巷に出回る予言とやらは、ほとんどが解釈した人物の考えであり、実際の意味はどうやら違うようです。
【岩絵の真実】
ホピの予言に関することになると、岩絵の存在があります。
この岩絵を、書いたのが古代の人のように思っていたのですが、どうやら違うことがわかりました。
岩には、上にある画像の絵が描かれているのですが、この絵は古代からあるものではなく、近代になってから書かれたものなのだそうです。
アメリカインディアンと呼ばれる人たちは、多くの部族に分かれていて、ホピもその中の一つでしかありません。近代に入り、世界情勢に不安を持った者が岩にその心境を描いたのだそうです。
彼らは、独自の文字がないために記録などは絵にして残すためにこの絵が描かれたということです。
この岩絵は、自然と共存すれば、平和な世の中になり、物質的価値観に寄れば苦しい世界になるというような意味を記してあります。
自然とともに生きてきた部族の人が、近代の変化に不安を抱き、岩にその気持ちを描いたものなのです。
つまり、予言でも何でもないということです。
部族ごとに伝わる伝説
ホピの部族に伝わる伝説に4つの世界の存在と第5の世界の話があります。
これらを予言のように感じてしまうのは仕方ないことかもしれませんが、どの民族にも言い伝えはあります。
それは彼らアメリカインディアンだけに限りません。
日本にだってそれはありますよね。
それらの言い伝えは、その部族や民族の思想であったり、起きた出来事に関するものだったりします。
例えば、私たち現代人が1000年先、2000年先の人類の心配をするでしょうか?
そんな先の未来人に対して予言を残すでしょうか?
おそらくそんなものに興味もなければ、記録に残そうとも思わないでしょう。
そう考えれば、昔の人が現代人に対しての予言や戒めなどを書き残すはずはないのです。
予言があるとしたら、彼らの生きている時代に起こるであろう出来事についてだけではないでしょうか。
解釈によって意味が異なる
ノストラダムスの大予言、聖徳太子の予言、マヤの予言に関しては、現代人の解釈でいかようにもとらえることができると思うのです。
ホピの予言にしても、4つの世界の滅亡は、火、水、風、土という4元素の存在の表れであり、自然と共存して生きていくこと、正しい道を歩むことを説いているだけでしかないのだと感じます。
その予言の出どころは、その当時の若者たちへの指針であったのではないでしょうか。
そこに現代人が勝手に想像を膨らませたものでしょう。
ノストラダムスにしても、1999年が人類滅亡だと解釈したのは五島勉さんであり、ノストラダムスの残した言葉に滅亡などという記録はないのです。
昔から世紀の終わりを世の終わりと騒ぐ人たちがいるようで、999年にも滅亡すると大騒ぎした記録が残っています。人類、何年たっても滅亡論大好きですよね。
マヤの予言も滅亡ではなく、単なるマヤのカレンダーの終わりが2012年だっただけですね。何の終わりかを間違えれば、いろんな解釈ができるということです。
良い予言は出てこない?
予言といえば、悪いことばかりでよい世界になるようなものは見当たりません。
というより、人類は危機的な問題にしか反応しないので、平和になることに関しては興味がないのでしょう。
本能なのか、遺伝子に組み込まれているのか、不幸になる予言には興味を示すのが面白いですよね。
実際は、平和になるような意味の言葉もあるのですが、反応が薄いですからね。
危機的な物には敏感になるのが人間であり、平和であることには鈍くなるのでしょう。
それだからこそ、人類は生き残ってきているのだと思います。
テクノロジーが発達して、昔想像していたものが現実化してきています。
人類の未来は想像から始まり、それをもとに現実化していくといった道をたどっていると思います。
人類が強く望むこと、それが現実化して今の世界を作り上げているのです。
それならば、悪い予想をするのではなく、よい未来を想像することが大事かもしれません。
AIが人間を襲う未来を考えるより、AIと人間がうまく共存して新しい世界が平和で幸福であるという想像をしたほうが良いかと思います。
まとめ
予言のほとんどは、誰かの解釈であり、未来が決まっているものではないということでしょう。
どんな危機も時代の中には存在しています。
それをどう乗り切るかが大事であり、単に怯えたり、恐れたりするものではありません。
このような生き方をすれば結果はこうなるよ、という教訓がいつしか予言と言われ、都市伝説化してしまったのでしょう。
予言がないとは言いません。でもそれは、遠い何千年後の未来を予言したものはないということです。
1番良いのは、自分の考えをしっかり持つこと、エンターテイメントとして楽しむこと、これに限るでしょう。