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2021年07月16日

『忘れな草 』 (『Forget me not』) -美しい愛と壊れ狂っていく尾崎の生き様が描かれている-

1985年11月28日発売、『壊れた扉から』収録。
このアルバム『壊れた扉から』は尾崎豊にとって10代最後のアルバムである。つまりこの『壊れた扉から』収録曲までは正真正銘10代のうちにか枯れた曲ということになるが、この『忘れな草』は最後に収録され、その直前まで詩が完成していなかった。有名なエピソードがある。

そして、その最後に録音されたのがこの『忘れな草』であった。
須藤氏ら制作スタッフが待つ中、明け方に戻ってきた尾崎が書き上がった曲を早速歌い上げた。
そして、その曲をきたかとき感動で「誰も何も言えなかった」と須藤氏は語っている。
そして、今も私もこの曲を聞くときに感動で言葉をうしなうことがある。須藤氏の証言は大げさではないと思う。

出だし詩は完璧である。
「小さな朝の光は疲れて眠る愛にこぼれて」
すごい詩である。朝の光が、二人の愛に「こぼれる」何気ない表現だがなんと美しい表現だろうか。尾崎豊が書いているのは「詞」ではなく、「詩」であることがわかる。

そして続く
「流れた時の多さにうなずくように寄り添う二人」まるで、成熟した何十年もよりそった夫婦の愛を経験したかのような詩を20歳の若者が書き起こしている。
そしてこの美しいメロディには何の違和感もなくそれがぴったりとはまっている。

「窓を叩く風に目覚めて」
「窓を叩く風」という短い言葉に詩も朝の「小さな朝の光は疲れて眠る愛に溢れて」で日差し書き、風を書くことにより効果的に両方の詩が相乗効果を生んでいる。ぱっとでで書けるものではなく、彼の才能と普段から詩を推敲していた尾崎だからこそ書き起こせた表現であろう。彼は商業的な成功しようとして詩をかいているのでなく、生きる糧として書いているからこそ書ける詩ある。
このように「忘れな草」の素晴らしさのはサビの詩はもちろん、冒頭のこの詩の美しさにも現れているである。

「初めて君と出会った日僕は
ビルの向こうの空をいつまでも探してた
君が教えてくれた花の名前は
街に埋もれそうな小さな忘れな草」

ビルの遠くの空を探していたものが、実は身近なそばに埋もれていた忘れな草のようにあった
気づかない身近な愛に気づかせてくれた
そんな歌詞の意味が込められているのだろうか。
この曲も創作ノートに削除された行間の詩が残されている。この曲に込められた思いを読み解くのにヒントになる。

「覚えているかい出会った日を
ためらいわけあいてひとつひとつの形変えたのさ」
「君は僕の心にさく小さな花
街に埋もれそうな忘れな草」

忘れな草は僕の(尾崎の)心に咲く君ことだと書いてあるのである。


「二人の人生分け合い生きるんだ」
この詩に限らず尾崎の詩は本当にこの年齢で書いたのかというようなことが多いが、
10代後半や20代で「人生を分け合い生きる」ということを考える人がどれくらいいるだろうか。
あるいはそのことを端的に言葉で表せる人がどれくらいいるだろうか。
あらためてこの短いフレーズで尾崎の愛に対する成熟した考え方、それを詩として書き起こす才能
を感じさせられる。
人生を分け合うことが愛である、本当の愛についての究極の答えを表現した胸にささる詩である。
『忘れな草』はこのように脇を固める短い詩すら一言一言が珠玉で、美しく人の心をつかむ。

一方この曲は幸せ結ばれた結論を迎えるラブソングというだけでない。
後半は一転してその愛を壊すものによって悲劇性が歌われている。「狂った街では二人のこの愛さえうつろい踏みにじられる」(この「踏みにじられる」とは「忘れな草」を踏みにじるとかけたものだろう。)と。

