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2019年07月24日

世界の自然七不思議

世界の自然七不思議(あるいは世界の七大自然の驚異)についても他と同様に意見の一致はみていない。現在存在する多くの一覧のうちの一つはCNNによってまとめられたものである。

グランド・キャニオン
グレート・バリア・リーフ
リオデジャネイロの港
エベレスト
オーロラ
パリクティン火山
ヴィクトリアの滝

グランド・キャニオン

グランド・キャニオン(Grand Canyon)はアメリカ合衆国アリゾナ州北部にある峡谷である。コロラド高原が長年のコロラド川による浸食作用で削り出された地形である。先カンブリア時代からペルム紀までの地層の重なりが好露出しており、肉眼で観察が可能である。地球の歴史を刻んでいる価値と共に、その雄大な景観から、合衆国の初期の国立公園の一つであるグランド・キャニオン国立公園に含まれている。国立公園は1979年に世界遺産に登録された。
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グランド・キャニオンを流れるコロラド川


地理
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グランド・キャニオンの衛星画像

グランドキャニオンの起源は今から7000万年前、この一帯の広い地域がカイバブ・アップリフトとよばれる地殻変動により隆起したことに始まる。

約4000万年前、コロラド川による浸食が始まる。峡谷は500万年前にほぼその全容を現し、現在見られるような峡谷になったのは、約200万年前である。そして今もなお、浸食は続いており、最古でおよそ20億年前の原始生命誕生時の地層を浸食している。

グランド・キャニオンの断崖は平均の深さ約1,200 m、長さ446 km、幅6 km〜29 kmに及ぶ。最深地点は1,800 m。降雨量はサウス・リム (South Rim) で年間380 mm、最深部では年間200 mmとなっている。

地質
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グランドキャニオンを構成する地層の種類

グランド・キャニオンがいつ始まったのか、東と西の渓谷は同時に形成されたのかそれとも独立して生まれたのか、などの点に関しては長い議論が続いている。最近の研究では峡谷の起源を500万年から600万年前と概算していたが、新たな手法の適用による詳細な分析の結果、起源はさらに遡ることが示されてきている。

2008年にサイエンス誌に掲載された研究では[3]、渓谷全体の9つの洞窟の壁で見つかった方解石堆積物を分析するために、ウラン鉛年代測定法を利用しその起源がそれまでの想定の3倍近い1700万年前である、と報告している。さらに2012年には、代表的な岩石の年代測定法である(U-Th)/He法(岩石中のアパタイトが80℃程度に冷えた年代が測定出来る)に、2004年に開発された高精度な補正法(同30℃程度に冷えた年代まで特定出来る)を適用することで、東西の渓谷はほぼ同時に削られ始めており、その時期はこれまでの想定より遙かに古く7000万年ほど前に遡ることが示された。

この浸食地形は、地球上で最も完全な地質柱状図の一つを成すものである。 グランドキャニオンで代表的な露頭は、インナー渓谷の底の20億年前のビシュヌ片岩から、リムに見られる2億3千万年前のカイバブ石灰岩にわたる。約5億年前の地層と約15億年前の地層の間には約10億年に及ぶ時間のギャップがあり、不整合(en:unconformity)で大規模な地層の浸食が生じたことを示している。 地層の多くは、原初期の北米大陸の辺縁部において、海進と海退が繰り返されたことにより、暖かな浅い海、沿岸環境、および沼地で堆積した。主な例外として、風成砂丘堆積の地質学的証拠が豊富なペルム紀ココニノ砂岩がある。スパイ層群も部分的に海洋でない環境を示す。

グランドキャニオンが非常に深いことや、特にその地層の厚さ(そのほとんどが海面下で形成された)は、約6500万年前のララミー変動期からコロラド高原が5,000〜10,000フィート(1500〜3000メートル)も隆起したことに起因する。この隆起がコロラド川とその支流の勾配を急峻化し、流速と​​岩を削る力を増加させた。また氷河期の気象条件もコロラド川流域の水量を増加させた。

コロラド川の基準面は、530万年前にカリフォルニア湾が開いたことにより低下し、流路も変わった。これにより、浸食の速さが増し、120万年前までにはグランドキャニオンのほぼ全体が現在の深さにまで達した。絶壁のテラスは差別浸食によって形成された。300万年前から10万年前に生じた火山活動による火山灰や溶岩が川の流れを塞いだ。これらの火山岩は峡谷で最も新しい岩石である。

歴史

10500年前には人類がいたと思われ、ネイティブ・アメリカンは少なくとも4000年前にこの地域に住んでいた。

ヨーロッパ人では1540年9月、スペイン領だったこの地域をコンキスタドール、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドの命を受けて、金を探していた軍人ガルシア・ロペス・デ・カルデナス (García López de Cárdenas) とその一隊が探検した。この隊は3分の1程サウス・リムを下り、水が無くなったために上に戻った。先住のホピ族が金資源が出ないことを教えたために、彼らは去り、それ以降ヨーロッパ人からは忘れ去られていた。

1869年、アメリカ軍人ジョン・ウェズリー・パウエル (John Wesley Powell) が当時スペイン領だったこの地域の調査(最初の科学的な調査)のために訪れた。

1956年6月30日、グランドキャニオン上空でユナイテッド航空機とトランスワールド航空機による空中衝突事故が発生。事故機の墜落現場が後にアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定された。

動植物
国立公園内には1500種以上の植物、355種の鳥類、89種の哺乳類、47種の爬虫類、9種の両生類、17種もの魚類が確認されている。
リスなどの哺乳類が走っているのを見かけることもあるが、国立公園内では動物に触ることは禁止されており(罰金250ドル)、また狂犬病にかかっている場合があるため、噛まれたりした場合6時間以内に血清を打たないと死に至ることもある。ただし、餌付け等はなされていないため、こちらから手を出さなければ襲い掛かられることはない。
交通
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グランドキャニオン鉄道の蒸気機関車4960

ノース・リム (North Rim) とサウス・リム (South Rim) があり、サウス・リムはネバダ州ラスベガスもしくはアリゾナ州フェニックスから車で約5時間の距離にある。

ラスベガスからはドローンで遊覧飛行しながら行くことも出来て、飛行機やバスを使ったツアーもある。ラスベガスからはシーニック航空やビジョン航空が定期便を運航している。

ロサンゼルスからは飛行機での日帰り観光ツアーが運行。

グランド・キャニオン鉄道
アリゾナ州ウィリアムズからグランド・キャニオン鉄道が毎日運行している。

運賃:60〜155ドル(大人)
1800年代、探鉱者が多く集まった、アニタ鉱山(ウィリアムから45 km北)からの運搬用に作られた
1899年、源鉱が予想ほど採掘されなかった為、資金難に陥る
1901年9月17日、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が買い取り、グランド・キャニオンまでの軌道を設置、旅客鉄道として開通
1968年、自動車の普及により、利用者数が減少、サービスの停止
1989年9月17日、運行再開
利用した著名人 セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルト、アイゼンハワー、ビル・ゲイツなど

観光
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スカイウォーク

1919年にアメリカの国立公園として指定され、1979年には世界遺産にも登録されたグランドキャニオンは、年間を通してアメリカ人はもとより全世界から多くの観光客が訪れる。その数およそ年間400万人。

グランド・キャニオンにはサウスリムとノースリムがあるが、観光の中心となるのはサウスリムで、大部分の観光客が訪れる。観光地周辺は標高2,000 m級の高地で、年間を通じて開園されている。ノースリムは標高が2,500 mほどで、積雪のため冬期は閉鎖される。

サウスリムには、6か所の宿泊施設、ギフトショップ、銀行、郵便局、スーパーマーケット、ビジターセンター、鉄道の駅がある。また、園内を巡回する無料のシャトルバスも3路線走っており、滞在者にとっては便利な足となっている。

