこの智慧波羅蜜が肝要とされ、
前の五波羅蜜はこれを得るための準備手段として要請される。

波羅蜜とはこれら6種の徳目の完成態をいう。」

『六波羅蜜のはなし』(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)

には、こう書いてあります。

「お経にはな
おまえが
知りたがっている
さとりの世界に
いたる教えが
説かれているんじゃ

(中略)

仏教では
大きな河を
想定してな

河のこちら側の
世界を “此岸” と呼び
向こう側の世界を
“彼岸” と呼んで
いるんじゃ

此岸とはな
わしたちが住む
この世のことじゃ

煩悩や迷いに
満ちた
世界のことじゃ

彼岸とは
煩悩や迷いを
断じつくした
さとりの世界の
ことじゃ

この此岸から
彼岸へ
わたることを
到彼岸という

到彼岸する
ことによって

わしたちは
ほとけになれると
説かれているのじゃ

(中略)

この世に生きる
人間たちは

おのれの欲に
目がくらみ
たいせつなものを
見失っている

(中略)

その欲を捨てて
さとりにいたった
世界が
向こう岸・・・・

つまり
彼岸の世界
なんじゃ

その欲を捨てて
向こう岸に
いたるのじゃ
彼岸の世界に
いたるのじゃ

(中略)

まずは
“少欲知足” を
身につける
ことじゃな

(中略)

欲を少なくして
わずかなもので
満足する心を
もつという
ことじゃ

(中略)

少欲知足と
ことばで言うは
たやすいが

だれにでも
簡単にできる
ことではない

しかし
欲におぼれて
いるうちは
決してさとりは
開けん

どこかで
限度を設けて
“もうこれでじゅうぶんです” と
思う心がけが
大事なんじゃ

(中略)

これからが
本題じゃ
仏教には
六波羅蜜という
教えがある

(中略)

布施行

持戒行

忍辱行

精進行

禅定行

智慧行

といってな
わしたちが
積まねばなるぬ
六つの修行の
ことじゃ

真の布施とは

相手のために
するのでは
なく

自分のために
するのじゃ

(中略)

させて
いただくの
じゃよ

その気持が
あって
はじめて
ほんとうの
布施ができる

お釈迦さまは
その前世において
自分のいちばん
たいせつなものを
捨ててまで
布施の修行を
されたと言われる

われわれには
とても
そこまでは
できん

しかし
できないから
それでいい・・・・と
いうわけではない

われわれは
そこまで
できないことを
自覚して

布施を常に
心がけていくことが
大事なのじゃ

ほんとうの布施を
するためには

まず
こだわりを
なくすことじゃ

おれがおまえに
施してやるんだから
おまえはおれに
感謝しろ

そんな気持ちでは
いつまでたっても
ほんとうの布施は
できぬ

布施とは
捨てることじゃ

自分のもっている
ものを捨てさせて
いただくことじゃ

自分が捨てたものを
後はどうしようが
他人におまかせする
そういう気持ちで
するのが布施じゃ
そして布施するときには
心をスッカラカンに
することじゃ

布施を受けて
いただいて
ありがとうという
気持ちをもてば
いいのじゃよ

(中略)

布施行は
ただ人にものを
あたえればよいと
いうものではない

真の布施と
なるためには
次の三つを
忘れてはならん

布施をする側に
施してやるという
おごりがあってはならぬ

同じように
布施された側も
相手に恩義を感じて
いるようではいかん

そして
布施する品は
ぬすんだもので
あってはならぬ

この三つが
そろわねば
ならんのじゃ

(中略)

相手に恵んで
やるんだ

という思い上がった
気持ちや

感謝のことばを
相手に求めたり
する気持ちが
少しでもあると
それは布施には
ならない

布施とは
本来させて
いただくもの

布施をさせて
いただいたら
感謝の気持ちを
もつべきなんじゃ

こういう
気持ちがないと
ほんとうの布施は
できない

(中略)

