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2019年07月25日

オーロラ

オーロラ(英: aurora)は、天体の極域近辺に見られる大気の発光現象である。極光(きょっこう)ともいう。以下本項では特に断らないかぎり、地球のオーロラについて述べる。

女神の名に由来するオーロラは古代から古文書や伝承に残されており、日本でも観測されている。近代に入ってからは両極の探検家がその存在を広く知らしめた。オーロラの研究は電磁気学の発展とともに進歩した。発生原理は、太陽風のプラズマが地球の磁力線に沿って高速で降下し大気の酸素原子や窒素原子を励起することによって発光すると考えられているが、その詳細にはいまだ不明な点が多い。光(可視光)以外にも各種電磁波や電流と磁場、熱などが出る。音(可聴音)を発しているかどうかには議論がある。両極点の近傍ではむしろ見られず、オーロラ帯という楕円上の地域で見られやすい。南極と北極で形や光が似通う性質があり、これを共役性という。地球以外の惑星でも地磁気と大気があれば出現する。

さらに状況さえ再現すれば、人工的にオーロラを出すこともできる。

名称
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アウロラ

オーロラという名称はローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する。ただし、科学術語になった過程については定説がない。

オーロラという名称が使用され始めたのは17世紀頃からと考えられている。名付け親は一説によるとフランスのピエール・ガッサンディで、エドモンド・ハレーが自らの論文の中でこの説を述べている。もう一説は、イタリアのガリレオ・ガリレイが名付けたという説である。当時彼は宗教裁判による命令で天体に関することを書けなかったため、弟子の名を使ってこのことを著している。

オーロラという名称が浸透する以前から、現象そのものは紀元前から様々な地で確認・記録されている。アリストテレスやセネカはオーロラを天が裂けたところであると考えていた。特にアリストテレスは『気象論』で「天の割れ目(CHASMATIS)」と表現した。また、日本では古くは「赤気」「紅気」などと表現されていた。現代日本語では北極近辺のオーロラを北極光、南極近辺のオーロラを南極光と呼ぶこともある。

北アメリカやスカンジナビアではオーロラのことをnorthern lights(北の光)と呼ぶが、徐々にauroraも使うようになって来ている。また北極光をnorthern lights、あるいはAurora Borealis(北のオーロラ)、南極光をsouthern lights(南の光)、 あるいはAurora Australis(南のオーロラ)と呼ぶ。オーストラリアではオーロラのことをnorthern lightsと呼ぶ。ときにはAurora polarisと呼ばれることもある。

観測史
日本の観測史については後述。

神話や伝承
そのころ、アンティオコスは再度のエジプト攻撃の準備をしていた。
折から、全市におよそ四十日にわたり、金糸の衣装をまとい、
槍と抜き身の剣で完全武装した騎兵隊が
空中を駆け巡るのが見えるという出来事が起きた。
すなわち、隊を整えた騎兵がおのおの攻撃や突撃をし、
盾が揺れ、槍は林立し、投げ槍が飛び、
金の飾りやさまざまな胸当てがきらめいた。
そこで人は皆、この出現が吉兆であるようにと願った。
マカバイ記二 5章 1,2,3,4節
中国や西欧ほどの緯度ではオーロラの活動が活発な時にオーロラの上の部分、赤い部分が見える。このことから中世ヨーロッパではオーロラの赤から血液を連想し、災害や戦争の前触れ、あるいは神の怒りであると解釈していた。また中世までのヨーロッパでは、オーロラを「空に剣や長槍が現れ」て動いた・戦ったと表現することが多い。これはオーロラの縦縞が激しく動くさまを表している。ただし、彗星も空に現れる凶兆とされていたため、オーロラなのか彗星なのか判別できない記述もある。

古代中国ではオーロラは天に住む赤い龍に見立てられ、やはり西洋と同様に政治の大変革や不吉なことの前触れであると信じられていた。古代中国には赤い蛇のような体を持ち、体長が千里におよぶとされる燭陰という神が信じられており、中国の神話学者・何新は、大地の最北極に住む燭陰はオーロラが神格化されたものではないかと論証している。その一方で中国の考古学者・徐明龍は、燭陰を、中国神話の神である祝融と同一神であるとし、太陽神、火神ではないかと述べている。また中国の古文書の中で天狗、帰邪、赤気、白気、竜などと表現されている天文現象の中にも、オーロラのことを指しているのではないかと推測されるものがある[。

北欧神話においてオーロラは、夜空を駆けるワルキューレたちの甲冑の輝きだとされる。北欧ではオーロラにより死者の世界と生者の世界が結びついている、と信じている人が未だにいる。またエスキモーの伝説では、生前の行いが良かった人は死後、オーロラの国(実質的に天国)へ旅立つと言われている。

近代

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ロシアで1890年から1907年まで出版されていた百科事典に載っているオーロラの挿絵。

近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。ジェームズ・クックは、1773年2月の航海誌に「天空に光が現れた」と残しており、世界で最初に南半球のオーロラを見たヨーロッパ人であると言われている。

オーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる。フランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後行方不明となった。消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである。

両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。フリチョフ・ナンセンの著書や日記には木版画や絵画のオーロラが掲載されている。またロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している。

折り畳まれ、揺れる光のカーテンが空に立ち上がり、そして広がり、ゆっくり消えて行く。かと思うと、また生き返る。このような美しい現象は、大自然への畏敬の念を持たずに見ることはできない。
オーロラが人の心を動かすのは、なにかとらえ難い、霊妙な生命にあふれたもの、静かな自信に満ちて、それでいて絶えず流れ来るものを暗示することによって、人々の想像力を刺激するからである。

− ロバート・スコットの日記より

研究史
オーロラの発生原理については、古くから多くの科学者たちが解明に努めてきた。特に18世紀から19世紀にかけてのオーロラ研究は電磁気学の誕生と発展そのものである、と言う研究者もいる。

黎明期

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まるで地面から吹出したように見えるオーロラもある。

エドモンド・ハレーは1716年3月にオーロラを観測して論文を発表した。ハレーはオーロラの縞模様が球形磁石の磁力線と一致しているのを認識し、「磁気原子」という仮想の原子が地球内部から吹き出してきて、それが磁力線にそって発光するのではないか、という仮説をたてた。フランスのド・メラン(en)はこの説を支持しなかったが、ジョン・ドルトンやジャン=バティスト・ビオは支持した。特にビオは、「磁気原子」の噴出は火山の噴火によるものだと主張した。

ド・メランは1733年にオーロラに関する世界初の学術書を書いた。その中でド・メランは巻雲を原因とする説を退け、地球外物質を原因とした。黄道光を作る物質が地球の大気圏で発火する、という説を唱えたのである。太陽黒点の数とオーロラの発生頻度に相関関係があることを発見したのもド・メランである。また同著の中で、南半球にも北半球とよく似たオーロラが出るのではないかとも述べている。

発生頻度の研究も行われた。イライアス・ルーミス(en)は1859年の太陽嵐をまとめ、1860年にオーロラの発生頻度分布図を作った。図は約1世紀後の国際地球観測年により多くの情報を元に作られた分布図と比べても遜色のないほど正確である。スイスのフリッツはルーミスの図を定量化し、一年でオーロラが発生する日数が同じ地点を線で結び、「アイソカズム」と名付けた。

電磁気学の発展
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カール・ステルマー(左・en)と助手のビルケラント(右)。1910年撮影。

1741年、アンデルス・セルシウスとその助手 Olof Hiorter はオーロラが発生すると地球磁場も変動するということを発見した。またアレクサンダー・フォン・フンボルトは1845年から1862年にかけて刊行された『コスモス』の1章を割いてオーロラについて述べている。彼はベルリンからアルプスの高山から赤道から極地まで地球磁場を準定量的に測り、ロシアとイギリスの王立協会に地磁気観測所を進言して設立させ、地磁気の擾乱が全球的なものであることを突き止めた。そして、世界中の磁場が乱れて高緯度地方に強いオーロラが出たり低緯度地方にオーロラが出たりする現象に対し、フンボルトは「地球磁場のカミナリ」という新しい術語を作った。20世紀に開かれた国際会議により、この現象は「磁気嵐(Magnetic storms)」と再命名された。

19世紀末になると、X線の発見やその研究、またジョゼフ・ジョン・トムソンによる電子の発見に象徴される、真空管を用いた実験が盛んになっていった。トムソンは自著の中で放電管の光とオーロラの光は同一であろうと述べている。ノルウェーの物理学者、クリスチャン・ビルケランドは1896年の時点で、太陽から高速で飛んでくる電子が地球の大気に突入して光ったものがオーロラではないかと考えた。そして数多くの遠征や小さな地球を模した磁石(テレラ)による実験(後述)、地磁気擾乱の解析などを経て、1913年に研究結果を1冊の本にまとめた。この本の中で彼は既に、オーロラに沿って流れる大電流について述べている。

カール・ステルマーはビルケランドのテレラを見て数学者から理論物理地球学者に転向し、磁場内での荷電粒子の動きを計算した。しかし算出されたオーロラの発生範囲が実際のオーロラと違うことからステルマーは実測に力を入れ始め、計4万枚のオーロラの写真を撮った。この研究により、オーロラの下端が100km上空にあることが確認された。シドニー・チャップマンは1918年に「磁気嵐の理論の概要」という論文を発表した。その後この論文に対する反論を受けて助手フェラーロとともに1931年、地球の磁気圏は太陽風によって彗星のような形になっているという、チャップマン=フェラーロ理論を発表した。太陽のプラズマの中に「未知のもの」があるはずだというチャップマンに学会は反発したものの、数年後に「未知のもの」とは太陽の磁場であることがわかった。チャップマン=フェラーロ理論は約30年後のアメリカの人工衛星エクスプローラー12号により1961年に実証された。