対してノースリムは、1か所の宿泊施設しかなく、無料のシャトルバスなどもない。ノースリムが開園している時期(5月〜10月頃)には、サウスリムとノースリムを結ぶバスが1日1往復している(有料)。

グランド・キャニオンへの観光客は、車を使い陸路で来るか、外国や遠方からの観光客は主にラスベガスから飛行機やバスを使ったツアーに参加するのが一般的である。ラスベガスからグランドキャニオンまでは、陸路で約5時間。飛行機では約1時間で行くことができる。ロサンゼルスからの飛行機も約1時間30分で到着する。

グランドキャニオン国立公園内の年間死亡者は、平均して約12人。死因は、高温、水死、医療問題など[6]。

活動
主なトレイル
Corridor trails

ブライト・エンジェル・トレイル
ノース・カイバブ・トレイル
プラトーポイント・トレイル
リヴァー・トレイル
サウス・カイバブ・トレイル

谷底のキャンプ場は利用するには届出が必要だが、ピーク時には3ヶ月待ちという人気である。

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比較的最近に起きた落石跡



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NPS Visitor Center付近から見たグランド・キャニオン



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古代プエブロ人の穀物倉



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ワラパイ族に崇拝されていたと考えられるイーグル・ロック。名称はその形状が由来。



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Desert View Watchtower


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Grand Canyon Visitor Center



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Hermit's Rest


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Hopi House



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Mather Point



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North Kaibab Trail



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Rim Trail (South Rim)


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Shrine of the Ages


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Tusayan Ruins

グレート・バリア・リーフ

グレート・バリア・リーフ(英: Great Barrier Reef)は、オーストラリア北東岸に広がる世界最大のサンゴ礁地帯。漢字表記は大堡礁(だいほしょう)。南緯10度から24度にかけて広がり、2600km(1,600マイル)を超える長さに2,900以上の暗礁群と約900の島を持ち、総面積は344,400km2以上となる。地理的な位置は、クイーンズランド州沿岸の珊瑚海に存在する。

概要
グレート・バリア・リーフは宇宙空間からも確認できるほど広大であり、生物が作り出した単一の構造物としては世界最大である[8]。しかし、その生物とは微小なサンゴやポリプ等の有機体であり、これらが数十億集まって形成しているサンゴ礁[9]。そして、この暗礁は生物多様性を支える重要な役目を持ち、1981年に世界遺産(自然遺産)に登録された[1][2]。1997年、CNNはグレート・バリア・リーフを「7大世界の驚異」自然部門のひとつに挙げ、クイーンズランド州のナショナル・トラストは州を代表する象徴に認定した。

暗礁のかなりの部分はグレート・バリア・リーフ海洋公園に指定され、漁業や観光など人間の行為が及ぼす影響を制限している。ただし、表面流出や気象変動によるサンゴの白化現象、オニヒトデの異常繁殖など、生態系に打撃を与える環境変化が発生している。これらへの対策も取り組まれており、その統合沿岸管理 (ICM) は先端的な事例にも挙げられる。

オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から[4]長くグレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきた。ヨーロッパ人移住後は1770年のジェームズ・クックなど探検や調査が進んだ。1960年代にはグレート・バリア・リーフ内での石油掘削が認められたことを契機に賛否の論争が起こり、1970年代からは保護に向けた検討が始まった。近年は観光地としても著名となり、特にウィッツサンデー諸島やケアンズ地区が知られる。観光収入は年10億オーストラリアドルに上り、重要な経済要素となっている。

地理と地質

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グレート・バリア・リーフのクイーンズランド州海岸部衛星写真。エアリービーチとマッカイを含む箇所。

グレート・バリア・リーフはグレートディヴァイディング山脈地域の顕著な特徴となっている。小さなマレー島をその中に含んでいる。最北端の島であるブランブル・ケイとパプアニューギニア南海岸の間のトレス海峡から、最南端のレディーエリオット島とフレーザー島の間の名も無き海峡まで続いている。レディーエリオット島はブランブル・ケイから南東に直線距離で1,915 km (1,190 mi)の位置にある。約900の島のうち、600は大陸起源、300はサンゴ礁を起源とする。

新生代以降、オーストラリア大陸は年間7cmの速度で北へ移動している。大陸東部は隆起を続けた時期があり、クイーンズランド州に長さ400kmにわたる分水界を形成した。この時期、活発な火山活動や玄武岩流が続き、花崗岩が露出した部分によっていくつかの島が形成された。そして構造盆地が形成されると、ここにサンゴが進出し始め、後の珊瑚海となった。しかし約2500万年前頃までクイーンズランド北部は温帯水域であったため、サンゴが繁殖するには海水は冷たかった。ここから、グレート・バリア・リーフの形成は複雑な経路をたどる。やがてクイーンズランド水域の気候は熱帯へと変わるが、同時に海深の変化も起こりサンゴ礁の成長と衰退に影響を与えた。珊瑚は直径で年間1-3cm成長するが、垂直方向の成長は年1-25cmにもなる。しかしこれには日光が欠かせず、そのために深度150m以上の場所では成長は難しい。クイーンズランドの海岸が2400万年前に熱帯気候となった頃、一部に珊瑚の成長が始まったが、グレートディバイディング山脈の浸食によって堆積作用が始まり、三角州や海盆域およびタービダイトが形成され、それらはサンゴの繁殖には阻害要因となった。1000万年前には蓄積した堆砂が水深を下げ、さらにサンゴの成長を邪魔する土砂がかぶりにくい沖まで堆積が進んだ。ただし暗礁となるには基盤となる部分へのさらなる堆積が必要だった。40万年前には間氷期が訪れ、浅い海の海水温度は一時的に4℃ほど上昇した。

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グレート・バリア・リーフ南部、珊瑚海にあるヘロン島

現在のグレート・バリア・リーフを形作る基盤となる地層は、古い暗礁[24]や火山の名残りなどを含む海丘の上にグレートディバイディング山脈からの堆積物が重なった開析海岸平野である。協同リサーチセンター (CRC)内のサンゴ礁リサーチセンターは、50万年前のサンゴ骨格による鉱床を発見した。グレート・バリア・リーフ海洋公園管理局 (GBRMPA)は、初期の暗礁は60万年前頃から形成が始まったという見解を述べ、現在生育しているサンゴ群はその上に、約2万年前から成長を始めたと考察している。オーストラリア海洋科学研究所もこれに同意し、成長開始の時期は最終氷期最盛期に当たり、海深も現在より120mほど浅かったと述べている。

2万年前から6000年前にかけて海水準変動によって海面は上昇した。これに伴い、サンゴは海岸平野上でより高く成長した。1万3千年前の頃、海面は現在よりも60m程低く、その頃には海岸平野の丘状部は大陸島となり、サンゴの繁殖はその周囲で起こった。海面が上昇に転じると大陸島は水没し、サンゴは海丘上全体で成長するようになり、現在の小島や暗礁へと成長した。約6000年前から今日にかけての期間、グレート・バリア・リーフ周辺では海面上昇は起こっていない。CRCサンゴ礁リサーチセンターは、現在生育しているサンゴは8000-6000年前にサンゴ礁を形成したものが絶滅せずに繁殖しているとの見解を述べた.。リーフ形成当初のサンゴ礁と似た古代の堡礁は、西オーストラリア北部のキンバリー地域で見ることができる。

世界遺産に登録されたグレート・バリア・リーフの地域は70のエコリージョンに分けられ、うち30はサンゴ礁のエコリージョンである。北部にはリボンリーフや三角州堆積礁が形成されているが、それ以外の地域には同種のものは見られず、環礁は存在しない[31]。また、サンゴ礁がオーストラリア大陸と接触している部分もほとんど無い。

裾礁は広く見られ、特にウィッツサンデー諸島のような島と接触して形成されたものが南域で特に顕著である。礁湖を伴うサンゴ礁も南部で多く、北部でもプリンセスシャロット湾沖などで発達している。中部域で最も一般的な形態は、リザード島周辺などのような三日月礁であり、グレート・バリア・リーフ海洋公園最北部や南緯20-22度のスウェイン礁などでも確認される。面状礁はヨーク岬半島およびプリンセスシャロット湾からケアンズまで広く分布し、リーフ内の多くの島で発達している。

