その身に宿す − 武田不動尊を完全再現
〜常勝無敵の甲州軍〜
疾如風(はやきことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)
『孫子・軍争篇第七』を引用した有名な旗指物で知られた甲斐武田家第19代当主 武田晴信。39歳になる永禄2年(1559年)に出家し、法名 徳栄軒信玄を名乗ることになりました。知略の将とされる信玄は「負けない戦」を身上とし、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」、「我、人を使うにあらず。その業を使うにある」など数々の名言が残されています。家臣の声を聞き、それをまとめ上げ、皆が納得の行く決定をしたことから、信玄軍は士気も高く天下最強の呼び声をほしいままにし、織田信長をして「その強さ天下一」と言わしめました。その信玄が我が身を模して作らせた不動明王像がありました。
自らの威容をモデルとし、その髪を胸に塗りこめて作らせた信玄と不離一体の不動明王像
〜自らの威容をモデルに〜
甲斐武田の菩提寺とされる名刹には現在も不動明王が安置されています。その像は『武田不動尊』と呼ばれ、信玄が存命中に自らの顔と身体を模して作らせた像であることから『信玄生不動』とも呼ばれています。
伝承によれば造像されたのは天文20年(1551年)、信玄31歳の時とされます。この年、信玄は比叡山より大僧正の位を授かった記念に、京より大仏師 宮内卿法康清を招き自らをモデルとした等身大の像の制作を依頼。康清は信玄と対面で彫刻を進めますが、当初から不動明王を彫ろうとしたのではなく、彫り進めるうちに結果として不動明王になってしまったとの説もあり、信玄の威容の凄まじさの現われといえます。
『甲陽軍鑑』によれば信玄はこの像を前に剃髪し、切った髪を焼いて漆に混ぜ、自ら像の胸に塗りこめ、彩色を施したとされます。円光院説三は『天正玄公仏事法語』の中で「(信玄が)みずから不動明王を造ったのは治国の宝剣をもって、国を治めるため」と語っています。また、安置される菩提寺は天正10年(1582年)と明治時代の二度の大火に遭うものの像は奇跡的に焼失を免れたことで、信玄と不離一体とされるこの不動明王像は現在も厄除け開運、勝負運、火災除けなど霊験あらたかな像として篤い信仰を集めています。
⇒ 武将が愛した仏像 武田信玄 武田不動尊
タグ:武田不動尊
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