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2023年10月23日
和歌山県広川町 稲むらの火祭り
和歌山県広川町の「稲むらの火祭り」に参加してきました
稲むらの火祭りとは、江戸末期の安政南海地震で
稲むらに火をつけて津波から村人を救った広川町の偉人
濱口梧陵(はまぐちごりょう)の功績をたたえるお祭りです
1854年、安政南海地震津波が広村(現在の広川町)を襲いました
この大津波が襲った際、梧陵は、暗闇の中で逃げ遅れていた村人を
収穫したばかりの稲を積み上げた「稲むら」に火を放って
高台にある広八幡神社の境内に導きました
火祭りは、広川町の役場前で採火式が行われた後
広川町内外からの参加者が、廣八幡宮までのおよそ2キロを
松明の明かりを持って練り歩きます
廣八幡宮までの道は「大道」とよばれ、普段は町の生活道路ですが
当時から津波などの災害時には大切な避難経路となっています
行列の最終地点、神社の手前の田んぼに用意された稲むらに松明が
点火され大きな炎があがりました
津波の恐ろしさと防災の大切さ
年に一度のこの火祭りを通して
親から子へ、また学校教育として
町の人々はしっかりと後世に伝えているんですね
濱口梧陵が「ごりょうさん」と地元の方々に親しみ深くいわれているのは
もう一つ理由がありました
安政南海地震津波で被災後、
梧陵は、百年後に再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じ
海岸に高さ約5m、長さ約600mの広村堤防(防波堤)を築き
その海側に松並木を植林しました
約4年間にわたるこの大工事に村人を雇用することで
津波で荒廃した村からの離散を防いだとのことです
そして、安政南海地震から92年後、昭和の南海地震が発生し
高さ4〜5mの大津波が再び広村を襲いましたが
梧陵が築いた広村堤防は、村の居住地区の大部分を津波から護ったそうです
稲むらの火祭りとは、江戸末期の安政南海地震で
稲むらに火をつけて津波から村人を救った広川町の偉人
濱口梧陵(はまぐちごりょう)の功績をたたえるお祭りです
1854年、安政南海地震津波が広村(現在の広川町)を襲いました
この大津波が襲った際、梧陵は、暗闇の中で逃げ遅れていた村人を
収穫したばかりの稲を積み上げた「稲むら」に火を放って
高台にある広八幡神社の境内に導きました
火祭りは、広川町の役場前で採火式が行われた後
広川町内外からの参加者が、廣八幡宮までのおよそ2キロを
松明の明かりを持って練り歩きます
廣八幡宮までの道は「大道」とよばれ、普段は町の生活道路ですが
当時から津波などの災害時には大切な避難経路となっています
行列の最終地点、神社の手前の田んぼに用意された稲むらに松明が
点火され大きな炎があがりました
津波の恐ろしさと防災の大切さ
年に一度のこの火祭りを通して
親から子へ、また学校教育として
町の人々はしっかりと後世に伝えているんですね
濱口梧陵が「ごりょうさん」と地元の方々に親しみ深くいわれているのは
もう一つ理由がありました
安政南海地震津波で被災後、
梧陵は、百年後に再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じ
海岸に高さ約5m、長さ約600mの広村堤防(防波堤)を築き
その海側に松並木を植林しました
約4年間にわたるこの大工事に村人を雇用することで
津波で荒廃した村からの離散を防いだとのことです
そして、安政南海地震から92年後、昭和の南海地震が発生し
高さ4〜5mの大津波が再び広村を襲いましたが
梧陵が築いた広村堤防は、村の居住地区の大部分を津波から護ったそうです