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2019年07月16日

古典古代における世界の七不思議

一般的に挙げられる七不思議は以下の7つである。

ギザの大ピラミッド
バビロンの空中庭園
エフェソスのアルテミス神殿
オリンピアのゼウス像
ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
ロドス島の巨像
アレクサンドリアの大灯台


この内「アレクサンドリアの大灯台」は、実際にはフィロンの選んだ7つには含まれていない。これは、フィロンが自分の国の不思議は入れないことに決めていたためで、フィロンが選んだのは「バビロンの城壁」であった。バビロンの空中庭園とバビロンの城壁が誤って同一視された結果、「アレクサンドリアの大灯台」が導入されたとされる。

これらのほとんどは地震や破壊などで消滅してしまい、「ギザの大ピラミッド」のみが現存する唯一の建物になっている。また、「マウソロス霊廟」や「エフェソスのアルテミス神殿」のように遺構や遺跡がわずかに残っている例もあれば、「バビロンの空中庭園」や「ロドス島の巨像」のように完全に破壊されて痕跡も残っていない例もある。

この他、シドンのアンティパトロス、ローマの大プリニウス(ピラミッドやスフィンクス、アレクサンドリアの大灯台、エフェソスのアルテミス神殿、エジプト・クレタ島・リムノス島などの迷宮、キュジコスの神殿や競技場、テーベ、パクス神殿や競技場・劇場・水道橋などのローマの建築物)など、さまざまな学者・歴史家・詩人が七不思議を選定している。


ギザの大ピラミッド

ギザの大ピラミッド(ギザのだいピラミッド、英語: Great Pyramid of Giza)は、エジプトのギザに建設された、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』において、「クフ王のピラミッド」として報告されているが、この時点で建設から2000年以上経過していた。

「ケオプス(クフ)王は50年間統治したと言われている。ケオプス王が崩御した後、兄弟のケフラン(カフラー)が王となった。ケフランもピラミッドを造った。それはケオプスのピラミッドよりも12メートルほど低かった。だがそれ以外は同じような大きさのピラミッドだった。ケフラン王は56年間国を統治した。その後はケオプス王の息子ミケリノス(メンカウラー)が王位を継承した。ミケリノス王は父親よりも小さなピラミッドを残した。」

建築年代については諸説あり、一般的にエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2560年頃に20年前後かけて建築されたと考えられている。

完成時の高さ146.6mは、14世紀にリンカン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。
ギザの大ピラミッドに至るまでの沿革

三大ピラミッド (最後方がギザの大ピラミッド)
一般に、ピラミッドの出現は、ファラオ(王)を頂点とした中央集権国家が確立したことを示している。したがってピラミッドの建造が盛んなことは、エジプト中央集権国家としても盛期であったと言える。

ギザの三大ピラミッド(ギザの大ピラミッド〈クフ王のピラミッド〉、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッド)が建造された時代は「エジプト古王国時代(第3-第6王朝)」であり、この時代のピラミッドは、規模・技術ともに最高水準を示すことから、当時のことは、別名で「ピラミッド時代」ともいわれる。なお、このピラミッド及びクフ王について説明したヘロドトスはこれより2000年ほど後の時代のためであることや様々な理由から、現在ではクフ王の王墓とする説に疑問が呈されることも多い。

なお、ピラミッドの語源は諸説あって確定できない。語源の最も有力な説はギリシア語で三角形のパンを指すピューラミス(πυραμίς pyramis ピラミス、ピラムスとも)に由来する、という説である。古代エジプト語名は「メル(mer/mr)」で、「昇る」という意味。ミル、ムルとも発音し、ヒエログリフでは三角形の下に、地上を表す長方形が付いたもので表記した(下記)。


ギザの大ピラミッド
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クフ王のピラミッド断面図
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔
クフ王が建設したギザの大ピラミッドは、ピラミッド建築の頂点とされ、最大規模を誇る。

現在高さ138.74m(もとの高さ146.59m)、底辺230.37m、勾配51度50分40、容積約235.2万m3で、平均2.5tの石灰岩を約270万-280万個積み上げたと計算される。

長さと高さの比は黄金比であるとする俗説があるが、実際に計算すると黄金比との相対誤差は3パーセント強であり、方位の誤差で1分程度に収まるピラミッドの建築技術に比して際立って大きい。

14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。

こうした規模とともに石積技術も最高水準にある。例えば、底辺の長さの誤差は20cm、方位の誤差は1分57秒-5分30秒という正確さである。

王の間上部には、重量軽減の間と呼ばれる空間があり、19世紀にイギリスの軍人ハワード・ヴァイスが発破によって発見した。最上部にはクフ王の名前(字が間違っている)が残されている。 

近年、日本、フランス、エジプトの共同チームが素粒子を利用した調査の結果未発見の空間が存在する可能性があるとする内容の論文を科学誌ネイチャーに発表した。[

シャフト
王の間と女王の間にはそれぞれ通気孔が存在する。これは「シャフト」の名で呼ばれ、部屋の温度を一定に保つためのものと考えられているが、女王の間から伸びるものだけは通気孔と見るには両端が塞がっており、また構造的にもピラミッド内を右往左往するなど妙な面が目立っていた。女王の間の通気孔とされているこの穴は何故か薄い壁で巧妙に封鎖して隠されており、これは1872年にフリーメーソン会員ウェインマン・ディクソンが発見するまで存在すら知られていなかった。

さらに1993年にルドルフ・ガンテンブリングによって行われたロボット、「ウプワウト (UPWAUT)」によるシャフト調査で、女王の間から伸びているこの小さな通路だけは外部へ通じていないばかりかピラミッド内の回廊を避けて設計されており、独立した通路として別に長々と蛇行していたことが明らかになった。さらに通路入口より60mほど先に青銅の取っ手が取り付けられた厚さ6cmほどの石灰岩の扉で閉じられた部屋があることがここで判明している。その後の調査で、扉にドリルで小さな穴をあけ、そこにファイバースコープを差し込み調査の結果、扉の向こう側にひびの入った壁が確認された。エジプト考古学庁長官ザヒ・ハワス博士は、この空間がクフ王の玄室に繋がっている可能性が高いと考えている。

さらに王の間のシャフトはオシリスを表すオリオン座の3つ星を、女王の間のシャフトはイシスを表すシリウスの方向を示している。これは古代エジプト人のオシリス信仰によるものであるとされている。

建設法
ギザの大ピラミッドに使用された石灰岩は、ピラミッドの500メートル手前の石切り場由来とされる。すぐ近くに建設に関わった人々の街も築かれた。ナイル川の氾濫する7-9月に仕事を失った農民が集められて建設に動員され、4000人の作業員が建築に関わったとされる。以前は奴隷がピラミッドを作ったとされていたが、街には二万人以上が生活した痕跡があり、作業員は家族とともに暮らし、報酬やパン、ビールも与えられていた。切り出された石灰岩は平均2.5t程度の重量があり、300万個が使用された。これとは別に1個60tを超える花崗岩の石材が王の間に多数使用されている。建設法としては3つの説が提唱されている。