ハンス・アルヴェーンはアルヴェーン波を予言し、「磁場の凍結」という概念を確立したノーベル物理学賞受賞者である。アルヴェーンは「磁場の凍結に固執するから太陽面爆発やオーロラを説明できないのだ」と自らの理論を軽んじて、若い研究者から異端として扱われた。実際に磁場の凍結でオーロラは説明できない。その後チャップマンとアルヴェーンの間で磁気嵐を巡る論争が起こり、チャップマンは「数学的な解に十分な基礎をおかない思索を避けねばならない」といい、アルヴェーンは「プラズマは数式を嫌い、そしてまた数式の示すところに従いたがらない」といい、ステルマーは「オーロラがカーテン状である理由を説明できない理論はオーロラの理論と呼べない。結局私の理論が一番正しいはずである」といった。

分光
オーロラの光そのものを分析し、何が光っているのかを調べる研究もなされていた。だがこのアプローチは、分光学そのものの発展を待たねばならなかった。オーロラ分光学が始まったのは1850年代、そして最も代表的な緑白色の光の波長が正確に測定されたのは約70年後の1923年である。当時の真空放電の装置では緑白色の光を再現できなかったり、分光が不正確で間違った同定がなされたりもした。アルフレート・ヴェーゲナーは、大気の上層には「ゲオコロニウム」という下層に存在しない元素があり、これが発光のもとではないかと考えた。ウィリアム・ラムゼーは著書の中で、「太陽中の放射性元素から放出されて飛来する電子が、大気中のクリプトンを励起することによってオーロラは作られる」と述べている。

Lars Vegard(en)は電離した窒素分子の出す光と電離してない窒素分子から出る光を同定した。また、窒素の放電管実験で出る光のうちにオーロラの中にも見られる光が一つ有ることを発見した。この光はアメリカのKaplanによって同定されたためVegard-Kaplan帯と呼ばれる。アンデルス・オングストロームは19世紀後半、オーロラの分光を行い、オーロラの光は太陽光とは違って、短波長の光と狭い範囲の光の集まりであることを発見したと言われている。そして緑白色の光の波長を556.7nmと測定した。正確には557.7nmである。その後1925年にこの光が酸素分子から出ていることが発見された。酸素原子の出す光も1930年に同定されるなど、オーロラの元となる気体の大部分が判明していき、大気の上層の組成もまた判明していった。

全球的観測

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ドミニク作戦I・スターフィッシュプライム実験で発生したオーロラ。1962年7月。

やがて分光学と磁気嵐の研究は深化するとともに専門化していった。事実上、20世紀半ばの時点ではオーロラの分布や動きに関する研究は全くといっていいほど進んでいなかった。

水素原子の光を同定したガルトラインが1947年に全天カメラを考案しており、国際地球観測年の委員長シドニー・チャップマンは極地全域で全天カメラを撮影することを計画した。さらにチャップマンは全天カメラ研究が一段落ついた1965年頃に、人工衛星から写真を撮ることを提案し、これも後述するように実現した。国際地球観測年ではロケットを2台、オーロラの光っている空域へ打ち込み、強力な電子ビームがあることもわかった。

人工的にオーロラを出現させる実験もこの頃に実施された。最初の実験はNASAによって1969年に行われた。しかし、この実験以前にも大気中核実験により期せずして人工のオーロラが発生したことがある。

フェルドシュタインはオーロラの発生する地域を1963年に初めて確定し、環状になっていることを突き止めた。太陽から見るとオーロラの環が固定されていることも発見した。赤祖父俊一も全天カメラやジェット機からの撮影によりオーロラの環の存在を示し、フェルドシュタインとともに1971年、発表したものの支持されなかった。しかしカナダのアンガーが人工衛星ISIS IIによって実際に環を撮影すると、この主張は受け入れられた。

発生原理
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地球の夜側にプラズマシートが形成される。

太陽からは「太陽風」と呼ばれるプラズマの流れが常に地球に吹きつけており、これにより地球の磁気圏は太陽とは反対方向、つまり地球の夜側へと吹き流されている。太陽から放出されたプラズマは地球磁場と相互作用し、複雑な過程を経て磁気圏内に入り、地球磁気圏の夜側に広がる「プラズマシート」と呼ばれる領域を中心として溜まる。このプラズマシート中のプラズマが何らかのきっかけで磁力線にそって加速し、地球大気(電離層)へ高速で降下することがある。大気中の粒子と衝突すると、大気粒子が一旦励起状態になり、それが元の状態に戻るときに発光する。これがオーロラである。発光の原理だけならば、オーロラは蛍光灯やネオンサインと同じである。プラズマシートが地球の夜側に形成されるため、オーロラは基本的に夜間にのみ出現するものである。しかし昼間にもわずかながら出現することがある。

どのようにして太陽風が地球の磁力圏に入り込むのか、なぜプラズマは特定の部分にたまるのか、何がきっかけで加速されるのかなど、発生原理の肝要な部分については未だ統一した見解はない。最も有力な説は、入り込む理由や加速される理由を、地球の磁力線が反対向きの磁力線とくっつくこと(磁気リコネクション)に求める説である。

オーロラが突如として一気に広がる現象をブレイクアップという。日本語ではオーロラ爆発とも訳される。空から突然光が噴出し全天に広がり、色や形の変化が数分間続く。このブレイクアップに関しても、発生原因や発生過程などはあまり分かっていない。

放出されるもの
可視光

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フェアバンクスのオーロラ。上部は赤、下のほうは緑になっている。

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珍しい紫のオーロラ。

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大抵は月よりオーロラのほうが暗い。

オーロラの色は、宇宙からの粒子が大気に衝突する際に何の成分に当たったかだけではなく、どれくらいの高度で、どれくらいの頻度で、どれくらいの時間をかけて衝突し、どれくらいのエネルギーを与えられて励起し、どの基底状態に戻ったのか、など様々な要素が複雑にからみ合って決まる。さらに、太陽光から特定の波長のみ吸収して起きる(共鳴散乱)オーロラがあるという説もあれば、励起する際に原子軌道から跳ね飛ばされた電子(二次電子)が別の原子を励起して別の色を出すこともある。

しかし実際には観測される色と出現する高度にはおおまかに相関関係がある。なお、オーロラの色の見え方は人によってまちまちである。同じ緑白色のオーロラが人によっては黄緑や緑色に見えたり、ピンクのオーロラが赤色に見えたりする。

高度およそ数百 kmにある窒素分子が、入射してきた電子によりイオン化され、励起・発光すると501.4 nm近辺(青)と427.8 nm近辺(紫)の光をだす。どちらもオーロラの色に幅がある。青紫色のオーロラは、発光するための機構が複雑だったり、人間の目が不得手な波長だったりすることから、肉眼で観測できるのは非常に珍しい。
高度がおよそ150から200 kmよりも高い領域では大気の密度が低いため、エネルギーの小さい電子でも酸素原子を励起させることができる。酸素原子はすこし励起して波長630 nmの光を出す。人の目には赤く見える。
高度およそ100から150 kmの辺りは大気の密度が高く、エネルギーの大きい電子でないと酸素原子を励起させられない。酸素原子は大いに励起してより波長の短い557.7 nmの光を出す。人の目にはこれらの色が混ざり合って緑色や緑白色に見える。高緯度地域ではたいていこの色のオーロラが見られる。
高度およそ90から100 kmの辺りまで到達するにはよほどオーロラ活動が強くなくてはならない。この高度では酸素よりも窒素のほうが多いため、窒素原子が励起して585.4 nm以下の赤や青の光を出す。人の目にはこれらの色が混ざり合って、緑色のオーロラのカーテンの縁に、ピンクまたは赤紫のフリルが附属しているように見える。このように、降り込む粒子のエネルギーが高いほど、平均的なオーロラの発光高度は低くなる。
太陽活動が活発なときは、たまに日本や中国、西欧のような低緯度地方でも赤いオーロラが観測されることがある。これは磁力線が低緯度側にふれることや、中低緯度地域になると地球の丸みのために上部の赤いオーロラしか見えないこと、オーロラの発光部分の上端が1,000 km以上に伸びることなどと関係がある。

明るさはレイリーで表される。おおよそ1,700 レイリーくらいが肉眼で見えるかどうかの境目である。オーロラの明るさを照度で表すと、普通のオーロラは0.1–0.01 ルクス程度である。最も明るいオーロラでは数ルクスほどになり、満月の明るさに匹敵する。ただし、満月が出ていてもオーロラを見たり撮影したりすることはできる。

形と分類
オーロラの形はよくカーテンに例えられる。これは下端がはっきりしていて襞があることに由来する。下端は飛び込んでくる粒子の限界高度が、襞は磁力線の方向が可視化された結果である。カーテンの、東西の長さは数千 km、厚さは約500 m、下端は前述のとおり地上約100 km、上端は約300から500 kmである。オーロラの活動が活発なときには上端は1000 km以上の高さになる。

オーロラの形にはバンド(帯)、コロナ(冠、放射状)、アーク(弧)、トーチ(松明)、バルジ(腫れ)など様々な形がある。しかし、これらは単にカーテンの襞のサイズや数、カーテンの歪み方やねじれ方、曲がり方のみで区別されているだけであり、オーロラそのものの種類が複数あるわけではない。例えばコロナ型オーロラはカーテンが反物のように巻かれ、観測者がちょうど真下に立っている時に観測される。細い線のように光っている部分をレイという。この部分はオーロラのカーテンが幾重にも重なっているため明るく見えるのである。たいてい水平方向(カーテンだったら引く方向)に移動する。

なおこれとは別に点滅するオーロラもあり、脈動オーロラと呼ばれる。

その他の波
オーロラ領域から観測される電磁波は可視光だけではない。紫外線や赤外線、さらにはオーロラキロメートル電波と呼ばれるキロメートル帯の電波など、様々な波長の電磁波が観測されている。電磁波以外にもオーロラはヒトの可聴域よりも下の音(可聴下音、20 Hz 以下)を伝えていることが1960年代から知られている。

オーロラが可聴音を発しているのではないかという点に関しては後述。

電流と磁場

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MHD発電の原理。管の中にプラズマを流し、流れる方向と直角に磁場をかけると、プラズマの流れとも磁場とも直角な方向に電流が発生する。
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極域に降り注いだエネルギーの高い陽子によって、電離層の吸収が高くなり、短波通信ができなくなることがある。これをPCAという
オーロラの元である太陽から流れてくるプラズマと地球磁場とが相互作用することにより、起電力が生じる。これはMHD発電と同じ原理であり、太陽風と地球の磁気圏がぶつかるところで発電されている。太陽風が速く、磁場が強く、磁場が南向きの時は発電量が多い。