せちがらいこの世の中
わしらは笑顔という
ものを忘れておる

自分じゃ
気がつかんが
イライラしたり
クヨクヨしたり・・・・
そんな心が顔に出て
ことばに表れる

(中略)

いいかい
和顔とは
柔和な顔
のこと

つまり
笑顔じゃ

そして
愛語とは
やさしいことば
思いやりのことば
のことじゃ

笑顔の布施と
ことばの布施
これが
和顔愛語じゃ

これなら
だれにでもできる

(中略)
例えばじゃ
寝たきりの
病人であっても

看護して
くれる人に
笑顔を布施して

ありがとうの
ことばを
布施することは
できる

赤ん坊は
いつもにこにこと
笑っているが

あれはほとけさまが
赤ん坊には
布施する財産が
ないからと

あたえられた
笑顔という
布施なのじゃ

われわれは
おとなになると
笑顔をなくして
仏頂面をする

(中略)

こんな世の中でも
やさしいことばの
一つでもかけ合えば
ずいぶんちがってくる
とは思わんか

(中略)

夫婦の間でも
そうじゃよ

おたがいに
やさしさと
いたわりをもって
接すれば

そうけんかも
起こらんじゃろう

(中略)

そうじゃ みんなが
和顔愛語で
くらしていけば
この世の中も
もう少し
住みやすくなるし

さとりの
世界にも
少し近づくの
じゃよ

(中略)

六波羅蜜の
第二番目の
持戒とはな

戒を保ち
守ることじゃ

中でも
五戒という
五つの戒めは
大事な修行なんじゃ

一 不殺生戒
  生き物を殺すなかれ

二 不倫盗戒
  ものをぬすむなかれ

三 不邪淫戒
  夫や妻以外の異性と
  性的な交わりを
  もつなかれ

四 不妄語戒
  うそをつくなかれ

五 不飲酒戒
  酒を飲むなかれ

・・・とあるがな
在家の者には
この五戒が
基本となる

(中略)

わしたち凡夫が
人間という存在の
弱さを自覚するために
戒がもうけられたのじゃ

わしたち人間は
どんなに努力をしても
戒を完全に守る
ことはできんのだ

(中略)

人間は戒を守り通す
ことはできない

ということを
お釈迦さまは知っておられたのじゃ

(中略)

この教えを
“捨戒便法” と
言うのじゃ

(中略)

仏教の
戒とは

戒を守れない
人間の弱さを
自覚するために
あるのじゃ

それを知った
うえで
自分の弱さを省み
深く懺悔する

そのために
戒はもうけ
られたのじゃ

人間は弱い
存在だから
戒を破ったからと
いって
決して負けたわけでは
ないんじゃよ

これが持戒の
ほんとうの
意味じゃよ

(中略)

六波羅蜜の
三番目は忍辱じゃ

忍辱とは
文字どおり

他人から
めいわくや侮辱を
受けたとき
じっと耐えしのぶ
ことを言うのじゃ

いつも心を
平安に保ち

絶対にいかりの
気持ちを
起こさない

もっと
積極的に
言うと

他人を許す
心じゃ

それが
忍辱じゃよ

(中略)

人間は
この世に生きて
いる限り
どうしても
他人にめいわくを
かけてしまう
のじゃよ

そしてな
そのめいわくを
許してもらって
生きている
のじゃよ

だとすれば
わしたち自身も
他人から受ける
めいわくや侮辱に
耐えしのばねばならぬ

それが
忍辱じゃ

(中略)

わしたちは
他人にめいわくを
かけなければ
生きられない
存在なのじゃ

はっきりと
そのことを
自覚できたとき

他人から
めいわくを
受けても
じっと耐えしのび

それを許す心を
もつことができる
ようになる

(中略)

じゃから
わしたちは
忍辱を実践し

他人を
いつくしむ心を
もたなくては
ならないのじゃよ

(中略)

六波羅蜜の
第四番目は
精進じゃ

精進とは
努力するという
意味だが
ただ努力をすれば
いいという
わけではない

正しい努力で
なければ
精進ではない

(中略)