直線傾斜路説
ピラミッドまで緩い斜面をもつ1本の直線の通路を作り、ソリで石材を引き揚げて建築する方法。斜ピラミッドが高くなるにつれて通路も長くなり、最終的にピラミッドと同じ容積の材料が通路を作るために必要となる欠点が指摘されている。一方、ピラミッドは高い部分になるにつれ必要な石材の量は減るので、建設が進行すればするほどピラミッドより通路の設置のほうが大変になることになる。斜面の傾斜を5度とするとピラミッドの頂上を作るときには長さ1.6kmの傾斜通路が必要となり、石切り場からピラミッドから逆の方向に1km運んでから直線傾斜通路に乗せることになる。またピラミッドが完成した後に、ピラミッドと同じ体積の石材をつかって作った通路を撤去する必要がある。

らせん傾斜路説
ピラミッドの外周に沿って、らせん状の細い傾斜通路を設けたという説。細い通路しか使用できず、通路自体によってピラミッドが隠されてしまい、建築中の測量が出来ずに稜線が曲がってしまう危険が指摘されている。

内部通路説
フランスの建築家ジャン=ピエール・ウーダンが提唱した説。元々は同じ建築家だった父親の、ピラミッドの中にらせん状の通路があるはずだという発想から始まっている。この説を受けて現地の調査でも内部通路がふさがれた跡が見つかったり、1986-1987年のフランスのピラミッドの重力分析によって内部に15%のらせん状の空洞の存在が示唆されていたことが改めて着目されるなど、注目を浴びている説。内部の通路の傾斜は4度、総延長は1.6kmで内部の比較的浅い場所を4-5周まわって頂上近くにまで至っていると予想されている。下1/3の建築には直線傾斜路が使用されたとされる。これは前述の60tの花崗岩などを運ぶ必要があるため、内部トンネルだけでは建築できないためである。この時に大回廊にはバラストと搭載したソリが設置され、エレベーターの原理で石材の引き上げがおこなれていた[2]。用が済んだ直線傾斜路は解体され、その石材はピラミッドの建設に転用された。崩壊したアブグラブ神殿でも同様の内部トンネルが確かに存在したことが確認されている。


バビロンの空中庭園

バビロンの空中庭園(バビロンのくうちゅうていえん、Hanging Gardens of Babylon)は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の一つの屋上庭園。バビロンの吊り庭園(バビロンのつりていえん)ともいう。
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名前からは、重力に逆らって空中に浮かぶ庭園が連想されるが、実際には高台に造られた庭園である。

概説

バビロンの空中庭園など、世界の七不思議に関連する年表と地図
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バビロンの空中庭園は、古代ギリシア世界の七不思議の1つに数えられ、古代土木技術の偉業とされる。何層もの階段上に庭園が配置され、様々な種類の樹木、つる植物が植えられた。泥れんがを積んで大きな緑の山に似せて造られ、今日のイラクのバービル県ヒッラ付近にあった、古代都市バビロンの中に建設されたと言われている。言い伝えによると、新バビロニア帝国の王ネブカドネザル2世(治世紀元前605 - 562年)が、メディア王国出身であり、彼の妻であるアミュティス(英語版)王妃のために、彼の巨大な宮殿の脇に空中庭園を建設したという。望郷の念に囚われた王妃アミュティスは、自分の故国メディアの緑の丘や谷を懐かしみ、彼女の感傷を癒やすためにこの庭園が建設され、人間の業を超えた偉業として知られるようになった。バビロニアの祭司ベロッソスが紀元前290年頃にこの話を記しており、後にフラウィウス・ヨセフスが引用している。空中庭園は、古代世界の七不思議のうち、位置が確定していない唯一の遺跡である[2]。空中庭園に言及しているバビロニアの文書史料は無く、バビロンにおいてその存在を証明する考古学上の証拠も見つかっていない。このことを説明するため、3つの仮説が提起されてきた。

第1の仮説 : これらの話は純粋に神話であって、古代ギリシア・ローマの著述家 例えばストラボン、シケリアのディオドロス、クイントス・クルティウス・ルフスに見られる記述は、東方の園の空想的な理想像を表現しているに過ぎない、とする説。

第2の仮説 : それらはバビロンに存在したが、紀元1世紀以降のある時点において、完全に破壊されたとする説。

第3の仮説 : 言い伝えによれば、アッシリア王センナケリブ(在位紀元前704 - 681年)が建てた庭園は文書による裏付けがあるとされる。その庭園は、ティグリス川沿いにあるアッシリアの首都ニネヴェ(現代のイラクの都市モスル付近)の中に造られたもので、これがバビロンの空中庭園と混同されたとする説[7][8]。
「吊り下げられた庭園」という誤解があるが、それはギリシア語のkremastosまたはラテン語のpensilisの不正確な翻訳のせいらしい。プリニウスの『博物誌』では言及されているが、ヘロドトスには知られていない。水を汲み上げる方法については、らせん水揚げ機などの説明がされているが決定的ではない。

史料
今日までバビロンについての描写が何らかの形で現存している著者として、5人が挙げられる。これらの著者は、空中庭園の規模、全体の設計、給水の方法、建造の目的にまで言及する。

(1)フラウィウス・ヨセフス(西暦37 - 100年)が引用するところによれば、バビロニアのマルドゥク神祭司であるベロッソスは、紀元前290年頃に空中庭園について記している。ベロッソスはネブカドネザル2世の治世について書いており、そしてこれが、ネブカドネザルが空中庭園を建設したとする唯一の史料である[9]。
この宮殿に、彼は石柱で支えた非常に高い歩道を建設した。そして「吊り下げた楽園」と呼ばれる庭を造り、その庭にあらゆる種類の樹を植えてこれを満たし、山岳地域そっくりの眺めを創り出した。彼はこれを、自分の妃を満足させるために行った。なぜなら彼女はメディアで育ち、山岳地域の趣を好んだからである 。

(2)シケリアのディオドロス(紀元前60 - 30頃に活動)は、紀元前4世紀頃にクレイタルコス(アレキサンダー大王の歴史家)やクニドスのクテシアスが書いた文書を参考にしたようだ。ディオドロスは、庭園を建設したのはシリアの王であるとしている。彼の述べるところによれば、庭園は正方形で、一辺の長さはおよそ4プレトロン(約120メートル)であるという。庭は階段上の層になっており、最も上の層の庭の高さは50キュービット(約2 - 2.5メートル)。壁の厚さは22フィート(約6.6メートル)で、レンガでできていた。それぞれの層の底部は、大木が根を張るのに充分な深さを備えており、庭園は、近くを流れるユーフラテス川の水により灌漑(かんがい)されていたという。

(3)クイントス・クルティウス・ルフス(西暦1世紀ころに活動)は、おそらくディオドロスと同じ史料を引用している。彼の述べるところによれば、庭園は城塞の頂上に造られ、その外周は20スタディオン(約3.6キロメートル)であるという。彼は、庭園の建設者はシリアの王であるとしている。庭園を建設した理由は、前出の説明と同様、その王妃が故郷を懐かしんだためとしている。