生態系

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ケアンズ近郊のフリンリーフで見られる色とりどりのサンゴ類

グレート・バリア・リーフは、危急種や絶滅危惧種などに相当する固有種等、多くの生命にとって安住の地でもある。

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グレート・バリア・リーフのアオウミガメ

クジラやイルカなど30種がグレート・バリア・リーフで確認され、その中にはネズミイルカ科、ミンククジラ、ウスイロイルカ属、ザトウクジラ等も含まれる。ジュゴンの個体数も多い。

ウミガメの仲間は6種類。アオウミガメ、オサガメ、タイマイ、アカウミガメ、ヒラタウミガメ、ヒメウミガメが見つかっている。アオウミガメは集団遺伝学見地から2種類に分けられ、暗礁の北部と南部にそれぞれ生育している。海草は15種あり、魚類の生息域となり、ジュゴンや亀を引き寄せる。最もよく見られる海草の属はハロフィラとウミジグサ属である。

暗礁近郊の海岸線にあるマングローブや塩沼では、イリエワニが生息する。巣についての報告は無く、海洋公園では海生ワニは広範囲に生息するが、各個体は孤立気味である。サメ、アカエイ科、ガンギエイ[要リンク修正]、ギンザメ目は125種が暗礁で確認されている。軟体動物は5000種近くが確認されており、オオシャコガイや多様なウミウシ、イモガイ科などがいる。イシヨウジは49種、タツノオトシゴは9種が確認された。島部では少なくとも7種のカエルが生息する。

鳥は215種、この中には22種の海鳥と32種の海岸線に棲む鳥を含み、暗礁を巣やねぐらの場にしている。その中にはシロハラウミワシやベニアジサシも見られる。ほとんどの営巣は北部または南部の島で行われ、140から170万羽が繁殖する。また、グレート・バリア・リーフの島々は知られているだけで2195種にものぼる植物の生育地となっており、固有種も3種が見つかっている。北部の島々に繁る300から350種の植物は樹木が多く、南部の200種は草本中心という傾向がある。ウィットサンデー地区は最も植生が豊かな場所で、1141種が根付く。植物の伝播には鳥が貢献している。

ウミヘビ科は17種が水深50m未満の暖かい海水の領域に住み、北部よりも南部でよく見られる。世界遺産登録区域のウミヘビには固有種は見つかっておらず、絶滅の危惧も無い。

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フリン・リーフのストライプドフィンサージョンフィッシュ

魚は1500種以上が暗礁で生活し、クマノミやバラフエダイ、レッドスロートエンペラー、数種のフエダイ科やコーラルトラウトなどが知られる。49種が固まりで産卵するが、他の84種は放卵を行う。

ホヤのなかまは少なくとも330種が水深1-10cmの暗礁に生存しており、外肛動物は300から500種がいる。

サンゴは約71属400種。イシサンゴの仲間もウミトサカの仲間も見られる。ほとんどが配偶子で生殖する種類であり、春や夏の水温上昇や月齢、および日周期の影響を受けて配偶子を一斉に放つ行動を取る。グレート・バリア・リーフでは10月に、満月の後の週にこれらが見られ、礁の外では11月や12月に行われることもある。通常のウミトサカは36種が生息する[51]。海草や海藻は500種が暗礁で生育し、その中には石灰質上に長さ100mにもなる群をつくり、その様子が多雨林にも比されるハリメダ13種もある。

環境への懸念

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グレート・バリア・リーフの海面温度とサンゴ白化現象の状態。

気候変動、公害、オニヒトデの繁殖、漁業がグレート・バリア・リーフの健全な状態に与える脅威は大きい。他にも、海難事故、石油流出や台風も無視できない。原生動物が引き起こすサンゴの骨格を侵す骨侵食バンド症や汚染へ影響する珊瑚感受性は、31種のサンゴに影響を及ぼしている[54]。

サンゴ礁研究のためのARCセンターの報告書によれば、現在、北部地域でサンゴの67%がサンゴ礁の最悪の被害を受けて死亡したことが明らかになった。

気候変動
グレート・バリア・リーフ海洋公園管理局は、リーフにかかる最大の脅威はサンゴの白化現象を引き起こす気候変動だと捉えている。1998年、2002年および2006年の夏に海洋温度が上昇して大規模なサンゴ白化現象が生じたが、このような事態は毎年起こりうるものと予想されている。気候変動の影響はこれらに止まらず、魚が生息区域を変えてしまい、その結果として捕食性海鳥の雛の死亡率が上昇するような問題も生じる。また、生息数の変化はウミガメの生態域にも変化を及ぼす。

公害
グレート・バリア・リーフが直面する別の脅威には、公害と水質汚染がある。北東オーストラリアの河川は熱帯性の洪水を起こす。これによってサンゴ礁に汚染が広がるが、この現象の90%は農場における表面流出が要因である。そしてその背景には、過剰放牧、肥料や殺虫剤の過剰使用がある。

土壌流出問題は、自然の沈殿物堆積とフィルターの役割を担っていた沿岸部の湿地減少も拍車をかけている。この水質低下は、光や酸素を求める藻類の競争を厳しくさせる。

オニヒトデの大発生
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オニヒトデの一種

オニヒトデはサンゴのポリプを餌とする。これらのヒトデの数が多いと、サンゴ礁は荒らされることになる。2000年に起こった大発生では、RRC (Reefs Research Centre.)の研究で調査されたサンゴ礁の66%が失われていた。このような大発生は、水質低下やヒトデ天敵を乱獲したために、自然のサイクルが狂わされて起こると考えられている。

漁業
オーストラリア北東は、沿岸漁業が盛んである。ホラガイなどキーストーン種の種族維持が困難になる程の乱獲は、サンゴ礁の食物連鎖機能を混乱させる。漁業そのものも、船舶による水質汚染、イルカや亀を混獲してしまうこと、トロール網や碇および魚網による生息地破壊などを引き起こす。2004年中頃、グレート・バリア・リーフ海洋公園の約1/3に当たる領域で、釣りも含むあらゆる生物の移動行為が許可なしでは認められなくなった。

船舶事故
グレート・バリア・リーフをする船舶が起こす事故は差し迫った事態である。 暗礁内を通過する航行は簡単ではないが、船が不調を来しているような際、修理をするまではリーフ内を通る方が安全と考える操船者は多い。このような要因から、判明しているだけでも1600隻以上の船がグレート・バリア・リーフで座礁などを起こしている。

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2010年4月5日に起こった、『深能一号』の座礁。

2010年4月3日には、石炭専用船『深能一号』がダグラス浜沖の浅瀬に座礁し、最大4トンの油が流出してサンゴ礁に損害を与える事故が発生した。これは、制限海域内であるにも関わらず最高速度で浅瀬に衝突して座礁したもので、4日未明に燃料油約950tの一部が流出する事態となった。これにより海洋汚染やサンゴ礁を損壊する恐れが懸念された、中和剤の散布により重油の被害自体は最小限に食い止めたものの、珊瑚礁には幅250m、長さ3kmに渡って引き摺られたような傷が残った他、海洋生物付着防止用の有害塗料が剥れ珊瑚に付着しているのも確認された。この事故で4月14日には船長と一等航海士が連邦警察に逮捕されている。

人間の利用
グレート・バリア・リーフを古くから知っていたアボリジニやトレス海峡諸島民は、長く利用してきた。アボリジニはこの地域に約4万年前から、トレス海峡諸島民は約1万年前からこの地域に居住し、70程の部族を形成した彼らにとってリーフは文化を特徴づけるものとなっていた。