正しい努力とは
智恵のある
努力を言うのじゃ

これに対し
まちがった努力とは
ただがむしゃらに
努力することじゃ

(中略)

金もうけのために
必死で努力する

いわば
馬車馬が
目の前に
にんじんを
ぶら下げられて
やみくもに
走っているような
努力・・・・

こんな努力は
精進とは言えん

二十九歳で故郷の
カピラ城を出て
修行僧となった
お釈迦さまは

三十五歳で
さとりを開かれる
までの六年間
毎日厳しい苦行をされた

しかも
その中心は
極端な断食行で
あった

お釈迦さまとともに
苦行をやっていた
五人の仲間たちは
口をそろえて

この男は
断食によって
死んでしまった

――と言ったほど
それはすごい
苦行であった

その苦行のさなか
お釈迦さまは
農夫のうたを
耳にした

琵琶の絃
きりり
しめれば
ぷつり切れ

さりとて
ゆるめりゃ
べろん
べろん

(中略)

修行中の
研ぎすまされた
精神の極みにあった
お釈迦さまは
このうたから一つの
真理を得られた

(中略)

釈迦族の
王子として
栄耀栄華を
極めることも
極端であれば

死とすれすれの
苦行もまた
極端である

このような
両極端に
固執していては
さとりは
開けない

両極端に
かたよらない道――

われは
中道をいく

そう決意された
のじゃよ

お釈迦さまは
この中道によって
さとりに到達
されたのじゃ

したがって
精進とは

この中道に
基づいたもので
なければ
ならんのじゃ

あまりにも
極端な努力は

この中道の精神に
反するから
精進とは認めない

(中略)

精進とは
欲望を
コントロールして

足るを知る心を
もったうえで
努力すること
なんじゃ

足るを知る
心を失うと

わしたちは
餓鬼になって
しまうぞ

餓鬼とは
何ごとにも
満足できずに
むさぼりの心を
もった存在なのじゃ

ゆったりと

かたよらずに

のんびりと
努力すること

それが
精進波羅蜜じゃ

(中略)

禅定とは
いわゆる
座禅のことじゃ

これはな
精神集中の
修行でもあるが

また
精神解放の
修行でもある

(中略)

禅の修行というと
なにか特別な教えが
あるにちがいないと
思いがちじゃが

それは
まちがった解釈で
日常の生活の中
にこそ禅がある

(中略)

乱れた心を統一し
安定するのには
特別な教えなど
なにもない

特別な方法が
あると思うと

それに
こだわってしまい
正しい禅定が
できなくなってしまう

(中略)

飯を食べ
茶を飲む
掃除をし
しごとをする

日常生活の
あたりまえのことを
あたりまえに
できるようになる
これが禅定なんじゃ

“日日是好日”
という
ことばがある
これはの

晴れの日には晴れを愛し
雨の日には雨を愛す
災難に遭う時には
災難を受け止め
つらい時には
そのつらさと向き合う

という意味なのじゃ
こういう心があれば
すべて好日なのじゃ

つまり
事実をありのままに
受け止めて
とらわれないという
姿勢がたいせつなのじゃ

つまり
“こだわるな”
“迷うな” と
教えているの
じゃな

また お釈迦さまの
説かれた“禅” は
“瞑想” と思ったほうが
よいじゃろうな

瞑想というのは
極端に言えば
心をぼうっと
させることで
あるからのう

取り立ててなにか
技術がいるわけ
でもない

(中略)

あまり
禅の技術を
とやかく説いては

真の禅定には
ならんからな

一日一回は
心をぼうっと
させる時間を
もつことじゃ

(中略)

さて いよいよ
六波羅蜜の最後は
智恵行じゃ

今まで話してきた
布施 持戒 忍辱
精進 禅定を
実践することで
はじめて智恵を
完成することができる

そして
その智恵に
支えられて
布施 持戒 忍辱
精進 禅定を
完成することができる

まあ
言ってみれば
これらは
車の両輪のような
ものじゃ

両輪の均衡が
とれてはじめて
車は前に
進んでいける

智恵が高まり
般若といわれる
もっと高い次元の
智恵となる

(中略)

