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うさぎさん
小さな貸農園で無農薬の野菜を栽培しています。 畑にいるときはいつも、ルンルンです。
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2014年08月18日
静岡空襲があった日
高子おばあちゃんのおはなし。

おばあちゃんは、当時静岡市に住んでいた。

その日昭和20年6月19日静岡大空襲があった。


その日に静岡市が爆撃されると、どうしてわかったのでしょうか?


空襲警報がなっても、いつもは防空壕に逃げるのにその日は

防空壕には入らなかった。


父は、静岡に戻っていたけれど、やはり家にはいなかった。

町内には大人の男性はいなかった。

父は、町内の人々のためになにかしていたのだろうか?


母は4人の子供とお腹にいたあかちゃんと安倍川に逃げた。


逃げる途中に空から、チラチラときれいな火が降ってきていた。

母は私の手をにぎり、弟をおんぶしていた。

二人の姉は防空頭巾をかぶって、一緒に歩いていた。


空から降ってくる火で防空頭巾が焼けないように、姉たちは

近くを流れる小川の水に防空頭巾を浸けた。

防空頭巾はとても重くなった。  

まだ、小学生だった姉たちは思い頭巾をかぶることができず、

いつの間にか、防空頭巾はなくなっていた。


田んぼの中の道を一生懸命安倍川に向かって歩いた。

桑畑が道の両側にあった。

そこの大勢の人たちがすわっていた。

何かを求めているように見えた。

その道をもっと歩いてようやく、二番土手についた。


二番土手に上り土手から降りる道に赤ん坊をおぶったお母さんが倒れていた。

その横をとおって一番土手に向かった。


赤い火がチラチラと降りつづき夜だというのにとても明るかった。

ようやく、一番土手についた。その前を安倍川が流れていた。


まるで、お祭りの時のようにおおぜいの人であふれていた。

土手の上をしばらく歩き、あまりひとがいないちころでお母さんは腰をおろした。

子供たちもお母さんのそばにすわった。

いつも、飛び回っている姉たちもおとなしく母のそばを離れなかった。


しばらくすると、父が私たちを探してきてくれた。

父は、縄でわたしをおんぶしてくれた。

とっても、うれしかった。

おとうさんのせなかにしっかり、しがみついた。


あ、鈴木さんの家に焼夷弾が落ちた!とお父さんが言った。

私をおろすと急いで走って行ってしまった。


2014年08月17日
空襲警報
高子おばあちゃんが話してくれた戦争の時のおはなし。

ウ〜、ウ〜、ウ〜

サイレンが鳴り響いた。

急いで防空頭巾をかぶった。

早く、早く、 おかあさんがせきたてた。

ようやく、眠ったところをまた、起こされた。


裏庭の防空壕に逃げ込んだ。

お父さんが一緒だった。

お父さんが一緒なので、なにがあっても怖くないと思った。


お父さんは、飛行機の部品を作る会社につとめていた。

めったに家に帰ることはなかった。

今は毎日一緒なのでとてもうれしい。

お父さんの会社は東京にあった。

東京の大空襲のときお父さんの会社も爆撃された。

おとうさんは、子供たちのいる家に帰ってくることができた。


お父さんが一緒だととても安心する。

近所には大人の男性は誰もいない。

みんな戦争に行っているのだ。

軍需産業に携わっていたお父さんは戦争に行かなかった。

お父さんが戦争に行くことはなかった。




町内に大人の男性は一人だったのかもしれない。

高子おばさんはまだ6歳だったのでくわしいことはわからない。


空襲警報が鳴ると防空壕に入ったお父さんだったが、

しばらくすると、どこかへでかけた。


何をするために出て行ったのか大人になった今でもわからない。

とにかく、お父さんは町内に一人しかいなかった男性なのだ。


空襲警報は毎日のように、そして毎晩のように鳴り響いた。







2014年08月16日
非常食
高子おばあちゃんが話してくれた戦時中のお話です。


お腹がとってもすいていた。

来る日も来る日も食べ物らしいものは口にしていない。


ある日一斗缶をおとうさんが持ってきた。

その中はさつまいもの切干でいっぱいだった。


お父さんが言った。

この切干は万一なにも手に入らなくなった時の非常食だから

普段の食べ物ではないので口にしてはいけないよ。

わかったね。

うん。わかった。


しばらくして、お父さんは出かけた。

最初に、一斗缶に手を出したのはおかあさんだった。


お母さんもこの何日かは食べ物らしいものは口にしていなかった。

いま、非常食を食べなければ私たちは死んでしまうかもしれないよ。


一枚ずつ、良く噛んでいただこうね。

とてもおいしかった。

涙が出るほどうれしかった。


お父さんが、帰ってきて切干が少なくなっているのを見た。

お父さんは何も言わなかった。


狭い裏庭にさつまいもの蔓を挿した。

農業の経験などなかったのに、おとうさんが蔓をもらってきたのだ。


わたしたちは、サツマイモができるのを首を長くして待ちわびた。

子供たちはときどき蔓の下の土を掘ったりした。

結局サツマイモはできなかった。


サツマイモの蔓をすいとんの中に入れて食べた。

かぼちゃの葉っぱもたべた。


食べられるものはなんでもすいとんの中に入れてたべた。


時々配給があった。

玄米だった。よく炊かないと固くてたべられなかった。

長い時間をかけてゆきひらでおかゆのようにして炊いた。


丸い麦の配給もあった。つるつると口の中ですべって良く噛めなかった。

それでも、食べ物がいただけることはうれしかった。





2014年08月15日
おばあちゃんが話してくれた戦時中の体験


高子おばあちゃんが話してくれた戦争の時のお話です。


戦争が終わって50年たっても飛行機を見ると戦争の事を思い出してとても怖かった。

まだ学校に上がる前で、本来なら楽しい子供時代のはずだった。



飛行機雲がズーと伸びていった、その先にキラッと光る小さな機影が見えた。

あっ!  敵機だ!

とうとう、日本の上空にも敵機が来るようになったんだ!


そのころになると、毎日のように警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。


夜は電燈をつけることができなかった。

どうしても、つける必要のある時は電気のかさのまわりにふろしきを掛けた。

外に、光が漏れないようにするためだ。

ときどき、おまわりさんが玄関を開けて、光が外にもれていると声をかけた。

警戒警報、そして空襲警報!

昼でも、夜でも警報が鳴ると庭に掘ってある防空壕に逃げ込んだ。

わたしは、姉たちと違ってとても戦争がこわかった。


姉たちは小学生だったが、夜も寝間着で寝ていた。

警報が鳴ると、手さぐりで洋服をさがしていつもさわがしかった。

私は、洋服のまま寝るようになった。

毎晩のように、警報が鳴り響くようになった頃には靴まで履いて寝た。


いまでも、ウクライナや中東での戦争の映像をみると子供達のこと

そして、住民のことを考え涙があふれてしまう。




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