1768年、ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルは探検の最中にグレート・バリア・リーフを発見したが、特にフランスの領有を主張することは無かった。1770年6月11日、艦長・ジェームズ・クック率いるエンデバー号がリーフで座礁する事件を起こした。船は大損害を被ったが、満ち潮に合わせて引き揚げに成功し、最終的に脱出した。リーフで起こった最も有名な海難事故のひとつに、1791年8月29日のパンドラ (帆走フリゲート)難破沈没があり、この時は35人が犠牲となった。1983年以来、パンドラはクイーンズランド博物館で展示されている。グレート・バリア・リーフには環礁が全く無かったため、その全貌は19世紀までほとんど知られていなかった。この期間、いくつかの島でグアノの堆積物の採掘が行われ、レイン島のように作業を行うための標識として灯台が建設された。初期の暗礁研究は、1922年のグレート・バリア・リーフ委員会によって開始された。

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サンゴに貼り付いたアオヒトデ。観光では、時に美しい自然に触れる機会を得られる。

管理
詳細は「グレート・バリア・リーフ海洋公園」を参照
王立委員会がリーフでの石油採掘を禁じ、1975年にオーストラリア政府はグレート・バリア・リーフ海洋公園を定めて各種の経済活動を制限したが、それは全地域を包括してはいない。公園はクイーンズランド州政府との協力の下、公園管理局が継続的に保てる節度を持った利用を保証する。そのために、ゾーニング、管理計画、認可、教育、エコツーリズム証明などの奨励を組み合わせて、サンゴ礁の維持管理に努めている。

1999年にオーストラリア議会は、国家の自然環境保護に関する法律を改訂し、地域の生物多様性を優先するガイダンスを規定するように定めた「環境保護を生物多様性の保全に関する条例」を通過させた。この条例の施行は、海洋の生物学的地域計画実施に繋がった。この計画では、海洋環境においておのおのの種が全体の生態系の中でどのような相互作用をもたらすかを検討することによって、海生生物の多様性を保存することが目的とされた。この過程には2つの段階があり、第一段階では(現在では)5箇所のそれぞれ独立した海洋地域で保護する優先順位を見極める事であり、次の段階ではオーストラリア国家が指定する海洋保護地域体系 (National Representative System of Marine Protected Areas, NRSMPA) に加える適用海域(保護地区や海洋公園)を明確化する事である。陸上の保護地区同様に、海洋地区でも生物多様性が何世代にわたって保護されている状態をつくりだす。海洋保護区は、オーストラリア・ニュージーランド環境保全評議会によって作成された「国家による海洋保護地域体系創設のためのガイドライン」(いわゆる「ザ・ガイドライン」)に書かれた基準を元に設定される。このガイドラインは、「連邦水域の海洋保護区に対する国家的地域体系の設立に関する目標と原則」に要約され、オーストラリアの国策として地方にまで認識され、実行される。これらの政策が適切に実行される中で、海洋保護区はそれぞれの情報が慎重に評価され、NRSMPAに加えられる。これらの優先順位は人間や環境が与える脅威の度合いを基本に設けられ、海洋の地域生態系計画がこの優先順位に基づいて策定される。異なる領域の優先順位設定には3つの方法が用いられ、先ず最初に地域生態系の概略が作成される。次に地域生態系計画が立案され、三番目にこれが纏められる。これらの計画は纏められた後でも、他の地域に脅威となるような影響を与えるような場合には、制限が加えられることがある。

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ケアンズ・セクションのエイジンコート・リーフ

2001年、GBRMPAはグレート・バリア・リーフにおける水質悪化に関する報告書を発表し、この問題の重要性を解説した。この報告では、リーフの水質改善に向けてオーストラリア国政府とクイーンズランド州政府が共同して主導性を発揮する点に重きを置いている。2003年には国と州は流入する水の質向上に着手した。過去150年間、開発による水質悪化はサンゴ白化現象や藻類の異常繁殖および農業汚染の原因となってきた。これらが、気候変動に抵抗するサンゴ礁の活力を削いでいた。以前からの法律・法令65項目を組み込んだ計画は2003年10月に実行に移され、当面の目標は2013年までに水質悪化を食い止めて向上に転じさせることに向けられた。これにより2020年までに水質改善を成し遂げ、リーフの健全な状態へ及ぼす悪影響を除くことを目指す。これらは、流入する水質汚濁物そのものの減少と、きれいな水が流入することで暗礁内の自然な浄化作用を復元させ維持する効果を期待している。

上で挙げた目的達成のため、この計画では汚濁物発生源を単独の場所に求めず、面的な対策に焦点を絞った。特に、農業で使用される肥料・殺虫剤および発生する流送土砂を重視し、都市から生じる面的な発生源は別の法律で制御した。この計画は2009年に更新された際、それまでの対策が正しい方向に進んでいると評価した。更新後の計画では「効果の優先順位を重視し、産業界や共同体と連携し、新しい政策と規定の枠組み(リーフプラン5)を具体化する」という試みを明記した。ここでは、達成状況の評価、新しい目標設定、責任の明確化、監視と査定方法の改良が行われた。これによって、改訂時点で65の目標のうち41が達成され、18の進展が途上にあり、6は不充分な進捗状態にあると判断された。2003年改訂のポイントは、リーフ・クオリティ・パートナーシップ (Reef Quality Partnership) の創設であり、目標設定と進捗管理を行って土地所有者が行った改善に応じた賃貸拡充など報酬を得られるようにすることを定めた。ウオーター・クオリティ・インプルーブメント・プラン (Water Quality Improvement Plans) では、地域の目標設定を行い、必要な管理体制の改革を明瞭にした。ニュートリエント・マネジメント・ゾーン (Nutrient Management Zones) の設定では堆積物の除去を推奨する地区を設け、収穫と持続的農業を助成する教育プログラムや土地管理手法の改革などはファーム・マネジメント・システム (Farm Management Systems) と実務に関する規約を通じて実行する。クイーンズランド・ウエットランド・プログラム (Queensland Wetland program) や他の研究成果は既にサンゴ礁に流れ込む水の質を向上させる成果に結びついている。

また、それぞれの計画が水質にどのような影響を与えているかを評価する科学者の特別委員会も設置された。彼らは、それぞれの計画は目標に達しているが、気候変動に対するグレート・バリア・リーフの回復力向上に水質改善の効果が及ぼしたという証拠の確認は不充分だという見解を示した。2008年のリーフォーカス・サミットでも詳細な報告がなされ、同じ結論に達した。これを受けて、国や州を含む複数の団体にわたる利害関係者による検討会が設置され、目標や達成点の更新が行われた。更新計画では、分野と活動内容に対する重点戦略が組まれ、2013年の達成を目指した。また、目標達成の評価を行うため、定量的な数値が設定された。例を挙げると、沈殿物中の窒素とリンを2013年段階で50%まで、2020年段階で20%まで削減することが盛り込まれた。また、計画には土地所有者が習得すべき牧草、土、肥料および化学物質を管理する技能の段階を概略で定めた。さらに、水質改善に寄与する土地利用法の枠組み構築を助ける概略計画を実行する取り組みのいくつかに対する援助が含められた。これらの手段で、国と州は2013年までに水質向上を期待している。そして2013年の報告には、未来に向けたさらなる水質と野生生物の生育環境向上を実現するために何を為すべきかが盛り込まれることになる。

2004年7月、海洋公園内に新しいゾーニング計画が実施され、これは海洋生態系保護の新しい世界的な標準となるものと評価された。このゾーニングはMARXANソフトウェアを使用して策定された系統的保存計画手法で設けられた。これによって変更された、特に重要な保護区域が占める面積は4.5%から33.3%まで大きく増やされ、当時としては世界最大の海洋保護区となった。ただし、2006年にこれを上回る規模のパパハナウモクアケア海洋ナショナル・モニュメントが設定された。