(4)ストラボン(紀元前64年 - 西暦21年)の記述は、おそらく紀元前4世紀にオネシクリトス(アレキサンダー大王の部下で、歴史家)の文書(現存しない)に基づいていると思われる。彼の述べるところによると、庭園の柱や地下室はレンガで作られ、四隅を柱で支え高く据えた立方体のテラスに土を盛って庭を構成し、その上にアーチ上の屋根が架けられていた。また、庭園は、ユーフラテス川から庭園へとつながるアルキメデスのらせんにより灌漑されていたという。

(5)最後の古典的な史料は、他の史料とは独立していると考えられている。「世界の7不思議の手引」であるが、この本はビザンチウムのフィロンによって書かれたものではなく、西暦4-5世紀に活躍した、同名の他の人物によるものである。スクリューによって水をくみ上げる方法は、ストラボンが描写したものと一致する。著者は、広大な範囲に大量の土を用いて築き上げたその土木工学と創意工夫に驚嘆している。庭園の高さは周囲の地面よりもはるかに高く、庭園建設のために用いられた土は膨大な量に及ぶ。また、著者は灌漑の技術についても賞賛している。

学問と論争
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これは、アッシュルバニパル(紀元前669 - 631年)のニネヴェの宮殿(北部)の浮き彫りの写しである。水路により給水されている、贅沢な庭園が描かれている。

同時代のバビロニアの史料の中に証拠となるものが無いため、空中庭園が実存した建築物なのか、あるいは空想の産物なのかについては議論が分かれている。また、メディアあるいはペルシアとの政略結婚はそれほど珍しくなかったにも関わらず、ネブカドネザルの妻アミュティス(あるいは他のいかなる妻)についても全く言及が無い。ネブカドネザルの事業について多くの記録が存在するが、彼の長大な碑文は、庭園について全く言及しないのである。
また、ヘロドトスは、その著作「歴史」の中でバビロンについて書いているが、空中庭園については何ら触れていない。
今のところ、バビロンにおいて、空中庭園に関する考古学的な証拠は何も発見されていない。ユーフラテス川の下に証拠が埋もれているという可能性はあり得るが、現時点で、安全に川を発掘することは不可能である。ネブカドネザル2世の時代には、川は現在の場所よりも東を流れていた。そして、バビロンの西岸部分についてはほとんど知られていない。ロバート・ローリンジャーは、次のような考えを提案している。ベロッソスは政治的な理由により、庭園がネブカドネザルによるものと考えた。そしてベロッソスは、どこか他の場所の伝説を借りてきた、というのである。
最近の学説では、バビロンの空中庭園は実際に建設されたとする。ただし、それはバビロンではなく、アッシリア王センナケリブ(治世紀元前704 - 681年)が、その首都ニネヴェの宮殿内に建設したものとしている。何世紀も経つ間に、センナケリブの宮殿の広大な庭園が、ネブカドネザルの時代にバビロンに存在したものと勘違いされたのだ、とステファニー・ダリーは断定する[8]。センナケリブに捧げられた広大な給水システムが、最近、ニネヴェで発掘された。ダリーはそれを、総延長80キロメートルにも及ぶ運河、ダム、水路などの給水システムの一部であるとしている。また、庭園の上部に水を揚げるために、らせん式揚水装置が用いられた。
最近、アッカド語の碑文の解読技術がめざましく発展していることも、ダリーの主張を支えている。彼女の主な論点・主張のポイントは:
「バビロン」という名前は、「神の門」を意味し、いくつかのメソポタミアの都市において用いられている。センナケリブは都市の門の名前を神々の名前にちなんで命名し直しており、彼が自分の都市が神の門になることを願っていたことを示唆している。
ヨセフスだけがネブカドネザルが庭園を建設したと述べている。しかし、ネブカドネザルは数多くの碑文を残しているが、どれ1つとして庭園や工学的な事業について触れていない[25]。シケリアのディオドロスやクレイタルコスは、それを築いたのは「シリア」の王であると明記している。
対照的に、センナケリブは碑文を残しており、考古学的にも彼の水道事業に関する証拠が残されている。彼の孫であるアッシュルバニパルは、その宮殿の壁に、生い茂る庭を描いた彫刻の壁画を残している。
センナケリブは彼の新しい宮殿と庭を「全ての人々にとって素晴らしいもの」と呼んでいる。彼はまた、庭に水を揚げるためのスクリューを造り、動かしている絵を残している。
古典時代の著者たちの描写は、これらの考古学的記録と一致する。紀元前331年、ガウガメラの戦いの直前に、アレクサンダー大王はジャーワンの水道橋の近くに4日間宿営した。彼の遠征に同行した歴史家には、それらの遺跡を調べ、ギリシア語で記録するための充分な時間があったはずである。これらの記録は現存していないが、後世のギリシア人の著者たちに引用されている。
ニネヴェの空中庭園
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写真は、上に写しを掲げた、アッシリアの壁画のオリジナル。ニネヴェの庭園の様子を表している(イラク、モスル)

センナケリブの空中庭園もまた、世界の不思議として数えられてもよい。その理由は、ほこりまみれの灼熱の景色に1年を通して浮かぶ、青く生い茂るオアシスだからというだけではない。庭園を維持するための、驚嘆すべき灌漑技術による。
アッシリアには、王宮の庭園を建設する伝統があった。アッシュルバニパル2世(紀元前883 - 859年)は山を切り拓いて運河を築き、果樹園を整備した。史料で言及される樹種としては松、糸杉、ビャクシン、アーモンド、ナツメヤシ、黒檀、紫檀、オリーブ、オーク、ギョリュウ、くるみ、テレビン、トネリコ、モミ、ザクロ、西洋梨、マルメロ、イチジク、ぶどうが挙げられる。
センナケリブは、メソポタミアの王としては唯一、彼の妻への愛を記録として残している。センナケリブの宮殿において、堤防を補強するための多くの石灰岩についてセンナケリブは述べている。宮殿の一部はオースティン・ヘンリー・レイヤードによって19世紀半ばに発掘された。彼の城塞の図面は、センナケリブの庭園が城塞内のどこかにあったことを示しているが、その位置は特定されていない。なぜなら現在、その場所は軍事基地として使用されているからである。このため、追加調査は困難なものとなっている。
アッシュルバニパルの壁の浮き彫りには繁茂する庭園が描かれている。オリジナルの壁画1枚と、他の壁画の写しが大英博物館に所蔵されているが、どちらも展示されていない。古代の著述家が述べている、庭園の特徴のうちのいくつかは、これらの壁画において確認することができる。
庭園への灌漑かんがいを行うため、都市ニネヴェへの給水方法にはより先進的な技術が要求された。山々から流れる運河の延長は50キロメートルを超えた。センナケリブは、これらの給水を実現するために採用した技術を誇っており、彼の碑文において、そのうちのいくつかを記載している。彼の碑文の中では、バビヤン Bavian(キニス Khinnis)の上流に設置された、自動的に放水する水門のことが述べられている。ジャーワンの谷を渡る巨大な水道橋を建設するために、彼は飾りを施した石を用いたが、その数は200万を超えた。石で造られた水道橋はアーチ構造をしており、セメントで防水された。碑文にはこう書かれている:
センナケリブ。世界の王にしてアッシリアの王。遙かな距離を越え、私は水路を築いた。いくつもの水を集め、水路はニネヴェの近郊に至る。・・・。私は、険しい谷々を越えるため、白い石灰岩で造った水道橋を架け、その橋の上に水を流した。