この「発電所」の出力はおよそ10の12乗ワット、出せる電圧は数百キロボルトであることが推定されている。太陽の活動が活発なときはおよそ10の14乗ワット出力できることも分かっている。オーロラが光るぐらいの高さは電離層という領域である。この層では文字通り、太陽の出す紫外線やX線によって、大気成分の一部が電離している。つまり電流が流れやすくなっている。オーロラを発生させる粒子が降ってくると、大気はさらに電離し、上記の「発電所」を含む回路ができる。そして、オーロラが明るい場所を主として、電流が流れるのである。なお前出の電力と電圧から、電流はおよそ数百万から数千万アンペアと算出されるが、オーロラの中を流れる電流はその内の数百万アンペアである。

ファラデーの電磁誘導の法則から分かるように、電流が流れると磁場が変化する。オーロラ電流による磁場変化を読み取ることにより、極地にいなくてもどれくらいのオーロラ電流が流れているか算出することができる。ただし、電流の強さとオーロラの明るさはおおよそ比例する程度であり、完全に比例するわけではない。

オーロラが引き起こした電磁場の変動により被害が出たこともある。例えば磁場の変動により変電所の変圧器に誘導電流が流れて壊れ、その結果停電が起きたり、パイプラインに誘導電流が流れて腐食したり、伝書鳩が正しい方向へ向かえなくなったりしたことがある。またオーロラの電流が通電する電離層は、電波が伝送・反射する領域でもあるため、オーロラとともに電波障害が起こり、航空機と空港の間で無線連絡が難しくなることもある。


さらにオーロラの電流により電離層の大気が誘導加熱され、熱も出る。上記のオーロラ発電機の出力はこの熱から算出されたものである。オーロラの熱が赤道近辺まで届く大気振動を起こしていることも分かっている。オーロラの熱が水平方向に伝播して気圧配置に関わる可能性も指摘されているが、あまり研究は進んでいない。

オーロラに伴って発生した熱によって大気が膨張し、そこへ人工衛星が突入することがある。大気の密度の違いによって、膨らみに突入した人工衛星の軌道が変わり、墜落したことも何度かある。

出現地域
オーロラ帯

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オーロラ帯は地磁気極を中心とする楕円である。青点は北極点、赤点は地磁気極


オーロラは完全な両極点近傍ではあまり観測されない。地磁気の緯度でいえば、昼側では75度を中心としておよそ77度から78度のあたり、夜側では65度を中心としておよそ68度から70度のあたりに、地球の磁極を取り巻くドーナツ状の領域に発生する。オーロラの発生している領域を「オーロラオーバル」と呼ぶ。昼夜を平均すると地磁気の緯度でおよそ60度から70度のあたりにオーロラがよく発生するので、この領域を「オーロラ帯」(オーロラベルト)という。この領域にオーロラが発生するのは、オーロラ発光の原因であるプラズマ粒子がほぼ磁力線に沿って動く性質をもっているからである。オーロラを起こす粒子の主な供給源はプラズマシートであり、ここから粒子が地球電離層まで磁力線に沿って進入すると、このドーナツ上の領域にたどり着く。よって、オーロラ帯でオーロラが発光しやすいのである。オーロラの活動が活発なとき、オーロラオーバルは大きくなり、より低緯度側に現れる。

アラスカのフェアバンクス、カナダのユーコン準州のドーソンシティとノースウエスト準州のイエローナイフ、スウェーデンのキルナなどがオーロラがよく見られる場所として有名であり、多くの観光客や写真家が訪れる。

1980年代に開始された人工衛星による観測で、まるでオーロラベルトの直径を示すかのように夜側から昼側へ延びる形のオーロラが発見され、その形からシータオーロラと命名された。

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宇宙から見た南極付近のオーロラオーバル(背景の地球は合成)



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南極点で撮影されたオーロラ

共役点
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南極と北極で、オーロラの形や動きが同調している

オーロラは北極と南極で同時に同じような形態(色や形)で発生することが知られている。これは同一の磁力線に沿ってオーロラを起こす粒子が同時に降下するからである。このように同じ磁力線でつながっている地点を共役点という。共役点は地磁気の経緯度が同じである。オーロラ帯の下にあって、地磁気の緯度が同じで、なおかつ南北ともに陸上である地点は、かなり限られている。

1970年代頃、日本の昭和基地の共役点は運よく陸上であるアイスランドのレイキャヴィーク付近にあったので、1980年代にアイスランド大学と協力して昭和基地とアイスランドでの同時観測を開始した。その後、2010年には昭和基地の共役点はアイスランド島からはずれてしまったが、共役点観測は2013年まで続けられている。

この観測の結果、同じような形態のオーロラを観測することもあったらしいが、形態の異なるオーロラを観測することもあった。共役点でなぜ異なるオーロラが発生することもあるのかについては、未だ解明されていない。

地上の寒さとの関係
オーロラは地球の高緯度地域だけで見られ、主に冬に、特に寒い日によく見られる。しかし前述のとおりオーロラは大気圏上層で起きる現象であり、地上の気温は関係ない。

高緯度地域で現れやすいのは地球のオーロラ帯がたまたま高緯度地域にあるからである。夏にあまり見えず冬に見えやすいのは、高緯度地域の極夜および白夜によって空が暗くなるからである。寒い日に見えやすいのは、晴れた日には放射冷却が起こるので、オーロラが綺麗に見えるような快晴時は寒くなりがちだからである。

出現時間・出現回数
多様な出現形態を持つオーロラという現象全体をみると、出現時間も多様である。

オーロラは肉眼で見えづらいものを含めれば、一晩中観測することが出来る。統計的には夜12時に近いほど見られやすいということが分かっている。例えばアラスカではブレイクアップ(オーロラ爆発)は夜10時から翌3時までの間に起きやすい。ブレイクアップそのものは普通おおよそ2 - 3分で終わるが、その前もその後もオーロラを見ることは可能である。

オーロラ帯(後述)における典型的なオーロラの出現パターンの例を挙げると、夜21時や22時頃(太陽時)から極側にかすかなオーロラが見え始め、それが次第に低緯度側へ拡大し西の方へ広がっていき、弱い場合は東の方から消滅していくが、強い場合はブレイクアップに伴う鮮やかなオーロラが一時的に現れたあと弱いオーロラが継続し、翌朝6時頃明るくなるに伴い消滅していく。

ただし、例としてオーロラ帯にある南極昭和基地における1957年冬の観測例を見ると、1時間程度で終わってしまう場合もあれば8時間続く場合もあるし、弱いものが続く場合もあれば強弱変化を繰り返す場合もあり、深夜3時になって出現し始める場合もある。また低緯度でオーロラが多発した時期にあたる1957-1958年の日本での観測例を見ると、概ね夜18時-21時(日本標準時)に出現しその日のうちに消滅するものが多く、時間は数分の場合もあれば数時間続いた場合もあった。また極域全体を暈のように覆う形状の弱い光を放つオーロラの例では、強弱を繰り返しながら日を跨いで数日間以上継続する場合がある。

最もオーロラが見える頻度が高い地域では、一年に250日くらい見える。つまり、白夜ではない夜ならばほぼ毎日見られる。一日の内でオーロラが光ったことをカメラ・肉眼で観測した時、オーロラが一回出現したこととすることが多い。

日本とオーロラ
日本国内での観測
磁北が西半球にあるので、同緯度では北米より出現回数が少ないが、日本でもオーロラを観測できることがある。太陽の活動が活発な時期(後述)には北海道や新潟で頻繁に、肉眼では観測しづらいが、赤いオーロラが出現する。北海道で北の空を染める赤いオーロラを見た住民が山火事と勘違いして消防車が出動した記録もある。また新潟県で、日本海上空が赤く輝く様子を見て、第九管区海上保安本部が火事ではないかと巡視船を出す騒ぎになったこともある。さらに、肉眼で見えないものも含めれば、比較的低緯度にある日本においても、磁気嵐の時にはオーロラが比較的頻繁に起きていることもわかっている。

北海道の陸別町は1989年10月にオーロラが出現したことを契機として、オーロラを観光資源の一つとしている町である[164]。町域にSuperDARN(スーパー・デュアルオーロラレーダーネットワーク)の短波レーダーがある(北海道-陸別HFレーダー)ほか、道の駅オーロラタウン93りくべつがある。

昭和基地
南極の昭和基地はオーロラ帯の真下にありオーロラがよく見られ、ロケット、衛星、地上光学機器、レーダーなどを使った観測が行われている。第一次越冬隊(1957年)では徹夜でオーロラを普通のカメラで撮影し変遷や角度をメモするだけであった。その後研究設備が充実するにつれ、レーダーや磁気計や全天カメラによる自動観測を行ったり、オーロラが発光している空域へロケットを打ち込んだりしている。

日本の観測史
見られる機会が非常に少ない現象ではあるが、日本語では古来「赤気(せっき)」という名前がついていた。「紅気(せっけ)」という記述もある。最古の記述は日本書紀まで遡り、推古天皇の統治時代である620年12月30日には、「天に赤気があり、その形は雉の尾に似ていた。長さは一丈(約3.8メートル)あまりであった。」という記録が残されている。藤原定家の明月記でも、1204年2月21日に「北の空から赤気が迫ってきた。その中に白い箇所が5個ほどあり、筋も見られる。恐ろしいことだ。」と、オーロラのことだと推定される記録が残されている。さらに1770年9月17日に出現したオーロラは、およそ40種の文献に登場しており、北海道、長野また肥前国(長崎県・佐賀県)でも観測されたという記録が残っている。