2006年に報告されたレビュー「1975年のグレート・バリア・リーフ海洋公園条例」では、ゾーニングは今後2013年までは手をつけるべきではなく、サンゴ礁の健全性・管理状況および環境の圧力について調査し、5年毎に査読を受ける報告書が纏められ発行されることを提言した。査定では、証拠をより明白にするための評価基準が準備されており、これによって判断され点数が与えられる。報告書はそれぞれこの評価と採点を経て、過去に遡った過程を追跡することができる。。

観光
Giant Clam on the Great Barrier Reef
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グレート・バリア・リーフでオオシャコガイを見物するダイバーたち。

類稀な生物多様性を持つ上に、暖かくライブアボード等を用いた利便性が高い海域でもあるため、グレート・バリア・リーフは非常に人気がある観光地であり、特にスクーバダイビングは好まれる。観光拠点は、それぞれにプランを提供する[98]便利なウィットサンデーやケアンズになり、この地域は海洋公園の7%に相当する。クイーンズランド州沿岸では日帰りのボートツアーを企画する都市も多い。また、リゾートを提供する場所は、初期に開かれたレディーエリオット島など27の島(1996年現在)や沿岸がある。

国内旅行では1996年の時点でほとんどを取り込み、特に冬の時期に人気を博した。1年当たりの観光収入は7億7600万AU$に達した[99]。2003年には40億AU$、2005年には51億AU$となった観光収入は同地区最大の産業となり、毎年200万人が訪れるようになった。しかし、これら観光事業がグレート・バリア・リーフに悪影響を与えているのではという懸念もある。

ボートツアーやクルージングが多く行われ、その期間も1日から数日間をかけるもの、船舶もディンギーからスーパーヨットまで多様である。グラスボートや海中天文台もあり、ヘリコプター飛行も行われる。しかし断然の人気を誇るものはシュノーケリングとスクーバダイビングである。これらは平底のボートを使い、潜る場所は網で囲われる。水質がきれいなリーフの外側が特に好まれる。

観光事業は持続可能性に配慮して管理される。観光料金にはグレート・バリア・リーフの研究に使われる費用が加味されており、GBRMPA総収入の20%がこれから賄われている。リーフの通行において、クルーズ客船や裸傭船契約また投錨には制限が掛けられている。

水産業
クイーンズランド州におけるグレート・バリア・リーフの水産業は年間10億AU$の利益を上げている[13]。創出雇用は約2000人であり、さらにレクリエーションや伝統的な自家消費用の漁業でも、リーフは活用されている。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
(9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
(10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

エベレスト

エベレスト、エヴェレスト(英: Everest)、またはチョモランマ(チベット語: ཇོ་མོ་གླང་མ[注 1]Chomolungma, Qomolangma)、サガルマータ(ネパール語: सगरमाथा Sagarmāthā)は、ヒマラヤ山脈にある世界最高峰である。

山頂は、ネパールと中国との国境上にある。

エベレストはインド測量局(Survey of India)で長官を務めたジョージ・エベレストにちなんで命名された。

1920年代から長きにわたる挑戦の末、1953年にイギリス探検隊のメンバーでニュージーランド出身の登山家であるエドモンド・ヒラリーとネパール出身のシェルパであるテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。

エベレストの標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12か所で測定し、その結果を平均して得られた8,848メートルという数値が長年一般に認められてきた。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定値が8,850メートルだったと発表した。厳密には地殻変動などの影響によって標高は年々変動していると考えられている。

エベレストの南麓に位置するネパールのサガルマータ国立公園はユネスコの世界遺産に登録されている。

名称
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ジョージ・エベレスト

現在、エベレストはネパールでは「サガルマータ(सगरमाथा Sagarmatha)」、チベットでは「チョモランマ(ཇོ་མོ་གླང་མ་ jo mo glang ma)」、中国では珠穆朗瑪峰(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または聖母峰(Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。

エベレストの存在が初めて文献上にあらわれたのは1717年、康熙帝の命令を受けてイエズス会士ジャン・バティスト・レジス(Jean-Baptiste Régis)が『皇與全覧図』と呼ばれる中国地図を作成したときであった。そのチベット部分、現在のエベレストの位置に山の絵が描かれ「朱母郎馬阿林」(チュムランマアリン)と表記されている。この地図はレジス神父の故国フランスに送られ、それを受け取った同僚のイエズス会士ジャン=バティスト・デュ・アルドが地図製作者のジャン・バティスト・ブルギニョン・ダンヴィル(Jean-Baptiste Bourguignon d’Anville)に託し、ダンヴィルによって1735年、『中国新地図集』(Nouvel Atlas de la Chine)として出版された。ダンヴィルの地図では「チュム・ランクマ」(Tchoumou Lancma)と表記されている。これがヨーロッパに「チョモランマ」の名称が初めて紹介されたときである。

イギリス東インド会社は1765年以降、測量局を設けてインド各地の詳細な地図の作成を行っていた。1815年、ベンガル、ボンベイ、マドラスにあった3つの測量部が統合されてインド測量局が発足。さらに1818年8月1日にはインド大三角測量部(The Great Trigonomentrical Survey of India)が別に設けられ、三角測量のエキスパートであるウィリアム・ラムトン(William Lambton)が部長に、28歳の士官候補生ジョージ・エベレストが主任助手に任命された。1833年に組織改編で大三角測量部がインド測量局の傘下に入り、ラントンの逝去によってエベレストが二代部長となった。1830年にはエベレストはインド測量局長官も兼務することになる。

エベレスト長官はインドの南岸からヒマラヤ山麓までの三角測量を終え、1843年にアンドリュー・スコット・ウォーに長官職を譲って退任した。ウォー長官の時代にヒマラヤ山脈の山々の計測が行われ、まずカンチェンジュンガが世界最高峰であると考えられた。しかし、彼らはさらに奥地にある山に興味を持った。この山は初め「ピークb」(Peak b)、次に「ピークh」(Peak h)のちに「ピーク15」(Peak XV)と呼ばれるようになる。インド測量局の主任測量士でデヘラードゥーンに駐在していたラーダナート・シクダール(Radhanath Sickdhar)がピーク15の測量を行い、海抜8,840メートルという標高を算定した(シクダールはエベレストが世界最高峰であると考えた最初の一人であるとされている)。ピーク15の地域はネパールとチベットに挟まれていたが、どちらの国にも入国ができなかったため、インド測量局では山の地域での呼称を確定できなかった。

1856年3月、ウォー長官はピーク15が8,840メートルでカンチェンジュンガの測量値(8,582メートル)よりも高く、おそらく世界最高峰であるという書簡を王立地理学協会に送付した。この書簡の中で、ピーク15の名称を「地方での呼び名は数多くあるだろうから、どれか一つを選ぶのは難しい」として、前任長官のエベレストにちなんで山の名前を「エベレスト山」(初めMont Everest、のちにMount Everest)としたいとし、以下のように述べた。

「尊敬する前長官のサー・ジョージ・エベレスト大佐(Colonel Sir George Everest)は、すべての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名づける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称いかんにかかっているであろう」

まだ存命中だったジョージ・エベレスト自身は、この名前がヒンディー語と無関係でインドの人々に発音できない名前であるとして反対し、地理学協会にその旨を書き送ったが、1856年8月に開かれたベンガル・アジア協会の会合で世界最高峰の発見が報告されたあとの9月に王立地理学協会が「エベレスト山」の名称を受け入れ、インド政庁も承認した[5]。ちなみに現在のエベレストの発音(IPA:/ˈɛvərɪst/または/ˈɛvərɨst/ EV-er-est)と実際のジョージ・エベレストの発音(/ˈiːvrɪst/ EAVE-rest)は異なっている。

ピーク15の名称については、ネパールに駐在した外交官ブライアン・ホジソンが1856年に地元で「デヴァドゥンガ」(Devadhunga)と呼ばれていると唱え、1907年にはインド測量局の技師ナタ・シン(Natha Singh)が地元の民が「チョー・ルンブ」(Chho Lungbhu)と呼んでいることを記録している。1909年にはエベレスト登攀のための情報収集をしていたグルカ連隊の将校チャールズ・グランヴィル・ブルース(Charles Granville Bruce)がクーンブ地方の出身のシェルパから「チョモ・ルンモ(Chomo Lungmo)」という名前を聞いている。他にも19世紀の終わりには「チョモカンカル(Chomokangkar)」というのが山の名前であるといわれたこともあったが、インド測量局は一貫して「エベレスト」の呼称を用い続けた。