センナケリブは、自分が初めてロストワックス(鋳造)製法を実現したと主張している。彼は、その技術により、30トンに及ぶ記念碑的な青銅の鋳物を製造した。
センナケリブは、高所に位置する彼の庭園に水を引くことができた。なぜなら、より高い山から水を引いていたからである。彼はらせん状の機械を用いて、さらに高い場所に水を揚げた。これにより彼は、地面よりもはるかに高い位置に庭園を造ることができた。彼は、庭園の最上段のテラスの上に、大きな樹を植えた。そしてその眺めは、人々を驚かせ、芸術的とも言える印象をもたらした。それは、彼以前の王たちを超越するものであった。彼自らが言うところの、「全ての人々にとって素晴らしいものを建てた」という主張も決して誇張ではない。



アルテミス神殿

アルテミス神殿 (アルテミスしんでん; 希: ναός της Αρτέμιδος、拉: Artemisium)は、紀元前7世紀から紀元3世紀にかけてエフェソス(現在のトルコ)に存在した、アルテミスを奉った総大理石の神殿である。

世界の七不思議のひとつに挙げられているが、現在は原形をとどめていない。

概要
最初の神殿は、紀元前700年頃の物で、キンメリア人によって破壊され、その後、紀元前550年頃にリディアのクロイソス王によって再建された。その後、紀元前356年に放火で再び失われ、紀元前323年に三度建てられた。世界の七不思議のリストの編纂者である、紀元前2世紀後半のシドンのアンティパトレスは次のように表現している。

私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった」
− アンティパトレス、『パラティン詩選集』9巻58
同じく世界の七不思議のリストの編纂者であるビザンチウムのフィロンもまた次のように表現している。

エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。
− フィロン

遺跡の発見
エフェソスのアルテミス神殿を発見したのは、イギリス人技師ジョン・ウッド率いる、大英博物館の考古学探検隊である。彼らは、1863年から7年にわたりエフェソスの発掘を続け、1869年12月についに深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見した。これは、ハインリヒ・シュリーマンがトロイアやミケーネを発掘する以前のことで、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなった。彼らが発見した円柱の断片などは、現在大英博物館に所蔵されている。

その後の調査で、神殿は3つあり、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかった。その最も古い物は、紀元前700年頃と推定されている。

所在地
アルテミス神殿は、現在のトルコ共和国の港町イズミルから南に50kmほど離れたところにあった古代都市エフェソスに建っていた。

他の世界の七不思議と同様、アンティパトレスがこの神殿をリストに入れた理由は、その美しさや大きさのためではなく、むしろ、ギリシア世界の境界近くにあったためであった。その所在地から、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与え、アレキサンダー大王の帝国の巨大さを強調したのである。

エフェソスのアルテミス
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エフェソスのアルテミス像(18世紀に作られた複製)
アルテミスはギリシアの女神である。アポローンと双子で、清純な女狩人として知られ、また、ティーターンやセレーネーに代わる月の女神である。アテネでは、クレタ島の地母神の性格を受け継いだオリンピアの女神の中で、アテーナーがアルテミスよりもあがめられていた。

一方、エフェソスでは、アルテミスは非常に敬われていた。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しており、その月には丸1ヶ月祝祭が催された。信仰の対象はギリシア文化以前の古い偶像であった。その元となる偶像は木製で、ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的に、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていた。そして、この女神の象徴は蜂であった。

この偶像の複製や縮小したものが古代には出回り、現在も残っている。また、その偶像は、ギリシア本土のものとは違い、エジプトや近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっており、そこから足首が出ている。

また、エフェソスで鋳造されたコインでは、その多数の乳房を持った女神が、キュベレーの特徴として見られるように、城壁冠(胸壁形の金冠)をつけている。そして、蛇が絡み合ってできた柱、またはウロボロス(自分の尾を自分の口に入れている蛇)を積み上げたものに手を置いている。

このような習合の慣習は、オリンピアの神々をはじめとする国外の神々を吸収したもので、イオニア人の居住者たちが、エフェソスの女性とアルテミスを重ねたと考えるのは根拠が薄いのは明らかである。

歴史

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16世紀に活躍した画家ヘームスケルク(英語版参照)の版画に見るアルテミス神殿の想像図
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イスタンブルのミニチュアパークにあるアルテミス神殿の模型
エフェソスの聖なる場所は、アルテミス神殿よりずっと古くにあった。ギリシア人旅行家パウサニアスは、アルテミスの社はとても古くからあったと考えた。彼は、それはイオニア人の移住より何年も前にできており、アポロンの神託神殿よりも古いと確信を持って主張した。また彼によれば、イオニア人以前のエフェソスの住人はリディア人などであったという。

この神殿は紀元前550年頃にクレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計され、裕福なリディア王クロイソスの負担で建築された。プリニウスによれば、将来起こる地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれたという。このような場所に巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこんだ。

こうして完成した神殿は旅行者の注目の的となり、商人・王・観光客が訪れ、彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表した。そして、その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成した。

この神殿は、避難所としても知られ、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込んだ。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、決して捕まらなかった。また、アマゾネスがヘラクレスとディオニュソスから逃げて避難したという神話もある。

エフェソスのアルテミス神殿は、紀元前356年7月21日に、ヘロストラトスによる放火で破壊された。言い伝えによれば彼の動機は、どんな犠牲を払っても名声を得たかったということである。このことから、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれた。これは、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表す。

ある男が、最も美しい建造物を破壊することで自分の名前を世界中に広めようと、エフェソスのアルテミス神殿に放火する計画を考えた」
出典: Valerius Maximus, VIII.14.ext.5

事件に憤慨したエフェソスの人々は、ヘロストラトスの名前を決して残さないことを共同決定した(ストラボンが後にこの名を書きとめたため、現在我々がその名を知ることとなった)。そして、彼らは、以前よりもはるかに立派な神殿を造ろうと考えた。

まさにこの放火事件と同じ夜、アレクサンドロス3世(大王)は生まれた。プルタルコスは、アルテミスはアレクサンドロスの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現している。アレクサンドロスは後に神殿の再建費用を支払うと申し出たが、エフェソスの人々がこれを拒否した。神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられている。結局、アレクサンドロスの死後の紀元前323年に神殿は再建された。

ローマ皇帝ガリエヌスの治世の262年、再建された神殿は、ゴート人の襲撃の中で略奪・破壊された。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在のダーダネルス海峡)を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」(Jordanes in Gtica:xx.107)と伝えられている。

それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建った。

アルテミス神殿について記した現存する古代の資料は以下のとおり。

プリニウスの「博物誌」
プルタルコスの「対比列伝」 

建築と美術
異なる記述も様々あるが、プリニウスによれば、神殿は、広さが縦115メートル、横55メートルで、高さ18メートルのイオニア式の柱127本からなっていた。神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。ツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれた。その像は木製で、顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていた。

アルテミス神殿は多くのすばらしい芸術品を所蔵していた。絵画や、金銀に彩られた柱、そしてフェイディアスなど高名な彫刻家たちの作品が神殿を飾っていた。彫刻家たちはしばしば優れた彫刻を作ることで競争したという。彼らの作った彫刻の多くは、エフェソスを築いたといわれているアマゾネスを表すものであった。

