2013年01月25日
燃える闘魂っ!アントニオ猪木っ!だぁぁぁっっ!!!
皆さんは「のどごし生」のCMを見たことがあるだろか?
僕はCM放映前に総武線で2枚の車内刷を見ていた。
1枚は痩せたレスラーとは思えない男性が長州にドロップキックをしている。
もう1枚は後楽園ホールのリング上で長州が彼の手を高らかに挙げている。
キャッチコピー。
「のどごし 夢のドリーム」
寺島 力(37歳 会社員)とある。
それを見た瞬間、すべてを理解した。
CMのロングバージョンでは、長州の前に小力が登場する。
粋な演出と長州の想いを考えるとグッと来た。
そして、プロレスは「いいな」と思うのだ。
プロレスはファンの想像力とレスラーの試合運びが交差するガチなバトルである。
試合がある時(マッチメイクに関して)ファンは事前に展開や決め技をイメージする。
そのイメージ通りで予定調和で終わってしまうと
所謂「しょっぱい」(つまらない)試合と言われてしまう。
かといってお約束な技やキメポーズをしなければファンからはクレームとなる。
そして、ファンはどんどん進化していく。
レスラーはベビーフェイス(善玉)からヒール(悪玉)へポジションを変えたり
新しいキャラを立ててファンに応えるのだ。
どんでもないレスラーがいた。
本名 猪木寛至。
言わずと知れたアントニオ猪木選手である。
今回は「アントニオ猪木自伝」を解体する。
とにかく猪木さんは破天荒である。
存在自体が事件である。
先日、逝った大島渚監督同様にタブーを好む。
(二人とも好むというか生き様がタブーとの戦いだったと思う)
猪木さんを初めて見たのは小学校4年生の時。
僕は床屋さんにいた。
目の前にテレビがあり猪木さんが外人レスラー(タイガー・ジェット・シン)の腕をひねって
何回も自分の肩にぶつけていた。(ショルダー・アームブリカー)
試合というより喧嘩のようだった。
後日、「シン腕折り事件」といわれる試合である。
(実際シンは肩の亜脱臼のみで骨折はしていない)
正直、ショックだった。
本当は子供心に見たくなかった。
床屋のオヤジさんは興奮しており、チャンネルを替えて欲しいと言える空気はなかった。
とにかく、あの試合は残酷過ぎて怖かったのだ。
しかし、怖いモノ見たさという言葉がある。
既にテレビアニメの「タイガーマスク」に陶酔してた僕はプロレスの基礎知識は得ていた。
「タイガーマスク」に猪木さんや馬場さんも登場していたことから親近感もあり、
すんなりと禁断のプロレスの世界の入っていった。
本題へ戻る。
本書は燃える闘魂「アントニオ猪木 自伝」である。
生い立ちからブラジル移住、力道山・プロレス入門、新日本プロレス旗揚げ、
政治家としてイラクの人質事件解放の経緯や北朝鮮外交、引退まで語られている。
特筆すべきはボクシング世界チャンピオンのモハメド・アリとの「異種格闘技戦」だ。
今でこそ知れ渡る「異種格闘技」という言葉であるがアリ戦からメジャーになったのではないか?
時は1975年アリの「ボクシングこそ地上最強の格闘技だ」という発言を受け猪木さんが挑戦状を渡す。
アリ側はマネージャーであるドン・キングらの反対もあって試合はとん挫しそうになるが、
ミュンヘン・オリンピックの柔道金メダリストだったウィリアム・ルスカの一言が流れを変える。
彼は猪木さんへ「アリと戦う前に俺とやれ」と言った。
これには世界中のマスコミが食いついた。
ルスカ戦はリング形式で行われ猪木さんが勝った。
(ルスカは初の「異種格闘技戦」でしかもリング形式。かなり不利だったと思う。)
そして1976年3月25日N.Y.バブル経済の発端と言われるプラザ合意で有名な
プラザホテルに於いて猪木さんとアリは調印式を行う。
その時アリが猪木さんのあごを見て「ペリカン」と揶揄する名言が飛び出した。
同年6月25日「格闘技世界一決定戦」が武道館で行われた。
アメリカ170か所、カナダ15か所、イギリスで6か所でも同時放映された。
猪木さんはパンチを食ったら目が潰れる恐怖と戦いながら15ランドを終えた。
アリも当時はWBA・WBC世界統一ヘビー級チャンピオンだ。
わけのわからぬ東洋人に恥をかくわけにはいかない。
結果はドロー。
「今世紀最大のスーパー・ファイト」は「世紀の凡戦」と評された。
本当に、そうなのか?
試合後、アリを蹴り続けた猪木さんの右足は剥離骨折をし、
アリは左足血栓症で1か月入院し次期防衛戦のケン・ノートンとの試合を延期している。
猪木さんは転がりながらキックしか(通称:アリキック)しない15ラウンドは、
本当に「世紀の凡戦」だったのか?
立ち技では圧倒的にアリであり、寝技なら秒殺で猪木さんだ。
この水と油は混ざらない。
混ざらない異分子が武道館という箱の中でカオスを生み出した。
この戦いが猪木さんの売名行為であるならば大成功を収めた。
猪木さんはヨーロッパで一気に有名になり「ワールドプロレスリング」の放映も始まった。
そして特にイスラム圏での知名度はずば抜けて高くなった。
アリ戦から半年後にパキスタン政府から猪木さんは招聘される。
アリと戦った男とイスラムでは最強の男の称号を持つ「ペールワン」アクラム選手に
試合を行って欲しいとのことだった。
猪木さんは壮絶な試合を行い試合に勝利し「猪木ペールワン」の呼称を手に入れる。
イスラム圏で「ペールワン」の称号を得ることは大変なことである。
これが外務省を敵に回したイラク人質解放や猪木外交のベースとなっていく。
プロレスファンにとって猪木さんの評価はわかれる。
特に90年代後半の新日ファンにとって猪木さんはガンでしかないだろう。
プロレス人気にあぐらをかいて、チケットが売れる現状を嘆く猪木さんの想いは空回りする。
興行のチケットは手売りが基本と豪語する猪木さんに完売するドームはどう映ったか?
そして近年僕にとっては「しょっぱい」空気がドームを埋め尽くした。
でも、明るい兆しもある。
以前の新人達の台頭である。
プロレスは想像力の世界である。
僕は新たな想像力に魅了されることを希望している。
僕のように古き良き時代に縛られずに
ずっと新日を愛し続けるファンに心から敬意を表する。
そして、猪木さんの引退試合。
ドームにはアリの姿があった。
試合後、猪木さんは挨拶をして
最後に一休禅師の詩を叫んだ。
この道を行けば
どうなるものか
危ぶむなかれ。
危ぶめば道はなし
踏み出せば
その一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ
行けばわかるさ。
アントニオ猪木。
破天荒ではあるが憎めない人である。