日本では明治期から「赤気」という言葉ではなく、「極光」や「オーロラ」が使われるようになった。白瀬矗は1912年3月に南極から帰る際に現れたオーロラをスケッチし、報告書『南極』に残している。日本社会へは1934年に開始された南極海での捕鯨により、オーロラが少しずつ紹介され始めた。1958年2月11日には天候に恵まれたこともあって、北陸から関東にかけて赤い、一部では脈動や黄色も見られるオーロラが出現した。ちょうど国際地球観測年に当たる1957年から気象庁は各地の測候所へオーロラ観測を命令していたため、この日は長野県・東北地方・北海道などでも観測された。オーロラが出現した日は世界中で電波障害が起き、ヨーロッパでもオーロラが見られた。1989年にも北海道や東北地方などで肉眼で見えるオーロラが出現した。2000年4月7日には、北海道陸別町で4.2kR(レイリー)のオーロラが観測された。

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オーストラリアで撮影された写真。 日本ほどの低緯度でオーロラが観測される時もこのように山際が赤黒く染まる。
太陽の活動との関係
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太陽活動とオーロラの活動には深い関係がある。太陽風の磁力線と地球の磁力線の再結合、そして夜側の磁力線の再結合により、オーロラが起きる。
オーロラの活動と太陽の活動は連動している。

オーロラの原因となる太陽の活動としては、太陽フレアの発生、突発的なコロナ質量放出により放出されたコロナの地球磁気圏への衝突[179]、高速の太陽風が噴出するコロナホールの生成[180]の3つが挙げられる。

この中でも特にコロナホールは数か月の間ほとんど同じ場所で継続するため、太陽の自転周期を計算するだけでオーロラの活動の予測ができる。またコロナホールは黒点のピークの年から数年経った後、つまり黒点周期の後半に多く生成する。旅行会社は黒点周期の11年ごとに「オーロラの当たり年」「オーロラ最盛期」などとしてオーロラツアーを組むことがある。

過去のオーロラの変動に関して、複数の報告から1500年から1948年の北半球中緯度におけるオーロラの年間観測日数をまとめた研究がある。これによると、日数変化は太陽活動との相関性が高く、太陽黒点数のグラフに似た変動をする。16世紀・17世紀の間は年間数日から10日程度であったものが1710年頃から増え始め、1730年頃に約50日のピークに達した後、1760年頃に数日程度と底を打った後再び増加、1790年頃には100日近くになる。1810年頃には1日程度に急減して底を打つが、その後再び数十日程度に増加、19世紀後半は50 - 100日程度を推移し、1900 - 1910年頃10 - 20日程度に減少した後、20世紀前半は40 - 80日程度で推移した。2000年代後半は太陽活動の低下に伴いオーロラの活動低下が報告された。例えばフィンランド気象庁は、2005年から2010年のオーロラがそれまでの100年間で最少だったと報告している。

ただし、ピーク以外でもオーロラが出現することがあり、たとえ黒点の数がゼロになっても太陽にコロナがある限り太陽風は吹き、ある程度のオーロラは出現する。

磁力線の再結合
地球の地磁気は、北極がS極、南極がN極になっているため、磁力線は南から北へと向かっている[191]。そのため太陽風の磁場が南向きの時は、太陽風の磁力線と地球の磁力線が再結合(磁気リコネクション)し、プラズマは磁気圏の中へ磁力線をたどって侵入できるようになる。つまり、太陽からやってくる磁場が南向きの時は爆発的なオーロラが発達しやすく、逆に北向きの時は静かなオーロラが出やすいのである。ただし1980年代には、より多くのプラズマで地球の磁気圏の中が満たされるのは、太陽風の向きが北向きの時である、ということが判明した。その原因は、地球磁気圏と太陽風の間ではケルビン・ヘルムホルツ不安定性によって渦が発生していることから、この渦によりプラズマが地球磁気圏へ混ぜ込まれるのではないかという説がある。

太陽風が速いと、地球の磁気圏がより引き伸ばされ、夜側(太陽の反対側)でも磁気リコネクションがおきることがある。磁力線はリコネクションによりV字型になると、丁度パチンコのゴムひものように急激に縮み、周りにくっついていたプラズマをパチンコ弾のようにとばす性質がある。磁気リコネクションによってプラズマ粒子が磁力線をなぞるように両極へなだれ込み、オーロラが出るのである。リコネクションとオーロラの因果関係は未だ認められていないものの、相関関係は認められており、プラズマの加速理由を磁気リコネクションに求める説は、数十年来続くオーロラ発生機構の議論の中では最も有力な説である。

地球以外の惑星におけるオーロラ
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ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた土星のオーロラ。地球以外の惑星でも、南北に同じようなオーロラが現れる。オーロラは紫外線、土星本体は可視光で撮影。

オーロラは地球に限らず、これまで火星や金星、木星、土星、天王星、海王星でも観測されており、大気と固有の磁場をもつ惑星ならばオーロラが出現する可能性があるとされる。逆に言えば、月と水星にオーロラがほぼ出ないのは、月の大気も水星の大気もほとんどないに等しいためである。

地球型惑星
2004年8月14日にマーズ・エクスプレスが搭載するSPICAM(紫外・赤外大気スペクトロメータ)により火星でもオーロラが観測された。場所は火星の東経177度南緯52度周辺。広がった時の大きさは30kmで、上空およそ8kmに出現した。マーズ・グローバル・サーベイヤーが収集したデータにある、地殻の磁力が異常な地帯と比べて分析したところ、出現した場所は磁場が一番強い所だと判明した。この関係が示唆するのは、やはり、オーロラの光は電子などが磁力線に沿って動き火星上空の大気を励起させた結果だ、ということである。

ただし、金星には固有の(惑星が持っている)磁場はないにも拘らず、夜側にぼんやりとした、形の定まっていないオーロラが出る。近年の観測により、金星には引き伸ばされた磁気圏があってそれに伴い磁気リコネクションが発生していることが分かり、オーロラの原因を説明できるのではないかとされている。

木星型惑星
木星と土星の磁場は地球と比べてかなり強く、どちらも強磁場により生じる放射線帯(地球におけるヴァン・アレン帯に相当)を持っている。ハッブル宇宙望遠鏡により明瞭なオーロラが観測できる。

木星のオーロラオーバルは地球3個分の大きさであり、エネルギーは地球のオーロラの1000倍ほどである。これほど強力なオーロラが出る理由は、木星の磁場が強いことも挙げられるが、それ以外にも木星の衛星、とりわけ活発な火山を持っているイオも強力な発生源の一つとしてあげられる。イオの火山活動によって吹き出した硫黄や酸素のイオンが木星の磁場圏を満たしているのである。なおオーロラの色は木星の大気の水素を反映したピンク色になる。

天王星のオーロラは赤道付近に出る。これは軌道面から98度傾いている地軸周辺に天王星の地磁気軸がなく、地軸からさらに60度ひっくり返っているところにあるためである。

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木星でも南北に同じようなオーロラが現れる。オーロラは紫外線、木星本体は可視光で撮影。


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木星のオーロラ拡大図。



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木星の磁気圏。青い線が磁力線。緑の線がイオの磁束管。


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天王星のオーロラ。



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地上約100kmよりも上空でオーロラは光っている

磁気嵐のときに現れるような強いオーロラが、まれに音を発したという話が古くから数多く存在しており、その実在をめぐって議論が行われている。 このオーロラの音 (auroral sound) は聞こえるとしても非常にまれであり、強いオーロラが出ても何も聞こえないことも多い。同時に多くの人が聞いた例もあれば、隣同士にいて一方にしか聞こえなかった例もある。 多くの体験者はこの音がその眼に見えるオーロラの動きと同調して変化すると主張しており、音波の伝播による時間的遅れはほとんどみられない。 音は「バチッバチッ」や、葉音・衣ずれにしばしば喩えられる「シュー」「ヒューッ」といったノイズ音が代表的である。

ノルウェーの天文学者イェルストループ (Hans S. Jelstrup) は、1926年に体験したオーロラの音をネイチャー誌で次のように表現している。

黄緑で扇形のそれ〔=オーロラ〕が上空で天頂から下向きに波打ち、それと同時に我々2人ともが非常に興味深いかすかなヒューという音に気づいた。はっきりと波打つそれは、そのオーロラの振動を正確に追っているように思えた。
一方で、日本の南極観測隊・第一次越冬隊の隊長である西堀栄三郎は自身の私記の中で以下のように記している。

三月二日。(中略)夜はすばらしいオーロラを見た。東北の空から西南にかけて、ほとんど全天に乱舞している。木星とともに、実に美しい。頭上をうねりたくるドンチョウが風でゆれるがごとく。気味がわるくなる。恐ろしいようだ。何の音もしない静かな夜だが、ものすごい音を立てて動いているような錯覚におちいる。
オーロラの音に関して既にローマ時代のタキトゥスの『ゲルマニア』にも、それを表しているともされる記述があるが、科学的な議論は19世紀末から活発になった。この音の原因に関しては、主観的現象であるとするものや外界の物理的実在であるとするもの、またオーロラが何らかの関わりをもつとするものや関係のない音とするものなど、様々な説が提出されてきた。 しかし現在でも原因ははっきりしておらず、装置で記録された明確な証拠も得られていない。

例えば、ヒトの耳ではいつでも小さな耳鳴りがしているが、静寂の中でこうした音に気づくだけだとする説が古くからある。また、外界の物理的な音ではあるがオーロラとは関係なく、−40℃ のような低温で呼気中の水分が凍って、氷の粒子が衝突することによる音であるとする主張もある。逆に、音はオーロラに関係するものの主観的なもので、オーロラが網膜の広い範囲を同期して刺激することで視覚情報が聴覚へと漏れだす一種の共感覚的現象ではないかともされる。ただし例えば、19世紀の探検家オギルヴィー (William Ogilvie) はオーロラの音が聞こえていた探検隊のメンバーを目隠ししても、オーロラが活発になったほぼ全ての瞬間に対応して反応したとしており、これらの説は必ずしも証言をうまく説明するものとはなっていない。