また、プリニウスは、マウソロスの霊廟を手がけたスコパスが神殿の柱に浮き彫りを施したと述べている。

信仰と影響
アルテミス神殿は、小アジア中の商人や旅人が見られる、経済的に活発な地域に位置していた。このため、この神殿は様々な文化の影響を受け、文化の異なるあらゆる人々が信仰の象徴とみなした。エフェソスの人々はキュベレを崇拝し、様々な文化をアルテミス崇拝に融合していった。こうしてアルテミスに融合したキュベレは、ローマの神で相当するディアナとは対照的な女神であった。アルテミス信仰は、はるか遠方の地からも大量の崇拝者をひきつけた。彼らは皆、神殿に集まり、アルテミスを崇拝したのだった。



オリンピアのゼウス像

『オリンピアのゼウス像』(オリンピアのゼウスぞう)は、紀元前435年に古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された、天空神ゼウスの彫像。古典古代における世界の七不思議の一つ。

主に古代オリンピックにおける奉納競技の本尊とされていたとされる。

構造
紀元前5世紀頃、オリンピアにゼウス神殿が建造された。ゼウス像はこの神殿の奥に収められ、その全幅は神殿の通路の幅とほぼ同じだった。座像でありながら、全長は約12メートル(約40フィート)もあった。紀元前1世紀頃の地理学者ストラボンは「もし、ゼウス像が立ち上がったら、屋根を突き抜けてしまうだろう」と記述している。
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本体は杉で作られ、表面を象牙で覆っていた。表面の乾燥を防ぐために、常にオリーブ油を塗布していた。座席は金、象牙、黒檀、宝石で飾られていた。右手には勝利の女神ニケの彫像を持ち、左手には鷲が止まった錫杖を持っていた。

後年
紀元前2世紀頃のローマの将軍ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスは、マケドニアを征服した際にこの像を見物し、あまりの神々しさに強い畏敬の念を感じたという。

建造から800年後の394年、ゼウス像はオリンピアからビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに移された。その後の消息は不明だが、おそらく焼失したものと考えられている。

1958年、ゼウス像の建造に使用されたと考えられる工房が発見された。この発見によってゼウス像の全容の解明が進められた。

マウソロス霊廟

マウソロス霊廟(マウソロスれいびょう、Tomb of Mausolus)は、マウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟である。ギリシア人建築家のピュティオスとサテュロスによって設計され、スコパス、レオカレス、ブリュアクシス、ティモテオスという4人の高名な彫刻家によってフリーズ(彫刻帯)が施された。その壮麗さから、世界の七不思議のひとつに選ばれている。また、ヨーロッパ圏で使用される単語「マウソレウム(一般に巨大な墓の意、英語:mausoleum)」はこの霊廟に由来する。

マウソロスは、カリア国の首都をハリカルナッソス(現在のトルコ共和国ボドルム)に定め、周囲の地域も支配下に置いた。この霊廟は、マウソロスの死後に妃アルテミシアが夫のために建造したといわれているが、実際にはマウソロスの生存中に建造が開始されたと考えられている。マウソロスの死から3年後、アルテミシアの死から1年後にあたる紀元前350年に完成したといわれている。
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マウソロスとアルテミシアの生涯
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アルテミシア(Johann Heinrich Tischbein画)

マウソロスは、紀元前377年から紀元前353年にかけて小アジア西部のカリア国を統治したアケメネス朝ペルシアの州知事(サトラップ)である。紀元前377年、マウソロスは父の後を受け、カリア国の統治者となった。当時、カリア国は小アジアの西部地中海沿岸にあったアケメネス朝ペルシアの一州であったが、首都から離れていたことに加え、当時の州知事であったマウソロスの父がかなりの野心家で、近隣の都市や地域を支配下におさめていたため、事実上の独立国であった。そして、息子マウソロスもまた、さらに領土を拡大し、最終的には小アジアの南西部全域を手中に収めようとした。マウソロスとその妹であり妻のアルテミシア(カリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習であった。家族内の力や富を維持するためというのがその理由のひとつである)は、首都ハリカルナッソスとその周辺地域を24年にわたり支配することとなる。

マウソロスは、ギリシア語を話し、ギリシアの生活や政治にあこがれていた。そして、ギリシアの諸都市が、海岸沿いに造られ、民主主義の伝統を推奨する優れたものであることに気づいた。このため、マウソロスは、これらの都市に劣らないような壮大にして難攻不落の首都を建設しようと決心した。この首都に選ばれたのがハリカルナッソスである。

マウソロスは、ハリカルナッソスを武人の統治者にふさわしい都にしはじめた。敵の攻撃に備えるため、町に面している湾を深くし、その掘り出した土で海峡の防御を固めた。さらに、城壁や見張り台も設置された。また、市場に隣接して大きな港を造り、その奥に隠れた小さな港も造った。この港は敵の不意を着く攻撃に適していた。一方、内陸部では一般市民のために、広場や道路、家の整備が進められ、4つの門と2つの大通りが造られた。そして、ギリシア風の劇場や戦争の神アレスを祀った神殿なども建設された。湾の一画には、マウソロスの巨大な要塞型宮殿が建てられた。この宮殿は、海から、敵の攻撃目標となりうる丘の上までしっかり見渡せた。

紀元前353年、マウソロスがアルテミシアに先立って亡くなると、アルテミシアは夫に感謝の意を示すために、当時の世界で最も美しい墓を造ることを決心した(マウソロスの生存中からこの墓の計画があった、あるいは建設がすでに始められていたとも考えられている)。これが、マウソロスとアルテミシアの名を永く残すことになる大霊廟である。

霊廟の建設開始後すぐに、アルテミシアは自らに迫る危機に気づくことになる。マウソロスの死の知らせを聞いた地中海の征服地ロドス島が、反乱を起こし、首都ハリカルナッソスを攻略すべく海軍を送ってきたのだった。このことを知ったアルテミシアは、大きな港の奥にあった秘密の港に自分の船を隠した。そして、ロドス軍が上陸を開始すると、アルテミシアの海軍は横から奇襲をかけ、見事にロドス海軍を撃破した。その後、アルテミシアは機転を利かせて、自らの軍を敵船に乗せてロドス島攻略に向かわせた。ロドス人たちは、自分たちの海軍が勝利して帰ってきたと勘違いしたので、防御することもできずに町は陥落し、反乱は鎮圧された。

マウソロスの死から2年後、アルテミシアも後を追うようになくなった。伝説によれば、彼女は夫マウソロスの遺灰をワインに混ぜて飲み、悲しみのうちに息絶えたといわれている。この伝説から、アルテミシアは献身的な妻の象徴にもなっている。マウソロスとアルテミシアの遺灰を入れた骨壷は未完成の霊廟に収められた。そして、生贄として大量の動物の死骸が霊廟に向かう階段に置かれ、出入りできないように石やレンガで階段は埋められた。プリニウスによれば、霊廟が完成する前に依頼主が亡くなったのに建築家たちが工事を中断しなかったのは、この霊廟が自分個人の栄光と手腕の記念になると考えたからだという。