「狂った街」に
二人の愛は「狂った街」に引き裂かれる二人の愛にはばかるもの何かが、愛に対峙するものとして書かれていて、この描写だけで曲の雰囲気が一変するのである。(この一変する空気は有明のライブでほ尾崎のパフォーマンスは強調されているので分かりやすい)時に物語やドラマ、映画では、順風満帆なラブストーリーよりも、敵となる存在があり、それを打ち破って成就する方が見ているものは感動するのである。
しかし、ドラマや映画のように、「恋敵」のようなものかあり、打ち勝てる敵であればいいが、プログを通して再三書いているように、その「敵」とは尾崎豊の「破滅的な性分」が関係している。
誰も尾崎を救いようかないのである。


ことこの「忘れな草」についても同じことが言える。
しかし、尾崎豊は半分はこのラブソングを盛り上げようとする意味もあったかもしれないが、半分はリアルな尾崎豊の人生にリンクした描写である。「狂った街」とはいわば街のせい、社会のせいとなっているが、これは尾崎自身の人生が見えないものに狂わされていく、コントロールできない自分によって壊れていく、描写だと考えられる。


しかし、この一節があることによって単に結ばれた幸せのラブソングにはない、作品に深さを出しているのは言うまでもない。


この『忘れな草』はメロディの美しさ、尾崎のもろい心、愛を誓う心強さ、詩の描写の美しさ、
そして、
そして、尾崎の人生の生きづらさが、全て表現されていてる。そして物語は順風満帆なラブストーリではなく、愛を引き裂く困難に打ち勝とうとする二人の愛の強さが盛り込まれ、このことがより深く心に感動を与えられる。

この困難に愛が打ち勝つという一般的なことにも置き換えられそれが普遍性になって受け止められる。(厳密に言うと尾崎豊の抱えていたパーソナリティの問題と一般的な愛の困難とはまた少し違うのたが)

有明のコロシアムのライブ公演がCD発売されて収録されている。この有明公演の『忘れな草』は尾崎豊の生涯のライブパフォーマンスにおいてもベストのといえる圧巻のパフォーマンスを聞かせてくれている。このライブバージョンは2節目の「狂った町で二人のこの愛さえうつろい引き裂かれる」のあとに尾崎の表情は一変する。
「初めて出会った日〜」の同じサビのフレーズが歌われるが、意味か違うことに気付かされるだろう。最後のサビはそれまでとは違い、そこに届かないわ目の前の愛を「普通に愛」せない尾崎自身
の苦しみや悲しみや葛藤が表されているのである。これだけ美しいラブソングを歌い人々を感動させるのに、である。尾崎の悲しき生き様とでも言うべきか。
同じフレーズてもまったく意味がかわるこのイブラバージョンの歌い方でこの曲の最後のサビの真意が表されているのである。

この曲がかもし「ビルの向こうにある愛ではなく、街に埋もれためのまえにある小さな忘れな草のような愛」を歌っているのであればそれがわかっていながらも、そんな愛を踏みにじってしむう自らの生き様どの葛藤が表現されている。


同じ意味をすでにもっていないのである。
まさに尾崎豊の人生を反映した演奏となっている。そして尾崎自身が愛を求めてもくるってい行く自分の人生の生き様を一番わかっていたのである。


後年『バース』に収録された『ロンリーローズ』も同種の曲だと私は思う。

ライブ・別バージョンについて
デモテープ
ピアノ演奏にあわせ「ラララ」だけでメロディをなぞる初期バージョンがある。
これは尾崎豊の曲作成がラララで先にメロディを作り、その後作詞するということを裏付けたものでもある。(この作曲方法は尾崎のノートに記載がある。)このデモテープは未完成であるにもかかわらず、心に響く内容になっており必聴である。もし「尾崎豊アンソロジー」なるものが発売されるのであればぜひ収録してほしい内容になっている。※「ビートルズアンソロジー」というアルバムがあり、ビートルズの未発表音源、アウトテイクが収録されている。ファンとしては尾崎豊にあってもそのようなアルバムを待ち望みたい。
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