人間はみな
智恵を
もっている

けれども
悲しいかな
その智恵は
ねむっておる
のじゃよ

(中略)

仏教とは
智恵の教え
なのじゃ

(中略)

智慧波羅蜜はな
世間でよく言う

役に立つとか
立たないとか
そういったものを
超越したものなんじゃ

もっと
あっけらかん
として

おおらかで
自由な智恵
なんじゃ

ものごとを
ありのままに
見つめることの
できる智恵
なんじゃよ

(中略)

頭を空っぽに
すれば
智恵が入る
ようになる

わしたちは
あれこれ先入観を
もっておる

その先入観に
しばられて
思い悩む

つまり先入観に
じゃまされている
わけじゃ

じゃから
苦しみや悩みを
克服するための

いい智恵が
浮かんでこないのじゃ

事が終わって
しまった後に
なって

あんがい
いい智恵が
浮かんでくる

それは
先入観がなくなる
からじゃろう

それが
わしらが
よくやる
後知恵という
ものじゃな

(中略)

わしたちは
いろいろな先入観に
じゃまされて

迷うから
いい智恵が
出てこないのじゃ

(中略)

智恵とは
“空” の教えなんじゃ

(中略)

空とはな

差別するな
こだわるなと
いうことじゃ

(中略)

世の中には
きれいだ
きたないだ
なんてものはない

善もなければ
悪もない

そう思う心が
差別なんじゃ

そんな差別の心を
捨てて無心になって
虫を見る

それが
空の教えなんじゃ

(中略)

空である存在を
わしたちの心が
さまざまに差別
しているのじゃ

『般若心経』
にはな

差別をするな
たとえ差別をしても
その差別に
こだわるなと
教えているんじゃ

(中略)

あまり
空だ 空だと
言っていると

こだわるなと
言っとるわしが
空にこだわることに
なるしな

ただ
これだけは
言っておくぞ

空の実践とは
中道を歩むと
いうことじゃ

こだわりを捨て
執着を離れ
あるがままに物事を
見る空の立場に
立つことなのじゃ

空の立場に立って
はじめて中道を
歩めるのじゃよ

空が
中道であり

中道が
空なのじゃ

わしが話してきた
六波羅蜜を
心がけて
ゆっくりと
修行にはげめば

きっと
彼岸に
行けるぞ」

六波羅蜜を学び、

真理を究め、

修行を実践して、

悟りを開きましょう!

(推薦図書)
『六波羅蜜のはなし』
(原作 ひろさちや 漫画 森村たつお 鈴木出版)
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2024年11月15日

【 『一切皆苦』について 】

【 『一切皆苦』について 】

仏教教理を特徴づける根本教説である四法印の一つに『一切皆苦』があります。

『一切皆苦』の真意は何でしょうか?

これについて、

『わかりやすい 仏教用語辞典』(大法輪閣)

の中に、こう書いてあります。

「 “人生は苦である。この世のあらゆる存在も現象も、すべて苦の原因でないものはない”

などと言うと、恐らく現代の青年から総スカンを食って

“馬鹿言うな。こんな楽しい人生があるもんか。
うまいもの食って、好きな奴と一緒に暮らして、働きたい時に自分にあった仕事をすることができるこの世は、まったく楽しみに満ちてるじゃないか。
もっとも、自分の思い通りにならない時だけは必ずしもそうは思わんがね”

とでも言われかねない。

確かに、
腹がペコペコの時に、
うまいものを食べたり、
好きな相手と結婚したり、
待ち望んでいた子供が生まれたり、
職場で昇給・昇進したりした時には、
まさにこの世は喜びに満ちたものであって、
冗談にも苦しみとは感じないだろう。