1950年代に入って中国政府がチベット名「チョモランマ(Chomolangma、珠穆朗瑪)」を採用した。これは「世界の母なる女神」の意味であるという。1960年代にはネパール政府が「サガルマータ(世界の頂上の意味)」という名称を示した。この名前はネパールの著名な歴史学者バーブラーム・アーチャリヤが1938年に文芸誌『シャルダ』に紹介したものだが、カトマンズでは知られていない一部の地域での名称だった。ネパールは以後、この名称を使い続けている。

山の名称に人名を用いたことについては王立地理学協会やインド政庁でも議論があり、悪しき先例になると考えた人々も多かった。エベレスト山という名称が受け入れられたあとで、世界第2位のK2に関しても名称を「ウォー山(Mount Waugh、1860年)」あるいは「ゴドウィン・オースティン峰(Godwin-Austen、1886年)」としようという動きがあったが、いずれも地理学協会やインド政庁が受け入れなかった。

標高
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画像ファイル(環境により文字がずれることもあります)

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エベレストを中心に捉えたパノラマ写真

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国際宇宙ステーションから望むヒマラヤ山脈

1852年、インド測量局の技師でベンガル出身のインド人測量技師、ラーダナート・シクダール が240キロメートル離れたインドから三角測量した結果、「ピーク15(Peak XV)」 という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればピーク15の標高は約8,840メートル(29,002フィート)だった。

現在最新の標高は8,848メートルとされているが、ほかにもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山はK2で、標高8,611メートルである。2005年5月22日、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数か月にわたる測量の結果、同年10月9日にエベレストの標高は8,844.43メートル±0.21メートルと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまででもっとも正確な標高であるとしている。しかし、この標高はもっとも高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、モンブランやテンリタグといったほかの高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5メートルだったことから、8,848メートルという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。

現在もっともよく知られている8,848メートルという標高は、1955年のインドによる従来より近距離からの測量によって、初めて求められたものである。1975年の中国による測量でも同様の結果が得られた。どちらも頂上部分の氷雪の厚みを含んだものである。1999年5月、ブラッドフォード・ウォッシュバーン率いるアメリカエベレスト遠征隊は山頂にGPSユニットを設置、8,850メートルという測量結果を発表した。これによれば岩石部分の標高は8,850メートル、氷雪を含めるとさらに1メートル高いとされている。ネパール政府は正式にこの測量結果を認めていないが、この数値は広く用いられている。1999年と2005年の調査双方にジオイドの不確かさという問題が指摘されている。

エベレストの標高は周辺のプレートテクトニクスにより年々高くなっており、山頂も北東へと移動していると考えられている。現在2つの報告書が、エベレストは年4ミリメートルの速さで標高が高くなっており、また山頂は年3 - 6 ミリメートルの速さで北東へ移動しているとしている。しかし、ほかの報告書の中には横方向への移動はもっと速く(年27ミリメートル)、標高は縮むことさえあるとしているものもある。またエベレスト山頂では風化が激しく、地殻変動によって一時的に8,848メートルを超えてもその分は侵食されてしまうため、エベレストの標高はこれ以上高くならないという説もある。

エベレストはもっとも高い海抜高度をもつ山である。しかし、ハワイのマウナケアとエクアドルのチンボラソがエベレストに代わる「世界最高峰」とする主張もある。マウナケアの海面からの標高は4,205メートルだが、海底からの高さを考慮すればその標高は10,203メートルを超えることになる。また海抜高度6,267メートルのチンボラソ頂上はアンデス山脈の最高峰ですらないが、地球の形状は赤道に近づくほどに膨れており、地球の中心からの高さは6,384.4キロメートルになる。これは、エベレストの6,382.3キロメートルよりも2,168メートル高い。

また、もっとも深い海であるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレストの標高よりも遥かに深い。もしエベレストをチャレンジャー海淵の深さに沈めたとすれば、山頂ですら2キロメートルもの深度に沈むこととなる。

地質
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エベレストベースキャンプからの眺め

3つの層
山体はチョモランマ層、ノース・コル層、ロンブク層の3つに区分される。それぞれが低角度の衝上断層で境される異地岩体である。ゴンドワナ大陸の一部であったインド亜大陸が白亜紀にマダガスカル島から分離し、新生代にユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈ができた。頂上から8,600メートルのチョモランマ層はエベレスト層とも呼ばれ、石灰岩、ドロマイト、シルト岩からなる。オルドビス紀を示す三葉虫やウミユリの破片を含む。
標高ごとの地層
8,600メートルから7,000メートルのノース・コル層のうち、上部8,200メートルまでが有名な「イエローバンド」で、エベレストの写真にはっきり写る白い帯である。大理石が風化して黄褐色になったもので、ウミユリを含む。8,200メートルから7,600メートルは千枚岩と片岩からなる。7,600メートルから7,000メートルは片岩に大理石薄層が挟まれる。以上の変成岩は泥岩、頁岩、砂岩、石灰岩などからなるフリッシュが変成作用を受けたものである。7,000メートルより下のロンブク層は片岩と片麻岩で、さまざまな厚さの白粒岩の岩脈と岩床が無数に貫入している。
登頂史
1893年、探検家として知られ、政務官を務めていたフランシス・ヤングハズバンドと第五グルカ・ライフル連隊の勇将として鳴らしていたチャールズ・グランヴィル・ブルース准将(Charles Granville Bruce)がチトラル(現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが、具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。1907年にはイギリス山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案されたが、実現しなかった。しかし、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争に敗れたことで、イギリスが帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。

1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われていたが、軍務に影響があるという理由で回避され、代わりに中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄チャールズ・ハワード=ベリー(Charles Howard-Bury)中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレクサンダー・ケラス(Alexander Kellas)博士、医師のサンデイ・ウォラストン(Sandy Wollaston)、測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになるオリヴァー・ウィーラー(Oliver Wheeler)、インド測量局の局員ヘンリー・モーズヘッド(Henry Morshead)、地質学者のアレクサンダー・ヘロン(Alexander Heron)、登攀部隊のリーダーとして50代のベテラン登山家ハロルド・レイバーン(Harold Raeburn)、若手登山家として知られていたジョージ・マロリーとオーストラリア生まれのジョージ・フィンチが選出された。フィンチは直前になって健康を理由にメンバーから外され、代わってマロリーの登山仲間だったガイ・ブロック(Guy Bullock)がマロリーの推薦によって選ばれた。第一次遠征隊は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7,020メートル)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。

1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長として宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット(Edward Lisle Strutt)大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチ、ハワード・サマヴィル(Howard Somervell)博士や エドワード・ノートン、同地方の地理にも詳しい医師のトム・ロングスタッフ、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド(Arthur Wakefield)博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース(Geoffrey Bruce)大尉と同僚のジョン・モリス(John Morris)大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、モーズヘッド、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel)大尉らが選ばれた。第二次遠征隊は3度の頂上アタックを行った。7,620メートルの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225メートルという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8,321メートルの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。

1924年の第三次遠征隊では1922年同様、隊長はブルース准将が務め、副隊長にはノートン大佐が選ばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham)、E・シェビア(E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期をともにしたアンドリュー・アーヴィンらが選ばれた。一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路でエベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース准将が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7,000メートル付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8,572メートルに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第六キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。ブルース准将のエベレスト登山はこれが最後となり、1939年に死去した。

第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。

1933年、イギリス第四次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ(Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス(Frank Smythe)、ジャック・ロングランド(Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス(Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン(Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー、 エドワード・シェビア(Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク(Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード(Colin Crawford)らがおり、のちに遠征隊の隊長を務める歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8,570メートルが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。