霊廟の建設
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マウソロス霊廟のミニチュア模型(トルコ、イスタンブール)

アルテミシアは霊廟建設の費用を全く惜しまなかった。彼女は、当時最も優れた建築家と芸術家を連れてくるため、ギリシアに使いを送った。こうして2人の一流建築家ピュティオス、サテュロスと4人の高名な彫刻家スコパス、ブリュアクシス、レオカレス、ティモテオスが造営に参加した。中でもスコパスは、他の世界の七不思議のひとつエフェソスのアルテミス神殿も手がけている。

霊廟は町を見渡す丘の上に建てられた。工事場はレンガの壁に囲まれ、建築家たちはその中で作業をした。まず、その中央に墓本体となる石壇が置かれ、ライオンの石造を横に配した階段が石壇に向かって築かれた。そして、この外壁に沿って神や女神の像が置かれ、角ごとには馬に乗った戦士の像が墓を守るように置かれた。これが霊廟の第1層である。また、この層の上部にはギリシア神話や歴史の一場面を描いた彫刻帯が施された。スコパスが東側、ブリュアクシスが北、ティモテオスが南、レオカレスが西の彫刻を担当した。スコパスは、ギリシア人とアマゾン族(好戦的女性部族)の闘争を描き、他の3人はラピテス族とケンタウロスの闘争などを描いた。

第1層から第2層へと工事は移る。第1層から第2層へと36本の柱が上げられた。第2層は外に露出した円柱の集まりである。短い辺に9本ずつ、長い辺に11本ずつ柱が配されたと考えられている。柱と柱の間には1体ずつ像が置かれ、柱に囲まれた内側には、巨大な屋根を支えるため石のブロックが積まれた。

第3層は、24段のピラミッド型の屋根であった。この頂上には、巨大なクァドリガ(4頭立ての馬車)の像が置かれた。この馬車に、マウソロスとアルテミシアの像が乗っていたとも言われているが、何も乗っていなかったという説が有力である。根拠としては、ギリシア世界では主のいない馬車は主の死を意味していたこと、マウソロスとアルテミシアの像は馬車の像のそばで発見されたが、彼らの像が馬車に乗る格好をしていなかったことなどが挙げられる。どうやら、彼らの像は、第2層あるいは第1層に他の像と同様に置かれていたらしい。

中世における霊廟
マウソロスの霊廟は、ハリカルナッソスの中心地に何世紀もの間建っていた。紀元前334年にアレクサンドロス大王によって町が陥落したときも、紀元前60年前後に海賊の襲撃を受けたときも、被害を受けずに残っていた。そして、1600年もの間、廃墟となった町を見下ろすように建っていたが、度重なる地震によって柱は崩れ、屋根に乗っていた馬車の像は地面に落ちてしまった。1404年には、ただ土台だけが確認できたのみであった。

15世紀のはじめ、聖ヨハネ騎士団がこの地を侵略し、巨大な城を建てた。1494年にこの城を要塞化することが決まると、彼らはマウソロス霊廟の残骸を資材として使った。さらに1522年、オスマン軍が攻めてくるという噂が流れると、彼らはボドルム(旧ハリカルナッソス)の要塞を強化し、残っていた残骸もすべて城壁に使われてしまった。今日でもこの要塞跡の壁に、かつて霊廟に使われていた大理石を見ることができる。

記録によれば、このころ騎士の一団が霊廟跡の土台に立ち入り、棺の間を発見している。発見した日はすでに帰営の時間になっていたので、一団は棺を開けずに立ち去った。翌日、彼らが棺を開けると、あるべき宝やマウソロスとアルテミシアの遺体は無くなっていた。騎士たちは、周辺の住民か海賊が略奪したと主張したが、実際に略奪したのは騎士たち自身であったとも言われる。

マウソロス霊廟の残っていた彫刻が砕かれて城壁の資材とされる前に、騎士たちはいくつかの優れた作品を移動してボドルム城に集めておいた。それらは、十字軍が引き上げた後も300年にわたりそこに保存された。また、これらの内いくつかは大英博物館に収蔵され、後の霊廟跡の発掘にも資料として影響を与えることとなる。

近代から現代における霊廟
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現在のマウソロス霊廟の廃墟
1856年、マウソロス霊廟の遺跡を調査するために、大英博物館は考古学者チャールズ・トーマス・ニュートンを送った。ニュートンは、プリニウスなど古代の学者が書いた書物を読むなどして、おおよその大きさと位置は把握していた。ところが困ったことに、最も有望と目星をつけた場所は住宅地になっていた。渋る所有者から土地を買い上げなければならなかったが、ニュートンはめげずに2ヶ月以上ねばり、買い上げに成功した。そこを掘り進めていくと、はたして壁、階段そして基礎が出土した。さらに、ペルシア王クセルクセスの名が刻まれた豪華な壺も見つかり、ニュートンの確信は裏付けられた。その後、階段を埋めている瓦礫を切り込んでいくうちに、霊廟入口の廊下が見つかり、棺の間も掘り当てられた。無論、そこはすでに略奪されたあとで、何も残っていなかった。

1960年に行われた考古学者の調査では、聖ヨハネ騎士団が立ち入るずっと以前に、盗賊が棺の間の下にトンネルを掘って略奪していたらしいことが明らかになった。加えて、マウソロスとアルテミシアの遺体は火葬されたので、棺の間には遺灰を入れた骨壷しかなかったとされている。

現在も霊廟の遺跡はボドルム市内に残されており、遺跡の横には博物館が建てられている。この博物館では近年の調査に基づく見解ならびにかつて霊廟にあった礎石や彫刻などの遺物を見ることができる。また、イスタンブールにはトルコの歴史的建造物の一つとして、霊廟のミニチュアが置かれている。

現在大英博物館には、ニュートンたちが見つけた遺物に加え、十字軍が入手し後にイギリス大使の手に渡ったマウソロス霊廟の彫刻が収蔵されている。有名なものを挙げると、屋根の上にのっていた馬車の車輪と一匹の馬の像、77の断片から復元されたマウソロス像、8頭の獅子像の断片などがある。





ロドス島の巨像

ロドス島の巨像(ロドスとうのきょぞう、Colossus of Rhodes)は、紀元前3世紀頃にリンドスのカレスによってエーゲ海南東部のロドス島に建造された、太陽神ヘーリオスをかたどった彫像(コロッソス)。世界の七不思議の一つ。

全長は34メートル。台座まで含めると約50メートルになり、現代のニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさであった。ヘーリオスは同じ太陽神のソルやアポロン(ローマ名アポロ)と混同されたため、アポロの巨像とも呼ばれる。

日本での表記には様々あり、ヘーリオスの巨像、ロドスの巨像や、ロドス島が「ロードス島」と表記されることもしばしばであることから、ロードスの巨像、ロードス島の巨像などとも表記される。また、1961年製作のイタリア映画の邦題では「ロード島の要塞」と題された。
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建造に至る経緯
詳細は「ロドス包囲戦」を参照
紀元前323年、アレクサンドロス3世が死亡。彼には後継者が存在しなかったため、マケドニア帝国は有力な将軍たちによって分裂し、ディアドコイ戦争に突入した。この戦争において、ロドスはエジプトを領するプトレマイオス1世に協力した。