オーロラが、ヒトの耳に聞こえないような20 Hz 以下の可聴下音を伝えていることは1960年代から知られており、これはオーロラから直接伝わってくる音波である。耳に聞こえる音もこうしたオーロラからの直接の音波ではないかともされる。しかし、こうした音はオーロラから届くまでに数分の時間がかかり同調して変化するという証言に合わない上、1 Hz かそれ以下で顕著なものであり、いくらか高い周波数、例えば 40 Hz では地上に届くまでにエネルギーが 1/1000 にまで減衰してしまう。

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キルナのオーロラ。

カナダの天文学者クラレンス・チャントは、20世紀の初めより学術雑誌上でオーロラの音に関する多くの情報を集め、1923年には音がブラシ放電によるコロナ音の可能性が最も高いと結論した。この考えは1970年代にこのオーロラの音を最も精力的に調査したシルヴァーマン (S. M. Silverman) らによっても支持されている。晴れた日の開けた地面には 1 m あたり 100 V の静電場があるが、オーロラがあるとこれはときに 10 000 V/m にまで上昇する。この説ではこのとき観察者のそばの木の梢など、とがって電場が強くなるところからの放電が音を発生させているとする。こうしたブラシ放電の音は雷雲が接近した山中や、湿気が多い日の高圧送電線でも聞かれることがあるものである。ただし、オーロラの音においてはセントエルモの火のような放電に伴う光は観察されておらず、またこの説は同じ場所にいた一部の人にだけ聞こえたという事例を説明できないという問題点が指摘されている。

対して、オーストラリアの天文学者コリン・ケイ (Colin Keay) は、オーロラの音は電磁波音ではないかとしている。ケイは、巨大な流星が流れるのと同時にまれに音を立てるといわれる現象に対し、1980年に可聴域周波数 (20 Hz – 20 kHz) の電波が何らかのトランスデューサーとなるものを介して音波になるのではないかとの説を唱えていた。こうした電磁波から音波への変換による音が電磁波音と呼ばれる。ケイの実験ではピーク間 160 V/m の 4 kHz の電場の振動があれば、髪の毛やメガネなどを介して一部の人はこうした音を聞くことができるとする。こうした極超長波・超長波の電波は実際衛星や地上の測定で確認され、録音されている。一方でシルヴァーマンらはケイの議論で必要とされる電波は大き過ぎ、不合理であるとしている。

一方、オーロラの音波を直接録音しようとした試みははっきりとした成果をあげていない。アラスカでは1960年代に録音が試みられたが、太陽の活動が不活発な時期に当たっていたこともあり成功していない。2000年からはフィンランドのライネ(Unto K. Laine)らが、音声記録と低周波の電波の測定実験を行った。最初の録音は2000年に行われたが、不完全なものだった。2001年の1晩のデータだけからの解析では、オーロラの活動が活発なときに音波の変動が大きくなることが示され、また音響記録と地磁気の変動との間で時間遅れのない相関が見出されたとしている。しかし、電場との相関はなく、記録された音がオーロラの音と同じものなら、局所的な電場あるいはその変動がオーロラの音の原因とは考えにくく、これはブラシ放電や電磁波音という説明が成立しないことを示唆している。

2011年、ライネらはオーロラに伴う複数の音を3つのマイクで同時観測し、2012年、音源は約70メートル上空だとする分析を発表した[237]。それによると、これらの微小な可聴音はオーロラと連動しており、恐らくオーロラを生じさせているのと同じ粒子の流れ(いわば目に見えないオーロラの裾)によるものだという。音が鳴る仕組みは依然解明されていない。「オーロラの音」とされるものの中には、実際には複数種類の別の現象が含まれていると予想される。ライネは、録音例について「幻聴・錯覚・ノイズなどではない」と強調している。

人工オーロラ
オーロラの発生原理に基づいて、状況を人工的に再現すれば、人工的にオーロラを発生させることができる。実験室の中でもオーロラを発生させることができる。

1969年から1970年代にかけて、ロケットに電子銃をのせてオーロラが出る高度で発射する実験が行われた。この実験により、電子ビームは南北半球を磁力線にそって往復してもエネルギーをほとんど失わないこと、磁力線の長さと形は算出・予想の通りだったことがわかった。


電離しやすく色がある程度はっきり出る物質をロケットにつみこんで、上空約100km以上の空域でトレーサーとして撒けば、人工オーロラが出る。使われる物質は、最初期の実験ではナトリウム、その後はより残留する明るい物質としてセシウム、リチウム、ストロンチウム、バリウムなどが、また蛍光物質も使われることもある。最も良いトレーサーはバリウムの蒸気が太陽光によって共鳴散乱してできる雲である。このバリウムの雲は、赤色と黄色の2色で輝いてから緑色に変わるものと、紫色から青色に変わるものの2種類できる。普通この実験はオーロラの仕組みを調べることよりも、上空の風や電磁場を調べるために行われる。電離するためには太陽光が必要であり、なおかつ人工オーロラの光は太陽光にかき消されるほど弱いので、実験はたいてい宵や明け方に行われる。赤道付近で人工オーロラを発生させると、赤道付近は磁力線が地面とおおよそ並行になっているため、横長なオーロラが出現する。

テレラ
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人工オーロラの実験を行うビルケランド。

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磁石を真空中に置き、プラズマを当てる。

ノルウェーの物理学者クリスチャン・ビルケランドは19世紀末、人工オーロラの発生実験を行った。まず真空状態にした箱の中に蛍光塗料を塗った中空の鉄球を置き、そこへコイルを入れ磁場を作った。そして同じ箱のなかに電極を取り付け陰極とし、電子を鉄球に当てると、鉄球が陽極になって光らせることができた。この装置により、ビルケランドは電子が地球のどのあたりに当たるのか推定した。

大きな長方形の真空ガラス箱内の一方にB教授が「テレラ」と命名した球形の電磁石がつり下がっており、他の一方には陰極が插入されていて、そこから強力な陰極線が発射されると、その一道の電子の流れは球形磁石の磁場のためにその経路を彎曲され、球の磁極に近い数点に集注してそこに螢光を発する。その実験装置のそばに僧侶のような黒頭巾をかぶったB教授が立って説明している。この放電のために特別に設計された高圧直流発電機の低いうなり声が隣室から聞こえて来る。
− B教授の死、寺田寅彦
この装置の原理を使った、オーロラなどのプラズマ現象を再現できる中高生向けの教材がある。他にも2012年現在、同じ原理のオーロラ発生装置がある科学館は日本に何箇所かある。また、飯田産業と大阪市立大学は大型のオーロラ発生装置を開発して江ノ島アイランドスパに設置し、さらにその後その改良型を上海万博に出展した。

2019年07月24日

世界の自然七不思議

世界の自然七不思議(あるいは世界の七大自然の驚異)についても他と同様に意見の一致はみていない。現在存在する多くの一覧のうちの一つはCNNによってまとめられたものである。

グランド・キャニオン
グレート・バリア・リーフ
リオデジャネイロの港
エベレスト
オーロラ
パリクティン火山
ヴィクトリアの滝

グランド・キャニオン

グランド・キャニオン(Grand Canyon)はアメリカ合衆国アリゾナ州北部にある峡谷である。コロラド高原が長年のコロラド川による浸食作用で削り出された地形である。先カンブリア時代からペルム紀までの地層の重なりが好露出しており、肉眼で観察が可能である。地球の歴史を刻んでいる価値と共に、その雄大な景観から、合衆国の初期の国立公園の一つであるグランド・キャニオン国立公園に含まれている。国立公園は1979年に世界遺産に登録された。
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グランド・キャニオンを流れるコロラド川


地理
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グランド・キャニオンの衛星画像

グランドキャニオンの起源は今から7000万年前、この一帯の広い地域がカイバブ・アップリフトとよばれる地殻変動により隆起したことに始まる。

約4000万年前、コロラド川による浸食が始まる。峡谷は500万年前にほぼその全容を現し、現在見られるような峡谷になったのは、約200万年前である。そして今もなお、浸食は続いており、最古でおよそ20億年前の原始生命誕生時の地層を浸食している。

グランド・キャニオンの断崖は平均の深さ約1,200 m、長さ446 km、幅6 km〜29 kmに及ぶ。最深地点は1,800 m。降雨量はサウス・リム (South Rim) で年間380 mm、最深部では年間200 mmとなっている。

地質
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グランドキャニオンを構成する地層の種類

グランド・キャニオンがいつ始まったのか、東と西の渓谷は同時に形成されたのかそれとも独立して生まれたのか、などの点に関しては長い議論が続いている。最近の研究では峡谷の起源を500万年から600万年前と概算していたが、新たな手法の適用による詳細な分析の結果、起源はさらに遡ることが示されてきている。

2008年にサイエンス誌に掲載された研究では[3]、渓谷全体の9つの洞窟の壁で見つかった方解石堆積物を分析するために、ウラン鉛年代測定法を利用しその起源がそれまでの想定の3倍近い1700万年前である、と報告している。さらに2012年には、代表的な岩石の年代測定法である(U-Th)/He法(岩石中のアパタイトが80℃程度に冷えた年代が測定出来る)に、2004年に開発された高精度な補正法(同30℃程度に冷えた年代まで特定出来る)を適用することで、東西の渓谷はほぼ同時に削られ始めており、その時期はこれまでの想定より遙かに古く7000万年ほど前に遡ることが示された。

この浸食地形は、地球上で最も完全な地質柱状図の一つを成すものである。 グランドキャニオンで代表的な露頭は、インナー渓谷の底の20億年前のビシュヌ片岩から、リムに見られる2億3千万年前のカイバブ石灰岩にわたる。約5億年前の地層と約15億年前の地層の間には約10億年に及ぶ時間のギャップがあり、不整合(en:unconformity)で大規模な地層の浸食が生じたことを示している。 地層の多くは、原初期の北米大陸の辺縁部において、海進と海退が繰り返されたことにより、暖かな浅い海、沿岸環境、および沼地で堆積した。主な例外として、風成砂丘堆積の地質学的証拠が豊富なペルム紀ココニノ砂岩がある。スパイ層群も部分的に海洋でない環境を示す。