なお、1933年4月3日、スコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンが操縦席がむき出しの複葉機(ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えるとともに史上初めてエベレストの空撮に成功した。

1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン(Maurice Wilson)が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまで上がったが行方不明になる。シェルパ二人は生還し、ウィルソンの失踪を報告した。

1935年、イギリス第五次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見(日記には、登山経験のないウィルソンの失敗の経緯が綴られていた。遺体は近くのクレバスへ埋葬された)。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン(Bill Tilman)がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが、のちにエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加した。

1936年、イギリス第六次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが、年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン=ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国し、「最低の遠征隊」と酷評されることになる。

1938年、イギリス第七次遠征隊。隊長はビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。

翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われなかった。

1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆に、それまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下に置かれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に世界各国が参加できるようになったということを意味していた。

1951年、イギリスのマイケル・ウォード、トム・ボーディロン(Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から2名、アール・リディフォードとエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムにいたる、現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、のちに未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる。

1952年、スイスがネパールから1952年の入山許可を得たが、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール(Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレバスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8,611メートルに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならなかった。

1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント(John Hunt)大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定が覆され、ハントが隊長に代わった。このときのトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8,749メートル)を制したが酸素不足で撤退した。

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1953年に初登頂したエドモンド・ヒラリー(左)とテンジン・ノルゲイ(右)

後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。

1960年5月25日、中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真を撮っていなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在ではほぼ認定されている(下記リスト参照)。

1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。

1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった(1度目は1963年のアメリカ隊と成功)。

ネパール政府により、外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。

1970年5月11日、松浦輝夫と植村直己が日本人として初めて登頂に成功した。

1975年5月16日、田部井淳子が女性として世界で初めて登頂に成功した。

1973年、イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊は、イタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンにおよぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。

1996年5月10日、8名が死亡する大量遭難死が発生した(エヴェレスト大量遭難参照)。同シーズンにさらに4名の遭難があり、1シーズンで12名の死者が出た。

1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160メートル付近でマロリーの遺体を発見した。マロリーたちが持参していたカメラ、ヴェスト・ポケット・コダックが発見されればエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、いまだ発見にいたっていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品になかったことから、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、このときの捜索では何も発見できなかった。

2012年5月19日、異常高温によりルート工作が難航したため待機させられていた大量の登山隊が開通時に一斉に押し寄せ、1日で234人が登頂し大渋滞が発生。これを遠因として登頂後に高山病を発症した4人が死亡した。この年はいくつかの登山ツアーは山頂までの登頂を諦めている。

2014年4月18日、ネパール側ルート上のクーンブ氷河中にある「ポップコーン・フィールド」付近を、西稜の肩の懸垂氷河の崩落を原因とした大雪崩が直撃。ルート工作中のシェルパが多数巻き込まれ16人が死亡(死者はすべてネパール人ガイド)。この事故死をきっかけにシェルパ側から事故時の補償を拡充する声が高まり、登山のサポートを事実上ボイコット。334人が登頂を断念している。また、ネパール観光局は、シェルパの保険金を2014年9月以降、引き上げる措置を講じている。

2015年4月25日、同日発生したネパール地震の影響で大規模な雪崩がベースキャンプを直撃し、日本人1人を含む18人が死亡。エベレスト史上最悪の遭難事故となった。ネパール側では余震によりルート修復が困難になり[16]、キャンプ1とキャンプ2に100人以上が取り残されたがヘリコプターで救助された。一方、この地震を受けて、中国政府はチベット側の登山中止を宣言。この影響で、この年は1974年以来41年ぶりに登頂者が1人も出なかった。

おもな登頂者のリスト
1953年5月29日 - (南東稜、初登頂) - イギリスのジョン・ハント隊のニュージーランドの登山家エドモンド・ヒラリーとネパールのテンジン・ノルゲイが、南東稜より世界初のエヴェレスト登頂(en:1953 British Mount Everest expedition)を果たした。初登頂者となり、ヒラリーはイギリス女王エリザベス2世からサー(Sir)の称号を授けられた。
1960年5月24日 - (北東稜、チベット側初登頂) - 王富洲、屈銀華、貢布(中華人民共和国)が登頂。同隊の登頂成功については長らく西側諸国で疑問が持たれていたが、現在ではほぼ認定されている。
1963年5月22日 - (西稜初登頂、世界初縦走) - ウィリー・アンソールド、トム・ホーンバインがアメリカ人としては初めての登頂。東南稜から下山。
1970年5月11日 - (日本人初登頂) - 松浦輝夫・植村直己
1973年10月26日 - (秋季初登頂) - 石黒久・加藤保男
1975年5月16日 - (女性初登頂) - 田部井淳子
9月24日 - (南西壁初登頂) - ドゥーガル・ハストン、ダグ・スコット
1978年5月8日 - (無酸素初登頂) - ラインホルト・メスナー、ペーター・ハベラー
1979年5月13日 - (ロー峠からの西稜完全縦走)アンドレイ・シュトレムフェリ、イェルネイ・ザプロトニク
1980年2月17日 - (冬期初登頂) - クシストフ・ヴィエリツキ、レーチェク・チヒ
5月19日 - (南峰直登ルート初登頂)イェジ・ククチカ、アンドレイ・ジョック
5月30日 - (北壁初登頂)重広恒夫、尾崎隆。
8月20日 - (無酸素単独初登頂)(北面未登ルート初登頂) - ラインホルト・メスナー
1982年5月4日 - (南西壁〜西稜ルート) - エドゥアルド・ミスロフスキ、ヴォロディア・バリベルディン
1983年10月8日 - (東壁初登頂) - ルイス・ライハルト、キム・モン、カルロス・ビューラー
1988年5月5日 - (世界初山頂衛星生中継) - 日本テレビチョモランマ登山調査隊(同社の開局35周年記念特別番組の取材)
9月26日 - (初のパラグライダーによる下山) - ジャン=マルク・ボワヴァン、山頂から5,900メートルのキャンプ2まで。
10月14日 - (女性初の無酸素登頂) - リディア・ブレディ
1995年5月11日 - (北東稜完全縦走による登頂)- 古野淳、井本重喜
2000年10月7日 - (初のスキー下山) - ダボ・カルニカール、山頂からベースキャンプまで、スキーを脱がずに下山[注 2]。
2005年5月14日 - (航空機による山頂への初着陸) - ディディエ・デルサーユ(ユーロコプター社所属パイロット)が操縦するヘリコプターが山頂に数分間にわたり着地。同時に航空機による世界最高高度への着陸記録も達成した。
2008年5月8日 - 北京オリンピックの聖火が午前9時17分頂上に到達した。女性登山者の吉吉らの手でリレーされ、チベット民族女性のズレンワンモが最終走者を務めた。
主な登頂の記録
最年少、最高齢

2010年5月22日 - (最年少登頂) - ジョーダン・ロメロ、13歳10ヶ月
2014年5月25日 - (女性最年少登頂) - マラバト・プルナ、13歳11ヶ月。チベット側から登頂。
2012年5月19日 - (女性最高齢登頂)- 渡辺玉枝、73歳
2013年5月23日 - (最高齢登頂)- 三浦雄一郎、80歳(標高6500mのC2からヘリコプターで下山)
複数回登頂
1996年5月23日 - (無酸素での最多登頂) - アン・リタ、無酸素で10回登頂。
2019年5月21日 - (最多登頂) - カミ・リタ・シェルパ、24回
2018年5月16日 - (女性最多登頂) - ラクパ・シェルパ、9回
2018年5月17日 - (日本人最多登頂) - 倉岡裕之、9回
2012年5月12日, 5月19日 - (女性初の2往復)チュリム・シェルパがベースキャンプと山頂の間を1週間で2往復
障害者による登頂
1998年5月27日 - (初の義足者による登頂) - トム・ホイッテーカー
2001年5月25日 - (初の全盲者による登頂) - エリック・ヴァイエンマイヤー
2003年5月23日 - (初の片腕切断者による登頂) - ゲイリー・ギュラー
2006年5月15日 - (初の両足義足者による登頂) - マーク・イングリス
2013年5月20日 - (初の両腕切断者による登頂) - スダルシャン・ゴータム
2013年5月21日 - (義足者による登頂、女性初) - アルニマ・シンハ。
2016年5月21日 - (初の全聾者による登頂) - 田村聡
登山
登山者数