プトレマイオスの対抗者であるアンティゴノス1世は、紀元前305年、息子のデメトリオスに40,000の軍を率いさせてロドスへ派遣した。城壁で囲まれたロドスの防備は固く、デメトリオスは攻城塔を作って接近しようとした。まず、6隻の船に攻城塔を搭載して送り出したが、嵐のために接近できなかった。デメトリオスは、ヘレポリス(英語版) (Helepolis) と名づけたさらに大型の攻城塔を建設し、これを陸上からロドスへ送り込んだ。しかし、城内から出撃したロドスの守備隊が、城壁に到達する前にヘレポリスを阻止した。紀元前304年、プトレマイオスの派遣した軍隊がロドスに到着、デメトリオスは大いに慌て、急いで軍を引き揚げさせた。あまりにも急な撤収だったため、多くの装備が置き去りにされていた。なお、デメトリオスはロドスの征服には失敗したが、他の都市を多く包囲、陥落させたため、ポリオルケテス (Poliorcetes、ポリス攻囲者) と呼ばれた。

構造
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16世紀の画家Martin Heemskerckによる想像図

ロドスの人々はこの勝利を祝い、太陽神ヘーリオスへの感謝の証として彫像を作ることとした。建造の指揮はリンドスのカレス(英語版)に任された。彼は20メートルを超えるゼウス像を建造したリュシッポスの弟子だった。また、かつて大彫像の制作に関わったことのあるロードスの住民も協力した。

古代の記述に拠れば、ロドスの巨像は以下のようなものだった。まず、ロドスの港の入り口付近に、高さ15メートル (50フィート)の大理石製の台座を設置した。その台座の上に鉄製の骨組みを作り、さらに薄い青銅板で外装を覆った。外装はデメトリオス軍の遺棄した武器や攻城塔を鋳潰したものが使われた。建造には盛り土の傾斜路を利用し、組み立てが進むにつれて、傾斜路の高さを調節して対応していたと考えられている。彫像自体の高さは34メートル(110フィート)、台座を含めると約50メートルに達した。巨像が完成したのは着工から12年後の紀元前284年であった。

地震による倒壊および顛末
詳細は「en:226 BC Rhodes earthquake」を参照
58年後の紀元前226年にロドスで地震が発生、巨像は膝から折れて倒壊した。プトレマイオス3世は再建のための資金提供を申し出たが、ロドスの住民は神に似せた彫像を作ったことが、神の怒りに触れたのだろうと考え、再建を拒否した。巨像は800年間にわたってそのまま放置され、その間に残骸を見物するために多くの人が訪れた。大プリニウスの記述に拠れば、巨像の脱落した親指に腕を回せるものはわずかしかおらず、また指だけでもほとんどの彫像より大きかったという。

654年、ムアーウィヤの軍がロドスを征服した。テオファネス(en)の記述に拠れば、この時巨像の残骸はエデッサの商人に売却されたという。商人は彫像を破壊して青銅のスクラップにし、900頭のラクダの背に積んで持ち去った。彼らはイスラム教徒であり、巨像のような偶像崇拝を忌んでいた。

伝説
こうしてロドスの巨像は残骸すら消失した。7世紀以降の人間はその姿を想像するしかなく、その過程で多くの誤解や伝説が生まれた。その最たるものは、巨像は港口をまたぐ姿勢をとっていたという伝説である。この場合は港口の防波堤の両端に台座を設置していたことになる。従来はこの説が広く信じられており、本稿の画像もこの説に基づいている。しかし、現在の研究では、港口をまたぐ姿勢は全長が大きくなりすぎ、耐久性も弱くなるため不可能だと考えられている。

また、巨像は手に器を持っており、中には煮えた油や鉛が満たされ、港に不法に侵入してくる船があれば内部のからくりで容器が傾き、油や鉛を船目掛けて注ぎ落としたとするものもある。

シェイクスピアは「ジュリアス・シーザー」の中で、カッシウスにこの伝説に基づいた以下のような台詞を言わせている。

“Why man, he doth bestride the narrow world
Like a Colossus, and we petty men
Walk under his huge legs and peep about
To find ourselves dishonourable graves.”

また、エマ・ラザラスは、ニューヨークの自由の女神像の台座部分内部の内壁に設置されたブロンズ製銘板に浮き彫りにされている「The New Colossus」という詩の中で、ロドスの巨像と自由の女神像を対比している。この詩もまた伝説に基づき、巨像が港口をまたいだ姿で描写している。

“Not like the brazen giant of Greek fame,
With conquering limbs astride from land to land”

現代の巨像
巨像の再建に関する議論は以前から存在する。再建がなればロドスの観光事業に大きな影響を与えることが予想されるが、そのために必要な費用は高額であり、1970年代から何度かこの提案が持ち上がったが、そのたびに資金不足を理由に断念している。

ロドス包囲戦

ロドス包囲戦(ロドスほういせん)は、ディアドコイ戦争におけるデメトリオス1世とロドス島との間で紀元前305年−紀元前304年に戦われた包囲戦である。

背景

当時ロドス島は強力な海軍を有する商業国家であった。ロドス島はディアドコイとは中立関係を維持していたが、ディアドコイの一人でエジプトを統治するプトレマイオス1世とは密接な関係を持っていた。プトレマイオスと敵対するデメトリオスはロドスがその海軍力をプトレマイオスに提供するのを懸念していた。

包囲
そこでデメトリオスは艦隊200隻と補助船150隻、そして多くの海賊船を率い、ロドス島を包囲した。また、彼の艦隊には略奪の利益を見越して1000隻以上の商船が付いて来た。

デメトリオスがバリスタやカタパルトを何段にも装備した攻城塔のヘレポリス(英語版)(helepolis)を建てるなど両軍共に様々な兵器を使って戦い、壮絶な攻防戦を繰り広げた。ロドス側はデメトリオスに対しよく防戦し、彼は攻囲を諦めざるを得なかった。

紀元前304年に戦いの長期化を望まないデメトリオスの父アンティゴノス1世とプトレマイオスとの妥協の産物として両者は講和条約を結んだ。この講和条約によりロドス島はデメトリオスとプトレマイオスとの戦争における中立を約した。これによってロドス島の海軍力をプトレマイオスに使わせまいとするアンティゴノス・デメトリオス父子の目的は一応は達せられた。また、デメトリオスは最終的にロドス征服こそ果たせなかったものの、その過程で他の都市を多く包囲、陥落させたため、ポリオルケルテス (攻城者) と呼ばれるようになった。

その後
撤退の際にデメトリオスが置き去った兵器をロドスは売り払い、その利益を元にデメトリオスを退けた記念として今日ではロドス島の巨像として知られる太陽神ヘーリオスの像を作った。一方、東地中海の制海権で優位を保つことに成功したアンティゴノス・デメトリオス父子は次なる矛先をディアドコイの一人で、ギリシア・マケドニアに割拠するカッサンドロスに向けた。カッサンドロスはプトレマイオスはじめとする他のディアドコイと対アンティゴノス同盟を結んで対抗し、ディアドコイ戦争最大の会戦イプソスの戦いに至るのである。