グランドキャニオンが非常に深いことや、特にその地層の厚さ(そのほとんどが海面下で形成された)は、約6500万年前のララミー変動期からコロラド高原が5,000〜10,000フィート(1500〜3000メートル)も隆起したことに起因する。この隆起がコロラド川とその支流の勾配を急峻化し、流速と​​岩を削る力を増加させた。また氷河期の気象条件もコロラド川流域の水量を増加させた。

コロラド川の基準面は、530万年前にカリフォルニア湾が開いたことにより低下し、流路も変わった。これにより、浸食の速さが増し、120万年前までにはグランドキャニオンのほぼ全体が現在の深さにまで達した。絶壁のテラスは差別浸食によって形成された。300万年前から10万年前に生じた火山活動による火山灰や溶岩が川の流れを塞いだ。これらの火山岩は峡谷で最も新しい岩石である。

歴史

10500年前には人類がいたと思われ、ネイティブ・アメリカンは少なくとも4000年前にこの地域に住んでいた。

ヨーロッパ人では1540年9月、スペイン領だったこの地域をコンキスタドール、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドの命を受けて、金を探していた軍人ガルシア・ロペス・デ・カルデナス (García López de Cárdenas) とその一隊が探検した。この隊は3分の1程サウス・リムを下り、水が無くなったために上に戻った。先住のホピ族が金資源が出ないことを教えたために、彼らは去り、それ以降ヨーロッパ人からは忘れ去られていた。

1869年、アメリカ軍人ジョン・ウェズリー・パウエル (John Wesley Powell) が当時スペイン領だったこの地域の調査(最初の科学的な調査)のために訪れた。

1956年6月30日、グランドキャニオン上空でユナイテッド航空機とトランスワールド航空機による空中衝突事故が発生。事故機の墜落現場が後にアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定された。

動植物
国立公園内には1500種以上の植物、355種の鳥類、89種の哺乳類、47種の爬虫類、9種の両生類、17種もの魚類が確認されている。
リスなどの哺乳類が走っているのを見かけることもあるが、国立公園内では動物に触ることは禁止されており(罰金250ドル)、また狂犬病にかかっている場合があるため、噛まれたりした場合6時間以内に血清を打たないと死に至ることもある。ただし、餌付け等はなされていないため、こちらから手を出さなければ襲い掛かられることはない。
交通
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グランドキャニオン鉄道の蒸気機関車4960

ノース・リム (North Rim) とサウス・リム (South Rim) があり、サウス・リムはネバダ州ラスベガスもしくはアリゾナ州フェニックスから車で約5時間の距離にある。

ラスベガスからはドローンで遊覧飛行しながら行くことも出来て、飛行機やバスを使ったツアーもある。ラスベガスからはシーニック航空やビジョン航空が定期便を運航している。

ロサンゼルスからは飛行機での日帰り観光ツアーが運行。

グランド・キャニオン鉄道
アリゾナ州ウィリアムズからグランド・キャニオン鉄道が毎日運行している。

運賃:60〜155ドル(大人)
1800年代、探鉱者が多く集まった、アニタ鉱山(ウィリアムから45 km北)からの運搬用に作られた
1899年、源鉱が予想ほど採掘されなかった為、資金難に陥る
1901年9月17日、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が買い取り、グランド・キャニオンまでの軌道を設置、旅客鉄道として開通
1968年、自動車の普及により、利用者数が減少、サービスの停止
1989年9月17日、運行再開
利用した著名人 セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルト、アイゼンハワー、ビル・ゲイツなど

観光
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スカイウォーク

1919年にアメリカの国立公園として指定され、1979年には世界遺産にも登録されたグランドキャニオンは、年間を通してアメリカ人はもとより全世界から多くの観光客が訪れる。その数およそ年間400万人。

グランド・キャニオンにはサウスリムとノースリムがあるが、観光の中心となるのはサウスリムで、大部分の観光客が訪れる。観光地周辺は標高2,000 m級の高地で、年間を通じて開園されている。ノースリムは標高が2,500 mほどで、積雪のため冬期は閉鎖される。

サウスリムには、6か所の宿泊施設、ギフトショップ、銀行、郵便局、スーパーマーケット、ビジターセンター、鉄道の駅がある。また、園内を巡回する無料のシャトルバスも3路線走っており、滞在者にとっては便利な足となっている。

対してノースリムは、1か所の宿泊施設しかなく、無料のシャトルバスなどもない。ノースリムが開園している時期(5月〜10月頃)には、サウスリムとノースリムを結ぶバスが1日1往復している(有料)。

グランド・キャニオンへの観光客は、車を使い陸路で来るか、外国や遠方からの観光客は主にラスベガスから飛行機やバスを使ったツアーに参加するのが一般的である。ラスベガスからグランドキャニオンまでは、陸路で約5時間。飛行機では約1時間で行くことができる。ロサンゼルスからの飛行機も約1時間30分で到着する。

グランドキャニオン国立公園内の年間死亡者は、平均して約12人。死因は、高温、水死、医療問題など[6]。

活動
主なトレイル
Corridor trails

ブライト・エンジェル・トレイル
ノース・カイバブ・トレイル
プラトーポイント・トレイル
リヴァー・トレイル
サウス・カイバブ・トレイル

谷底のキャンプ場は利用するには届出が必要だが、ピーク時には3ヶ月待ちという人気である。

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比較的最近に起きた落石跡



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NPS Visitor Center付近から見たグランド・キャニオン



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古代プエブロ人の穀物倉



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ワラパイ族に崇拝されていたと考えられるイーグル・ロック。名称はその形状が由来。



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Desert View Watchtower


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Grand Canyon Visitor Center



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Hermit's Rest


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Hopi House



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Mather Point



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North Kaibab Trail



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Rim Trail (South Rim)


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Shrine of the Ages


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Tusayan Ruins

グレート・バリア・リーフ

グレート・バリア・リーフ(英: Great Barrier Reef)は、オーストラリア北東岸に広がる世界最大のサンゴ礁地帯。漢字表記は大堡礁(だいほしょう)。南緯10度から24度にかけて広がり、2600km(1,600マイル)を超える長さに2,900以上の暗礁群と約900の島を持ち、総面積は344,400km2以上となる。地理的な位置は、クイーンズランド州沿岸の珊瑚海に存在する。

概要
グレート・バリア・リーフは宇宙空間からも確認できるほど広大であり、生物が作り出した単一の構造物としては世界最大である[8]。しかし、その生物とは微小なサンゴやポリプ等の有機体であり、これらが数十億集まって形成しているサンゴ礁[9]。そして、この暗礁は生物多様性を支える重要な役目を持ち、1981年に世界遺産(自然遺産)に登録された[1][2]。1997年、CNNはグレート・バリア・リーフを「7大世界の驚異」自然部門のひとつに挙げ、クイーンズランド州のナショナル・トラストは州を代表する象徴に認定した。

暗礁のかなりの部分はグレート・バリア・リーフ海洋公園に指定され、漁業や観光など人間の行為が及ぼす影響を制限している。ただし、表面流出や気象変動によるサンゴの白化現象、オニヒトデの異常繁殖など、生態系に打撃を与える環境変化が発生している。これらへの対策も取り組まれており、その統合沿岸管理 (ICM) は先端的な事例にも挙げられる。

オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から[4]長くグレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきた。ヨーロッパ人移住後は1770年のジェームズ・クックなど探検や調査が進んだ。1960年代にはグレート・バリア・リーフ内での石油掘削が認められたことを契機に賛否の論争が起こり、1970年代からは保護に向けた検討が始まった。近年は観光地としても著名となり、特にウィッツサンデー諸島やケアンズ地区が知られる。観光収入は年10億オーストラリアドルに上り、重要な経済要素となっている。

地理と地質

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グレート・バリア・リーフのクイーンズランド州海岸部衛星写真。エアリービーチとマッカイを含む箇所。

グレート・バリア・リーフはグレートディヴァイディング山脈地域の顕著な特徴となっている。小さなマレー島をその中に含んでいる。最北端の島であるブランブル・ケイとパプアニューギニア南海岸の間のトレス海峡から、最南端のレディーエリオット島とフレーザー島の間の名も無き海峡まで続いている。レディーエリオット島はブランブル・ケイから南東に直線距離で1,915 km (1,190 mi)の位置にある。約900の島のうち、600は大陸起源、300はサンゴ礁を起源とする。

新生代以降、オーストラリア大陸は年間7cmの速度で北へ移動している。大陸東部は隆起を続けた時期があり、クイーンズランド州に長さ400kmにわたる分水界を形成した。この時期、活発な火山活動や玄武岩流が続き、花崗岩が露出した部分によっていくつかの島が形成された。そして構造盆地が形成されると、ここにサンゴが進出し始め、後の珊瑚海となった。しかし約2500万年前頃までクイーンズランド北部は温帯水域であったため、サンゴが繁殖するには海水は冷たかった。ここから、グレート・バリア・リーフの形成は複雑な経路をたどる。やがてクイーンズランド水域の気候は熱帯へと変わるが、同時に海深の変化も起こりサンゴ礁の成長と衰退に影響を与えた。珊瑚は直径で年間1-3cm成長するが、垂直方向の成長は年1-25cmにもなる。しかしこれには日光が欠かせず、そのために深度150m以上の場所では成長は難しい。クイーンズランドの海岸が2400万年前に熱帯気候となった頃、一部に珊瑚の成長が始まったが、グレートディバイディング山脈の浸食によって堆積作用が始まり、三角州や海盆域およびタービダイトが形成され、それらはサンゴの繁殖には阻害要因となった。1000万年前には蓄積した堆砂が水深を下げ、さらにサンゴの成長を邪魔する土砂がかぶりにくい沖まで堆積が進んだ。ただし暗礁となるには基盤となる部分へのさらなる堆積が必要だった。40万年前には間氷期が訪れ、浅い海の海水温度は一時的に4℃ほど上昇した。