“楽は苦のたね、苦は楽のたね” というので、
たとえ自分の思い通りにならない場合でも、
きっと将来、
今の苦しみが楽しみに変わってくれる、
と信じて努力していけば、
苦しみだって苦しみにはならない、
という理論も成りたつ。

問題なのは、
現在楽しみであると考えていることが本当に実現した時に、
それがいつまでも楽しみであり続けるかどうか、
ということなのである。

やっとお腹が一杯になって喜んでいる時に、
“さあもっと食え” と出されたら、
どんなうまいものでも苦しみのたねになるし、
理想の異性と結婚した喜びが、
いつまでも続いていれば、
世の中の夫婦がけんかわかれをするわけもないし、
生まれた子供が成長してその子に泣かされる親がいかに多いかを見ても、
同じことがいえる。

係長になったものは、
次に課長・部長・重役・社長と、
だんだんと欲望が大きくなり、
社長だって満足していないことは、
ご本人がよく知っているはずだ。

なぜそうなのだろうか。

それは、
この世のあらゆるものが、
永遠の存在ではないからである。

“今がいちばん可愛い頃だから、どうかこれ以上大きくならないように” といくら願ってみたところで、
子供はどんどん成長し、
憎まれ口をたたき、
学校の成績で心配をかけ、
さんざん親に反抗し、
しまいには、
雷族になって事故をおこして死んでしまうことにもなる。

幸福だと感じている人は、
“どうかこのままの状態が続きますように” と願い、
不幸だと感じている人は、
“早くこの苦しみがなくなりますように” と願う。

結局、
幸福も不幸も、
ともに永遠ではないかわりに、
このような相対的なものは、
結局のところ、
すべて人間を苦しめる原因になっていることに気がつく。

永遠でないものを永遠と錯覚することから離れなさいよ、
というのが一切皆苦を説いた釈尊の真意なのである。」

私たちは、

存在を固定不変と考え、

欲望や憎悪の対象として執着するので、

一切皆苦となります。

万物の無常・無我を知らないこと(無明)、

何ごとかの永続を願う我々の迷いの生は、

苦しみでしかありえません。

諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印を学び、

真理を究め、

修行を実践し、

悟りを開きましょう!

(参考図書)
『わかりやすい 仏教用語辞典』
(大法輪編集部編 大法輪閣)
↓↓↓
https://amzn.to/3UQFwvQ



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2024年11月14日

【四諦とは?】

【四諦とは?】

『四諦』とは何でしょうか?

大辞林に、こう書いてあります。

「四つの真理の意。
苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦の総称。
十二縁起と並ぶ仏教の根本教理。
四聖諦(ししょうたい)。」

新漢語林には、こう書いてあります。

「迷いとさとりの因果を説明する四つの真理。
苦(現世の苦悩)・集(肉体・財産への執着)・滅(安楽の境地)・道(実践修行)。」

旺文社 全訳古語辞典には、こう書いてあります。

「仏教の根本教理である苦・集・滅・道をいう。
人生は苦であるという苦諦、
苦は過去の煩悩(ぼんのう)・業(ごう)の集積の結果であるという集諦(じったい)、
煩悩を滅し苦から解脱(げだつ)することが涅槃(ねはん)(=悟り)の境地であるという滅諦、
悟りに達するために仏道を修行しなければならないという道諦。」

ブリタニカ国際大百科事典には、こう書いてあります。

「真理を4種の方面から考察したもの。
釈尊が最初の説法で説いた仏教の根本教説であるといわれる。
(1)苦諦(この現実世界は苦であるという真理)、
(2)集諦(じったい。苦の原因は迷妄と執着にあるという真理)、
(3)滅諦(迷妄を離れ、執着を断ち切ることが、悟りの境界にいたることであるという真理)、
(4)道諦(悟りの境界にいたる具体的な実践方法は、八正道であるという真理)の4種。」

現代社会+政治・経済用語集には、こう書いてあります。

「仏教の根本教理であり、中心的な教説。
いかなる実践を通じて解脱(げだつ)にいたるかを示す四つの真理(苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい))をいう。