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2010年までの年ごとの登頂者数の推移

登頂者数は2010年時点で3,142人(のべ5,104人)で、その中の142人(のべ173人)が無酸素で登頂している。2012年には登頂者数が3,842人(うち女性は219人)となり、1週間にベースキャンプから山頂まで2往復する女性も現れた。商業登山や公募隊が盛んになり、登山者数はますます増加する傾向にある。登頂のためのノウハウが蓄積され、死亡率は減少傾向に、登頂成功率は上昇傾向にある。登山者の増加により、渋滞が問題になっており、渋滞によりヒラリー・ステップで2時間半 - 4時間待つこともあり、ヒラリー・ステップを簡単に素早く登れるように2013年現在、固定ロープだけでなくはしごも設置することが検討されている。2018年には登頂者は807人と過去最高となった。2019年5月22日には200人以上が頂上を目指し、頂上から登山者が数珠つなぎになって渋滞した。渋滞に12時間も巻き込まれて体調を崩して死亡する登山者も出てきている。

入山料と費用
エベレストに入山するには入山料を支払わないと登れないシステムになっている。2015年時点の入山料は、ネパール側では春の通常ルート(南東稜)で1人あたり1万1,000ドル[34]。ほかにリエゾン・オフィサーや医療サポート、ロープ設置などの名目で1,500ドルほどかかる[35]。春以外の季節、または通常ルート以外のルートでは、入山料はこれよりも安くなる[36]。2014年の価格改定時に1人で登る場合の入山料が値下げされたが、団体割引がなくなっている。チベット側の入山料は1人あたり7,000ドルである(2015年時点)。

登山ツアー(商業公募隊)が多数あり、2015年現在、ネパールからの通常ルートの場合、入山料などのすべての諸経費込みで3万5,000 - 8万5,000ドル程度となっている[34]。ネパールからの通常ルートは、シーズンごとに各隊のシェルパが固定ロープ、はしごを設置し、それに沿って登山する形となり、氷壁などを登る必要などはない。チベット側からの登山は難易度が相対的に高くなっているが[37]、こちらも公募隊が多数組まれている。商業公募隊には品質のばらつきがあり、死亡率の高いものも存在する。最近の日本人による登頂のほとんどが商業公募隊かテレビ局の撮影をともなうものになっている。

商業登山への懸念と批判
エドモンド・ヒラリーは登山ツアーを「商業活動」と批判している。田部井淳子も、現地ネパール人の助けがあって登頂に成功したが、今では助けを得られるかはお金次第であると述べ、登山の過度の商業化を危惧した。また登山者数の増加にともない、ネパール側、チベット側の2つのノーマルルートで渋滞が発生し、それが誘引となって遭難する案件も出てきている。2005年にはチベット側だけで35グループのエベレスト登山ガイド隊が活動しており、一連の登山ビジネスの活発化が山に対する敬意や畏怖の念を薄れさせると懸念する声も上がっている。


遭難
登山ルートには、随所に120体もの遭難者の遺体が放置され、凍結ないしは乾燥によりミイラ化している。遺体の中には登山ルートの目印となっているものもある。遭難死の7割は下山時に発生している。

ネパール側のエベレスト以外(K2など)の山も含めたヒマラヤ山脈での標高8,500メートル以上の山の登山での死亡率は以下の通り。

時期 登山者数
(シェルパ・ガイド除く) 登山者
死亡者数 登山者
死亡率 シェルパ・ガイド数 シェルパ・ガイド
死亡者数 シェルパ・ガイド
死亡率 全登山者数 全死亡者数 全死亡率
1950年〜1989年
標高8500m以上の山 3,451 75 2.17% 2,705 47 1.74% 6,156 122 1.98%
1990年〜2006年
標高8500m以上の山 6,401 92 1.44% 4,379 30 0.69% 10,780 122 1.13%
1990年〜2006年
エベレスト通常ルート 4,549 64 1.41% 3,380 22 0.65% 7,929 86 1.08%
登山ツアーの1つであるHimalayan Experienceの客の登頂成功率は、悪天候とシェルパの死[41]により誰も登らなかった2012年を除くと、客を毎年20名前後取るようになった2003年 - 2011年で60 - 82パーセント[42](この数字はガイド・シェルパを含まず)である。

日本人専用の登山ツアーとしてアドベンチャーガイズがあり、2004年 - 2013年にガイドを除いて23名参加し、17名登頂成功、2名死亡(死亡事例はいずれもガイド自身がエベレスト登頂未経験のケースに発生)。

制限
年齢
ネパール側の登山ルートは成人(16歳以上)のみ登山ができる年齢制限がかかっており、2010年9月より中国側登山ルートによる登山が18歳から60歳に年齢制限がかかる。制限導入の背景は、従来より若年層による登山にはより大きな危険がともなうと批判が出ていたこと、最年少記録更新のヒートアップが予想されたことなどがある。
ただし中国側の規制は強制ではなく、2014年には13歳のマラバト・プルナが中国側から女性最年少登頂を果たしている。
最高齢登頂記録に関して、2013年に日本の三浦雄一郎が80歳で登頂して記録を更新した一方、2017年に記録更新を目指した85歳のネパール人の男性登山家がベースキャンプで心臓発作により死亡している[45]。この事例を受け、ネパール登山協会のシェルパ会長は、個人的な意見と断ったうえで「今こそ規制が必要」とコメントしている。
人数
2017年12月28日、ネパールは単独登山者の入山を法律で禁止した。
ゴミ問題
登山ルートには度重なる登山のゴミが廃棄されており、生態系に与える影響や水質汚染が懸念されている。ネパール政府は、自分が出したゴミとは別に1人あたり8キロのゴミを持ち帰るよう義務づける、新しい規制を2014年から導入した。ゴミを回収することを目的とした登山が行われることもある。

2017年には、ネパール側で25トン近いゴミと15トンの屎尿が持ち帰られたが、デポジット金没収のペナルティを受容して山にゴミを残す登山者も多く、ゴミの量は増え続けている。

トレッキング
上記のようにエベレストの山頂へと登ることは熟練の登山家でも危険をともなうが、一方で南麓であるネパール側の6,000メートル以下のエベレストの山腹まではそれほどの難所もなく、高山病対策さえあれば一般の観光客でもトレッキングを楽しむことは可能であり、世界中から多くの観光客が訪れる。日本でもいくつかの旅行社がエベレスト・トレッキングツアーを催行しており、参加者も多い。また単独で、または登山ガイドをつけての個人トレッキングも可能である。

トレッキングを行う場合、まずネパールの首都カトマンズから飛行機でルクラ村へと向かう(テンジン・ヒラリー空港も参照)。ここから北のエベレスト山腹へと向かう道はエベレスト街道と呼ばれ、多くの登山客が行きかう。ルクラ村の手前にある路線バスの終点ジリ村から徒歩で数日かけルクラまで歩くことも出来る。

ルクラから北へ向かうと、この地方でもっとも大きく登山基地となっているナムチェ村を通り、やがて西のゴーキョ・ピークと東のカラ・パタールへ向かう2つの登山道が分岐する。ゴーキョ・ピークは標高5,483メートル、カラ・パタールは5,545メートルの地点にあり、どちらも眼前にエベレストを望むことができる。

周辺
エベレストの北には世界一高い派出所である「チョモランマ派出所」が中国人民武装警察部隊のチベット国境警備隊によって2008年に建設されている。

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