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グレート・バリア・リーフ南部、珊瑚海にあるヘロン島

現在のグレート・バリア・リーフを形作る基盤となる地層は、古い暗礁[24]や火山の名残りなどを含む海丘の上にグレートディバイディング山脈からの堆積物が重なった開析海岸平野である。協同リサーチセンター (CRC)内のサンゴ礁リサーチセンターは、50万年前のサンゴ骨格による鉱床を発見した。グレート・バリア・リーフ海洋公園管理局 (GBRMPA)は、初期の暗礁は60万年前頃から形成が始まったという見解を述べ、現在生育しているサンゴ群はその上に、約2万年前から成長を始めたと考察している。オーストラリア海洋科学研究所もこれに同意し、成長開始の時期は最終氷期最盛期に当たり、海深も現在より120mほど浅かったと述べている。

2万年前から6000年前にかけて海水準変動によって海面は上昇した。これに伴い、サンゴは海岸平野上でより高く成長した。1万3千年前の頃、海面は現在よりも60m程低く、その頃には海岸平野の丘状部は大陸島となり、サンゴの繁殖はその周囲で起こった。海面が上昇に転じると大陸島は水没し、サンゴは海丘上全体で成長するようになり、現在の小島や暗礁へと成長した。約6000年前から今日にかけての期間、グレート・バリア・リーフ周辺では海面上昇は起こっていない。CRCサンゴ礁リサーチセンターは、現在生育しているサンゴは8000-6000年前にサンゴ礁を形成したものが絶滅せずに繁殖しているとの見解を述べた.。リーフ形成当初のサンゴ礁と似た古代の堡礁は、西オーストラリア北部のキンバリー地域で見ることができる。

世界遺産に登録されたグレート・バリア・リーフの地域は70のエコリージョンに分けられ、うち30はサンゴ礁のエコリージョンである。北部にはリボンリーフや三角州堆積礁が形成されているが、それ以外の地域には同種のものは見られず、環礁は存在しない[31]。また、サンゴ礁がオーストラリア大陸と接触している部分もほとんど無い。

裾礁は広く見られ、特にウィッツサンデー諸島のような島と接触して形成されたものが南域で特に顕著である。礁湖を伴うサンゴ礁も南部で多く、北部でもプリンセスシャロット湾沖などで発達している。中部域で最も一般的な形態は、リザード島周辺などのような三日月礁であり、グレート・バリア・リーフ海洋公園最北部や南緯20-22度のスウェイン礁などでも確認される。面状礁はヨーク岬半島およびプリンセスシャロット湾からケアンズまで広く分布し、リーフ内の多くの島で発達している。

生態系

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ケアンズ近郊のフリンリーフで見られる色とりどりのサンゴ類

グレート・バリア・リーフは、危急種や絶滅危惧種などに相当する固有種等、多くの生命にとって安住の地でもある。

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グレート・バリア・リーフのアオウミガメ

クジラやイルカなど30種がグレート・バリア・リーフで確認され、その中にはネズミイルカ科、ミンククジラ、ウスイロイルカ属、ザトウクジラ等も含まれる。ジュゴンの個体数も多い。

ウミガメの仲間は6種類。アオウミガメ、オサガメ、タイマイ、アカウミガメ、ヒラタウミガメ、ヒメウミガメが見つかっている。アオウミガメは集団遺伝学見地から2種類に分けられ、暗礁の北部と南部にそれぞれ生育している。海草は15種あり、魚類の生息域となり、ジュゴンや亀を引き寄せる。最もよく見られる海草の属はハロフィラとウミジグサ属である。

暗礁近郊の海岸線にあるマングローブや塩沼では、イリエワニが生息する。巣についての報告は無く、海洋公園では海生ワニは広範囲に生息するが、各個体は孤立気味である。サメ、アカエイ科、ガンギエイ[要リンク修正]、ギンザメ目は125種が暗礁で確認されている。軟体動物は5000種近くが確認されており、オオシャコガイや多様なウミウシ、イモガイ科などがいる。イシヨウジは49種、タツノオトシゴは9種が確認された。島部では少なくとも7種のカエルが生息する。

鳥は215種、この中には22種の海鳥と32種の海岸線に棲む鳥を含み、暗礁を巣やねぐらの場にしている。その中にはシロハラウミワシやベニアジサシも見られる。ほとんどの営巣は北部または南部の島で行われ、140から170万羽が繁殖する。また、グレート・バリア・リーフの島々は知られているだけで2195種にものぼる植物の生育地となっており、固有種も3種が見つかっている。北部の島々に繁る300から350種の植物は樹木が多く、南部の200種は草本中心という傾向がある。ウィットサンデー地区は最も植生が豊かな場所で、1141種が根付く。植物の伝播には鳥が貢献している。

ウミヘビ科は17種が水深50m未満の暖かい海水の領域に住み、北部よりも南部でよく見られる。世界遺産登録区域のウミヘビには固有種は見つかっておらず、絶滅の危惧も無い。

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フリン・リーフのストライプドフィンサージョンフィッシュ

魚は1500種以上が暗礁で生活し、クマノミやバラフエダイ、レッドスロートエンペラー、数種のフエダイ科やコーラルトラウトなどが知られる。49種が固まりで産卵するが、他の84種は放卵を行う。

ホヤのなかまは少なくとも330種が水深1-10cmの暗礁に生存しており、外肛動物は300から500種がいる。

サンゴは約71属400種。イシサンゴの仲間もウミトサカの仲間も見られる。ほとんどが配偶子で生殖する種類であり、春や夏の水温上昇や月齢、および日周期の影響を受けて配偶子を一斉に放つ行動を取る。グレート・バリア・リーフでは10月に、満月の後の週にこれらが見られ、礁の外では11月や12月に行われることもある。通常のウミトサカは36種が生息する[51]。海草や海藻は500種が暗礁で生育し、その中には石灰質上に長さ100mにもなる群をつくり、その様子が多雨林にも比されるハリメダ13種もある。

環境への懸念

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グレート・バリア・リーフの海面温度とサンゴ白化現象の状態。

気候変動、公害、オニヒトデの繁殖、漁業がグレート・バリア・リーフの健全な状態に与える脅威は大きい。他にも、海難事故、石油流出や台風も無視できない。原生動物が引き起こすサンゴの骨格を侵す骨侵食バンド症や汚染へ影響する珊瑚感受性は、31種のサンゴに影響を及ぼしている[54]。

サンゴ礁研究のためのARCセンターの報告書によれば、現在、北部地域でサンゴの67%がサンゴ礁の最悪の被害を受けて死亡したことが明らかになった。

気候変動
グレート・バリア・リーフ海洋公園管理局は、リーフにかかる最大の脅威はサンゴの白化現象を引き起こす気候変動だと捉えている。1998年、2002年および2006年の夏に海洋温度が上昇して大規模なサンゴ白化現象が生じたが、このような事態は毎年起こりうるものと予想されている。気候変動の影響はこれらに止まらず、魚が生息区域を変えてしまい、その結果として捕食性海鳥の雛の死亡率が上昇するような問題も生じる。また、生息数の変化はウミガメの生態域にも変化を及ぼす。

公害
グレート・バリア・リーフが直面する別の脅威には、公害と水質汚染がある。北東オーストラリアの河川は熱帯性の洪水を起こす。これによってサンゴ礁に汚染が広がるが、この現象の90%は農場における表面流出が要因である。そしてその背景には、過剰放牧、肥料や殺虫剤の過剰使用がある。

土壌流出問題は、自然の沈殿物堆積とフィルターの役割を担っていた沿岸部の湿地減少も拍車をかけている。この水質低下は、光や酸素を求める藻類の競争を厳しくさせる。

オニヒトデの大発生
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オニヒトデの一種

オニヒトデはサンゴのポリプを餌とする。これらのヒトデの数が多いと、サンゴ礁は荒らされることになる。2000年に起こった大発生では、RRC (Reefs Research Centre.)の研究で調査されたサンゴ礁の66%が失われていた。このような大発生は、水質低下やヒトデ天敵を乱獲したために、自然のサイクルが狂わされて起こると考えられている。

漁業
オーストラリア北東は、沿岸漁業が盛んである。ホラガイなどキーストーン種の種族維持が困難になる程の乱獲は、サンゴ礁の食物連鎖機能を混乱させる。漁業そのものも、船舶による水質汚染、イルカや亀を混獲してしまうこと、トロール網や碇および魚網による生息地破壊などを引き起こす。2004年中頃、グレート・バリア・リーフ海洋公園の約1/3に当たる領域で、釣りも含むあらゆる生物の移動行為が許可なしでは認められなくなった。

船舶事故
グレート・バリア・リーフをする船舶が起こす事故は差し迫った事態である。 暗礁内を通過する航行は簡単ではないが、船が不調を来しているような際、修理をするまではリーフ内を通る方が安全と考える操船者は多い。このような要因から、判明しているだけでも1600隻以上の船がグレート・バリア・リーフで座礁などを起こしている。

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2010年4月5日に起こった、『深能一号』の座礁。

2010年4月3日には、石炭専用船『深能一号』がダグラス浜沖の浅瀬に座礁し、最大4トンの油が流出してサンゴ礁に損害を与える事故が発生した。これは、制限海域内であるにも関わらず最高速度で浅瀬に衝突して座礁したもので、4日未明に燃料油約950tの一部が流出する事態となった。これにより海洋汚染やサンゴ礁を損壊する恐れが懸念された、中和剤の散布により重油の被害自体は最小限に食い止めたものの、珊瑚礁には幅250m、長さ3kmに渡って引き摺られたような傷が残った他、海洋生物付着防止用の有害塗料が剥れ珊瑚に付着しているのも確認された。この事故で4月14日には船長と一等航海士が連邦警察に逮捕されている。

人間の利用
グレート・バリア・リーフを古くから知っていたアボリジニやトレス海峡諸島民は、長く利用してきた。アボリジニはこの地域に約4万年前から、トレス海峡諸島民は約1万年前からこの地域に居住し、70程の部族を形成した彼らにとってリーフは文化を特徴づけるものとなっていた。