苦諦(苦の真理)とは人生は生老病死(四苦)などの苦に満ちており、
これらの苦は自己の人生にとって避けられない、『人生は苦なり』と自覚することである。
集諦(原因の真理)とは、
これらの苦を集め起こす苦の原因が無知や渇愛(かつあい)が種々の煩悩(ぼんのう)を起こすことにあることを知ることである。

この無知や渇愛が滅し、
苦の束縛から解脱した状態を滅諦(苦の滅の真理)という。

この苦の滅にいたる実践的方法が道諦(道の真理)といわれ、
具体的に八正道によって示されている。」

倫理用語集には、こう書いてあります。

「仏陀が初転法輪で説いた内容で、仏教の根本教理。

いかなる実践を通じて解脱(げだつ)にいたるかを示す四つの真理(=苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい))をいう。

四聖諦(ししょうたい)、
苦集滅道(くしゅうめつどう)ともいう。

苦諦(苦の真理)とは、
人生は生老病死(四苦)などの苦に満ちており、
これらの苦は自己の人生にとって避けられない、『人生は苦なり』と自覚することである。

集諦(原因の真理)とは、
これら苦を集めおこす原因が、
無知(無明)から起こる種々の欲望(煩悩(ぼんのう))にあると知ることである。

滅諦(苦の滅の真理)とは、
原因である煩悩や、
さらにその原因である無明を滅却(めっきゃく)すれば、
苦しみもなくなるということである。

そして最後の道諦(道の真理)は、
煩悩を滅却するための具体的な実践方法を意味し、
八正道という八種の正しい修行方法によって示される。」

岩波 仏教辞典には、こう書いてあります。

「諦(satya)とは真理のこと。

四つの真理で、苦諦・集諦・滅諦・道諦の総称。

〈四聖諦〉ともいう。

釈尊が鹿野苑における最初の説法(初転法輪)において説いたとされる、仏教の根本教説。

〈苦諦〉は、迷いの生存は苦であるという真理。

〈集諦〉は、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理。

〈滅諦〉は、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理。

〈道諦〉は、苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(八正道)によらなければならないという真理。

四諦の教えは、
しばしば治病原理になぞらえられる。

すなわち、
苦諦は病状を知ること、
集諦は病因を知ること、
滅諦は回復すべき健康状態のことであり、
道諦は良薬であるとされる。」

『ブッダの教えがわかる本』(著者 服部祖承 大法輪閣)

には、こう書いてあります。

「ブッダ=お釈迦さまのお悟りになった『最高の真理』とは、
一体どのようなものだったのでしょう。

お釈迦さまは、
悟りへの道を、次の四つの真理としてまとめておられます。

その四つの真理のことを『四諦』(四聖諦とも)といいます。

つまり、
苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つのことです。

まず最初の苦諦ですが、
これはこの世のすべてが苦であるとする考え方です。

そして、
人生の基本的な苦として、
生・老・病・死の四苦をあげます。

ところで、
この四つの中で、
『生』がどうして苦なのでしょうか。

これは、
私たちがこの輪廻の世界に生まれることによって、
老と病が始まり、
やがて死を迎えることになるのですから、
生まれることこそ、
苦しみの根源であるといえるわけです。