アレクサンドリアの大灯台

アレクサンドリアの大灯台(アレクサンドリアのだいとうだい、Lighthouse of Alexandria)は、紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台。ファロス島の大灯台、あるいはアレクサンドリアのファロスとも呼ばれる。

ファロス島は、アドリア海に同名の島(現在のフヴァル島)があるが、それとは別で、アレクサンドリア港の一方の端に人工の埋め立てにより出来上がった半島の突端にあった小さな島である。世界の七不思議のひとつ。ただし、ビザンチウムのフィロンの選出した七不思議には含まれていない。14世紀の二度の地震によって全壊したが、七不思議の中ではギザの大ピラミッドに次ぐ長命な建造物だった。

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中国のテーマパーク、長沙世界之窓に縮尺再現された大灯台

建造に至る経緯
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紀元前332年、アレクサンドロス3世によってナイル河口にアレクサンドリアが建造された。アレクサンドロスの死後、エジプトは彼の部下であるプトレマイオス1世の統治下に置かれ、ここにプトレマイオス朝が開かれた。プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっており、沿岸航行や入港の際に陸標となるものが何もなかった。そのためプトレマイオス1世は陸標となる灯台の建造を決定した。

建造の指揮はクニドスのソストラトスに任せられた。建造地にはアレクサンドリア湾岸のファロス島が選ばれた。島とアレクサンドリア港との間は人工的な通路で結ばれた。紀元前305年から工事を開始し、完成したのはプトレマイオス2世の代だった。

構造
ローマ時代のコイン
灯台の全高は約134メートル(約440フィート)。ギザの大ピラミッド(高147m)をのぞくと建造当時は地球上で最も高い人工物の1つだった。建材には大理石が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていった。形状の異なる3つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部はひとまわり細い八角柱、上層部はさらに細い円柱形だった。頂点には鏡が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。その様子はアレクサンドリアの鋳造所で作られたローマ時代のコインに見ることができる。灯台の四つ角には、角笛を吹く海神トリトンの彫像が置かれていた。また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていた。

内部には、螺旋状の通路が設けられ、そこをロバを使い薪を運んでいたと考えられている。

顛末

796年の地震で大灯台は半壊し、その後の1303年と1323年の地震で完全に崩壊した。14世紀の旅行家イブン・バットゥータは、崩壊のために中に入ることもできないと記している。1480年頃、跡地に灯台の残骸を利用してカーイト・ベイの要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。しかし、アレクサンドリアの大灯台は、七不思議の中では現在残るギザの大ピラミッドに次いで存続した建造物である。

1994年にダイバーによって遺構が発見され、衛星調査によってさらに詳細の解明が進んだ。

伝説と影響
伝説によれば、戦時には鏡の反射光を敵の船めがけて照射して、船が海岸に到達する前に燃やすことができたという。しかしながら、灯台が存在した当時の光学技術、光反射技術の水準では、船を燃やすのはまず不可能である。一方、灯台の光は約56キロメートル(約35マイル)離れた海岸からも見ることができたという伝説もあり、こちらはおそらく可能だろうと考えられている。

この大灯台のために、古希: Φάρος(希: Pharos ファロス) はロマンス諸語において「灯台」を表す語の語源となった。フランス語: phare、イタリア語: faro、ポルトガル語: farol、スペイン語: faroなどがそれにあたる。

また、イスラム教のモスクに付随するミナレットの形状は、特に北アフリカのマグリブ諸国のものは方形プランの高い台座型楼塔に頂塔をさらに乗せる形式が一般であるが、大灯台と同じ三層構造に酷似しており影響が指摘されている。

なお、アル・マスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』(Murūj al-Dhahab wa Ma'ādin al-Jawāhir 「ムルージュ・アッ=ザハブ・ワ・マアーディン・アル=ジャワーヒル」 947年頃)の伝説では塔を半分とその鏡を破壊し闘争したのは東ローマ帝国の宣教師とされている[2]。大灯台が一部健在であった中世では、通例、アラビア語・ペルシア語の地誌や驚異譚などにおいてアレクサンドリアが紹介される場合は必ず大灯台についても言及されていた。1183年にスペインのムワッヒド朝下のグラナダから地中海を横断してアレクサンドリアで下船したイブン・ジュバイルは大灯台についても言及しており、それによると大灯台は海上から70ミール(約140km)からでも確認出来たといい、基礎の四辺の1辺は50バーウ(約100m)で、150カーマ(人の背丈150人分の高さ)以上だったと述べ、その巨大さに圧倒されたと旅行記で感歎している[3]。また、13世紀半ばの著述家ザカリヤー・カズヴィーニー :en も著書『被造物の驚異』(ʿAjā'ib al-makhlūqāt ):en や『諸国の事跡』(Āthār al-Bilād)などでアレクサンドリアの大灯台が三重構造であったことを図示している。

また中国まで伝わり、南宋の泉州提挙市舶司であった趙汝适による『諸蕃志』(1225年)に次のとおり記述される。

  遏根陀國
遏根陀國 勿斯里之屬也 相傳古人異人徂葛尼 於
瀕海建大塔 下鑿地為兩屋 塼結甚密 一窖糧食 一
儲器械 塔高二百丈 可通四馬齊驅而上 至三分之
二 塔心開大井 結渠透大江以防他國兵侵 則舉國
據塔以拒敵 上下可容二萬人 內居守而外出戰 其
頂上有鏡極大 他國或有兵船侵犯 鏡先照見 卽預
備守禦之計 近年爲外國人投塔下 執役掃洒數年
人不疑之 忽一日得便 盜鏡抛沉海中而去
  遏根陀國(アレクサンドリア)は勿斯里國(ミスル エジプトのこと)と同族である。
傳承によれば、その昔、けたはずれの徂葛尼(ズルカルナイン アレクサンドロス3世)なる
偉人がおり、海にほど近いところに大きな塔を建て、その地下を鑿って雨棟の穴倉をつくり、
レンガでびっしり積み固め、一方には食糧を貯わえ、他方には武器をしまった。
塔の高さは二百丈あり、馬四頭が横に並んで三分の二のところまで驅け上ることが出來る。
塔の中心部には大きな井戸が鑿たれ、防禦のため堀割をもうけ、大江の水をひいてある。
他國の兵が侵攻してくると、國をあげてこの塔に立て籠り敵を拒ぐ。
塔の上下にはあわせ二萬人を収容でき、守りを固めたり撃って出たりするのである。
塔の頂上にはすこぶる大きな鏡がすえつけられており、他國がもし軍船をもって侵犯してくれば、
いちはやく鏡に映し出され、すぐさま守禦の體勢が整うというわけである。
近年、ある外國人が塔下にやってきて、數年にわたり清掃作業にあたった。この國の人びとは
彼に疑いを抱かなかったが、ある日突然に隙をみて鏡を盗み出し、海中にほうり込んで逃げ去った。

− 『諸蕃志』卷上
その内容は、勿斯里(ミスル エジプトのこと)の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛尼(ズルカルナイン(双角王))による大塔とその鏡が外国人によって捨てられたというものである。



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