1768年、ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルは探検の最中にグレート・バリア・リーフを発見したが、特にフランスの領有を主張することは無かった。1770年6月11日、艦長・ジェームズ・クック率いるエンデバー号がリーフで座礁する事件を起こした。船は大損害を被ったが、満ち潮に合わせて引き揚げに成功し、最終的に脱出した。リーフで起こった最も有名な海難事故のひとつに、1791年8月29日のパンドラ (帆走フリゲート)難破沈没があり、この時は35人が犠牲となった。1983年以来、パンドラはクイーンズランド博物館で展示されている。グレート・バリア・リーフには環礁が全く無かったため、その全貌は19世紀までほとんど知られていなかった。この期間、いくつかの島でグアノの堆積物の採掘が行われ、レイン島のように作業を行うための標識として灯台が建設された。初期の暗礁研究は、1922年のグレート・バリア・リーフ委員会によって開始された。

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サンゴに貼り付いたアオヒトデ。観光では、時に美しい自然に触れる機会を得られる。

管理
詳細は「グレート・バリア・リーフ海洋公園」を参照
王立委員会がリーフでの石油採掘を禁じ、1975年にオーストラリア政府はグレート・バリア・リーフ海洋公園を定めて各種の経済活動を制限したが、それは全地域を包括してはいない。公園はクイーンズランド州政府との協力の下、公園管理局が継続的に保てる節度を持った利用を保証する。そのために、ゾーニング、管理計画、認可、教育、エコツーリズム証明などの奨励を組み合わせて、サンゴ礁の維持管理に努めている。

1999年にオーストラリア議会は、国家の自然環境保護に関する法律を改訂し、地域の生物多様性を優先するガイダンスを規定するように定めた「環境保護を生物多様性の保全に関する条例」を通過させた。この条例の施行は、海洋の生物学的地域計画実施に繋がった。この計画では、海洋環境においておのおのの種が全体の生態系の中でどのような相互作用をもたらすかを検討することによって、海生生物の多様性を保存することが目的とされた。この過程には2つの段階があり、第一段階では(現在では)5箇所のそれぞれ独立した海洋地域で保護する優先順位を見極める事であり、次の段階ではオーストラリア国家が指定する海洋保護地域体系 (National Representative System of Marine Protected Areas, NRSMPA) に加える適用海域(保護地区や海洋公園)を明確化する事である。陸上の保護地区同様に、海洋地区でも生物多様性が何世代にわたって保護されている状態をつくりだす。海洋保護区は、オーストラリア・ニュージーランド環境保全評議会によって作成された「国家による海洋保護地域体系創設のためのガイドライン」(いわゆる「ザ・ガイドライン」)に書かれた基準を元に設定される。このガイドラインは、「連邦水域の海洋保護区に対する国家的地域体系の設立に関する目標と原則」に要約され、オーストラリアの国策として地方にまで認識され、実行される。これらの政策が適切に実行される中で、海洋保護区はそれぞれの情報が慎重に評価され、NRSMPAに加えられる。これらの優先順位は人間や環境が与える脅威の度合いを基本に設けられ、海洋の地域生態系計画がこの優先順位に基づいて策定される。異なる領域の優先順位設定には3つの方法が用いられ、先ず最初に地域生態系の概略が作成される。次に地域生態系計画が立案され、三番目にこれが纏められる。これらの計画は纏められた後でも、他の地域に脅威となるような影響を与えるような場合には、制限が加えられることがある。

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ケアンズ・セクションのエイジンコート・リーフ

2001年、GBRMPAはグレート・バリア・リーフにおける水質悪化に関する報告書を発表し、この問題の重要性を解説した。この報告では、リーフの水質改善に向けてオーストラリア国政府とクイーンズランド州政府が共同して主導性を発揮する点に重きを置いている。2003年には国と州は流入する水の質向上に着手した。過去150年間、開発による水質悪化はサンゴ白化現象や藻類の異常繁殖および農業汚染の原因となってきた。これらが、気候変動に抵抗するサンゴ礁の活力を削いでいた。以前からの法律・法令65項目を組み込んだ計画は2003年10月に実行に移され、当面の目標は2013年までに水質悪化を食い止めて向上に転じさせることに向けられた。これにより2020年までに水質改善を成し遂げ、リーフの健全な状態へ及ぼす悪影響を除くことを目指す。これらは、流入する水質汚濁物そのものの減少と、きれいな水が流入することで暗礁内の自然な浄化作用を復元させ維持する効果を期待している。

上で挙げた目的達成のため、この計画では汚濁物発生源を単独の場所に求めず、面的な対策に焦点を絞った。特に、農業で使用される肥料・殺虫剤および発生する流送土砂を重視し、都市から生じる面的な発生源は別の法律で制御した。この計画は2009年に更新された際、それまでの対策が正しい方向に進んでいると評価した。更新後の計画では「効果の優先順位を重視し、産業界や共同体と連携し、新しい政策と規定の枠組み(リーフプラン5)を具体化する」という試みを明記した。ここでは、達成状況の評価、新しい目標設定、責任の明確化、監視と査定方法の改良が行われた。これによって、改訂時点で65の目標のうち41が達成され、18の進展が途上にあり、6は不充分な進捗状態にあると判断された。2003年改訂のポイントは、リーフ・クオリティ・パートナーシップ (Reef Quality Partnership) の創設であり、目標設定と進捗管理を行って土地所有者が行った改善に応じた賃貸拡充など報酬を得られるようにすることを定めた。ウオーター・クオリティ・インプルーブメント・プラン (Water Quality Improvement Plans) では、地域の目標設定を行い、必要な管理体制の改革を明瞭にした。ニュートリエント・マネジメント・ゾーン (Nutrient Management Zones) の設定では堆積物の除去を推奨する地区を設け、収穫と持続的農業を助成する教育プログラムや土地管理手法の改革などはファーム・マネジメント・システム (Farm Management Systems) と実務に関する規約を通じて実行する。クイーンズランド・ウエットランド・プログラム (Queensland Wetland program) や他の研究成果は既にサンゴ礁に流れ込む水の質を向上させる成果に結びついている。

また、それぞれの計画が水質にどのような影響を与えているかを評価する科学者の特別委員会も設置された。彼らは、それぞれの計画は目標に達しているが、気候変動に対するグレート・バリア・リーフの回復力向上に水質改善の効果が及ぼしたという証拠の確認は不充分だという見解を示した。2008年のリーフォーカス・サミットでも詳細な報告がなされ、同じ結論に達した。これを受けて、国や州を含む複数の団体にわたる利害関係者による検討会が設置され、目標や達成点の更新が行われた。更新計画では、分野と活動内容に対する重点戦略が組まれ、2013年の達成を目指した。また、目標達成の評価を行うため、定量的な数値が設定された。例を挙げると、沈殿物中の窒素とリンを2013年段階で50%まで、2020年段階で20%まで削減することが盛り込まれた。また、計画には土地所有者が習得すべき牧草、土、肥料および化学物質を管理する技能の段階を概略で定めた。さらに、水質改善に寄与する土地利用法の枠組み構築を助ける概略計画を実行する取り組みのいくつかに対する援助が含められた。これらの手段で、国と州は2013年までに水質向上を期待している。そして2013年の報告には、未来に向けたさらなる水質と野生生物の生育環境向上を実現するために何を為すべきかが盛り込まれることになる。

2004年7月、海洋公園内に新しいゾーニング計画が実施され、これは海洋生態系保護の新しい世界的な標準となるものと評価された。このゾーニングはMARXANソフトウェアを使用して策定された系統的保存計画手法で設けられた。これによって変更された、特に重要な保護区域が占める面積は4.5%から33.3%まで大きく増やされ、当時としては世界最大の海洋保護区となった。ただし、2006年にこれを上回る規模のパパハナウモクアケア海洋ナショナル・モニュメントが設定された。

2006年に報告されたレビュー「1975年のグレート・バリア・リーフ海洋公園条例」では、ゾーニングは今後2013年までは手をつけるべきではなく、サンゴ礁の健全性・管理状況および環境の圧力について調査し、5年毎に査読を受ける報告書が纏められ発行されることを提言した。査定では、証拠をより明白にするための評価基準が準備されており、これによって判断され点数が与えられる。報告書はそれぞれこの評価と採点を経て、過去に遡った過程を追跡することができる。。

観光
Giant Clam on the Great Barrier Reef
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グレート・バリア・リーフでオオシャコガイを見物するダイバーたち。

類稀な生物多様性を持つ上に、暖かくライブアボード等を用いた利便性が高い海域でもあるため、グレート・バリア・リーフは非常に人気がある観光地であり、特にスクーバダイビングは好まれる。観光拠点は、それぞれにプランを提供する[98]便利なウィットサンデーやケアンズになり、この地域は海洋公園の7%に相当する。クイーンズランド州沿岸では日帰りのボートツアーを企画する都市も多い。また、リゾートを提供する場所は、初期に開かれたレディーエリオット島など27の島(1996年現在)や沿岸がある。

国内旅行では1996年の時点でほとんどを取り込み、特に冬の時期に人気を博した。1年当たりの観光収入は7億7600万AU$に達した[99]。2003年には40億AU$、2005年には51億AU$となった観光収入は同地区最大の産業となり、毎年200万人が訪れるようになった。しかし、これら観光事業がグレート・バリア・リーフに悪影響を与えているのではという懸念もある。

ボートツアーやクルージングが多く行われ、その期間も1日から数日間をかけるもの、船舶もディンギーからスーパーヨットまで多様である。グラスボートや海中天文台もあり、ヘリコプター飛行も行われる。しかし断然の人気を誇るものはシュノーケリングとスクーバダイビングである。これらは平底のボートを使い、潜る場所は網で囲われる。水質がきれいなリーフの外側が特に好まれる。

観光事業は持続可能性に配慮して管理される。観光料金にはグレート・バリア・リーフの研究に使われる費用が加味されており、GBRMPA総収入の20%がこれから賄われている。リーフの通行において、クルーズ客船や裸傭船契約また投錨には制限が掛けられている。

水産業
クイーンズランド州におけるグレート・バリア・リーフの水産業は年間10億AU$の利益を上げている[13]。創出雇用は約2000人であり、さらにレクリエーションや伝統的な自家消費用の漁業でも、リーフは活用されている。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
(9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
(10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

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