また、
さらに次の四苦を加えて八苦とします。

愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦です。

愛別離苦とは、
愛する者と別れなければならないという苦しみです。

怨憎会苦とは、
その逆に怨み、憎んでいる者に会わなければならないという苦しみ。

求不得苦とは、
求めても、得られないという苦しみ。

そして最後の五陰盛苦とは、
自分に執着することからくる苦しみです。

初めの四苦と合わせると八苦となり、
これを私たちは『四苦八苦』と呼んでいます。

この言葉は、
私たちが平常からよく使っているのでご存知でしょう。

このように、
お釈迦さまは、この世の一切が『苦』であると説かれて、
第一の真理とされました。

次は集諦です。

集諦とは苦の『原因についての真理』のことです。

この世の一切のことが苦だとすると、
それには必ず原因があるはずです。

たとえば、
何か欲しいものがあって、
それが手に入らないときは苦しみになります。

しかし、
欲しいと思わなければ苦しむことはありません。

つまり、
物に執着があるから、
また欲があるから苦しまねばならないのです。

したがって、
お釈迦さまは、
執着するからよくない、
欲を持ってはいけないと結論づけられました。

これが『原因についての真理』です。

では、
その苦しみの原因をなくすためにはどうすればよいのでしょうか。

その原因になるものは、
私たちの執着や欲望ですから、
それを断ちさえすればよいことになります。

これが滅諦といわれる第三の真理です。

そして、
第四の真理は、
この執着や欲望を断つための方法についての真理です。

これを道諦といいます。

この方法として『八正道』を実践することが説かれます。」(52頁〜53頁)

釈尊の『教え』を学び、

真理を明らかにし、

実践修行して、

悟りを開きましょう!

(参考図書)
『ブッダの教えがわかる本』
(著者 服部祖承 大法輪閣)
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2024年11月13日

【逆境は成長のもと】

逆境は、

魂の成長の素因となります。

逆境が人を育てます。

これに関して、

『逆境は成功のもと』(著者 ジグ・ジグラー 訳者 幾島幸子 日経BP社)

の中に、こう書いてあります。

「十九世紀までは、
職人の技術は代々父から子へと教えられるのが当たり前だった。

手工業に必要な技は、
世代から世代へと受け継がれた。

そんな頃、
ある靴屋が九歳になる息子に、
靴屋になる技術を身につけさせようと訓練を始めた。

ところがある日、
作業台から落ちた千枚通しが、
息子の視力を奪ってしまった。

当時の医学の知識や技術では手の施しようがなく、
息子は傷ついた目ばかりかもう片方の目の視力も失ってしまった。

靴屋は息子を盲学校に入れた。

当時の盲学校では、
木を文字の形に刻んだ大きな積み木を使って読み方を教えていた。

積み木は手で扱いにくい不細工なものだったため、
文字を学ぶにはひどく時間がかかった。

靴屋の息子は文字を学ぶだけで満足せず、
もっと簡単に学べる方法があるはずだと考えた。

その後長い年月の末、
息子は紙に開けた小さな穴を使って読む、
目の不自由な人のための新しい文字を考案した。

その際道具に使われたのは、
彼を盲目にしたあの千枚通しだった。

この人の名はルイ・ブライユ。

点字法の考案者である。

大事なのは自分に何が起こったかではなく、
それにどう対処するかだ、
という言葉のとおりである。

私はレーガン元大統領が第一期目を振り返って語った言葉が大好きだ。

『私はホワイトハウスに来てからというもの、補聴器の世話になり、大腸を手術し、皮膚ガンを患い、前立腺も手術し、そのうえ狙撃された』。

ここで一呼吸おいた大統領は、
こう続けたのだ――

『でも、人生で今が最高だ』。

身に降りかかった不運を嘆くことより、
こうした態度が人間を前進させることに異論はないだろう。

『先の見通しが悪かったら、上を見ることだ。
きっと良く見えるはずだから』

というヘレン・ケラーの言葉を、
ぜひ試してみてほしい。

誰もがいつの日か、
生活水準ではなく生きる姿勢で、
富の大きさではなく心の広さで、
外見の立派さではなく素朴な善人であることによって評価される。」(207頁〜208頁)

逆境も失敗も、

人生で起こるすべての出来事は、

魂の成長のもととなります。

すべては、

『経験学習』

『体験学習』

です。

『艱難 汝を玉にす』

“Adversity makes a man wise.”
(逆境が人をつくる)

『憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の 力試さん』(熊沢蕃山)

『どんなことがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、雀躍だと、勇ましく潑剌と人生の一切に勇往邁進しよう。』(中村天風)

(参考図書)
『逆境は成功のもと』
(著者 ジグ・ジグラー 訳者 幾島幸子 日経BP)
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